ハイデガーは「存在と時間」の冒頭で、存在問題を取り扱うことのむつかしさを3点挙げています。
(1)存在はもっとも普遍的な概念である。そしてもっとも普遍的な概念はそれより上の大きな概念がないから、それを定義することができない。
なぜならば、あるものを規定するためには、それよりも大きな概念の中に「包摂」する必要があるが、存在はそれよりも大きな概念がないから、包摂することができず、包摂することができなければ存在が何であるか規定できない。
(2)存在という概念はもっとも抽象的な概念である。もっとも抽象的な概念は内容が空疎である。中身が空っぽ。ということは存在は無と区別するところがない。
つまり有と無は同じである。そして無いものは、それが何であるか言えないのだから、存在についてもそれが何であるか言えない。
(3)存在は自明な概念である。私たちは日常的に「ある」とか「いる」という言葉を使っている。むしろ使わないことがないほどである。そしてふだん日常的に「ある」とがいる」という言葉を使っている以上、私たちは存在についてそれが何であるかよく知っている。それを知らないで、どうして「ある」とか「いる」という言葉を使うことがあるだろうか?
だから存在という概念が何であるかは自明である。
改めて問うまでもない。
私たちは存在ということで、それが何であるか充分に理解しているのです。
存在は至る所にあります。
無いということがありえないほど、至る所に私たちは存在を見ます。
人間も存在するし、植物も存在するし、動物も存在するし、宇宙も存在するし、至る所に存在を見ています。
しかし、アウグスティヌスが「告白」の中で述べているように自明なものはそれが何であるか説明することは出来ない。
「私たちは時間が何であるかよく知っている。時間が何であるか知らないで、どうして時間という言葉を使わないでいられようか? だから時間が何であるか人から問われるまでもない。しかし、改めて人から時間が何であるかと問われると私たちはそれに答えることは出来ない」と。
存在も同じです。
存在というようなもっとも普遍的で、もっとも抽象的な概念は、それが何であるか規定できないし、それが何であるか言えません。
簡潔でなく、長文になりました。
ご容赦。
お礼
成る程 もっともなご回答だと思います 良い得て妙ですね ただ私の場合 自分なりの定義は持っています 存在とは(個性ある)性質を持ったエネルギーである と これなら何処にでもあるでしょ^^ 時間とはエネルギーの変化のこと 変化が止まれば時間も止まる ご回答を頂き少し自信で出ました。 自信を持つとろくなことがないですが(^^ゞ どうも大変ありがとうございます。