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江戸時代。城郭の保守・管理。

城郭の維持には莫大な費用を要したと思います。 江戸時代後半、城郭、中でも天守や櫓の傷み具合はどんな様子でしたか。 天守の屋根を葺き替えたとか、壁を塗り替えたとかの記録はあるのでしょうか。 国替えされた大名は、自分の先祖が築城したわけではなく、またいつ“転勤”するのか分からない上、勝手元不如意でそれどころではなかったというのが実情ですか。 よろしくお願いします。

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  • jkpawapuro
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回答No.5

>後から考えると、でかすぎるモノを建てたということになりますね。 でかすぎるモノを建てたケースは多いですが、一概にそういう問題とは思いません。二つの意味で時代遅れだったということでしょう。 一つは太平の世に城は要らぬ もう一つは大坂冬の陣は大坂城は大砲で落ちてます、鉄砲から守ることを目的に作られた戦国の城(天主)はもはや大砲の時代には戦術上役に建ちません。 >壮大さ・雄大さを競った時代だったのですね。 江戸時代は城を持てる大名というのが幕府から限定されていて、城を持てることが格式だったのです、つまりどちらかというと威信を示すためのものです。 江戸時代の大名格式は複雑で、本拠を現す格式 国主(国持大名) - 準国主 - 城主 - 城主格 - 無城(陣屋) 江戸城内の席次(伺候席)をあらわす格式 大廊下席、大広間席、溜詰、帝鑑間席、柳間席、雁間詰、菊間広縁詰 朝廷より与えられる官位 正○位・従○位 の三つの格式でランク付けられていますが、城をもてるのは城主以上ですので大名間での一つの大きな権威です。 >小さめの城でよいとか、天守は不要だと見極めた大名はいなかったのだろうか、とふと思いました。 居ますよ、ぱっと思いついたところでは島津ですね。本丸のなかには館があるだけで、天主は初めから作ってません。ほかにももちろん居たと思います。 小さいといえば井伊直弼で有名な彦根藩の彦根城、城そのもの、つまり堀で囲まれた区画は壮大ですが、天主は山の上にチョコンと建っています、大藩の割には別に天主は大きくありません、中も簡素な作りです。松本城など細工たっぷり防御施設テンコモリですので、比較してみると質素です。地形的に平山城(丘の上)で遠くからもよく見えるという理由もあるのですが、堀はでかく天主は普通サイズ、実践的です。

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 よく分かりました。 大藩の城には豪壮な天守があるものだと思っていました。 現存していないのは、維新後破却されたか、空襲で焼け落ちたからだと思っていました。 そう言えば30年ほど前、鹿児島城を地元の人に案内してもらいましたが、御殿だけだと聞いた記憶がよみがえりました。 彦根城も行きましたが、櫓の一つを天守だと呼んでいるのだと思っていました。 両城共、天守を省いた分、費用対効果抜群で実利的と言えますね。 今の市民は、大きな天守があったらよいのに、と思っているかも痴れませんが‥。 ついでに、今まで訪れた城で、天守がなかった城をネットで調べてみました。 青葉城も天守は建築されなかったようです。 播磨国明石城は、譜代大名たる小笠原氏10万石の居城として、徳川秀忠より築城を命令されたとwikiにありますが、天守台を築いたものの天守は建築されていません。 もっと他にもありそうです。 お陰様でいろんなことが分かりました。 感謝申し上げます。

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  • nagata2017
  • ベストアンサー率33% (6877/20339)
回答No.6

徳川幕府の「一国一城令」により(1615年) 江戸時代以前は3000近くあった城が170までに減ります。 老朽化ではなく 意図的に壊されたんですね。 幕末になって 黒船と戦うための城があらたに建設された というのが五稜郭。 明治になって 城主がいなくなって陸軍の所管になって軍隊に使われるようになった。使わないものは1873年(明治6年)に布告された廃城令によって廃城処分。 ごく一部保存運動が起きて 保存と修繕をされたのが 彦根城天守 名古屋城 姫路城 江戸時代の城の修理という質問からははずれていきましたね。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 廃城令が出ても保存運動を起こして守った城もあったのですね。 興味深い話です。参考になりました。

