- ベストアンサー
物心無礙観、物心無寄観、加えて“付録”
- 多くの方々から真剣な回答を頂いた私は意外でした。再度“関連の質問”をすることにしました。
- 物心無礙観は客観の物と主観の心が同一であり、互いに障碍せずに存在することを指す。
- 物心無寄観は宇宙自体が絶対的な観念であり、主観と客観の区別がないことを指す。
- みんなの回答 (3)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
参考までの追伸 「理論としては、自己の身心及び世界の統一の根底を如来の本質なりと識り、解脱の為には個人の根底なる絶対、即ち如来の目的に一致することを目的とす。] ○自己の身心及び世界の統一の根底は「如来の本質」にあるということですね。 [真空の本質を離れたる現象あることなし。然るに外道及び二乗が執する如く、本体断空ならば世界は何の根底によらん。] ○真空の本質を離れたる現象はないということですから、「真空の本質」は「如来の本質」と同じという意味ですね。 [又、唯物主義や唯心論者の如く、各一片を執せば真空が即色と為すべからず。亦、般若の真空の本質には物質も精神も無しとの偏眞の一面のみを執せば現象と本質一致の理あることなし。」 ○「如来の本質」が「真空」でなければ、「真空」が「色」になるわけがないということですね。これはその通りであると思いますが、「唯心論者の如く、各一片を執せば真空が即色と為すべからず。」とありますので、空は即心でもなさそうですね。 つまり、心と身(もの)との関係は不明瞭ですね。色は心なのか?色は身(もの)なのか?の説明は「自己の身心及び世界の統一の根底」としかいっていませんから、分けてはいないように思います。前提として、心と身は色心不二として一体であり、つまり、一つで二面性として捉えているようですね。 私が逆観として説明したように段階的に捉えてはいないように思います。 それが間違いというわけではないのですが、分かっているような?いないような?点がありますね。 般若心経での空性は、「空性においては、色は無く、受、想、行、識も無い、 眼、耳、鼻、舌、身、意も無く、色、声、香、味、触、法も無い. 眼で見た世界(眼界)も無く、意識で想われた世界(意識界)も無い」とあるように、如来の本質は分けられるものではありませんが、目で見た現象も現に存在しますし、意識としての心もあるわけですから、どう説明できるかが悟りですね。ここでの空性の説明が(四)物心無寄観に当たるべきものだと思いますが、これを捉えて、色心不二といえば、肉体も心も空にはなりますが、それでは「亦、般若の真空の本質には物質も精神も無しとの偏眞の一面のみを執せば現象と本質一致の理あることなし。」と同じになってしまいませんか。これを防ぐには段階的な説明が必要になるか、逆観ではなく、「如来の本質」つまり、「無量寿光」から観ることが必要になるのですね。 [空]は決して空言や無ではなく、実世界でも役立つものであるし極めれば仏の本質にまで至る深淵なる思想なのですね。
その他の回答 (2)
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
(一) 會色(物)帰心観(二)色心不二観(三)物心無礙観(四)物心無寄観 これから、「空=心 即是=不二」か?という質問でしたか。 1と2までは、まだ差別知の段階ですから、物と心は別体と認識するけれど切り離せないという段階ですね。これが色心不二ですね。 3の段階で、物も心も同じと認識する段階ですね。これが、色不異空、色即是空の段階ですね。(註:般若心教はこの辺の教えですね。) 4の段階は物も心も実は空なんですよという段階ですね。これは、お坊さんの説明はちょっと意味不明な点がありますが、付録の「答えて曰く宇宙一大心霊に寫象と意志との二属性を有す。」とありますので、宇宙を釈迦如来の本質と捉えれば、いいと思います。正しくは無偏光(無量寿光)と法身(理性)の2面があり、これは真理物理学的にいえば、意思のある高次元の巨大な光(仏のエネルギー:無量寿光)という意味ですから、物も心も無量寿光の一部にほかならないと看破する段階ですね。これが真の空の意味ですね。 ここでの空の意味は、無偏光(無量寿光)の意味ですね。 今までの説明は物質世界からさかのぼって観る逆観ですね。(逆観は法身(無量寿光)が地上に肉体(応身)を持つ時に自身を看破して見破ることですね。これが報身ですね。報身があるから仏教の教えがあるということになるのですね。) 無偏光(無量寿光)からですと、高次元の無偏光(無量寿光)が無偏光(釈迦如来)の念いにより光になり宇宙になり、銀河になり恒星になり惑星になり生物になったということになるのですね。だから全ての物に光エネルギー(物質)と意思の二面性があるとなるわけですね。これが客観と主観の二面性ですね。 さて、理解可能な程度にちょっとの説明ですが、質問に振り返って、 「空=心 即是=不二」か? については(四)物心無寄観の段階ではその通りであり、(一)會色(物)帰心観(二)色心不二観(三)物心無礙観の段階ではまだ違うという2通りの答えになるのですね。 わかりますでしょうか? エネルギーに意思があることを認めればこんな複雑な段階はいらないんですね。それが仏性の本質なので、実は簡単なことなんですがね。
