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宗教研究の意義とは?

「信じるのではなく、知る道がある」 などと私に仏教を教えてくれた先生がいます。 まあ、ネットでひたすら、宗教の批判をしまくっているので だからどうした、となるかもしれませんが。 しかしなあ。 結局、不可知論者になるのがオチなんですかねえ。 どう思いますかね。 たとえば、 ぎゃてーぎゃてーぱらぎゃてー、と 疑問を持たずに言っていればいいのであって 何が書いてあるだのないだのは、どうでもいいんですかねえ。 疑問など持たないほうがいいんですかね。

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noname#182988
noname#182988
回答No.1

我々を含め、近代以降の人たちは、 ただ念仏を、疑問を持つことなくいうことができなくなったことに、問題があるのだとおもいます。 もう、世俗化してしまったので、疑問を持たないようにしようとおもっても、疑問が出てしまうので、昔のようなただ素朴に神や仏を信じていれば救われた時代は終わったのだと思います。 何かしら、世界観なり、人生観なり、自分で知ることができないようなものにすがらないとやっていけないとは思うのですが、 今は、代わりに、無神論や、ナチズム、スピリチュアルなど、ユートピア、など、思想や信仰宗教がそういう、人の物語を欲する欲求の受け皿になっているだと思っています。 敬虔なプロテスタントであり、作家の佐藤優さんによれば、宗教は、その時々の哲学をまとって、 その教理が説明されるのだそうです。 今は、ウィトゲンシュタインのように、とことん論理的に詰めて、限界までいかなければ、 絶対的な何かを信じることはできないのではないでしょうか。

noname#195588
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回答No.7

 こんにちは。  ★ 宗教研究の意義とは?  ☆ それは特定の宗教について理解したり信奉したりするのとは違って 宗教一般についてそれが何であるかが分かるようになること これです。  いろんな主題や要素があるでしょうが いま宗教とは何かについて 考えてみます。  1. 《宗教》とは 同じオシエを――解釈が違って来るはずですが それでもともかく同じ一つのオシエを――複数の人が基本的にただしく大切なこととして共有しその内容に従おうとする運動です。  1-1. 《信仰》は あくまで個人にとっての《〔広義の〕考える》という行為以外の心的現象です。  1-2. 心的現象と言って 行為とは言わないのかと言えば――信仰を保持するのは 意志としての経験行為であるのですが それでも現象だと言うのは―― 《考えて意志すること(広義のカンガエルあるいは ハカラヒ)》によってその信仰が成るわけではないからです。  1-3. 言いかえると 信仰――それは 《非思考の庭》として成るはずですが――として個人つまりワタシが信じるのは カンガエルではないからには ナゾだからです。カンガエルによって認識しうる対象ではなく 非対象を信じる・つまり わが心にそのナゾを受け容れるということだからです。受け容れるのは ワタシの経験的な意志行為です。  1-4. 宗教は この個人の生きる動態である信仰から何らかのヒラメキを得たとき そのヒラメキの内容を人間の言葉にしてカンガエルの対象としつつ 信仰を共同化しようとすることにおいて出来上がります。  1-5. 信仰において ワタシは非対象――つまり一般に神のことですが――と向き合い 非思考としてのカカワリを持つ。そこから いつしかヒラメキを得る。《信じる――その神の名を心に受け容れる――ことにおいて ワタシには その神のチカラが 泉から水の湧くごとく はたらくことがある》と。  1-6. 宗教はわざわざワタシという個人の内面から外に出てこの信仰において得られたヒラメキを 言葉に表わし オシエとし ほかの人間の心にもうったえかけつつ 人びとの心をたばね寄せる動きを 多かれ少なかれ持ちます。  1-7. 宗教は ワタシの内から外に出かけて ヒラメキ内容をオシエとし オシエが言葉で表わされて持たれるかぎりけっきょくカンガエルという要因をも伴ない 他人をもそのオシエとそれの信奉の動きに巻き込む動きです。  1-8. カンガエル宗教が 信じることを人びとにうったえ持ちかけます。元はヒラメキのみなもとであった信じるに発すると言いたいのでしょうが 内面の外化(=疎外= ヒラメキの譲渡)を起こしたところで それは マ(間)をたがえた。こう捉えられます。    2. 不可知論とは何か?  2-1. 次の図式で捉えます。     ○ ものごとを知るということについて     (あ) 可知(知り得ること)         ・既知         ・未知(やがて可知になりうる)     (い) 不可知(知り得ないこと)         ・知り得なくても その言わば解答が         この経験世界の中に存在しているもの     (う) 非知(すなわち 知り得るとも知り得ないとも          人間の能力によっては知り得ないこと)  2-2. とうぜんのごとく 個人のワタシの信仰は (う)の非知――あるいは非経験――を相手としています。  2-3. 宗教は? むろん(あ)および(い)としての経験知です。  2-4. 宗教は 《信じる》を勧めていますから おそらく(う)の非知としての信仰をどこかでは前提としているのかも知れません。ですが 内面なるヒラメキの外化=疎外をおこなった時点で 信仰からは離れました。むしろきびしく言えば 信仰が自殺行為を成した結果 外面教義としての宗教が出来たとも言えると考えます。   ・・・・・  このあたりまで考えました。という回答です。    なお 量子論宗教には ご注意を! その認識論をオシエとしてしまったかまだかというギリギリの段階ではないでしょうか?  

