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自己一致 と 道徳・法律

「自己一致」について、よくわからないので教えて下さい。 自己概念と一致した表現(自己一致した状態)は、道徳や法律に反することも多いと思います。 (逆に言えば、道徳や法律に則った行為が自己一致に反することも多い) たとえば、怒りにまかせた表現・行動が道徳や法律に反するケースはもちろんのこと、 謙虚だけど本当は自分に自信がある人なども、自己一致していない状態ではないかと思います。 そう考えると、道徳や法律に囲まれた中で自己一致を実現するのは、なかなか難しいように思うのですが、 臨床心理学では、どのような形で自己一致を実現するのが良いと考えるのでしょうか? ※ここでいう「自己一致」とは、カウンセラーの必須条件としての自己一致ではなく、 クライアントを含めた一般人の健全な精神のあり方としての自己一致のことです。 よろしくお願いします。

みんなの回答

  • youchan37
  • ベストアンサー率37% (248/669)
回答No.1

私はロジャースを殆ど突っ込んで勉強していませんが…。 森田療法の祖、森田 正馬博士が、ある時患者から、こんな質問をされました。 「自分の心には獣欲(性欲)がある。これをどうしたらいいのか?」 博士はこう答えました。 「私の心にも獣欲(性欲)はある。しかしそれだけのことだ。殆どの人の心にあるものだ。 もしこれを自分だけにあるものだと勘違いすれば、これを取り除こうを焦り、強迫観念にもなる。 あっても良い。良いも悪いもない。ただ実行しなければ良いだけのことだ」と。 道徳や法律に反しようとする心が、ある。 しかしこの心だけがあるのではありません。この心が湧いた「自己」が自己の全てではありません。 もしそれを犯した場合、どれ程の人が傷つくだろうか、とか、 自己の心に浮かんだことを吟味する自分も又、「自己」です。 自信がある。これも自分の心です。「自己」です。 しかして、うぬぼれてしまえば、自分が新たに何かを吸収して成長することができなくなってしまう、と。 そう考える自分も又「自己」です。 二つの相反するものが統合された全体こそが「本当の自己」なのです。 統合に向かうにあたって若干の精神葛藤があるかも知れません。 そして結果として、「こうであるべき自分」が決まる。 こうであるべき自分=自己概念 ですよね。 幾ばくかの精神葛藤があったにしても、それが統一されて一つのカタチになり、統一された自己概念ができ、 そしてその通りに行動した。その行動が自己経験=ありのままの自分 であると。 そして自己概念と自己経験が一致していれば、自己一致が成されたものである、と。 欲望を野放しにするのが「ありのままの自分の心に忠実に生きること」では決してありません。 「欲望を野放しにしたら、後で自分が傷つく。人をも傷つける。それは嫌だ」と思っている自分も又、 ありのままの自分なのです。 その両者を押し合いへし合いさせ、最後に「自己概念」が決まるのです。 否ロジャースの「自己概念」の定義までは知りませんが、そうであろうと思われます。 今日はがんばって体を動かしたから、ビールを飲んでもいいな、とか(笑)。 即ちこの場合のように、自分の欲望を許される範疇において、ある程度まで解放することもある。 しかしこのままでは太るな、と考えている「ありのままの自分の心の声」に従って、行動を制限することもある、と。 さあて、旨いビールが飲みたいものです。これから芝刈りでもやろうと思います(笑)。

noname#92412
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 とてもわかりやすかったです。 森田正馬氏の本を読んでみたくなりました。

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