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縄文時代、弥生時代の人びと
この◯×と、なぜそうなのか理由のわかる方、 回答して頂きたいです。 1、縄文時代の人びとは、小規模な竪穴住居を営んで居住していたが、青森県三内丸山遺跡では、大規模な集合住居と思われる竪穴住居も見つかっている。 2、弥生時代の人びとは、たてあなの他に高床倉庫も営んで集落を形成しており、佐賀県吉野ヶ里遺跡では、集落の周囲に濠がめぐらされている。
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1も2も○です。 1.竪穴住居は簡単に作れます。以前の旧石器時代は獲物を もとめてうろうろと移住していたのにくらべて短期間の、 定住化を始めているのだと思います。1つの場所を本拠地に 狩り・漁労・採集をして、また次の場所へだと思います。 少し前まで縄文時代は飢えて悲惨な生活と思われていたの ですがそれは誤解だと言う証拠が内丸山遺跡ですね。かなりの 大規模な集団生活で初歩的な農業も始まっていました。 なぜ、この遺跡だけ?2通り考えられます。 (1) 日本列島の低地は沖積平野と言って河が運んだ土砂が積もっ てできている。だから地中深く埋もれている可能性あり。 (2) 青森県は後の時代にも中国とのつながりで大規模な港町が 発達した歴史がある。可能性として大陸との交流があり、 刺激をうけた人々が大規模村落(小国家)を形成した。 (人々の生活が生きるのに困難であれば村落はできない) ※ どちらも前提としては日本列島の食糧事情が大変に恵まれて いることがある。広葉樹林帯が広がり、ドングリなどの実を 得るのに困らない。 2.弥生時代の人々はすでに身分差、貧富差ができている。 身分が高く財産持ちの有力者はそれなりの立派な住居に、 普通の人々は昔ながらの簡素な竪穴住居にくらした。なお この住居は平安時代初めにも見られる。 高床倉庫は元々は村落の共同財産である米を貯蔵。だから とりわけしっかり作られた(地面から離して湿気とネズミを防ぐ) この共同財産を有力者が独占し支配者となる。 吉野ヶ里遺跡が発見されたときは邪馬台国女王卑弥呼の宮殿 かと思われたが、後、大阪でも巨大な建物が発見されて、今でも 邪馬台国は北部九州か、近畿かどっちもどっち。ただどう異なって くるかというともし邪馬台国の本拠が北部九州だとすると、 邪馬台国の勢力は大きくない。近畿中央部が本拠地なら勢力は大。 「集落の周囲に濠」はこの時代、近隣の小国家(村落)同士の争い が続くので敵の侵入を防ぐには当然のこと。なお争いの理由は、 第一に米をつくる土地の奪い合い、第二に奴隷の獲得のため。 ごめんなさい。もし中学生の方なら少し難しいかも。
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- SPS700
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もう既に回答がありますので、これは寝言です。 これは遺跡の性格というか、どんな物が残るかと言うことです。例えば地上に木の枝や草の葉で住居を造り、夏はそこで過ごし、冬は泥を練ったり、土を掘ったりして、保温状態の良いところに住む人々が居たとします。 そうすると、何百年何千年の間には、地上の住居跡は無くなるが、地下の住居は残る。したがって、今残っている物が昔の居住形態の全容であるとは言えないということでしょう。 昔の気象情況などを考え合わせて、遺跡の解釈をしないと、昔はみんな縦穴に住んでいたが、弥生時代になって高床式の建造物が加わった、という図式になってしまいます。
- あずき なな(@azuki-7)
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1も2も○ なぜって? そこなクニがあったからでしょ