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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:真田幸村の子孫)

真田幸村の子孫とは?

このQ&Aのポイント
  • 真田幸村には男二人、女七人の子供がいたとされていますが、実際には男4人、女7人の計11人であり、正室の子供は5人でした。
  • 大八(真田守信)は伊達家重臣であり、後に仙台真田家の初代となりました。
  • 蒲生眞紗雄の書籍「日本史有名人の子孫たち」には真田幸村の子供たちについての事実誤認がある可能性があります。

質問者が選んだベストアンサー

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  • fumkum
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回答No.5

こんにちは 仙台真田氏が真田幸村(信繁)の子孫だとする説は、明治になって仙台真田氏の子孫が、『仙台真田系譜』とい本を書いたことにより知られるようになります。ただ、真田幸村の子孫であるかどうかについては諸説があって、必ずしも厳然たる事実、確定した説ではないようです。ただ、東京堂出版から刊行されている『戦国大名家辞典』は、子孫説をとっています。 ところで、昭和期の姓氏・家系研究の第一人者である太田亮の『姓氏家系大辞典』には、真田幸村の子孫について、出羽の羽黒山下旬家老で在庁とも呼ばれる出羽真田氏に、幸村の庶子である源次郎宥清が家を継いだとする説を載せています。現在新たに出版されている同類の書籍にも同様の記述が見られます。この説のもとは、『風土略記』という本だとされていますが、一般には否定されており、出羽真田氏の家系を飾るために称えられた説とされています。 德川幕府が編修した系譜集に、『寛政重修諸家譜』という書物があります。大名、旗本の諸家の家譜を提出させ、編集、刊行したものです。この中に出羽亀田藩の大名である岩城氏の系譜の中に、第3代藩主岩城重隆(佐竹系)について、「母幸村の女(むすめ)」と明記されています。完成が文化9(1812)年ですので、江戸も後期に属し、大坂の役も大昔になったこともありますし、岩城氏の血脈が、佐竹系から伊達系に変化したこともあり、德川幕府の編修した系譜集に堂々と「母幸村の女(むすめ)」と届けることができたのだろうと思います。 出羽の羽黒山下旬家老で在庁とも呼ばれる出羽真田氏については幸村の子孫であることが疑わしい例で、岩城氏については幸村の子孫であることがほぼ確定的な例ですが、幸村のような有名人となると、真偽不明の説が多いことも確かではあります。また、諸説があることも多いので、事実とか確定的とか限定せずに、いろいろと読まれてみられると良いのではないでしょうか。 さて、分限帳ですが、これは現在の職員録に近いもので、名、禄高、役職・地位、家格、経歴などが記載される例(大名家等により違いがあります)が多いのですが、系譜集とは違い、家系、先祖などについての記述が無いのが一般的で、例えば「真田市兵衛幸信」とあっても、これが幸村の子孫であるのかどうかは分限帳を見ても一般的に判別がつきません。系譜集については編纂していない藩や、残っていない藩も多く、大名、旗本のように『寛政重修諸家譜』などの家譜集が現存し、刊行されている例は少なく、そのため、各家に残る家譜を調査することになりますが、真偽は判然としないことも多くあります。江戸時代でも「系図買い」という言葉があるくらいです。 幸村は徳川氏・幕府に敵対した武将ですから、その男系子孫は追捕の対象でしょうから、幸村の子孫であることを隠して生活することを余儀なくされると考えるのが普通です。豊供秀頼の男子である国松も殺害されています。その点、女子はいくぶん緩やかで、秀頼の娘も鎌倉東慶寺の住職として一生を終わります。だだし、子孫を残さないように監視はされますが。 以上、参考まで。

