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御三家の附家老について

よく御三家の附家老は、江戸城に伺候席も無く、本来大名筋の家なのに陪臣の身になった、と言われます。 ある意味、柳間に席があった越前の本多家の方が恵まれていたとも聞きます。 でも、水野家や中山家などには、大名の姫が嫁いでいますし、娘が大名の室になっていたりするようです。 朝散太夫にも叙任されていますし、そういう意味では、他の大名には陪臣ながら大名と同格の家だと認識されていたのでしょうか? ただ、戒名の格式?などは大名より劣っていて、交代寄合の旗本と同格の格式だと聞きました。 附家老についてご意見を頂戴できれば幸いです。

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  • tanuki4u
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回答No.2

徳川幕府体制はよく、「庄屋仕立」といわれます。必要に応じて、必要な人間を宛がっていった。 御三家成立に関しても、家康が天下様になった段階で、膝下にいた三人の幼児が独立した大名家になった。 しかし、幼児なので、しっかりとした「爺」が必要で、その爺がいつのまにか、徳川本家に戻らずに(戻れずに)付家老となった。 というのが実態です。 いつのまにか陪臣になったものだから、江戸時代を通じて、直参になる運動をしており、明治になって立藩していますね。

noname#30350
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 渡辺半蔵家や長坂血槍九郎など、その智勇を買われて与力として附属したのに、いつの間にか一介の陪臣になってしまった家に比すと、附家老五家はまだ幸せな方なのかもしれませんね…

その他の回答 (1)

  • LINERS
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回答No.1

私見ですが 「本来大名筋の家なのに陪臣の身になった。」と言われても主従関係を優先に考える人物を附家老というポジションにおいた、のでは無いでしょうか? 自虐的な性格の持ち主が適役だったのかな、と。

noname#30350
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 成瀬隼人正は附家老を固辞する家臣が多いので、家康の側近だった自分が駿府年寄兼務の形で尾張義直の附家老となったようですが、二代・三代と時代が移るにつれて、完全に陪臣となったのでしょうね…

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