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (816/3045)
回答No.4

江戸城の天守さえ明暦の大火で燃え落ちた後再建していません。 その他の城も大半が朽ち果てるままといった感じでしょう。 あと城の修繕は武家諸法度で厳格に管理されてます。 申請を出して許しがでないと直せません。 福島正則は50万石の広島藩から4万5000石に転封になってます。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >その他の城も大半が朽ち果てるままといった感じでしょう。 やはり、そうですか。 後から考えると、でかすぎるモノを建てたということになりますね。 壮大さ・雄大さを競った時代だったのですね。 小さめの城でよいとか、天守は不要だと見極めた大名はいなかったのだろうか、とふと思いました。

  • oska2
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回答No.3

>城郭の維持には莫大な費用を要したと思います。 その通りですね。 武家では「重農主義」ですから、米の価格で収入が変動しています。 藩主といえども、城郭の修理・修繕は大変だった様です。 >江戸時代後半、城郭、中でも天守や櫓の傷み具合はどんな様子でしたか。 先ず、天守閣の多くは「朽ちて落ちる状態」が多かった様です。 幕府崩壊後は、修理をしないで「燃料木材として解体」していますからね。 幕末に来日していた外国人の写真でも、多くの城は朽ちています。 白壁なんか、内部の竹組が見えています。 戦乱の世が終わっていますから、多くの藩では維持管理は行っていません。 下手に修理をしようとして年貢を上げると、島原藩の様に一揆が多発する恐れがありますよね。 各藩としても、島原藩の情報は反面教師として得ていました。 結果として、修理記録が残っていないの「天守閣復元・復興」計画が平成の世でも各地でとん挫しているのです。 修理記録が残っている城では、文化庁の許可を得て復元工事が行われています。 >天守の屋根を葺き替えたとか、壁を塗り替えたとかの記録はあるのでしょうか。 幕末に限定すれば・・・。 北海道の松前藩の天守閣改築ですかね。 ロシアなど諸外国からの防衛目的で、幕府から命じられています。 >国替えされた大名は、自分の先祖が築城したわけではなく、またいつ“転勤”するのか分からない 幕末に限ると、国替え・領地没収は気にしていなかった様です。 反対に、居城の維持費が莫大なので「領地を幕府に戻した」大名もいます。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 天守閣の多くは、朽ちて落ちる状態だったのですね。 なんとか持ちこたえて、今も雄姿を見せる姫路城を始めとする現存天守は、貴重というか、立派というか、素晴らしいですね。 >結果として、修理記録が残っていないの「天守閣復元・復興」計画が平成の世でも各地でとん挫しているのです。 >修理記録が残っている城では、文化庁の許可を得て復元工事が行われています。 なるほど、そういうことですか!! 参考になりました。

noname#252332
noname#252332
回答No.2

 山形城などは元は最上氏57万石の城で江戸城とどっちが大きいかというほどでしたが、幕末に水野氏5万石の城になった頃には営繕の金もなくどこもかしこも荒れ放題でした。「本丸は更地で、御殿も二の丸に置かれ、三の丸の西半分は田畑となっていた。」とwikipediaに書いてあります。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 wikipedia読みました。 「たびたび藩主の変更があり、改修もなされたが、山形藩を治める藩主の石高も減少したため、江戸中期以降は城の維持が困難になる。幕末には本丸は更地‥」とあります。 確かにひどい状態ですね。 山形城へは行ったことがありますが、かっては荒れ放題だったとは、思いもよりませんでした。

  • NOMED
  • ベストアンサー率30% (522/1725)
回答No.1

少し有名な話では、江戸城は陶器の瓦ではなく、木製の瓦でした 表面を鉛などでメッキして、重量を抑えていたと言われています なので、遠くから見えると、天守閣の屋根が銀色に輝いていたそうです ※時代劇などでCGで再現された映像を観ると・・・調べてろよって思うことがあります もちろん、そのせいで燃え落ちたのですが、修理は簡単だったと思います

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 江戸城の瓦は木製ですか!!!!! まったく知りませんでした。 表面を銅板で覆っていたのですね。 質問した甲斐がありました。

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