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如来の実体とは何か?
- 如来の実体は、実在を意味することもあり、事物の本質を抽象して表現するものとも言われます。
- 実体は現象の奥に存在する万物の原因であり、神学や哲学においても重要な概念です。
- 今の実体は世界性と衆生性を超越した如来性を指し、世界と衆生の内在的な存在として捉えられます。
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今晩はです。 《第一義諦》とは、《勝義諦》のことです。 《龍樹》の《中論》などに出てくる、《勝義諦・俗諦》の二諦の考え方から生まれた言葉です。 《俗諦》が世間的な道理で説かれた真実くらいの意味で、 《勝義諦》とは、最高の真実、仏の悟りからみた真実くらいの意味です。 参考までに、以下にリンク先を示します。 http://oujyouin.com/sunya4.htm
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
まむしの ぶらじゅろんぬです。 ★ (No.3お礼欄) ~~~ ブラジュロンヌさんも認めている仏性を真我とすれば、その仏性を覆うように存在する自我(このお坊さんの言葉では肉我)が考えるところの“神”は理詰めに頼るしかなく、そしてそれをさらに推し進めてみると“神”とは「非思考の庭」と云わざるを得ない、と云う事かと思っています。 ~~~~~~~~~~ ☆ 《理詰め》では 《実体》は つかめたとしても たのしくありません。 ★ 仏性を覆うように存在する自我(このお坊さんの言葉では肉我) ☆ この《自我 ないし 肉我》が わたしたちがそれぞれ自称するときの《わたし》です。 言いかえると (1) 生まれつきの《わたし》に 仏性がやどる。または 《わたし》は 《如来蔵》を持つ。 (2) 言いかえるなら 《わたし》には アートマンと呼ばれる《真我》がある。 です。このような命題(仮説というほどの意味です)が得られるのは さらにその前に 次の前提がおかれているからです。 ○ (神とは何か?) ~~~~ (3) この経験世界における因果関係に左右されない《実体》があると想定する。《非経験の場》と呼べる。 (4) この実体を ブラフマンなる神と呼ぶこともある。あるいは 空ないし空性(シュンナター)と捉え呼ぶ。 (5) 人間存在である《わたし》が このように想定された《実体=ブラフマン神=空性》と相い向かい合うとき つまりは《非経験の場》をわたしが受け容れるとき そのときに わが心には《非思考の庭》が成ると表現して捉える。そういう心の明け または 伸びである。 (6) 《非思考の庭》が この生身のわたしに成るのは もともと(自然本性として)わが身と心に《如来蔵≒仏性 あるいは 真我=アートマン》がそなわっているからだと想定する。 (7) わが《非思考の庭》に わたしの神が――いわゆる霊として――宿る。このように表現して捉える。 ~~~~~~~~~~~ 《想定する》というのなら 次の《考える》という言い方でよいではないか? つまり ★ 自我(このお坊さんの言葉では肉我)が考えるところの“神” ☆ でよいではないか? 微妙に違います。 (8) 肉我ないし《わたし》が想定するところの神 になります。なぜなら (9) 《かみ》という言葉は わたしたちが生まれる前からすでにあたえられたものとして持たれ使われているものである。 からです。ですから 《考える》ことによって 《神》を得たのではないはずです。 ★(No.3補足欄) いわゆる「悟り」なる世界に人間は入ることはできない、という立場なのだと思います。 ☆ (1)から(9)までの前提ないし仮説にもとづき (10) 人は――つまりあくまで非思考としては主観が問題ですから 《わたし》は―― つねに《さとり》を得る用意が出来ている。 となると考えられますが どうでしょう? (11) (5)の《〈非経験の場〉をわたしが受け容れる》というのは 感性をとおしてにしろ理性を介してにしろおおむね無根拠において 成される。 つまり その《受け容れ》の寸前までは《理詰め》で考えていたかも知れませんが 受け容れそのこと自体は 《無根拠において(理屈ぬきで)》成されるものと見ます。
お礼
ブラジュロンヌさんは「私は仏陀(ブッダ)である」と宣言していますが、そこには“悟った人”という意味は含まないように思います。 だから私も「私は仏陀(ブッダ)である」と宣言します。 “ヒラメキ”が、いつか訪れる日のあることを期待して。 回答ありがとうございました。
- tumaritou1
- ベストアンサー率28% (260/913)
人間の脳内には『自分自身=自我意識』とは全く別な人格が存在しています。『命の働き=仏性』です。この者との出会いを『悟る』と表現しています。 この者は、命として生じる時から働き始めています。そうして腹が減った事や、満腹になった事を教えています。赤ん坊が学ぶ事無く不安や恐怖や安心する事を既に知っている働きです。 眠る場合も助けています。この者に任せる事なく眠ろうとする場合を『不眠症』と言っています。眠る現象を詳しく説明するなら、自我意識はただ、無くなっています、そうして『無意識の自分が心も身体も全て支配しています、そうして朝が来た時に、自我意識たる自分に身体と心の支配権を帰しています。』 この者が出ている時と、出ていない時を克明に証言している動画を紹介します。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM
お礼
仏性=真我、として。 回答は真我と自我が“混同”しているように感じます。 ありがとうございました。
補足
たぶん肉体の生理的反応が心に作用する世界、を云っているのだろうと思いましたが。 ありがとうございました。(2012/6/22 08:45)
- codotjtp
- ベストアンサー率26% (40/149)
第一義の解明への執着を観念して諦めることが、 其処でも諭されているのではないでしょうか?
