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天皇について
現在の天皇制はその天皇が崩御されるまで一代その地位にありますが、日本史を見てみると、これまで何代もの天皇が帝位を引き継いで来ました。 飛鳥・奈良・平安時代は女帝や幼帝がでましたが時の権力者(蘇我・藤原・平家・源氏・北条・足利・徳川)の意向、思惑で天皇が交代しました。また上皇、法皇等の院政もありました。 臣下の意向で簡単に天皇が交代させられ、譲位、廃帝させられた天皇も居ます。摂関時代や武家政治下では何故、一代天皇を続けられなったのでしょうか?
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古代において、天皇が最高権力者であった場合、死ぬまで天皇の位に就いているのが普通でした。 律令制が実質的に崩壊してからは、多数の荘園を所有する摂関家に実権が移り、No1の方の言うように幼少の天皇の方が政治の実権を握りやすく、また血縁的に自分の孫を天皇にしようとした為、天皇は必然的に年少になってしまいました。 天皇家はこれに対し、上皇になることで自分でも荘園を所有するようになり、(制度としての律令制が残っていたため、天皇が荘園を持つことは出来なかったのです。)摂関家に対抗し、院政を行ないました。(治天の君:ちてんのきみ) また平安期以降、天皇が権力者ではなかったので、天皇の個人的な理由により退位することがありました。 1.浄土思想による仏教への帰依‥‥出家するには退位しなければ(天皇は神道なので)なりませんでした。 2.病気治療のため よく効く医薬品の少なかった時代、熟練者による針・灸は治療効果の大きい医療でした。ところが、天皇の体に傷をつける行為は、忌むべきこととされており、天皇が針・灸で直る病気になっても治療ができません。そこで退位してから治療を受けました。 天皇の位にある間は、日常生活全てに禁忌が多いだけで権力は無いため、途中で退位するのが普通だったのです。(No2の方の言う通りです。別にひねくれた見方ではありませんよ。)
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- Tacosan
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#2 に補足: 少なくとも鎌倉時代初期においては「上皇が『治天の君』として天皇に代わり政治をとる」のが常識でした. つまり天皇親政は天皇に世継がいない場合の特例であり, 世継が生まれた場合にはなるべく早く譲位し上皇として政治をとるべきと考えられていました. 例えば, 承久の乱ののち後鳥羽院・順徳院及び仲恭天皇が配流され (土御門院は自らの意思で土佐→阿波に移る) ています. このとき幕府は「治天の君」であった後鳥羽院の院政を停止したのち高倉天皇の皇子である守貞親王を後高倉院として新たに「治天の君」に定め, 後高倉院の院旨によって仲恭天皇の退位・後堀河天皇の即位を実現しています. このように天皇に即位したことのない者を上皇としたことには, 上で書いたように「上皇がいるのが当然」であったからであると理解されています.
- boku-boku
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象徴天皇として地位が確立したのは、たぶん明治憲法以降でしょう。それ以前は、政のかざり、言い訳、後ろ盾など、時の幕府、支配者の駄目押しみたいなものでしかなかったようですね。軍事力というか、支配勢力の差がありすぎたようですから。宮家の反乱も、その都度簡単に治められたようですね。
- tkr1977
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こんばんわ。 ちょっとヒネくれた見方をしますが。 >一代天皇を続けられなったのでしょうか? それが「普通・常識だった」って回答ではダメでしょうか? 「亡くなられたら次が即位」って明治に入ってから明文化されたことではなかったでしょうか。 つまり、「続けることができなかった」と言うよりも「途中で退位・譲位することが通例・慣例だった」。 と考えてしまうと「摂関時代だからできない」「武家政治下だからできない」のではなく「続ける必要もなかった」とか・・・。
- 6dou_rinne
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摂関時代は天皇の外戚ということで権力を握っていたわけですから、成人の天皇で自分の意思があるよりも、幼少でなにも意思を持たないほうがやりやすいということがありました。 また、院政時代は実際の権力者は天皇ではなく院(上皇)でしたから、権力のない天皇の地位にいるよりも早く譲位して上皇になるほうが権力をふるえました。 その後は、武家の手に権力が移っても伝統的に上皇が天皇家のトップという形が続きましたが、戦国時代になると室町幕府が即位式の費用を調達できないために譲位したくても譲位できなかったという例もあります。