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私が思うには「思う」だけが単独では存在することは不可能だと思います。
- 私が思うには「思う」だけが単独では存在することは不可能だと思います。
- 思考があるなら、思考している主体があり、それは何らかの実体を伴っているのだと思います。
- 思っている時、それが「我」である保証はありませんが、(おそらく物質から構成される)何か実体が存在することは確実だと思うのですがいかがでしょうか?
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質問者が選んだベストアンサー
思っている「何か」と観測している「何か」が同一である保証はありませんが、その二つが存在することは確かです。 あなたの考えの通り、それが「我」である保証はありませんし、「我」の定義自体が曖昧ですが。 インドでは「我」という感覚を持つ主体をアハンカーラと呼んでいますが、 それはつまり、特別な名前をつけて他とは区別しているということです。 アハンカーラがイコール自分ということではなく、 あくまでも「そういう感覚を持っている(=そういう感覚を生じさせる、または生じている)何か」をアハンカーラと呼んでいます。 まとめると、思っている何か、観測している何か、我という感覚を生じさせている何か の三者が少なくとも存在しており、いくつかは同一の存在である可能性がある、ということですね。 参考までに。
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- sunabo
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たしかにno.8の回答は意味が分かりません。 読み返してもっと考えます。 問いは 我思う。ゆえに、実体あり。ただしいか? 我と実体に分ける。 ゆえにでつなぐ。 という2つが引っかかりポイントです。 回答は3つ。 1つ目。我思う。実体がある。2つの両方が同時に成立しない。 どちらか片方が成立すると、もう片方が成立しない。 我思う。と実体がある。を連続に行ったり来たりする。 夜寝て、実体がある。朝起きて、我思う。 なにが行ったり来たりするのか分かりません。 我思う。だけだと独我論でさびしい。 実体はある。だけだと汎神論でさびしい。 中間のいいかんじがあるといいな。 2つ目。実体は思う。 ウィリアム・ジェイムズが “It thinks” と表現したそうです。 日本語にすると、実体は思う。です。 どのように正しいかというと、 実体と我とありと思うとゆえにの5個を考えなければならない。 実体は思う。 だと2個で済みます。 簡単です。 シンプルなやつほど強い。 http://www5b.biglobe.ne.jp/~hatigoro/REVIEWS%20on%20WJ-sje11.html 上記を参照しました。1つ目と3つ目の答えを正しく思うことと、問いに引きずられて 誤読の可能性があります。 我思う。ゆえに、実体あり。を支持してるかもしれません。 3つ目。実体がある。ゆえに、我思う。 実体をコピーすれば、我思うがコピーできます。 人の原子配置を完璧にコピーすれば、我思うがコピーできます。 のび太くんが、どこでもドアを使ったとき、 元の場所にのび太くんが残って、 のび太くんが2人に増えたとき のび太くん両方に聞くと我思うが分かったとして。 その場合は、 実体がある。ゆえに、我思う。が分かります。 http://yureisoul.blog49.fc2.com/blog-entry-50.html ダグラス・ホフスタッターのメタマジックゲームの第25章 動玉箱の中ではなにがなのを? でそんなようなことっぽいことを書いています。 我思う。ゆえに、実体あり。 実体無し。ゆえに、我思わない。 我思わない。ゆえに、実体無し の組み合わせは分かりません。 ループ、再帰性、動的平衡。
お礼
回答ありがとうございます。 いろいろ書いていただいて申し訳ないですが私がお聞きしたい答えではないです。
- sunabo
- ベストアンサー率35% (24/67)
