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宗教と道徳について。
外国で無宗教と言ってはいけない・・・と聞いたことがあります。 宗教=道徳という考えがあって、無宗教は道徳を持たない人と見なされるから、ということらしいですが・・・ でも、どうして外国の人は宗教と道徳を一緒にして考えるのでしょうか? 私の考えとしては、宗教と道徳は別物だと考えているので、 無宗教でも必ずしも道徳や常識のない人とは思いません。 人としてやってはいけないこと(殺人など)は、宗教に関係ないと思っています。 ちなみに、私の宗教の概念とは、神に対する信仰や厳しい戒律のことです。 道徳は、日常の中で使われている常識などです。
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ANo.3です。まぁ、私の言いたいことはすでにお答えくだすった方もいらっしゃいますが、少し疑問が残っていらっしゃるようですのでもう少しだけ。 >>余談ですが、一つの宗教のみを信じるという感覚もよく理解できないのです。 それも多くの日本人が共通して日本人がもつ宗教倫理の一つの考えのように思います。これは、日本にそもそも備わっていた文化を受け入れることに抵抗が少ない土壌の影響もありますし、私は仏教とですから仏教系のことから言わせてもらえば聖徳太子の作った(歴史学的にはそうともいえないようですが・・)『十七条憲法』の第十条の中には 「心の怒りを断って、表に怒りを見せることは止めて、他者が自分と違うことを言っているからといって怒ってはいけません。人にはそれぞれの心があります。その心にはおのおのが大切にしたいものが違うのです。相手が正しいとすれば、私が間違っている。逆も然り。意見が違ったとき私が必ず正しいとは限らない。相手が必ず間違っているとは限らない。お互いに正しいことも言うこともあれけれども完璧じゃない間違うこともある弱い一人の人間(凡夫)なのです。どちらが正しくてどちらが間違っているか、誰が完璧な判断ができるだろうか。(筆者訳)」 という言葉があります。このように日本人はどちらが正しくて間違っているかに対して非常に寛容であり、どちらの意見も聞く耳を持つ公正な態度というものが美徳とされます。こういった判断は成否をはっきりさせる文化を持った西洋人には理解できないでしょうね。ただ、「日本人が一つの宗教にこだわりたくない」という理由はこれだけではないと思います。戦前の国家神道やオウム事件というものに対しての拒絶反応という爪あとということも考慮に入れておかねばなりませんね。 >>日本でも宗教的行事をしており、完全な無宗教ではないことが分かりますが、 >>自分の中にある常識に宗教が関わっている・・・ということが実感できずにいます。 >>本当に仏教や神道、儒教の影響を受けているのだろうか?て・・・ だから「市民宗教」なんですよ。何か特定の宗教ではなく、常識になってしまっているということです。lenji777さんは直接宗教と関わっていないから影響を受けていないということかと思いますが、間接的なかかわりは誰しもが持っています。たとえお寺に行ったことがない神社に言ったことがなかったとしても。これがいい例かは分かりませんが、言葉なんかでも仏教から生まれた言葉を日本人は無意識のうちにかなり使っています。「経営」「自然」「ぜんざい」「無垢」「敬礼」「学生」「生徒」「授業」「実際」「意識」「ガキ」「決定」「上品」「下品」「子孫」「邪魔」「愚痴」等々枚挙にいとまがありません。「落語」「講談」「浪花節」や「茶道」「華道」「香道」日本の芸能と呼ばれるものも仏教の影響下にあるわけです。J-POPだって、源流をたどっていけばお経の読み方、またはキリスト教のゴスペルまでさかのぼれると思いますよ。こんな風に日本人は間接的にでも関わりがあることは否定できないと思います。 ここからは四方山話と読んでください。私が思うにこういったものを知らずにいるというのは怖いことだなって思うことがあります。宗教は良くも悪くも人を染めていきます。たとえそれが市民宗教であったとしてもです。こういったものを意識せずに付き合うということは無意識の差別を生み出すのではないかと思います。アメリカの研究結果ですが、キリスト教に熱心な地方ほど人種差別が強いという調査結果が発表されたことがあります。こういった研究結果を見ますと、宗教とのお付き合いは難しいですねぇ。ではこのようなことを防ぐためにはどうしたらよいか、私は特定の宗教と意識的に付き合うということが良いのではないかと思います。これは一つの宗教にこだわるということではなく、一つの宗教と意識的に付き合うことで、それ以外の宗教や思想を理解する突破口を手に入れるということです。 長々自説を述べましたが、最終的にないが言いたいかと申しますと、 >>やはり、欧米の人の感覚はどこか分かりづらいですね(^^;) ということは私も分かります。けれども、たぶん向こうの人も日本人の宗教観に関して同じことを思っていると思いますよ。また、もし自分が向こうの方々と同じ環境にいて、同じ感覚にならずにいられるか??きっとそんなことは難しいでしょうね。けれどもそういった考えを理解することはできます。私はそう言った理解に勤めるのが日本人的じゃないかなって思うんですよね。 またしても長々書き連ねましたが、まとまらぬ文章故読みにくいかと思いますがどうぞご容赦ください。 合掌 南無阿弥陀佛