お礼
mmkyさんのレベルでの感想は無理なのが、残念。 少しばかりの疑問は、これまで取り上げた「四観」に段階、レベル、の様なものがあるんだろうかというものです。今はまだ、よく分かりません。 mmkyさんにはぜひ目を通していただきたく、この「四観」の祥論があるので再度“あやまち”である事を承知の上で、ここに載せてみようと思います。 「四観」の(二)色心不二観にあたる「空即是色観」です。他は私のブログで、早急に紹介します。 二、 空即是色観 真空の本質が主観客観の萬象となるも其の根底は一なり。根底一なるを証せんには自己の精神は他の精神と同じきを以て、人類の精神も進化の原始に遡れば、動物のと同じ形式によりて精神生活を営むものなれば、二者の根底は一なり。動物の劣等なると植物とは心理的内容は差別なく、アミーバの如きは動物とも植物とも成り得べき性態なり。尚進めば心理の内性は有機物より無機物自然の分子にも不識的意志なかるべからず。 自然の現存にもまた不識的意志【人間のような“意識”は無いけれど、と受け止めてはいるのですが?】なかるべからず。言を換えて言わば自己に精神あるが如く宇宙自然界も精神なかるべからず。物体と精神とは一体の二面なり。自己を外観すれば物体のみにして内面より観ずれば全体精神のみ。他の内面は我、之を証する能(あた)はざるも同一の形式なれば他も我と同じく外面は物質なれども内面は精神なりと推論することを得。 人のと同じく内面は不識精神ならざるべからず。之を動植物より乃至無機物より自然の実在にも精神なかるべからず。 各個人精神の本質なる宇宙も外面より見れば物質なるも内面は精神ならざるべからず。 物質と精神とは一体の二方面と云うことを得べし。其の根底に於いては一なり。 また能観と所観とは即ち現存と意識とは本質一なり。現存の内容は意識と同じく観念的なり。物の実現は意志の力による。世界の観念内容が物と現れたる裡にも同一大観念の故に認識することを得べし。 実体の内面の動機が外面の因果と現るる故に、動機と因果とは同一の活動を内外二面より見たるものに外ならず。 二者の本質が一なりとて現象には異なしと言うべからず。観念内容は観念的の故に未だ意識的にあらず。意識内容は意識的の故に現存ならず。 色即是空の理は能観の意識も所観の現存も一体にして主観と客観とは同一の本質の内外両面に外ならず。 世界万物となりて働くも人の精神に活くも之を統一的根底を究め之を統一するものは絶体眞質なり。之によりて解脱を求む。 理論としては、自己の身心及び世界の統一の根底を如来の本質なりと識り、解脱の為には個人の根底なる絶対、即ち如来の目的に一致することを目的とす。 真空の本質を離れたる現象あることなし。然るに外道及び二乗が執する如く、本体断空ならば世界は何の根底によらん。 又、唯物主義や唯心論者の如く、各一片を執せば真空が即色と為すべからず。亦、般若の真空の本質には物質も精神も無しとの偏眞の一面のみを執せば現象と本質一致の理あることなし。 若し、主観と客観とは一体の両面にして、宇宙本質は如来一大法身にして、また一切の根底は即絶対の本質なるが故に、座を立たずして如来の中に安立することを得ん。 回答ありがとうございました。(2012/5/25 14:30)
- NemurinekoNya
- ベストアンサー率50% (540/1073)