我思う。 実体がある。 上記2つの両方が同時に成立しないような気がします。 どちらか片方が成立すると、もう片方が成立しないような気がします。 制約と誓約。 制約 okwaveの解答欄に 横47文字縦の行数は分かりません。 使える文字は日本語の ひらがな、句読点、スペース、改行、2136字が常用漢字として制定されている。そのうち教育漢字は1006字日本における漢字 - Wikipedia 誓約 左から右へ、端まで言ったら次の行。 文字の組み合わせから、単語。単語と文字の組み合わせで文。 文の意味を作る文法。 日本語を使う。 われ思う。ゆえに、われあり。 改行を考えないで、数字から縦に時間の順序を読み取っていただきたい。 1わ 2われ 3われ思 4われ思う 5われ思う。 5単位の時間が流れる。文が終わる。1文単位の時間が流れた。 6ゆ 7ゆえ 8ゆえに 9ゆえに、 4単位の時間が流れる。単語が成立。1文単位の時間が流れた。 論理関係が見える。この後の文は前の文と因果関係がある。 思うが因で、この後の文が果。 10わ 11われ 12われあ 13われあり 14われあり。 5単位の時間が流れる。文が終わる。1文単位の時間が流れた。 われ思う。ゆえに、われあり。を一塊の意味としてみることができる。 われ思う。とゆえに、とわれあり。が同時に成立する。 3文単位の時間が流れていると見ることができる。 同時成立と3文単位の時間の流れが矛盾するような気がする。 私には、われ思う。ゆえに、われあった。が正しくおもわれる。 われあり。にたどりつくことが難しい。 思わないときにわれあり。かもしれない。 上記1行のように書くことは、すでに、書いているので、思われたことで、 われあり。にたどりつかない。 もしも、私がアシュラマンであったなら。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%B3 3つの顔(怒り、笑い、冷血)で同時に、言い始め、同時に言い終わってみる。 1 怒り わ 1 笑い ゆ 1 冷血 わ 2 怒り われ 2 笑い ゆえ 2 冷血 われ 3 怒り われ思 3 笑い ゆえ(1回休み) 3 冷血 われあ 4 怒り われ思う 4 笑い ゆえに 4 冷血 われあり 5 怒り われ思う。 5 笑い ゆえに、 5 冷血 われあり。 われ思う。ゆえに、われあり。が一塊に時間の順序と意味が両方成立。 われあり。にたどり着く。 okwaveに書いてる人と読む人がいる。 okwaveと書いてる人と読む人の3つの実体が要る。 2つに分ける発明をした。同時に2つの間に関係okwaveができた。 思うが無いとき頭の中は1本の線のような感じ。たぶん連続。 思うがあるとき、1本の線は、今で切られて、過去と未来と、切断点の今になる。 過去は文字単位、単語単位、文単位、意味単位で切れて離散的。 われ思う。実体がある。 対偶。 実体が無い。われ思わない。 実体がある。われ思う 実体が無い。われ思う 実体がある。われ思わない 実体が無い。われ思わない 実体が無い。われ思わない。を示すのは難しい。 そう囁くのよ私のゴーストが。 実体がある。われ思わない。は正しいっぽい。 石は思わない。 石は実体がある。石は思わない。 対偶。 石は思う。石は実体が無い。 石(シリコンチップ)は実体がある。石(シリコンチップ)は思う。はありかもしれない。 シンギュラリティ。 わかりません。 がんばりましたが回答できませんでした。 ごめんなさい。
お礼
回答ありがとうございます。 ただ回答の意味がよくわかりませんでした。
- yuniko99
- ベストアンサー率15% (31/204)
我思う 我在り。 哲学者が理屈をこね出したらしまいにはアキレスは亀に追いつけないとか 訳の分からないパラドックスができます そんな事をやっているうちに世界の思想は混乱し、資本主義に翻弄され 多くの人が犠牲になっています。 我思う故に精神有り これでいいのです。 思うのは精神です 理性を持つのも精神です 精神は実在する性質の塊です 性質は物質と共に必ずあるものです。 ですから脳内の様々な物質が複雑に反応しながら 秩序も持って働くことで それに伴う精神が実現しているのです。 そういう事は分かる人にはもう分かっているのです それを捏ねくり回すから何の結論も出ずに人間は苦しんだままです 資本主義を修正するのも戦争をなくすのも精神です。人間存在の事です 人間存在とは精神の事です。
お礼
回答ありがとうございます。 私は理屈をこねくり回すのが哲学だと思います。 理屈をこねたあげく、やっぱりよくわかっていなかったんだなと思い知る、それが哲学かと。 きまった方向に考えを展開するのは、哲学と言うより思想ではないでしょうか? 精神は重要と思いますが・・・ 本当に確実なものは何か?という問いからは少しはずれているように思います。 精神は不思議です。 精神とは何か多分100年後にはもっとわかっていることでしょう。 精神とは何か?が解明されるのは楽しみです。