noname#195588
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回答No.6

人の哀しいのは、自分の信じているのは真実で、他人の信じている のは信仰(イワシの頭)だと、思い込む事です。 それ自体が、宗教的特徴なのに。 一般に信じられている、「自分の意識の外に独立した外的存在があり、 そこからの作用で二次的に意識が発生している」という、いわゆる 「素朴唯物論」自体が、その詳細な分析において破綻します。 量子論的世界像において有限な存在性(=環境)は、認識される事に よって派生しているのです。 全ての存在は量子的な不確定性(確率波動)に基づいており、無限 に詰め込むと存在確率の山が平らになって、無と等しくなります。 この「絶対無=不確定性無限」において、その無限の闇に認識体の 仮定断面(認識可能性)の運動(プランク定数の収束の時系列化= 物体収縮=宇宙膨張)を想定すれば相対的に無の風は光になり、 認識体はその光の向うに、自我仮説の補完としての時空仮説= 宇宙を認識するのです。 (自我仮説(時間的流れ=記憶=過去=超光速)と時空仮説(空間的 広がり=予測=未来=光速下)の相補分化) その結果として得られる、相補的な不確定性(不確定性原理)を 伴う物理を、本質的に確定(=無限不確定への発散)せずに、 いい加減に捉える(経験的な階層現象表面的定性化)事で、 (確率的な)有限な性質を兼ね備えた存在性は可能になるのです。 つまり人は、分かりにくい真実より、分かりやすい虚偽を求める= 自分の信じるものは事実であり、宗教だとは思わないものです。 宗教研究は、宗教の信心とは別であり、人の(己の?)弱さを知る 道であり得ます。

noname#195588
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回答No.5

私は宗教家ではなく、学生時代に考古学をかじった会社員ですが とても素晴らしい先生と出会いましたね。『無知の知』に通ずる言葉ですよ。 知らない事を知る喜びは例えようのない喜びですし、人間は一生学び続ける生き物なのです。 最近ですと、東日本大震災で多くの悲しみとともに多くの事を学びました。 私の恩師は「疑問を持たずに平平凡凡と生を貪るのは人とは言わず虫ケラと言い、疑問を持ち何かにつけて探究心を持ち続け、今居る場所から這い上がろうとするのが人間と言う」との言葉を頂きました。 貴氏も宗教だけでは無く、周りの多くの事に疑問を持ち探究して下さい。 不可知論者になるなんて勿体無いですよ。せっかく24兆分の1の確率でこの世に生を受けたのですから。

noname#195588
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  • Tefu_Tefu
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回答No.4