(三)物心無礙観、(四)物心無寄観 の説明を読んでの率直な感想から述べます。 もう、僕の乏しい論理的思考力、知力を超越しています。僕には、理解不能。 そのことを前置きして、 どちらの説明も、僕には言葉遊び、概念をもて遊んでいるように思えてなりません。 唯識・法相の教義を持ち出し説明をしたかと思えば、今度は三論・中観的な考えを持ち出す。そして、今度は仏身(法身)・法界論ときたぁ~。 しかも、それをご都合主義で使い分けて説明をする。 唯識法相、三論中観を大乗始教とし、華厳経の教えをそのはるか上位に置く、階層的な華厳教学では首尾一貫した論理なのかもしれませんが、 僕は「う~ん、これでいいのか」と疑問に感じてしまいます。 理由は以下の通りです。 ~~~ 《色心不二観》ですでに、主客は消滅し、色心不二になっている。般若の智慧・無分別智の観点から、現象の無差別、法界の一味平等は出てくるはず。なのに、なぜ、主観・客観を立て、《物心無礙観》《物心無寄観》を説明するのか。 少なくとも、僕の乏しい思考力では、 (三)物心無礙観、(四)物心無寄観の説明は論理的整合性を欠いているように思えてなりません。 この前の質問、つまり、 http://okwave.jp/qa/q7485090.html のNo.9で、あなたへの質問の形で提示した僕の疑問・反論 《色心不二観》は《色心象不二観》 だとするならば、主観と客観は依然残ったままなので、 (三)物心無礙観、(四)物心無寄観 の説明は、ある程度、納得できるのですが…。 ~~~ と思い切り批判している反面、同時に 『仏教修行の観法としてはありなのかな』 とも思っています。 『悟りにほど遠いこの世の人間が、《色心不二観》を行ったところで、 その行中でも主客の対立は消滅しない。 人間の迷妄はそんな生易しくなく、はるかに深くて、執拗だ。 その迷妄を取り去るためには (三)物心無礙観、(四)物心無寄観 が必要である』 というわけで。 まぁ、僕は、仏教、ましてや深遠な華厳の教えをさっぱり理解できないので、 おバカな僕のつぶやき、独り言、戯言だと思って、 「バカな奴」 と思い切り笑ってやってください。 では、本題。 ☆☆☆ (三)物心無礙観 客観の物と相と主観の心の象とは本同一本質の物なる故に、相互に、相互に礙(さ)【さまたげる】へるものでない。吾人の観念は山河大地の内にも徹して碍(さまた)げず。試みに冥想観念して見給へ。吾人の観念は大地の中にも徹照して毫も妨げず。 されば吾人の観念中の萬物とも云い萬物内存の観念とも云い得らる。吾人の主観も法界に周遍して遺すことなく客観の萬物も宇宙に偏在して餘(あま)す所無し。然も相互に障碍せず。同質異現なり。之を佛心無碍観と云ふ。【物心無礙観が物心無碍観となっているのが不思議】 この説明で、やっぱり、僕が最も苦手とする「事々無礙」みたいな華厳独自の考え方でてきましたね。 観法なんかしたことがないから、この考え方、全然、分からないんだよな~。 もはや、(僕の乏しい)論理や知性を超越しているし…。 要するに、前半部分は、 『《色心(象)不二観》で、心外の色と心象は一致している。 その、曇り・汚れ(煩悩・無知など)のない心の眼で見れば、外界の事物の真実相に到達できる。 もはや、それを《礙(さ)【さまたげる】るものない》 なぜならば、色心(象)不二・色心(象)一如だからである。 』 みたいなことを言っているわけですよ、たぶん。 後半は、 『事物の真実相にまで到達しているから、それは法界におけるそれと合致している。おたがいにじゃまをしあうこともない。法界とは法身仏そのもの(みたいなものだから)、事物の真実相は、(法身)仏の真実相である。本来、事物と(法身)仏は同質なものであるが、縁によって我々に違った姿を見せているだけである。ゆえに、物心無礙観は佛心無碍観と云える』 みたいなことを言っているわけですよ、たぶん。 《同質異現なり。》 この考え方は、たぶん、華厳独自のもの。 華厳教学には、 縁によって、法界から、物質的・精神現象がこちらの世界に流れてくる みたいな真如・真理観があるから。 この真如観をたしか「真如随縁、ホニャララホニャララ」とか言うんだけれど、 「ホニャララホニャララ」の部分、忘れちゃいました。思い出せないのでごめんなさい。 この真如・真理観をもって、 華厳宗は 『真如を死物視し(真如凝然)、真如が随縁であることを知らない。 唯識・法相、三論・中観の教えはまだ浅い。』 とします。 たぶん、そうした教義的背景から、 《色心不二観》の上に《物心無礙観》 を立てているのではないでしょうか。 でも、僕は「事と理、相と性を、区別してないんじゃないの?」と反論したくなりますけれど… ☆☆☆ (四)物心無寄観 宇宙は本来絶対観念にて、宇宙自体は絶体にて主観とか客観とかの相待的のものに非ず。但し相待に規定せられたる衆生は客観の物象と主観の心象と見てをる。人間は自分から主観とか客観とか両面に分けて見てをるけれども絶対者自身より見れば、主観とも客観とも別々に分別して居らぬ。絶対である。之を物心無寄観と云ふ。 いや~、僕の乏しい知力では、 (四)物心無寄観が (一)會色(物)帰心観と(二)色心不二観 と、どう違うのか、さっぱり分からない。 《色心不二観》で主観と客観はすでに消滅しているのに、なぜ、ここで主観と客観が再登場するのか。 