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No.1です。 仏教やその基となったバラモン教は、神と云う概念は有りませんね。神というよりも、現世や来世等も含めた世界の道理を説いていますね。 儒教や道教も広義で宗教に含まれるでしょう。また、古代ギリシアの自然哲学も同様の位置に在りますね。トーテミズムも神と先祖と或る崇拝する物が一体となっていますので、神を進行すると云うよりも先祖崇拝に近いですね。 但し、他の文化が理解し難いのは残念ながら事実です。 異文化間で誤解を生じた例を一つ挙げておきます。中国に英国人が来た時、英国人は「連中は神を知らん」と、中国人は「奴らは礼儀を知らん」と、お互いを未文化人となじっていました。 自分の尺度が絶対でないことは、心しておかねばなりませんね。
お礼
二度目のご回答ありがとうございます。 バラモン教は、ヒンドゥー教の前身なので、 シヴァなどの神様も存在するから神という概念のある宗教・・・ だと、少ない知識の中で思っておりました(苦笑) こうして見ると、神のいない宗教は結構多いのですね。 異文化の違いは頭に置いておかなければいけないですね。 私もキリスト教文学を読んでいても「?」と思うことが多いですし。
- 馬鹿 禿(@baka-hage)
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少しばかりお話させていただきます。 >>どうして外国の人は宗教と道徳を一緒にして考えるのでしょうか? それには、ヨーロッパを中心としたキリスト教圏の学校の成り立ちについて少しお話をします。ヨーロッパを中心としたキリスト教圏の学校というものは教会の一サービスとして運営されてきました。もっと古い頃から学校というものは存在していましたが、現在のヨーロッパの学校制度の起源は協会が運営していた学校の延長にあります。国もまた初期においてその狙いは、学問的教養とキリスト教的な道徳というものを共通認識で植えつけることにあったようです。ですから今でも、学校に道徳なんて授業があるのは世界の中で日本と確かフランス(違う国だったかな?ちょっと記憶がはっきりしません。申し訳ない。)だけだったかと思います。では、道徳という授業が行われていない国はどうやって道徳教育をしているのか??道徳というものはそもそも学校でする必要は無いものであり家庭の中で教育される躾に分類され、その家庭というものの中でも道徳教育は教会のミサに行きキリスト教のお説教を聴かせることでおぎなっています。つまり、道徳は宗教に委託されるものであると考えられているわけです。しかも、そのフランス(確か・・)で行われている道徳教育とはキリスト教教育であって「道徳」と「宗教」は同じもの。もしくは、道徳は宗教の付属品と考えられています。 良くも悪くもこのような教育を受けた人たちは、 >>宗教=道徳という考えがあって、無宗教は道徳を持たない人と見なされる ということになるのでしょう。 >>私の考えとしては、宗教と道徳は別物だと考えているので、 >>無宗教でも必ずしも道徳や常識のない人とは思いません。 >>人としてやってはいけないこと(殺人など)は、宗教に関係ないと思っています。 私は日本人の無宗教に関しては、完全な無宗教であるとは考えていません。「市民宗教」という考え方があります。日本という国の風土自体に馴染みすぎて、それが宗教であるかそうではないかが分からなくなってしまった宗教とでも言いましょうか。社会学の用語として説明すれば、明確に教義信者数等々がはっきりしている宗教とは違って、「常識」という言葉で表現され、その社会の価値体系を構成している宗教的要素のことです。日本人は「私は無宗教です」としながらも、初詣に行き、お墓参りをし、厄落としをするといったところです。または親孝行や「死んだら海(山)にまいてくれ」というような考えも宗教的な考えの影響がまったく無いとは思えません。つまり日本人の「無宗教」という人の多くは市民宗教の信者ともいえます。「日本人が思考すると仏教になる」ということが言われることがあるそうです。日本人は市民宗教として道徳観の中に仏教、儒教、神道がしみこんでいると考えます。 