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沈黙交易について
- 日本でも、明治時代の直前まで行われていた沈黙交易について紹介します。山梨県の塩山側と丹波山村や小菅村の住人が、顔を合わせずに米や酒、絹といった物と、こんにゃくや木椀などを交換していました。
- 沈黙交易の背景や理由は明確には分かっていませんが、当時の社会情勢や交易の必要性が関係していると考えられます。
- 『日本書紀』によると、斉明天皇6年(660年)3月の条において、阿倍比羅夫が粛慎との戦いに先立ち行った沈黙交易が記録されていますが、具体的な内容は不明です。
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ちょっと検索して見つけた資料を紹介します。 1. 大菩薩峠の沈黙交易について。 他の事例から推測しただけですが、生活の知恵だったのではないでしょうか。 峠を挟んだ二つの村の住人が、重い荷物を担いで峠越えをするのは、疲れも時間も倍増しますから。 お互いに交換する日を決めておいたのでしょう。 古文書があればよいのですが、ちょっと検索しましたが、見つかりませんでした。 言葉には言霊があると信じられていた時代には、異民族との交易では、言葉を交わすことを極力避けたでしょうが・・。 他の事例:アラ・ハバキの「道の奥」廻り 「国見峠を越えた、旅する芸人」 https://42777848.at.webry.info/201902/article_7.html 江戸の浄瑠璃語り富本繁太夫が1828(文政11)年6月12日から1831(天保2)年2月末日までの奥羽・越後を紀行した際の日記に、国見峠の例があります。 2. 『日本書紀』の斉明天皇6年について。 この資料に詳しい説明があります。 『物々交換社会はなかった!?』経済学が無視する最新貨幣史の実情 2 https://note.com/money_of_japan/n/nae6a91a62124 一部抜粋します。 「将軍・阿倍比羅夫は粛慎国という謎の国の武装船団と出会い戦いました。彼は、開戦の前日に武器や高級品であった染布を浜辺に積んで粛慎人に示し、一度は軍を引き上げました。粛慎人はそのうちの着物を自分たちの着物と交換して船に戻ったのですが、何らかの理由で再び浜辺に戻り一度は持ち帰った服を返却したため戦となったようです。 平和的に沈黙交易を申し出た阿倍に対して粛慎人は、意図したかしていないかは不明ですが、お前たちとは平和的に付き合えないと態度で示してしまったのです。自らの過失に気付いた粛慎人はすぐに阿部に和平を申し出たようですが、阿部は軍を引く事無く粛慎国の船団を滅ぼしたそうです。」 さらに詳しくは、 「アイヌ民族と北方の交易」という題で講演された、 中村和之氏(函館工業高等専門学校教授)の講演記録があります。 https://www.ff-ainu.or.jp/about/files/sem1714.pdf
お礼
ありがとうございました。 ご紹介いただいた資料を読んで、自分が今、どんな本を読んでいるのか……あらためて少し理解できたような気がします。笑 「生活の知恵」……「人間の知恵」、「文明の知恵」、「生きていくための知恵」…………考えてみると、気が遠くなるほど奥の深い言葉ですね。この「生活の知恵」という視点、諸相を考えるうえで、大切にしたいと思います。 それにしても「此の荷物など盗人決してなし」、「此ノ間数日ヲ経ルト雖モ、盗ミ去ル者ナシ」というのは……人間の「性善説」を信じたくなります。 「アイヌ民族と北方の交易」……大変興味深く読ませていただきました。 いろいろ調べていただきありがとうございました。