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大名の国替えについて
江戸時代、譜代大名は国替えが頻繁にあったようですが、その際、先祖のお墓というのはどうしていたのでしょうか? 国替えを命じられなかった外様の大藩などでは国許の菩提寺に歴代藩主の立派なお墓が整然と並んでいたりしますが、頻繁に国替えを命じられた大名家の墓所は各地に点在していたのでしょうか?それとも江戸か親交のあった古刹に造っていたのでしょうか? 藩主もですが家臣達は自分の先祖の御墓の管理をどうしていたのかも気になっています。 あと、鳥居元忠の三男・成次ですが、甲府宰相忠長の附家老となる以前は大名(甲斐谷村藩主?領主?)だったのでしょうか? 元大名だったとすると、御附家老就任後の鳥居家の家格は諸侯から陪臣へ下がったのでしょうか? どなたか御教授頂ければ幸いです。<(_ _)>
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前段について。 大名によってさまざまですが、転封とともに、菩提寺も引っ越ししたり、新たな土地に同名同宗派のお寺を建立したりしているようです。それぞれ没した土地に墓所がありますが、新たな土地にあらためて墓を建てた例も数多くあります。つまり、幕末の1代しかいなかった土地に、数代の墓が整然と並んでいることもあるわけです。 一方、江戸にある国許の菩提寺と同系の寺院に墓所がある場合もあります。 知りたい藩主が具体的にあるなら、『寛政重修諸家譜』や『群書類従』などの系図集に、菩提寺や墓地の場所が書いてあります。 家臣については、その経済力に応じてさまざまとしか言いようがないでしょう。 後段については分かりません。
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- uso888
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>あと、鳥居元忠の三男・成次ですが、甲府宰相忠長の附家老となる以前は大名(甲斐谷村藩主?領主?)だったのでしょうか? ◇鳥居成次、父元忠の旧領地都留郡1万8千石の谷村領主となる。 とありますから、大名だったわけですね。 >元大名だったとすると、御附家老就任後の鳥居家の家格は諸侯から陪臣へ下がったのでしょうか? 谷村藩 -------------------------------------------------------------------------------- 徳川忠長が甲斐府中を受領すると、鳥居元忠の三男鳥居成次が家老として、甲斐谷村に付属する。 子の鳥居忠房に忠長家老職とともに継ぐが、忠長の改易にあたって、連座改易となり、従兄の出羽山形藩主鳥居忠恒に預けられる。名跡は一族の鳥居忠春が継ぐが、出羽山形の忠恒も改易となるため、忠春は鳥居宗家の名跡継ぐことになり、信濃高遠に新封を許される。 ということで、家格が下がったというわけではないでしょう。
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ご回答ありがとうございます。 成瀬隼人正、水野対馬守、中山備前守など、万石を食みながら諸侯としての扱いではなかった御三家附家老との違いはあったのかな、と疑問に思い質問させて頂きました。
お礼
御回答ありがとうございます。 国替えと共に移転していたんですね。 今となっては想像するしかありませんが、国替えによって一つの藩をそっくりそのまま遷すというのはかなり大変だったのでしょうね…