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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文: 宗教と道徳と法律とは矛盾するものでは・・・・・)

宗教と道徳と法律とは矛盾するものではありません。

このQ&Aのポイント
  • 宗教と道徳と法律には矛盾する要素はありません。
  • 山崎弁栄というお坊さんの言葉から、宗教と道徳と法律は矛盾しないことが伝わります。
  • 宗教は個人の心の救いを、法律は社会の秩序を守るためのルールを定め、道徳は個人と社会の善行を促すものです。これらは互いに関連し合い、矛盾することはありません。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • mmky
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回答No.7

>このお坊さんが、そのことを踏まえて云ったのか、明治時代の法律や道徳を根拠にした言葉なのか私には不明なので、その点についてのmmkyさんの“推測”も知りたいところです。 ○山崎弁栄氏は一切経を読破したと「朝日日本歴史人物事典の解説」に書かれています。 一切経(大蔵経)には、大きく分類して 経:狭義の経で、釈尊の教えそのものをいう 律:教団の規則 論:仏教の教義を解説・詳説したもの が書かれていますので、律(教団の規則)についてもよく学ばれていたのでしょうね。 ブッダの教えは、最高の法(規則)ですからブッダの教えに則して生きられれば問題はないのですが、人はそれぞれの境涯(気魂の差異)がありますので、それぞれの気魂に合わせて規則も作られるのですね。それが仏教でいうところの教育の法(次第説法)ですね。地域や国、国民性の気魂に合わせて法律も作られているのですね。 気魂の低いほうに合わせて作られたのが刑法ですね。高い気魂の方には道徳で十分ということですね。 全ての法(法律)は、ブッダの教えの一部でしかないんですね。それゆえ、ブッダは法そのもののと言われるのですね。まっとうに学んだ仏弟子であればそのように認識してますね。山崎弁栄氏も同じでしょうね。 参考:朝日日本歴史人物事典の解説から抜粋 山崎弁栄 生年: 安政6.2.20 (1859.3.24) 没年: 大正9.12.4 (1920) 明治から大正時代の浄土宗の僧。光明主義運動の提唱者。12歳のとき,空中に弥陀三尊を想見する。21歳で出家し,東京で遊学する。筑波山で念仏行の修行をして三昧発得を体験した。その後一切経を読破し,明治27(1894)年にインド仏跡参拝を行い,帰国後は独自の伝道活動を展開する。

yy8yy8az
質問者

お礼

 弁栄というお坊さんが法に訴えたのは罪を犯した人が身内(出家した僧)だったから、とも思えます。  もし、在家の人であったなら、法に訴えると云う事はせず、大切な布施のお金を他人に預けた自身の罪を思ったかも知れません。  今回のmmkyさんの回答は我が意を得たり、と云うものです。  「宗教と道徳と法律は矛盾しない」と云ったこのお坊さんの言葉は、釈尊から学んだ根本の理屈を土台にしたもの、という根拠を示してくださいました。  ありがとうございます。

その他の回答 (12)

  • kurinal
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回答No.13

>「宗教と道徳と法律とは矛盾するものではありません」 そうでしょうね。 >「「宗教家らしくもない」と非難する人」 原理主義ですね。

yy8yy8az
質問者

お礼

 矛盾するようでもあり、矛盾しないようでもある、と云った気分にもなりますが、それは やっぱり視点をどこに於くかに依って、変わってくるんだろうと思います。  そしてkurinalさんはどっちかと云うと、矛盾する状況が生まれてしまう、という思いではないかと考えました。  回答ありがとうございました。

yy8yy8az
質問者

補足

「そうでしょうね。」という言葉にどんな思いがあるのか、分かるような分からないような。。。。 また、「宗教家らしくもない」と非難する人を“原理主義”というならば、そうした言葉を使うほどのことでもないようにも感じました。 回答ありがとうございます。