こんにちは。 お釈迦様は マントラは否定されてたそうですね。たぶん 原因と結果を考えることが 人間が物事に執着することから解放するための方法ということなんでしょう。 実際 人はどんなに悩んでいても 何かの拍子に悩みが解消されることがあると思います。原因が分かり 気分がすっきりした時ではないのでしょうか? 不可知論者にはならないでしょう。すでに 楽しみを得る方法(天国)を何となく体験したのですから。(笑) マントラは音楽と同じだと私は考えます。心を穏やかにさせてくれるものであり。詩の内容が分かれば なお楽しい。 信じるとは 文盲で何も理解できない人でも 人に希望を与えるものでしょう。ただ お釈迦様は 信じることを優先して考えていなかった気がします。

noname#195588
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  • kanto-i
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回答No.3

知るための研究は、あると思います。 疑うでもなく信じるでもなく、確かめることが必要です。 言葉は受け取り方でいかようにも変わってしまう。 だからこそ、実践を通して検証する必要がある。 何人か師と仰ぐ人がいますが、ある師が「私が言ってることも疑え」と言われます。 それは、信じる信じないではなく自分自身で確かめろと言ってるのだと思っています。 内容を知らずに盲目的に信じれば、人はいつかどこかで墓穴を掘ります。 よく知ることで、検証して修正して検証しての繰り返しで真実を理解していく。 それを常に忘れずに続けるために、お経などは毎日あげる習慣としての実践だと思います。 内容を知らずして、ただ唱えるだけでは手段と目的がすり替えられています。 唱えることを良しとした社会は、全体の教育レベルの低さから発生してるのは 歴史的事実として浮かび上がることです。 そんな歴史的背景も含め、様々な要素を研究してみると宗教学も面白いと思います。 本当に示したかったことは何なのか。 個人的人生を見直す意義、これから先何を選ぶかを決める要素としての意義。 生きていく上で、常に使い続けられる根底があるので、生きているからには 心底からの理解に意義があると思います。 でもそれはそれで、その人の生き方を知る選択。 どの生き方・やり方を選んでも、違いしかない。 間違いではないので、宗教を選ばなくてもいいと思います。 何事も否定から入ると、理解や意義はまったく見えてこないので 勿体ないことではあります。 少なくとも、何も生み出さない否定に時間を割いているのは勿体ないことだと思います。

noname#195588
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回答No.2

日本人の平均レベルにおける宗教観はさておき、本来の宗教は一定のベクトルを 持っています。言い換えれば価値観と言ってもいいと思います。科学で全て 説明できるかというと否定せざるを得ないので、その部分は信ずるしかないのでしょう。 ただ、理屈で分かっていることでも、現実の生活の中で臨床例のように証明できる こともありますので、俺自身はそれを全て否定するつもりはありません。 したがって、宗教の価値判断は、まず信仰してそのベクトルでやってみて判断する しかないのだと思います。ただ、小学生にでもツッコミが入れられる教義に関しては 眼中に入れる必要が無いでしょう。研究のための研究にならない事を祈ります。 釈迦も「毒矢の譬え」を用いて、まずはやってみろと言っています。 少なくとも原因と結果、所謂因果関係をしっかりと明記した上で、信頼できる人間の 臨床例を見てみるしかないのでしょう。そういう意味では不可知論と言えるかも。 ただ、中世の西洋哲学は一神教に基づく思考を重ねていますので、それが全て正しい とは言えない。元々、一神教の教義そのものが論じるに足りぬものという印象すら ありますから。 質問者は哲学には造詣があるのに、信仰となると一般人未満の印象があります。 もちろん、お題目に関して言えば、言葉の意味と信仰の対象は非常に重要と言えます。 「帰命」という言葉を調べれば、すぐにご理解いただけるでしょう。また、それだけで 救われるかというとそれも違いますね。目の前に大災害が迫っていれば逃げないと 助かりません。それを無視してお題目だけ唱えるのは、因果関係を、そして現実を 無視した愚行と言わざるを得ません。また、それは本来の信仰者の姿とは言えません。 質問者の望む回答かどうかは分かりませんが、とりあえず感じた事を記載しました。 一つだけ言えるのは、日本人が思い描く宗教というのは、本来の意味での宗教とは かけ離れていると常に感じさせられます。

noname#195588
質問者

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