statecollege
質問者

お礼

くわしい情報をありがとうございます。こういう情報を待っていたのです。そうですか、仙台真田家が幸村の子孫だということは明治になって仙台真田家の子孫が本を書いたことによって知られるようになったのですか!おそらく仙台真田家には初代の片倉守信が幸村の次男の大八であるということが代々伝えられていたのでしょうね。名前を見ても、当主の名前には信繁の信が7代まではかならず付いているし、8代、9代と幸村の幸が付けられているのも偶然ではないように見えます。それにしても、新人物文庫の筆者(蒲生真紗雄氏)がそういう情報を知らないで(あるいは無視して)書いているとしか思えないのは解せないですね。私も訪問したことのある上田城内にある真田記念館では、仙台真田家は幸村の子孫であることを認めているのですよ。この本「日本史有名人の子孫たち」の出版は2004年2月の出版、文庫本の第1刷は2010年1月と、決して古くはないのです。

その他の回答 (4)

  • oska
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回答No.4

>この内容は私が知っている事実とはあまりに異なるので驚いています。 歴史は、「勝者・為政者の都合の良い様に記録」されています。 ですから、何が正解で何が間違いなのかは確定出来ません。 真田大助も、私が住んでいる地元の伝承では・・・。 「大坂の陣で敗れた幸村・大助父子と秀頼が、逃れて着た。傷ついた幸村は、ここ豪農の館で力尽いた。幸村と別れた大助と秀頼は、薩摩の島津家を目指して西に向かった」 となっています。^^; この豪農家には、今も六文銭の旗指物が残っています。 また、鹿児島・宮崎にも秀頼伝承が多く残っています。 日出藩木下家は、明治維新後の爵位で「豊臣姓」を許されています。 大坂落城後、大坂で流れた逸話。 「花のようなる秀頼さまを、鬼のようなる真田がつれて、退きも退いたり加護島(鹿児島)へ」 >真田幸村のウィキペディアには、次のように書いてあります。 ウィキペディアは、全ての情報が正しいとは限りません。 誤った情報も、多々あります。 学者・評論家と同じで、記載内容・情報の内容については誰も責任を負わないのです。 ですから、「こんな意見もある」と理解して下さい。 >新人物文庫の筆者(蒲生眞紗雄)はこれらの事実を知らないで書いているのでしょうか たぶん、色々な情報から「自分の調査成果」を元に書いたのでしようね。 日本は「どこかの国と異なり、政府が歴史を決める」事はしません。 自由に判断・発表する事が可能です。 >大八=守信が仙台真田家の初代となったことは厳然たる事実のように思えるのですが。。。 江戸初期頃までは、家系図の偽造・売買が多かった時代ですからね。 家康でさえ、家系図を捏造していますよね。 ただ、当時は「戸籍・出生」がはっきりしていません。 色んな情報を纏めて矛盾がなければ、それは真実に近くなります。 頑張って、色々調べる事です。 日本は「政府が都合の良い様に決めた、正しい歴史」を強要・強制しませんから・・・。

statecollege
質問者

お礼

ありがとうございます。幸村が秀頼を連れて鹿児島へ落延びたという伝説は私も知っています。ウィキペディアにもありますね!でも、源義経の、蝦夷からモンゴルへ落ち延びて、ジンギスカンになったという伝説と同じで、単なる民衆の願望でしょう! 「たとえば」と書いたように、ウィキペディアに書いてあることを絶対視しているわけではありません。ただ、ほかの回答者への方へのコメントで書いたように、長野県の上田城にある真田記念館・展示等でも、仙台真田の一族は幸村の直系の家系とされており、実際、毎年行われる上田の真田まつりには現在の仙台真田の当主が参加していると聞けば、真田幸村から続いてる家系でないかもしれないなどと疑ったことはありませんでした。