回答No.12

人の生きる目的=源泉は、生物としての生きる意志(淘汰へ の反力)であり、その意志の充足(精神的充足量の最大化) こそが唯一の価値です。 ただし、人類の進化において生じた社会性(分業化、組織化) において、肉体に付属した感覚器官に依存した認識の自己 中心性を、社会生命的自覚化によってコントロールさせる 手間を惜しんで、自己チューな意識のまま、お金や出世と いったアメや、法規や神といったムチ(外的権威)によって 他律的に社会性を強要する方法をとったのです。 つまり宗教も道徳、法律、お金も、全て“嘘も方便”に過ぎず、 もともと理のないものに、「矛盾」も「整合」もありません。 ダメだと思えばダメ、合うと思えば合う。 どっちの神が“正しい”か問う事が無意味なようなもので。

yy8yy8az
質問者

お礼

 貴重品も、しまっておいたままでは曇ってしまいます。  たまには手にとって、曇りを取らなければ・・・・・  言葉尻をとらえて、と云う事になってしまいますが、「人の生きる目的=源泉は、生物としての生きる意志(淘汰への反力)であり、その意志の充足(精神的充足量の最大化)こそが唯一の価値です」という文を取り上げてみました。  この文での“主張”は“精神の充足”に価値を見出している、と云う事だと思いますが、それを説明するのに使われている「意志」は厳密には適当でないように思います。  「意志」は車のアクセルに例えられるので・・・・・。   回答ありがとうございました。

yy8yy8az
質問者

補足

 psytexさんのこの回答は私にとって、だけでなく此処、哲学カテの住人にとっても“貴重品”となるのではないでしょうか。  回答ありがとうございました。

回答No.11

そもそもは社会的動物として協調して暮らすための美徳が道徳で、それだけでは説得力が弱かったところに道徳を強調するためのバックボーンとして神や奇跡を持ち出そうとしたものが宗教なような気がします。そして科学の進歩につれて宗教のフィクション的な面の説得力が失せてきて、より合理的な規範として法律というものが強化されてきたのだと思います。

yy8yy8az
質問者

お礼

 たぶん、これからも「法律」は事あるごとに付けたされ、付け足されして膨大になっていくことでしょう。  人間は社会人として、「個人」の人権を重視することが正当性を「証明」しているように“錯覚”しているのではと、思ってしまいたくなる時もあります。  回答ありがとうございました。

yy8yy8az
質問者

補足

 回答ありがとうございます。  いただいた回答から、思ったことは“中立”という言葉です。  さらに思ったことは道徳そして法律と比べて、宗教は人それぞれの捉え方の違いが大きいのではないかということです。  “宗教”をどう受け止めているかで、ここでの“回答”が決まってくるように思いました。

回答No.10

オウム真理教を知らんのか。 りっぱな宗教法人が、人を救うために、サリンをまき散らし人を殺した。 もはや、宗教と道徳は矛盾する。

yy8yy8az
質問者

お礼

 本当に「もはや」という言葉を使いたくなりますね。  それくらい真の“宗教あるいは信仰”が人々に行き渡っていないのだと思います。  昔は今ほど“理”に依存しない世界だったのでしょう。  現代人は“頭でっかち”になってしまいました。  回答ありがとうございます。

yy8yy8az
質問者

補足

 回答が刺激的なので再考することになりました。  そしたら・・・  人間が多種多様であるように、宗教も多種多様。そこから発生する道徳も多種多様。当然、法律も多種多様。  と云う事でした。  また、オウム真理教を“立派な宗教法人”としていた“制度”に欠陥があるんだろうとも思いました。  回答ありがとうございます。