論理一貫性を欠いている。 論理的整合性をもたすには、《色心不二観》を《色心象不二観》と考えるしかない、ように思えます。 それとも、 「《色心不二観》を達成しても、まだ、主観・客観の残滓(ざんし)が残っているという」ことの表明か? 六識(眼耳鼻舌身意識)の他に、根源的な自我意識である末那識、 そして、その背後に潜む、物質・精神現象のすべてを生み出す阿頼耶識を想定すれば、 これはありえそうです。 《色心不二観》は六識の段階。その背後では、末那識や阿頼耶識がたえず蠢き、輪廻の原因となる業を作っている。その打破には、この観法が必要ということか? ならば、《相待に規定せられたる衆生》という表現とある程度の整合性を持たせることも可能かも。 でも、唯識的すぎるな、この解釈。 それとも、「般若波羅蜜を完成しても、その悟りは、絶対者から見れば、まだまだ浅い」ということの表明か。 たぶん、そうなんでしょう。 あえて、別建てにしているからには、それ相応の理由があるはずんでしょうから。 でも、この説明では、なぜ、この観法が《物心無寄》になるのかを説明していませんね。 突然、どこかから絶対者(たぶん法身仏)って概念を持ち出し、その説明を避けている。 「宇宙は絶対観念」 「宇宙自体は絶体」 「絶対者から見れば」 これを書かれた「お坊さん」、この短い説明内に《絶》のつく言葉を、いったい、いくつ、お使いになられれば、気が済まれるのでしょうか。 わたくしには、遠くからでも窺い見ることのできない、はるかの高みに達しております。。 ☆☆☆ ”付録"の「物体の触覚は絶対心の意志」の説明です。 この「お坊さん」のおっしゃる《意識》というのは、仏教用語でいう《行》です。 五(色受想行識)蘊に出てくる《行》ですね。 この《行》には狭義と広義の意味があります。 般若心経などで出てくる《行》は、狭い意味のほうで、人間の《意志》くらいの意味。 広い意味のほうは、諸行無常の《行》。こっちは、広い意味の方で、物質・精神現象を作る、形成する《力》みたいなもの。こちらを日本語に訳す時は「形成力」とか「構成力」みたいに訳すのよ。でも、諸行無常の「行」はその《力》の意味ではなく、「その力で作られたもの」って意味。この区別は大事。 で、 この「お坊さん」は、《行》を狭い意味と広い意味、つまり、ある時は、《意志》、そしてある時は《形成力》というふうに、《行》の意味を自由自在に使って、宇宙の神秘を解き明かしていらっしゃいます。 これぞ、 ”事事無碍(じじむげ)、融通無碍(ゆうづうむげ)、一即一切・一切即一!!” (の境地から)の説明と、こころから感服しております。 わたくしには、とても真似のできない説明です。 ☆☆☆ ☆如来の本体は絶体の大心霊体であって、知力と意志という属性があって、その心相は日光の遍く六合に照り渡る如き心の光明であるらしい。 その光明は、法身の四大智慧と報身の智慧との両方面があって、法身の四智は自然の一切の萬法に遍く亙れる理性で、それは一大観念と一大理性と一切認識の本源と一切感覚の本源である、らしい。 の回答は、すこしお時間をください。 考えます。 ☆☆☆ 「ひとのみち」さんに送った質問のアドレス、分かりませんか?
お礼
Nyaさん(失礼)は私よりはるかに深い思考の世界に居ます。 正しく読み取っているかは判然としませんが、この文章から華厳の教えを思い浮かべることが出来るというので、そのことが分かります。 よく見ればこの文章の前に“断り”と云う形で「今、華厳法界観の會色帰空観等の四観を物心即一観に転用せば」と在りました。 学ばれているからこそですね。 mmkyさんの回答にどんな感想を持たれたのか興味が湧いてきました。 回答ありがとうございました。(2012/5/26 19:05)
補足
探したらありました。 7ページほど前に質問のタイトル「仏教は宇宙についてどー説いているのであろーか」に回答として贈りました。 書籍のタイトル「無辺光」の総論です。 宜しくお願い致します。
お礼
私の無学はNyaさんのお礼でも表明しているように、仏書と云えば入門書的なものを少しかじっただけ。 それに知力も弱いので“学”は身につかず、だから四観から華厳を連想することもなく、思えばこのお坊さんの書籍にはたぶん白紙の状態で接している、と云う事なのでしょう。 従がって批判的に接することなど全くなく、mmkyさんの疑問に“えっ、なんで”といった気持ちになる有様。 今回は大変勉強になりました。 mmkyさんの指摘する事が理解できるようにさらに読み込んでみたいと思います。 回答ありがとうございました。(2012/5/26 19:25)