- ノーバン(@nobound)
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外山慈比古さんの本を読んでいたら、 「最近、「考える」ということを本格的に考えて、知性を超える理性というものを明らかにしたいと考えました。」 というところがあって、知性と理性は違うのかと思わされました。(悟性とかもありますね。) 回答はわかりませんが、培養タンクの中の脳でこの違いをどうとらえるのか、疑問も感じます。今後も考えていきますが、「人間は性質である。」という時の、これらの性質の違いは何なのか?ということは、興味深いところです。
お礼
回答ありがとうございます。 知性と理性ですか・・・似てますね。 知性だと知識とか教養があるという感じがしますし、理性だと合理的な思考能力がある、分別能力があるという感じでしょうか。重なる部分もあると思います。
- koosaka
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それも同じくカントが批判して否定しました。 デカルトは心が実体、身体が実体、といういわゆる心身二元論を唱えたことで知られています。 そのデカルトの心が実体という説と、古代ギリシャのプラトンの魂が実体的に存在し、魂は永遠不滅で不死であるという説を「純粋理性批判」の弁証論の「実体論的誤謬推理の批判」で、完膚なきまでに論破し、このカントのに批判以降、「実体」という言葉は哲学では使われなくなりました。 実体という言葉は、古代ギリシャから、近世のデカルト・スピノザ・ライプニッツと盛んに使われてきましたが、カントをもって終止符を打たれ、以後誰も使う人はいなくなりました。 では、カントがどのようにしてそれが誤謬推理と言ったのか、以下、説明します。 カントはデカルトが、心を実体と考えたのは、以下のような三段論法に基づく推論によるものだったと言っています。 大前提・・・主語としてしか考えられないものは、また基体としてしか存在しない(主語=基体)、したがってそれは実体である。 小前提・・・ところで思惟する存在者は、それだけとしてみれば作用する主体(自我)、すなわち実体としてしか考えられない(自我は主語である)。 結論・・・・ゆえに、思惟する存在者はまた主観(自我)、すなわち実体としてしか考えられない。よって、自我は基体=実体である。 これは西欧語のSubjectに主語・基体・実体・主観(主体)という多様な意味のあることを利用した誤謬推理に基づくもので、カントによれば、主語としての自我は思惟だけで無条件に与えられるが、基体とか実体はそうではなく、直観がいる、と言います。 したがって、大前提は間違いなのです。 その間違いから結論として自我を基体=実体とする誤謬推理が導き出されている、と言っています。 カントの批判は以上ですが、ちょっと難しいかもしれません。 簡単にいうと、以下のようになります。 大前提・・・私は主語である。 小前提・・・主語はまた実体でもある。 結論・・・・よって私は実体である。 上の「私」に自我とか、心を代入してみてください。 今度は、どこに間違いがあるか、明瞭ですね? そうです、小前提が間違いです。 アリストテレスも、「文法で主語に置かれたものが実体である」と言って、主語と実体を同一視しました。 デカルトも「われ思う」と言った時、その「われ」を実体と勘違いしました。 一般的に言って、私たち何ものかを主語に置いて語ると、そのものが実体と勘違いする傾向があります。 たとえば「時間は・・」とか「こころは・・」とか「自我は・・」とか、「私は・・」とか、語るとその主語を実体的に存在するものと錯覚します。 デカルトも錯覚しました。 デカルトは意識作用の主体を実体=基体と同一視し、心を実体と考えましたが、私たちは「私とは何か?」と考えると、直ちにその「私」は対象化され、客観化され、そしてフィヒテや西田のように対象化される以前に根源としての「私」があるはずだという誘惑に駆られます。 西田の「純粋経験」のように。 しかしカントはその誘惑には駆られませんでした。 カントは根源など存在しないと考え、それを「仮象」だと考えていました。 ここであなたの質問を考えてみましょう。 「私が思うには、思うことが単独で存在することは不可能だと思います」 ・・・・確かにその通りです。 「思考があるなら、思考している主体があり・・・」 ・・・確かにその通りです。 「・・・それは何らかの実体を伴って対るはずです」 ・・・・どうしてですか?何らかの実体が伴う必要はないと思います。