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大名の地位
生駒氏は讃岐十七万二千石を治める大大名でしたが、生駒騒動で羽州矢島一万石の小大名になってしまいました。 (1)生駒高清は2千石を弟に分知した為、8千石の旗本(後に交代寄合)になってしまい、大名の地位から転落しています。 生駒家以外にも、他にも大名が分知によって1万石を割ってしまい旗本に転落する例があったようです。 弟に分知してやりたいという気持ちは分からなくはないですが、それによって一万石を割り、大名の地位自体を失ってしまう道を選択したのでしょうか?ご意見をお聞かせ頂ければ幸いです。 (2)弟へ分知によって8千石の旗本となった生駒家では、仁左衛門騒動(延宝騒動)が起こっています。 藩主が江戸定府なのを良いことに、国許の家臣が藩主の命を無視して過酷な年貢を課していたようです。 他の家でも、このように大名の命令や意向を堂々と無視して、家臣が専横を極めたケースがありましたら教えて下さい。
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柳生家の場合は三厳が若死にし、宗冬があとを継いだためすぐに大名に復帰しましたが、柳生家もそうですね。 幕府の大名統制も一因となっているのではないでしょうか。 生駒氏の場合、高俊の1万石は元々堪忍料として与えられていたわけであり、ある程度幕府の意向も尊重して相続しやすい状況を作る必要があったと思われます。 また、柳生家の場合を考えますと、宗矩が一代で大名になったわけであり、本知とはみなされていなかった可能性があります。こちらも幕府の以降を考えて相続しやすいように分知した可能性があるように感じます。 大名家の内部で見ても、江戸時代初期に禄高を増やした家臣は分知により細かい家臣が複数できる情況が見えます。 森鴎外の文学で有名な安倍騒動ではそのような家臣の藩主に対する抵抗が書かれています。
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- mapato
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No.3です。 すみません、先程書いたものは結構既出のご意見とカブってしまっていましたね。「おっ」と思った勢いで軽率に書き込んでしまいました。申し訳ありません。 (2)に該当するかわかりませんが、江戸中期の岡崎藩主水野忠辰が倹約によって財政を立て直した勢いで改革を推し進め門閥家臣を隠居させようとしたところ、重臣達が正月に一斉に登城拒否する事件に発展するという事件がありました。上意討ちを命じても誰も言うことをきかないので、忠辰は止む無く屈し一転して放蕩生活を送り出したとか。更に後日忠辰を江戸藩邸で拘束し座敷牢に幽閉してしまったとのことです。 上杉鷹山も危うく同じような目に遭うところでしたが、他にも多数例がある「押し込め」などを見るにつけ「殿様」というものを考えさせられます。 また見当違いの話になってしまったでしょうか。度々すみません。
お礼
いえいえ、多くの方にご回答頂いた方が勉強になります。 ありがとうございます。 上意討ちを命じても誰もいう事を聞かないというのは悲しいですね。 生まれながらの殿様稼業も大変ですね… 上杉鷹山もかなり重臣層に反抗されていたようですね。ただでさえ日向の小藩からの養子ということで侮られていたのでしょうか。 江戸中期以降の殿様というのは「君臨すれども統治せず」でないとまずかったのでしょうね。いつの時代でも、既得権益の保持に費やされる執念というか負のパワーというのはすごいものがありますね… 大変おもしろかったです。 これからもいろいろと御教示頂ければ嬉しいです。 ありがとうございました!
- mapato
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こんにちは。 私も以前「何故わざわざ大名の地位を捨てるのか」と疑問に思ったことがありますが、生駒家の場合は先代高俊の遺志を尊重してのことであったようです。 勿論そうすることによるメリットもあったかもしれませんが、まだ改易がさかんに行われていた江戸初期くらいまでは特に「大名の地位に拘る」ことより「家の存続」を何より優先させるという傾向があったように感じます。家を潰されることへの恐怖感のほうが強かったのではないでしょうか。 特に大封を一気に減らされたりした家にはその思いが強かったと思います。上杉家なども十五万石に減らされた時に焦って米沢新田藩を作ったりしてますよね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 お礼は#4でまとめてさせて頂きました。
- buchi-dog
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武士というのは、知行に見合った軍役を務めるのが原則です。石田三成などは「軍役を真面目に勤め、頂いた禄を全て使い切るのが忠義の武士」とまで言っています。 1万石の大名といえども、1万石相当の人員を抱え、国元には陣屋と現地スタッフを置き、江戸屋敷を建築・維持して参勤交代をしなければなりません。 一方、8千石の旗本としましょう。参勤交代はなくなり常に江戸に居住でき、知行地を持つとしても、国元の体制はごく簡単なもので済みます。旗本といえども軍役はあるはずですが、大名よりはコストが削減できたでしょう。(旗本の軍役については、識者の方のフォローをお願いします) さまざまな要因で「数千石の大身旗本ほど良い身分はない」と言われる状況であったと聞いています。
お礼
8千石、それも元大名の大身旗本となると家老など譜代の家臣もいて格式にもうるさかったようですが、参勤交代がない分、コストは抑えられたのかもしれないですね。 あるとすれば、番方などきつい役職に就いたり、駿府加番などの義務を務めなければならない点が外様の小大名よりは嫌な点でしょうか… 軍役は、太平の世が続くと、まともに揃えてない旗本は多かったんじゃないでしょうか。必要な時だけ臨時雇いしたんじゃないかと思います。 ありがとうございました!
- 6dou_rinne
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江戸時代中期以降はともかく、前期には嫡子がいないければ取り潰されるのがふつうでしたので、1家だけではなく分知して家系の存続をはかるという考え方もありました。 大大名なら支藩とすることも可能ですが、小大名であれば大名の地位よりも家系の存続を重視したのかもわかりません。 大名の命令や意向を無視するというのはしばしばみうけられることです。江戸時代初期の大名はリーダーシップがとれないとつとまりませんでしたが、平和な時代になると藩主は一代、家は末代ということで、家臣の意向に沿わない藩主が押し込められたり、隠居されられたりする例はしばしばありました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 旗本に転落しても無嗣改易に備えての安全装置を作る方が重要だったということでしょうか。 確かに、末期養子が許されるまでは青年藩主が世継ぎを定めていなかったばかりに改易となるケースが多かったので、そうなるくらいなら8千石の大身旗本となる道の方が良いと考えたのかもしれませんね。 大名の身になってみれば、一年ごとに出羽の田舎に参勤交代するよりは江戸に定住した方が遥かに楽、というのもあったのかもしれません。 家の存在について、毛利・鍋島の支藩のような形や○○新田藩のように蔵米支給、あるいは高直しで分家(旗本)を創設という形はなかなかとれなかったのでしょうか…
お礼
幕府の大名統制という側面があったのですね。 大名の領地といっても、将軍家から預け置かれたものでしょうから幕府の意向は大きく反映されていたのでしょうね。 そういえば池田光政のように「幼少につき治めがたい」といった理由で十万石も減らされた上、鳥取に転封されている大名もいますね。幼少につき転封というのは分かりますが、十万石も減封というのは理不尽か感じがしますが、これも幕府による大名統制の一環ということなのでしょうね… ありがとうございました!