お礼
捕捉に書いたような思いしか浮かんできません。 ありがとうございました。
補足
いただいた回答があまりにも“要約”され過ぎていて、誤解してしまいそうです。 “第一義の解明への執着を観念して諦めることを諭している”ようには思えないのですが。 ありがとうございました。(2012/6/22 08:32)
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 ▼ 真如即ち実在は物心不二統一的存在を、物質に重きを置きて観る者が唯物論者にて、心質に傾く観方(みかた)を唯心論者とす。 ☆ こういった経験合理性にもとづく理解において 世界認識を得たということ これは なお経験思考によるものです。 言いかえると いかんせん 《真如》を 経験世界におけるものごとに対応させて人間の言葉で表現し把握したということであり そこまでのことだとなります。 理性によるだけではなく 感性によってもそのように捉えたということでしょうが いかんせん 理性も感性も あるいはまた人間の言葉も すべて この経験世界に属しており それを超えるものではありません。 言いかえると 経験事象としての認識と表現において いかに非経験の場を――もしそれが《真如》のことであるとすれば―― 表わし得るか? こういう問題に帰着します。 すなわち 表象も・したがって表現もし得ざる真如なるものを いかに仮りの表現において 表わすか? になります。 古来じんるいは これをどの言語においても《かみ》という言葉で呼んで来ています。 この《かみ》も 仮りの表現だという意味です。 したがって これをたとえば《真如》と言いかえ さらにたとえば ▼ 一切万法の本体にして一切生起(いっさいしょうき)の一大原因である。 ☆ と表現したなら この表現が どういうハタラキを持つのか。このことをも説明しておくべきである。こう考えます。 つまり ○ そうは言うものの 《かみ》は 《一切万法の本体》という概念的認識におさまるものなのか? あるいは ○ 《かみ》は 《全知全能》だと言ったり 《第一原因》だと見たりしたところで そのような概念把握は 《かみ》ないし《真如》そのものではないはずだ。 《本体》と人間の言葉で規定したそのことが ほんとうの本体ではありえない。それは ただ単に理解を促そうとした仮りの試みとしての表現であるに過ぎない。 ☆ こういった背後に置かれたことわり もしくは 大前提として取り決めていること これが――隠れていますから―― 重要である。こう考えられましょう。 くどいように: 《全知全能》という概念によって認識しているその内容 これが 《かみ》なのではないわけです。 全知全能という概念を神として 神学を哲学するわざが まま見受けられますが それは ただの概念操作であるに過ぎません。《かみ》とは別です。 《実体》も 同じことです。 《かみ》は 非経験の場だと想定されるならば 人間の内面においてはまづ《非思考の庭》というようなかたちで 受け容れられていると見ます。 これを さらになお何とか表現したいというとき 全知全能だとか実体だとかの言葉が思い浮かんだといったところではないでしょうか。
お礼
ブラジュロンヌさんも認めている仏性を真我とすれば、その仏性を覆うように存在する自我(このお坊さんの言葉では肉我)が考えるところの“神”は理詰めに頼るしかなく、そしてそれをさらに推し進めてみると“神”とは「非思考の庭」と云わざるを得ない、と云う事かと思っています。 ありがとうございました。
補足
今回は“言葉”に対しての「不信感、否定感」の色合いが濃いように思います。 いわゆる「悟り」なる世界に人間は入ることはできない、という立場なのだと思います。 「非思考」という表現もそうした観点から“思いついた”のでしょうか。 回答をもう少し吟味してみたいと思います。 ありがとうございました。(2012/6/22 08:15) ☆ 解答No.2mmkyさんへの補足は三十分ほど前です。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
○天台ちぎの述べる[第一義諦]は実際の世界「実在世界:あの世のこと」を示し、この世を「世俗諦」と言っているのです。あの世にもとらわれずこの世にもとらわれず生きることを「空諦」としていますが、これは竜樹の空諦・仮諦・中諦に相当します。この場合あの世が空、この世が仮、その間を生きているというのが中ですね。悟りの世界は大きいのですね。 あの世とこの世の壁が取り除かれた状態で生きるためにはどちらにもとらわれずということですね。そうでないとこの世では精神病者になってしまいますからね。 つまり、実在界のことを竜樹は空諦、天台ちぎは「第一義諦」と表現したということですね。 実在世界は不死の世界ですから、諸行無常のこの世に対して「第一義諦」と表現した。本来的にはその程度の意味です。
お礼
仏教用語に頻繁に使われる“とらわれないこころ”。 便利、なのだとは思いますがそれ故に“あいまいさの残る理解”にとどまってしまうような印象を持っています。 ありがとうございました。
補足
優しく説明してくださったのだとは思いますが、“あの世”と云われてしまうと俗にいう“霊界”を想像してしまって、却って疑問です。 “迷い心”なるものも住んでいそうで。 また、あの世とこの世の間を生きる、と云う表現もイメージが掴めません。 多分「とらわれない」と云った意味を含ませて云っているんだろうとは思いますが。 とりあえずはこんな感想を持ちました。 ありがとうございます。
お礼
紹介していただいた六萬寺の副住職さんの解説は易しく丁寧なので助かります。 でも、他の項目も見ましたが正直云って、読み切るのがしんどいですね。 それは私の頭が貧弱だからなのですが。 これからもここで学びたいと思います。 ありがとうございました。
補足
紹介していただいたリンク先、施本「仏教・空の理解」見ました。 途中から難しくなってしまいましたが、それでも優しい言葉で、しかも丁寧な解説だったので最後まで読めました。 何度も読み返しているうちに“無い無い尽くし”の「空」論も少しは分かるかな、なんて思いました。 ありがとうございました。(2012-6-17 01:00)