回答No.9

矛盾では無いと思います 本来なら道徳心があれば良いだけのこと 人を殺めてはならない。それは人の道から外れるからである←道徳 人を殺める事をあなたは許しても、天は許してはいない←宗教 人を殺めれば罰を与える←法律 道徳に従わぬ者に対して。神や仏を使って諭させるのが宗教 道徳心も無く、人が制するのも守らない(宗教)者は法を以て罰するのが法律

yy8yy8az
質問者

お礼

 端的な表現の回答に私は隙を見出せません。  でもと云うか、だからと云うか、ちょっと物足りなかったです。  回答ありがとうございました。

yy8yy8az
質問者

補足

 事の本質を踏まえての回答だと思いました。  ありがとうございます。

noname#180507
noname#180507
回答No.8

》「宗教と道徳と法律とは矛盾するものではありません。」 「宗教」「道徳」「法律」の関係性について考えてみました。 思いつくままで、まとまりはありませんが・・ 「法律」ですが、その国の秩序を守るための国家権力のひとつですね。No3・7さんの例示しているような「宗教」が支配する国家では、法は、その教えが基軸となるでしょう。 特定の宗教の信仰者のなかには、「宗教」が世界平和や秩序をもたらすという考えもあるようですが、「宗教」と政治・法律は分離すべきだと思いますね。なぜなら、宗教は信じるという強力な行為ですから、排他性が強くなり、政治の自浄作用も弱まると考えられるからです。(愚衆政治も駄目ですが、それでも、民主主義は守るべきでしょう) 逆に、宗教的良心は、政治法律など国家権力に支配されたり、利用されるものであってはならないと思います。 》弁栄というお坊さんは「監獄(刑務所)は個人の力では直せぬ罪悪を、 》国家の力で直してくれる所である」。また「人の心霊は名刀のごとし、 》はなはだしき錆(さび)は荒砥(あらと)を用いて除き去る」とおっ 》しゃって、本人の更生を願われたとのことです。 刑務所など国家権力に付属する施設は、社会秩序を守るためにあるという第一義的性格を混同してはならないと思います。そのうえで、犯罪者の更生や、悔い改め、精神的救済(罪を深くみつめる)を「宗教」などが担うのでしょう。 十数年前、地元で「いのちの絵画展(死刑囚の作品展示)」が開催されました。死刑執行された故人が描いた観音菩薩画を観て、獄中生活で、なんらかの宗教的関わりがあったのだろうと感じました。 弁英さんの「人の心霊は名刀のごとし~」ですが、『除き去る』というよりは、人が本来持っている清浄な心に気づかせるという表現のほうがふさわしいような気もします。・・が、犯罪者の罪の捉え方の深まりにより、表面の研磨なのか深部までなのか、違いがみられるのでしょう。 「道徳」は、人間の良心や培われてきた経験から、後世に引き継ぐ教えまたは模範と捉えています。戦前、二宮尊徳の像が小学校の校庭に建てられたり、勤勉・献身奉公を徳とする道徳がありました。尊徳自身の克己心は尊敬できるものですが、戦時中の思想教育(国家への奉公)に、当時の国家権力が利用したことは否めません。 最近でいえば・・安倍総理のいう「美しい日本」にひとつのナショナリズム(国家主義)が潜んでないかを危惧しています。祖国郷土の自然や文化を大切にしたり、誇りに思うのはいいのですが、国民意識の結集(個を排除し団子状態の意識を作ることで、支配を強める)や排他性を二次的に生み出す危険性があるということです。(逆に、国家は、そういう状況を意識的に作り出しているといえるかも)

yy8yy8az
質問者

お礼

 プロフィール拝見しました。  こころ惹かれます。  回答ありがとうございました。

yy8yy8az
質問者

補足

頂いた回答への感想が遅くなったのは、難しいことを考える頭が無いから。 だから時間がかかってしまいます。 道徳と法律を結び付けて考えることは、比較的容易なのかも知れません。 問題なのは宗教、なんだと思います。 世界を見渡せば、一口に宗教と言っても様々な形態が見られるので、“矛盾するものではない”と言われても疑問が起きて当然かと思います。 ありがとうございました。

noname#183245
noname#183245
回答No.6

矛盾することもあるでしょう。 たとえば、断食の習慣があったとして。 宗教上の教えとしてはある。 道徳的にはやろうと思う人もいれば、やりたくない人もいる。 法的にはそんな義務はない。 矛盾する部分もあれば、一体化する部分もある。 極めて現実的にシンプルに答えたまでです。