なぜって、思考は脳の活動の「機能」なのですから、実体ではありません。 「思考を成立させるための何らかの装置(脳とかCPU)が必要ではないでしょうか?」 ・・・確かに脳は物理的存在ですから、心とか自我は何らかの物理的存在に依存していることは確かだとしても、心とか自我は物理的に還元できるものではなく、それとは相対的に独立したものです。 チャーマーズは「意識する心」でそう言っています。 「確かに思っている実体が我、すなわちデカルト自身であるとは限らないと思います」 ・・・・はい、デカルトのいう我は非・人格的なものです。一般的な意味の私です。 デカルトの時代、まだ「独我論」は知られていませんでした。 「デカルトの人生を夢見ている他人かもしれませんし、バーチャル・マシーンでデカルトの人生を追体験している異星人かもしれません。あるいは培養タンクの中の脳かもしれません」 ・・・・はい、仰る通りです。だからこそデカルトは「省察」で、神の存在証明をしたのです。 もし神が存在したのなら、その神が私にバーチャル・マシーンを見せて私を異星人に思わせていることはないし、培養タンクの中の脳と思わせることなく、私の理性的認識は明晰で、かつ判明であることを保証しているはずですから。 「そして最終的には物質までにたどり着くと思います」 ・・・・心から物質にたどり着くのですか? ちょっと飛躍しすぎではありませんか? なぜ、心から物質にたどり着くんですか? 観念論はめんどうだから、今度は唯物論で行こう!というわけですネ? こころって、何だかわかんなーい! チャーマーズも、心は何らかの物質的基盤に根差していることは確かだろうが、よく分からない、と言っていて、意識を心理的な意味の意識と現象的な意味の意識に分けて、心理的な意味の意識は物理還元して考えると比較的よく分かると言って、それをソフト・プロブレムといい、それに対して意識を意識として考える現象的な意味の意識はハード・プロブレムといい、それを解明することは難しいと言っています。
お礼
回答ありがとうございます。 デカルトの誤謬についてのカントの指摘に関しましても詳しい解説をどうもありがとうございます。 私が書いた文章については誤解があると思いました。 私の用語の問題かもしれません。 質問文で考えていたのは、具体的には主体とは脳を指し、その脳は実体をともなっているということです。 主体、実体は下記の意味で使用しています。 主体とは、思考をおこなっているもの 実体とはバーチャルでない、実質的な存在で、大概は物質から構成されていると思います。 (哲学的な意味での「実体」は根源的でこれ以上分割できず変化しないものという意味だそうですが、そうした意味ではありません。普通の日本語の意味での実体です。) >「・・・それは何らかの実体を伴って対るはずです」 >・・・・どうしてですか?何らかの実体が伴う必要はないと思います。なぜって、思考>は脳の活動の「機能」なのですから、実体ではありません。 思考は脳の機能と思います。ここでの意味は思考の主体は脳であり、脳は脳細胞など実体をともなっているという意味です。 >「そして最終的には物質までにたどり着くと思います」 >・・・・心から物質にたどり着くのですか? >ちょっと飛躍しすぎではありませんか? >なぜ、心から物質にたどり着くんですか? 今回の質問で私は努めて「心」という言葉を使わないようにしています。 「心」と書いてしまうと誤解を生む恐れがあります。 それに心はもともと存在しないと思います。 「そして最終的には物質までにたどり着くと思います」というのは例えば脳という実体は物質であるという意味です。「最終的には」と書いているのは途中にバーチャルなものがはさまっているかもしれないからです。 例として、自分はデカルトと思っているのがバーチャルマシーンによりデカルトの人生を追体験している異星人だった場合を考えてみます。 この場合、デカルトの脳だと思っているものはバーチャルであり存在しません。 しかしその代わりに異星人の「脳的器官」が思考の主体でありそれは実体です。 そして、その脳的器官は物質でできていることでしょう。 別の例を考えてみます。この宇宙全体が私たち人類を含めてバーチャルなシュミレーションプログラムのようなものであった場合です。(このことは実際に天文物理学者の間で議論されているそうです。)宇宙全体がプログラムであるならおそらくそれを稼働させている装置があるはずです。それが主体であり、それは実体をともなっているでしょう。ただし、その実体が物質から構成されているかどうかはわかりません。私たちの宇宙を構成している素粒子とは別の粒子がもとになっているかもしれず、それが物質かどうかは不明です。 大概は実体は物質であると思うのですが、ご指摘のように確実ではないですね。 思考を成立させている実体が存在することまでは言えると思うのですが・・・。
