※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:《神即自然》は 《一切衆生 悉有仏性》と同じか)
神即自然と一切衆生悉有仏性についての質問
このQ&Aのポイント
神即自然(Deus sive Natura)と一切衆生悉有仏性は同じか、またはどう違うのか?質問者は学び中であるが、意見を求めている。
神即自然は、スピノザが言及する「神すなわち自然」と同じであり、一切衆生悉有仏性は、すべての生命に仏性があることを指す。
スピノザは神を実体とし、思惟するものと延長とが神の属性であると考えている。一方、仏性は初期大乗仏教の経典『法華経』や『大般涅槃経』によって説かれ、一切の衆生に仏性が存在するとされている。
スピノザの言う
《神すなわち自然( Deus sive Natura )》
は ゴータマ・ブッダがついぞ言葉としては表わし得なかったところを一般大衆がおぎなったと考えられるその命題としての
《一切衆生 悉有仏性》
と同じか?
どう同じで どう違うか?
たたき台は ありません。学び中の見切り発車です。それでも質問者ながら(またはそれゆえに)ツッコミだけは入れます。
1. 《神とはすなわち自然である》の自然とは、《植物のことではなく、人や物も含めたすべてのこと》。らしい
▲ ヰキぺ:バールーフ・デ・スピノザ § 2.2 存在論・認識論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%8E%E3%82%B6
2. 《衆生》は 有情とも呼ばれ 生命あるものすべてのこと。らしい。
3. 《ブッダター(仏性)》は アートマンと同じく霊としての存在であろう。神もむろん《自然》であるというとき その存在は 目に見えるものではなく・心の目にさえ見えるものではなく ナゾの何ものかとしての霊であるはずだ。
4. スピノザでは 神を《実体 Substantia 》として何やら面倒な議論があるようです。《思惟するもの Res Cogitans 》とは そもそも第一に神のことであるのだとか。それをつうじてこそ自然としての人間も考えることを成す。
▲ (前掲ヰキぺ) ~~~~~
神が唯一の実体である以上、精神も身体も、唯一の実体である神における二つの異なる属性(神の本質を構成すると我々から考えられる一側面)としての思惟と延長とに他ならない。
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5. 心身平行論
▲ 身体に先だって精神がある(唯心論)のでもなく精神に先だって身体がある(唯物論)のでもない。いわゆる同一存在における心身平行論である。
6. ▲ ~~~~~
その上、人間の身体を対象とする観念から導かれうるものだけを認識しえる人間の有限な精神は、全自然を認識する或る無限の知性の一部分であるとしており、
7. ▲ ~~~~~~
この全自然を「想念的objective」に自己のうちに含むところの思惟する無限の力(potentia infinita cogitandi)によって形成される個々の思想と、この力によって観念された自然の中の個々の事物とは、同じ仕方で進行するとしている。
すなわち思惟という側面から見れば自然は精神であり、延長という側面から見れば自然は身体である。
両者の秩序(精神を構成するところの観念とその対象の秩序)は、同じ実体の二つの側面を示すから、一致するとしている。
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8. ▼(ヰキぺ:仏性) ~~~~~
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%80%A7
§ 1.1 歴史的な流れ
仏性について、特に積極的に説いたのは、初期大乗仏教の経典『法華経』である。それ以前の経典では成仏できないとされていた部類の衆生にも二乗成仏・女人成仏・悪人成仏などが説かれた。
さらに、その後成立した『大般涅槃経』では、一切の衆生に仏性が等しく存在すること(一切衆生悉有仏性 - いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)が説かれた。
§ 1.2 宗派による違い
さらに日本の天台宗では、仏性を衆生(人間)に限らず、山川草木や生類すべてに仏性があるとする考え(一切悉有仏性)までが、後世に生まれた。
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ご教授ください。
お礼
ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 じつは スピノザは まだ尾を引いているニーチェ関連です。 次の話は まだ内容がはっきりしませんので どうかと思うのですが そういう関連する話があるということのみをまづは掲げておきます。 ● (ニーチェとスピノザ)~~~~ http://yojiseki.exblog.jp/7527243/ 1881年(7月30日=永劫回帰発見の直前)のニーチェのスピノザ評は以下です。 <僕はすっかりびっくりして、うっとりしているんだ。僕には先駆者がいたんだ、なんという先駆者だろう。 僕はほとんどスピノザを知らなかった、僕がいまスピノザを(読んで)認めるまで。………彼の説の五つの主要な点に僕は僕の姿を見た。この最も異質な最も孤独な思想家は、まさに僕にもっとも近いのだ。 ………つまりだね、高い高い山に登った時のように、ときどき僕の息を苦しくさせたり、僕の血を流させたりした僕の孤独が、すくなくとも(スピノザを読んだ)いまは、二人連れの孤独になったんだ——不思議だね!> (ニーチェ。1881年7月30日、オーヴァーベック宛て書簡、ちくま学芸文庫『ニーチェ全集』別巻一、p500参照) スピノザとニーチェには、神への愛と運命への愛、コナトゥスと力への意志、隠者=ツァラツストゥラといった相似点,論点が見出せます。 ・・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~ さて ★ 《理神論》 ☆ ですか。この理神論というのも苦手な部類です。どう扱えばよいのやら。 つまり その神を持ち出して認識した理論は 仮りの表現であると言ってしまえば これまた信仰の問題になってしまって それはそれとして受け留めなければなりません。 スピノザにしても 特に日本で表現するにいたった 山川草木悉皆成仏 といった命題と照らし合わせれば 認識としてなら・そしてそれは仮りの表現として言っているというのなら 同じたぐい――つまり一般類型としての梵我一如の世界観(信仰)――に限りなく近いとも考えられます。汎神論だとも言われますし。 ★ スピノザにおいては《宇宙は精妙なシステム》であって、しかも、ギリシア以来伝統の《全体と部分は異なる》という考え方が背景にあると思うのですよ。 ★ スピノザの考え方は、一種の《機械論》だと思うのですよ。カタい決定論であって、運命論じゃないですかね。 ☆ じつは《決定論》という内容としては 大いにそうであって 必然に即することが自由だというようなことだとも言うのですが まだ断定的なことは言えない段階です。 ただ 《実体》としての神の思考ないし計画のもとにあると言うのなら ブッダターがそこら中にあまねく満ちているといったイメージにならないとも限らない。とは思いました。実体が観念論でないならです。 《心身平行論》が それら身と心との行き着く先が 神であるというのなら ブッダターに行き着くと言ったも同然であるかも知れない。あるいはつまり一般類型としての梵我一如として世界は成ると言っているも同然であるように感じられなくありません。 もう少しみなさんからのおおしえを待ってみたいと思います。どうでしょう? ありがとうございました。