さてそれを踏まえたうえで、ここでlenji777さんは無神論者(この言葉も意味はたくさんありますが、ここでは「どのような宗教も超自然的な何かを否定する立場」と言う意味で書かせていただきます。)というような意味で「無宗教」という言葉を使われているかと思いますが、私も無神論者であっても道徳的に劣った人だとは思っていません。 しかし、 >>私の考えとしては、宗教と道徳は別物だと考えているので、 これに関しては賛成できません。まったくの別物ということはできません。ドストエフスキーは「宗教なくして道徳はない」と述べておりますが、宗教と道徳は表裏一体な部分があることも確かです。確かに、 >>ちなみに、私の宗教の概念とは、神に対する信仰や厳しい戒律のことです。 >>道徳は、日常の中で使われている常識などです。 というのはごもっともで。道徳は日常における一つの価値体形であり、宗教は日常と神や悟りと呼ばれる非日常をつなぐ回路という言い方ができるでしょう。私も賛成です。しかし、それはあくまで道徳と宗教の守備範囲の違いを示すもので、二つが別物であると示すことにはなりません。 先に述べました市民宗教という考え方を見てみれば、宗教の教義に縛られていないとしながらも、常識の道徳という社会価値体系の中に宗教というものの影響がまったく無いとはいえない思います。「人(生き物)を殺してはいけない」「物を盗んではいけない」「人に優しくしなさい」ということに関しては道徳と宗教の共通点であり、そういったものを考える中でお互いに関係が無かったとは考えにくいというのが私の考えです。 長々述べてまいりましたがまとまらない文章で申し訳ないです。急ごしらえの文章ですから、誤字脱字乱文どうぞご容赦ください。 合掌 南無阿弥陀佛
お礼
ご回答ありがとうございます。 やはり、欧米の人の感覚はどこか分かりづらいですね(^^;) 余談ですが、一つの宗教のみを信じるという感覚もよく理解できないのです。 日本でも宗教的行事をしており、完全な無宗教ではないことが分かりますが、 自分の中にある常識に宗教が関わっている・・・ということが実感できずにいます。 本当に仏教や神道、儒教の影響を受けているのだろうか?って・・・
- cse_ri2
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>でも、どうして外国の人は宗教と道徳を一緒にして考えるのでしょうか? もう古典の仲間入りかもしれませんが、新渡戸稲造の「武士道」を読めばその答えが書いてあります。 日本においては、倫理・道徳は家庭生活・学校生活をはじめ、日常の中で学んでいきます。 しかし、欧米社会ではそれを教会の日曜学校で学んでいます。システムが違うのです。 イスラム社会では実情はよくわかりませんが、似たようなシステムがあるのでしょう。 無宗教の国、例えば中国などではどうかと言うと、やはり家庭教育や学校教育でのウェイトが大きいのでしょうね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 新渡戸稲造の「武士道」、レポートで書くために読んだのに、 すっかり忘れておりました・・・!!(汗) 私も日本では、倫理・道徳は家庭や学校で学んでいくものだと考えています。 だから、必ずしも欧米のように宗教に頼る必要もないのではと思いました。 中国でもそうなのでしょうね。 そういえば、神のいない宗教では儒教や道教もそうでしょうか。
国によって異なります。 無宗教も認めている国もあります。 宗教でも神を持たない宗教もあります。
お礼
ご回答ありがとうございます。 無宗教を認めている国・・・中国あたりでしょうか? 中国は無宗教の人が多いと聞いたので。 神を持たない宗教で思いつくのは仏教くらいですが、他にもあるのでしょうか?
お礼
二度目のご回答ありがとうございます。 何だか一つの宗教だけって、言うことに漠然とした怖さを感じるんですよね。 それだけを絶対的なものと思えないからでしょうか。 やっぱり、曖昧のほうが一種の安心感があります。 私もお祭りは行きますし、お盆にはお寺にも行きます。 ただ、この質問を機に考えてみたのは、それは生活習慣の中の一つになっていることで、 宗教だと思ったことがほとんどないということでした。 日常用語にも、仏教から来たものが多いのは聞いたことがあります。 受けた授業の中でも、日本の行事には神道が多く関わっていることも知りました。 でも、私の常識の中まで入り込んでいるとは思ってなかったので。 確かに宗教のお付き合いは難しいですよね。 西アジアや欧米を見ていると分かります。 自分の常識や考え方が宗教に染まっているなんて思ってもみなかったので、 宗教に対しては中立な見方が出来ていると思ったのですが、そんな考え方は危険ですね(^^;) なので、baka-hage様のご回答によって考え直すことができそうです。 ありがとうございました。