  • ithi
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回答No.3

statecollegeさん、こんばんは。 ithiです。Wikipediaが正確だったということですが、私はそんなことを言っているのではありません。小説の中には全然事実と異なる内容のものがあるということです。 だから、分限帳という江戸時代の文献を使用して仙台真田氏の実態がどうであるか調べられるということを申し上げたのです。wikiの仙台真田氏の内容も多少はその分限帳にある項目がありました。だから、wikiの内容のもととなった分限帳を調べてみたらいかがでしょうとおすすめしただけです。もしかしたら、もっと詳細な事実が出てくるかもしれません。

statecollege
質問者

お礼

アドバイスには感謝します。一次資料にあたってみろ、ということですよね。しかし、私は真田幸村の研究者でもなく、真田幸村の子孫を調べてレポートを書けといわれた学生でもありません。一介の、歴女ならぬ、歴男(?)に過ぎません。真田幸村ぐらいの、有名人になると(歴女のダントツ人気#1であり、来年のNHK大河ドラマの主人公の由)、調査・研究が詳しくなされているはずで、それらに詳しい方に教えていただければ十分なのです。 なお、私の引用した本「日本史有名人の子孫たち」は小説ではありません、一種のドキュメンタリーです。

回答No.2

真田幸村?には子孫は居ません そもそも真田幸村は真田信繁をモデルに作られた架空の人物です 次男の大八は幸村がまだ高野山麓の九度山にいたころ、京都で石合戦に参加して石に当たり、それがもとで死んでいる と言うのはありえないと思います 幸村(あえて幸村と書きますが)一族はみな九度山に幽閉されています もちろん大八も九度山で生まれています 九度山からは出られるわけが無いので大八が京都で死んだってのは間違いだと思います それに今居る真田の子孫は幸村の兄 信幸の子孫のはずです 幸村の子孫は確か真田姓では無いはず (子孫の海野、もしくは矢沢姓です)

statecollege
質問者

お礼

ひとつ考えられるのは、仙台藩としても真田幸村の実子である大八を匿うのは徳川幕府にたいして遠慮がある(というよりそれを口実に藩の取り潰しの危険だってある!)ので、大八は子供の時に死んだという噂を流したのかもしれない。実際、豊臣秀頼の長男国松は探し出されて、処刑されているし、大八(守信)は生涯片倉姓で、晴れて真田を名乗れるようになったのは豊臣の残党でもお咎めがなくなった守信の息子の代からです。

statecollege
質問者

補足

幸村が通称で、本名が信繁だということは知っています。司馬遼太郎や池波正太郎の小説でも、本名は信繁であると断った上で、世間に流布している「幸村」を使っています。真田信之の子孫は松代藩の大名ですが、ここで問題にしているのは幸村(つまり信繁)の子孫で、上で書いたように、幸村の次男=大八=守信の子孫で、仙台の伊達家の家臣となり、仙台真田家と呼ばれています。まず https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%B9%81 を読んでください。つぎに、仙台真田家についてはこれ(↓)をお読みください。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E7%9C%9F%E7%94%B0%E5%AE%B6 なお、私は、長野県の上田城、松代城へ行って、そこにある真田家の記録・書類の類の展示は見ているのですよ。仙台真田家の当主(現在10代目だったか?)も、毎年上田で開かれる真田まつりには参加していて、写真が展示されています。

  • ithi
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回答No.1

statecollegeさん、こんばんは。 小説やその手の知識の本は間違いが多少あります。本当のことを知りたければ、信頼のおける文献にあたるほかありません。県立図書館で仙台藩の分限帳の類を探してください。 仙台の真田家の由来や知行石高、菩提寺、屋敷のあった場所がわかると思います。

statecollege
質問者

補足

真田幸村についてはWikipediaは以下の通りですので、これをまず読んでください。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%B9%81 私は長野県上田城、松代城へ行って真田家についての記録・説明・展示は見ています。私の知る限りWikipediaは正確ですよ。毎年恒例の、真田祭りには幸村の子孫である仙台真田の当主(10代目)も参加しているという話は聞いています(写真も見ています)。 仙台真田家については https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E7%9C%9F%E7%94%B0%E5%AE%B6 をご覧下さい。