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神即自然と一切衆生悉有仏性についての質問
- 神即自然(Deus sive Natura)と一切衆生悉有仏性は同じか、またはどう違うのか?質問者は学び中であるが、意見を求めている。
- 神即自然は、スピノザが言及する「神すなわち自然」と同じであり、一切衆生悉有仏性は、すべての生命に仏性があることを指す。
- スピノザは神を実体とし、思惟するものと延長とが神の属性であると考えている。一方、仏性は初期大乗仏教の経典『法華経』や『大般涅槃経』によって説かれ、一切の衆生に仏性が存在するとされている。
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こんばんはです。 直観的に、 どちらも《理神論》ではあるけれど、 スピノザの《神即自然》と大乗の《法界(の平等)思想》とは、本質的に異なる!! ですね。 スピノザの主著「エチカ」は、持ってはいるのですけれども、全文を読んだことがないので間違っているかもしれませんが(無味乾燥なので、読書する気にならない!!)、 スピノザにおいては《宇宙は精妙なシステム》であって、しかも、ギリシア以来伝統の《全体と部分は異なる》という考え方が背景にあると思うのですよ。 しかし、大乗ブディズムにおいては、部分と全体とは基本的に同じ構造、《自己同一性》や《自己相似性》を持ったものであって、部分と全体とはまったく同じもの。大乗の《仏性》や《如来蔵》の思想は、この《法界》の《平等生》、《一味性》、《自己相似性》を背景として生まれていると思うのですよ。 スピノザと大乗ブディズムは、ともに《理神論》だから、結果的に同じであると考えるのは、あまりに安易なのではないでしょうか。 わかり易い例えでいうならば、 スピノザの宇宙は、時計。部分は、歯車やゼンマイ、ネジといった構成部品であって、全体である時計とその構成部品であるゼンマイや歯車といった部分とは異なる。 対する大乗仏教は、宇宙・法界とは、よく溶け合った塩水。そのどの部分をとって飲んでみても、塩辛さという味は変わらない、つまり、《一味平等》であって、全体と部分の差はない。 この両者の差は、大きいと思います。 スピノザの考え方は、一種の《機械論》だと思うのですよ。カタい決定論であって、運命論じゃないですかね。 スピノザの思想について、よく知らないので、踏み込んだ発言をするのはコワいのですが、 眠り猫は、そう思っています。
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- kurinal
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bragelonneさん、こんばんは。 「世界は、成る」 「世界は、ある」 やっぱり、違うと思います。
お礼
くりなるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ううーん。 もうひとつ 《世界よ あれ! と言うと 世界はあった。》 というのもあり得ます。これは 比喩であるということでしょうが。 いえいえさらに もうひとつ。 《〔これは〕世界である》と人間が知覚し認識し言葉で表現する。 という場合。 どうもスピノザは独特であるようです。 どのようにか? 神が《思惟する》のです。思惟する神の内にあって 人間も――時空間なる延長やかたちとしての身をも持ちつつ―― その(つまり 神の)思惟にあずかる。のだと。 そしてそのように神の思惟にあずかって自分も持ち得る人間の思惟において 世界は成る 世界はある 世界である などとして認識を持ち言葉で表現するというようなのです。 人間に自由はなく そのような神の思惟における必然性にしたがうことが 人間の自由である。ということらしいのです。 となると 提起してもらった命題らのあいだの違いは あまり問題にならない。ということになるのかも分かりません。(勉強は 残念ながら あまり捗っていません)。 世界は 成ると有るとで どう違いが出て来ますか? 大きいですか? 時空間ということは 動いていると思いますし。つまり 有るというものは 成って来ていて有るのだと考えられますし。・・・ 夜が更けて あたまがはたらかないかも知れません。 とりあえず このように。です。
お礼
ねむりねこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 じつは スピノザは まだ尾を引いているニーチェ関連です。 次の話は まだ内容がはっきりしませんので どうかと思うのですが そういう関連する話があるということのみをまづは掲げておきます。 ● (ニーチェとスピノザ)~~~~ http://yojiseki.exblog.jp/7527243/ 1881年(7月30日=永劫回帰発見の直前)のニーチェのスピノザ評は以下です。 <僕はすっかりびっくりして、うっとりしているんだ。僕には先駆者がいたんだ、なんという先駆者だろう。 僕はほとんどスピノザを知らなかった、僕がいまスピノザを(読んで)認めるまで。………彼の説の五つの主要な点に僕は僕の姿を見た。この最も異質な最も孤独な思想家は、まさに僕にもっとも近いのだ。 ………つまりだね、高い高い山に登った時のように、ときどき僕の息を苦しくさせたり、僕の血を流させたりした僕の孤独が、すくなくとも(スピノザを読んだ)いまは、二人連れの孤独になったんだ——不思議だね!> (ニーチェ。1881年7月30日、オーヴァーベック宛て書簡、ちくま学芸文庫『ニーチェ全集』別巻一、p500参照) スピノザとニーチェには、神への愛と運命への愛、コナトゥスと力への意志、隠者=ツァラツストゥラといった相似点,論点が見出せます。 ・・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~ さて ★ 《理神論》 ☆ ですか。この理神論というのも苦手な部類です。どう扱えばよいのやら。 つまり その神を持ち出して認識した理論は 仮りの表現であると言ってしまえば これまた信仰の問題になってしまって それはそれとして受け留めなければなりません。 スピノザにしても 特に日本で表現するにいたった 山川草木悉皆成仏 といった命題と照らし合わせれば 認識としてなら・そしてそれは仮りの表現として言っているというのなら 同じたぐい――つまり一般類型としての梵我一如の世界観(信仰)――に限りなく近いとも考えられます。汎神論だとも言われますし。 ★ スピノザにおいては《宇宙は精妙なシステム》であって、しかも、ギリシア以来伝統の《全体と部分は異なる》という考え方が背景にあると思うのですよ。 ★ スピノザの考え方は、一種の《機械論》だと思うのですよ。カタい決定論であって、運命論じゃないですかね。 ☆ じつは《決定論》という内容としては 大いにそうであって 必然に即することが自由だというようなことだとも言うのですが まだ断定的なことは言えない段階です。 ただ 《実体》としての神の思考ないし計画のもとにあると言うのなら ブッダターがそこら中にあまねく満ちているといったイメージにならないとも限らない。とは思いました。実体が観念論でないならです。 《心身平行論》が それら身と心との行き着く先が 神であるというのなら ブッダターに行き着くと言ったも同然であるかも知れない。あるいはつまり一般類型としての梵我一如として世界は成ると言っているも同然であるように感じられなくありません。 もう少しみなさんからのおおしえを待ってみたいと思います。どうでしょう? ありがとうございました。