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10007/12518)
>「我思う」なら思う何か(実体)が存在するのでは? ⇒はい、そのとおりだと思います。 まさにそれこそ、デカルトの言わんとしたことだと思います。つまり、こうです。 まず、「あらゆるものの存在を否定するとき、そういう否定をしているものがいるはずだ」というのが、"Cogito, ergo sum."「我思う、ゆえに我あり」の真意でしょう。 もっと哲学用語を用いて言うなら、「自己の内外の感覚的世界の存在を体系的に否定し、この一切を疑うという《誇張懐疑》の最中、その懐疑の根底に横たわる自己の存在を発見する」(平凡社、『哲学事典』969ページ)わけです。
お礼
回答ありがとうございます。 実体があるまでは言えるといことですね。 哲学事典の情報もありがとうございます。
- SPROCKETER
- ベストアンサー率26% (2127/7994)
「我思う故に我あり。」はコンピュータシミュレーションであれ、何であれ、自分が存在する限りは、何か実体を伴う物があるのだという考え方です。 たとえば、テレビゲームのキャラクタが自分という存在は実在するのかを問うとすれば、ゲーム機が動いている間は実在し、ゲーム機の電源が切れて動いていない時は存在していないと判断するしかありませんが、電源が切れている状態では、キャラクタは自分自身を認識出来ませんから、その間の出来事は何も覚えていないわけで、セーブデータを読み取ってスタートした段階までしか記憶が無く、それ以外の出来事は存在していないと同じになります。 人間も同じだと考えてみましょう。自分が意識している時間は存在していて記憶していますが、自分が意識出来ない時間は存在していないのと同じです。 ゲーム機で遊ぶのをやめて、1年間放置してから、ゲームを再開した場合、放置していた1年間はセーブデータに残っていませんが、同じように世界が突然停止して、1年間時間が止まった状態が続いてから動き始めたとしても、時間が止まっていた間のことを我々は知ることが出来ません。 時間は動いていても、世界が凍結して時間が止まっていたのと同じ状態であれば、1年後に凍結が解けて動き始めても、時間が止まっていたのと同じ結果になるでしょう。 実はプランク時間と呼ばれる10のマイナス34乗ぐらいの短い時間では、物理法則が壊れていても、我々には理解出来ませんし、30分の1秒以下の時間は脳が視覚認識出来ないので、その間に何が起こったのかわからないのが現実です。 量子法則が支配する短い時間内では、何が起こっていても我々には認識出来ないのです。自分が実在するのは認識出来ても、それがプランク時間内では物理法則が壊れていて、視覚認識不可能な短時間では、目の前を象が通り過ぎてもわからない。そういう認識しか出来ないのが人間なのです。
お礼
回答ありがとうございます。 当人には止まった時間を認識できないというのは大変興味深いです。 ただ、私がお聞きしたかったこととは違うお話に思えます。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
もし「何も無い」状況を感じるとしたら、それを感じる 何ものかが存在する事になる。 むしろ「何も無いとは感じられない」状況の中に、 ある形式で“真の無”はある。 その形式とは、「何かを感じるもの」と相補分化した 「感じられる何か」であり、即ち、不確定性原理におけ る相補的な時間的不確定性と空間的不確定性に基づく、 自分(自我仮説=記憶(時間の流れ)=過去=超光速)と、 環境(空間仮説=予測(空間の広がり)=未来=光速下)の、 無=無限不確定性の潜在的認識可能性(感受表面=量子 相互作用=光速)からの仮想的(階層現象表面的定性化 による非光速性に基づく)相補分化としてだ。 そうした仮想的な時空的広がりに対する無の射影と して量子=存在はある。 換言すれば、謎として生じた宇宙を、無へ還元する ものが物理なのだ。
お礼
回答ありがとうございます。 しかしながら、私にはいただいた回答の意味が理解できませんでした。
お礼
回答ありがとうございます。 インドの話は難しそうですね。そうした三者を区別して考えているとは驚きです。自分だとまとめてしまって区別できそうにないです。 それだけ「我」という概念はやっかいな面をもっているということですね。