yy8yy8az
質問者

お礼

 事柄次第、であると同時に“時代という背景”が矛盾を生みだし、且つ広げてしまうように思いました。  回答ありがとうございました。

yy8yy8az
質問者

補足

 “事柄次第”である、という意見だと受け止めました。  あとで、感想を述べられるかもしれません。  ありがとうございました。

回答No.5

 お早うございます。  1.  宗教と法律とについての説明としては よく次のような見方が出されます。    神の法(永久法):真理    自然法(人における):真実    人定法(法律):規則  2.  《自然法》は 大前提としてすでに想定された《神の法》から導かれたというさらなる想定です。  いわば 人間の心に 神の霊が宿るなりブッダター(仏性)がそなわるなりとして受け留められ そこに自然本性としての人間性にもとづく考え方があるはずだといったときのその内容です。  憲法を初めとして法律一般は この自然法の内容を基礎として 具体的に取り決めた約束事であるという恰好です。人為的ゆえに《人定法》というのだと思います。  3.  ところで ものごとのスヂ(筋)や決まり・定めには 基本第一次の内容とそこからの派生第二次のかたちとがあると考えられます。   自然法についての    基本第一次の内容:たとえば 《人は人をころさない。むさぼらない》    派生第二次の形式:《なんぢ ころすなかれ。むさぼるなかれ》  形式と内容とは 互いに一体のもので同じですが 《基本の内容》のほうとしては ものごとを決めつけておらずその意味では定まっていないところの動態的なスヂのことです。あるいは もっと息づいていてみづみづしい内容のことです。  これが 言葉に表わされると 或る意味でさだまります。固定されます。  しかもそのさだまった言葉をひとつの命題として取り上げ取り扱うならば これは――形式が形相(イデア)となって内容から分離して行き―― 一定のかたちを持ったサダメやトリキメとして人びとのあいだに持たれて行きます。  4.  このサダメやキマリが 規範であり一般に倫理の規範であり 道徳とも呼ばれ また――自然法がそもそも《神の霊ないしブッダターを心に受け容れるというような目に見えない信心》に発しているところの――基本第一次の内容たる信仰に対してその二次的な派生形態として オシエとなって持たれます。  信仰は――そもそもその中身が思考に非ずというように―― 混沌たるしかもみづみづしい動態であるのに対して オシエは その外側のカタチです。そのカタチだけを振りまわすならば ただの蝉の抜け殻にしか過ぎないしろものです。死んでいます。    このオシエが――それがたとえ不文法のかたちであったとしても―― 一定の社会集団において慣習法として持たれたときに《宗教》が発生したと考えられます。  もし宗教色をうすめれば 《道徳》が そこから取り出されて来たものと考えられます。  5.  あくまで息吹きとしての《われは むさぼらない》なる信仰内容が オシエとして《なんぢ むさぼるなかれ。あるいは ぬすむなかれ》というキマリとなったそのさらにあとに 人びとは 人定法を持ちました。  行為主体を人間であるとさだめ その個体に属する物という概念を決め 私有財産ないし個体的所有といった概念をも取り決め この物が他人のものであるなら それを盗めば罰をくだすといった約束事を法律として持つに到りました。  ちなみに自然法の信仰――わが心なる非思考の庭――にあっては となりどうしでモノを融通するのは ふつうのことだという感覚があるかも分かりません。少々ネコババをしても それは ふつうのツキアイのかたち(また内容)だと思われているところがあるかも分かりません。  6.  ところで 人定法が 社会の情況の進展に沿って複雑なものとなりそれが 自然法の段階におけるオシエや倫理規範から遠ざかってゆくといった情況が出て来たのだとか。  剽窃ないしパクリは ムサボリ行為であるか?    ひとの真似は むしろ自由なことであるのではないか?  《われは むさぼらない》なる信念を ほかの人から真似て・またはその文句をパクっているとしたら それは 人間性ないし自然法に悖ることか?  現代社会は 複雑になったのかも知れません。人間が変わったとは思えませんが。  ▲ 「人の心霊は名刀のごとし、はなはだしき錆(さび)は荒砥(あらと)を用いて除き去る」  ☆ は今も生きていましょうか。どうでしょうか。

