これは、1か2かではないでしょう。何故なら、1と2は、結局同じことを言っているからです。
法律と道徳は別のものか、ということを考えてみましょう。確かに別のものだと言えます。しかし、法律と道徳と、これらは、どこから起源して、何の意味や役割を持つものでしょうか? 起源的には、どちらも、人と共同体、個人と他者や社会が、いかにうまく、よく生き、運営され維持されるか、そのような目的で、自然的にあるいは人為的に計画して造られた・構成されたものでしょう。いわば、社会的存在である人間の「善」を目指して立てられているとも言えます。
法律は、成文で、作為的に造られた面もありますが、共同体や人々の心にあった、かくあるべき、善なるには、こうすべき・これはすべきでない、という了解事項を、暗黙においてか、または明示的にか、示し定めたもののはずです。そういう意味では、個人の内面においてかくあることを主張する道徳と同じ起源にあるとも言えます。道徳もまた、人が、社会の運営や、人間関係の円滑な進行のため、意図して当為として立て、外面的に人を従わせようとする面があります。
道徳も法律も、起源からしても、最終的に目指そうとしているものも同じもののようです。しかしこの両者は、法律が形式的条文となり、道徳が、個人の内命の良心の命令のようになった時、別のものにも見えるのです。また、そのような分極化が行われて、「法律」と「道徳」の区別というものが、意味を持って来たのでしょう。
道徳は、人の内面から人を規範するものであり、人が主体的に実践するものだとも言えます。他方、法律は、外面的な条文と化し、形式化され、内実が希薄となってしまうという可能性を持ちます。法律は、杓子定規になることがしばしばあり、道徳も杓子定規になることがあります。しかし、法律と道徳を比べてみれば、法律の杓子定規な形式化を阻止して、条文に命を与えるのは、人の良心に従う主体的判断でしょう。また、道徳の杓子定規を是正しようとするのも、人の内面の主体的良心でしょう。
こうして、法律は、時に間違っていることがある。それを正すのは主体的な道徳判断である。しかし、法律は仮にも、社会を維持し、人々の生・生活を保証するためにあるのであり、法律が悪法であるからと言って、これを軽々しく無視あるいは否定してよいものではない。悪法といえども、法律を守らなくともよいとなれば、元々利己的な面を持つ人間は、正しい法律も守らなくなる。内面の主体的道徳判断よりすれば、悪法は改正して行くべきであるが、悪法も法であるかぎり、守らねばならない。こうして、法律一般は、それが何であろうと、主体的道徳判断において、最低限、守る必要のあるものである。これが1の意味でしょう。
ところで、と同時に、法律とは広義の道徳の一部とも考えられる訳です。法律も道徳も、硬直化し、間違った教条主義になって悪しきものとなる可能性を持ちます。それを是正できるのは、個人の主体的道徳判断でしょう。そして、形式化・杓子定規化となりやすく、悪しきものとなる可能性の大なんるものは、むしろ法律です。道徳にも色々なレヴェルがあるとすれば、最高の道徳は、人がよりよく生きる智慧である、良心に基づく主体的判断の道徳でしょう。法律も道徳の一部と考えれば、法律は、時に自浄される必要があり、また権力者の恣意の道具ともなりえることから、道徳としては、一番、レヴェルの低いものだという考えができるでしょう。
こうして、法律は、最低限守られねばならないものということと、法律は、道徳としては、もっとも低い最低限のレヴェルのものだとも考えられるということの両方が妥当だということになります。
(なお、この言葉が実際に使われる場面では、No.1 の人が述べているように、法律に反しなければ何をしてもよいのだという風潮を戒め、法律より高い次元に道徳があり、道徳に照らして人の言動は判断されねばならない、というように使われるようです。これは2の意味ということになりますが、法律が最低のレヴェルの道徳だとすれば、最低レヴェルであっても、道徳である以上、守らねばならないという1の意味に通じています。というより、「法律とは最低の道徳」であるという言葉がある前提に、法律と道徳の関係の把握の問題があるのであり、道徳をすべの人が守れば法律は必要なくなるのではなく、法律も道徳の一表現である以上、それは守らねばならないということになるのです。道徳を守るということのなかに、法律を守るということが含まれているのです)。
お礼
いきなり、目の前がパーっと晴れ渡った感じです。 非常に簡潔にかつわかりやすくお答え頂きありがとうございます。 まさしくおっしゃる通りで、全て納得しました。 ありがとうございました。