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守名乗りについて
江戸時代、武家の守名乗りは大名・諸太夫の役職に就いた者・三千石以上の大身旗本に許されていたと思います。 陪審でも、御三家御附家老や加賀八家のように従五位下に叙任される特格の家柄はあったと思いますが、一般の大名家の家臣(特に重臣層)が守名乗り(越前守・讃岐守・縫殿頭など)をすることは出来たのでしょうか? 「かみ(守・正など)」を付けずに山田安芸、田中勘解由、鈴木民部、山本隼人と名乗ることは普通にあったと思いますが、「かみ(守)」を付けて名乗ることはどうだったのでしょうか? 公式には許されてなかった場合、○○守の私称がまかり通っていたとするならば、○○守で公文書に署名することは出来たのでしょうか。 大石内蔵助の内蔵助も正式な官名だと思うのですが、旗本では大身しか許されていないものを、陪臣にすぎない大名家の家臣が「大石内蔵」ではなく「大石内蔵助」と名乗ることは問題なかったのでしょうか。 ご意見を賜れれば幸甚です。
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ウィキペディアによりますと、大石内蔵助の正式名は・・・「大石内蔵助藤原良雄(おおいしくらのすけふじわらのよしたか)」であり、家名(名字)が大石、通称が律令官名で内蔵寮の次官を意味する内蔵助、氏が藤原、諱が良雄となる。・・・ということらしいです。 内蔵助は正式な官名ではないと思います。『官名風』な名前ということで、結局は大泥棒の石川五右衛門の『五右衛門』も同じだと思います。ですから問題はないと思います。↓ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%AE%98%E5%90%8D http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%AE%E5%90%8D_%28%E9%80%9A%E7%A7%B0%29 幕府は○○守の名乗りを許可制にして交通整理をしていたようです。↓ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%AE%B6%E5%AE%98%E4%BD%8D 加賀八家の前田土佐守家の場合は、陪臣であってもその由緒からして土佐守の名乗りは許されていたと思いますね。↓ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%9C%9F%E4%BD%90%E5%AE%88%E5%AE%B6 御三家付家老や加賀八家などは陪臣といえども大名並でしょう。 その下のクラスの大藩家老、例えば幕末の有名人で長州の福原越後や国司信濃はダメだったんだろうと思います。これは国名を名乗りとしているということになります。 近藤勇も捕まるときは「大久保大和」だったようです。 官名風の名前は庶民も付けていましたし、OKだったんでしょうね。 官名由来の名前というのはイッパイあって、名無しの「権兵衛」でも官名由来です。昔からこういう名前をつけるようになってきていましたので、『○○守』のようなそのものズバリ以外は、しようがないということでしょう。
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NO.1です。 つい先日、このカテゴリーで戦国時代の私称、僭称の質問がありました。参考になると思います。↓ http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2853095.htm >江戸時代、武家の守名乗りは大名・諸太夫の役職に就いた者・三千石以上の大身旗本に許されていたと思います。 ・・・大括りではそういうことだろうと思います。そしてその枠の外にいる家でも、由緒によって幕府が認めざるを得ない家もあったんじゃないかと思います。 まあ、結構細かく個別管理をしているような感じを受けますが。
お礼
私のPCからはURLが表示できないようです。すみません。 >その枠の外にいる家でも、由緒によって幕府が認めざるを得ない家も 問題はそこですよね。 熊本藩の八代松井家、仙台藩の白石片倉家などの陪臣城主あたりはどうだったのか気になります。 ありがとうございました!
お礼
内蔵助は雅楽助・縫殿助と同じように内蔵寮の次官を意味する六位相当の正式な官名ではないでしょうか。 毛利家の江戸留守居役だった福間彦右衛門は、彦右衛門という官名風の名前を名乗っていますが、これも正確には「彦右衛門尉」だったようで、こちらはまさに官名を真似たのだと思います。 鶴岡酒井家は歴代「左衛門尉」を官名として名乗っていますが、右衛門府の判官には左衛門大尉と左衛門小尉があったと思うのですが、上杉弾正大弼の大弼などと違って「大・小」をとっぱらってしまったのでしょうか・・・。難しいです。 加賀八家は年寄就任で従五位下に叙任されているので、おっしゃるように前田土佐守家の土佐守は正式な守名乗りだと思います。 福原氏は毛利家の一門八家(永代家老)に名を連ねる家禄1万石以上の重臣という点では加賀八家にもそう劣らない家柄ではありますが、福原越後は「官名風」になるのでしょうね。 同じ毛利家臣でも吉川氏は江戸時代を通じて従五位下に叙任されていないまでも守名乗りは許されていたっぽいです。 ありがとうございました!