yy8yy8az
質問者

お礼

 鶏が先か卵が先か、なんて議論がありますが・・・  宗教、道徳、法律、とではどれが一番“先”なんでしょう。  同時進行という見方が一番無難なように思いますが、宗教心を持たずとも道徳心は派生するようでもあり、そう思えばこの道徳心を生みだす「元」があるはず。  道徳心を“好ましい心の世界”とするならば仏心もまた好ましい心の象徴として受け止められているわけで・・・  そうして「元」とはブラジュロンヌさんが言うところの“非思考の場”であると決めつけました。  この“非思考の庭”あるいは「元」から宗教心は生まれ、道徳心も現われる。  また、宗教心からは「信仰」が発生し、道徳心からは「法律」が作られる。  こんなことを考えてみました。  回答ありがとうございました。

yy8yy8az
質問者

補足

 回答ありがとうございます。  感想は後ほどに。  考える時間が必要だから。

  • kurinal
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回答No.4

こんばんは。 例えば、一千万円、盗んだらね。 一千万円丸々得かというと、さにあらず。 まずは、その一千万円自体、返せと言われると、返さないといけない。 ・・・当たり前。「盗みの本質」ということでしょう。 さらに、それだけでは済まない。 「その一千万円が盗難されずに済んだなら得られた利益」みたいなものまで 補償しなくちゃいけない。 その上で、刑事罰がある。多分、懲役刑ですね。 何年か刑務所で過ごした上で、 (道徳的に?)「前科者としての社会的制裁」・・・これは昨今では、それほどでもないのでしょうか? これらが多分「法律の世界」です。 少なくとも、法律と宗教とは、明確に・・・違う理屈で動いている?。 矛盾しない、というより、世界(観?)が違うんだと思います。

yy8yy8az
質問者

補足

 いただいた回答から、思ったことは、  法律は道徳を基礎にして作られる。  道徳は正しい宗教的精神から生まれる。  と云う事でした。  ありがとうございました。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.3

「宗教と道徳と法律とは矛盾するものではありません」 ○その通りですね。釈尊の創られた仏教は、信仰を含む宗教ですが、組織としての僧団には戒と律がありました。戒には罰則規定がありませんでしたから守るべき道徳ですね。一方、律は罰則を含む規定ですから現代の法律と同じものですね。2500年前から存在していたものですので、変わりはないのです。 当時の律の一番重い罪は僧団追放ですから、追放されれば国法で裁かれたわけですね。当時の国法は現在の法律よりはるかに過酷ですね。 お話のお坊さんも全く同じですね。僧団を追放され国法で裁かれたわけです。 宗教は心の修行ですから、修行のために自身が守るべき戒、つまり道徳規範を持つわけですが、罪を犯せば、法律で裁かれ罪を償うことで、心の修行をまっとうしなさいということですね。 これが、「人の心霊は名刀のごとし、はなはだしき錆(さび)は荒砥(あらと)を用いて除き去る」という意味ですね。立派な修行僧ですね。 一般の人も全く同じですね。自らの心を鏡のごとくするためには道徳だけでは無理であれば、厳しい裁きも与えないといけないということですね。裁判官もお坊さんと同じ仕事なんですね。 それを宗教と呼ぼうが司法と呼ぼうがやってることは同じことですね。 まあ、簡単に言えば、罪は犯したご本人にしか消せないのですね。それをどのようにして気づかせるかということだけですね。偽りの自分自身を許すのは本当の自分自身ですね。 だから、いつの時代でも「宗教と道徳と法律とは矛盾するものではありません」が正しいのです。

yy8yy8az
質問者

補足

 組織としての僧団の戒と律に当て嵌めての回答、意外でした。  このお坊さんが、そのことを踏まえて云ったのか、明治時代の法律や道徳を根拠にした言葉なのか私には不明なので、その点についてのmmkyさんの“推測”も知りたいところです。  ありがとうございました。

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