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カント哲学について教えてください
こんにちは。 大学で、カント哲学についての課題が出ました。 とにかくちんぷんかんぷんで、質問すら的確にできない 状況なのですが、ひとまずキーポイントである 「自由と自然の二元論」の意味が分かりません。 どなたか教えていただけると幸いです。
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補足拝見いたしました。 答えやすいところから。 理性と悟性については http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690 で回答していますから、そちらを見ていただければ、と思います。 とくに、「感性」「悟性」「理性」および「現象」「物自体」はカントを読んでいく上で最重要のキーワードですから、きちんと頭にいれておいてください。 >「汝の意思の格律が常に同じに普遍的立法の原則として妥当し得るように行動せよ」 むずかしいですね。もうちょっとわかりやすく言い換えてみましょう。 「あなたの意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行動しなさい」 この格律というのは、簡単に言ってしまえばポリシーです。 あなたの決めたポリシーが、いつ、いかなる場合でも、だれにも当てはまるように行動しなさい、と言っているわけです。 いつ、いかなる場合でも、だれにも当てはまるようなポリシーとはなにか。 それに関しては、後述します。 ・理論理性と実践理性のちがい 理論理性いうのは、対象を理解したり概念化したりする理性の理論的知識のことで、実践理性というのは理性の実践的知識ということだ、とカントは『純粋理性批判』の前書きで言ってるんですが、前半はともかく、後半はこのままではなんのことやら、ですね。 理性の実践的知識とは何か、別の角度から見てみましょう。 カントはすべての人に、いつ、いかなる場合でも当てはまるような道徳の規則はないものか、と考えたんです。 たとえば、お年寄りには親切にすべし、という道徳律を立てたとする。 で、この道徳律にそって、電車の中で席を譲ったとする。 ところが譲られた人は、なんとなく不機嫌な顔になってしまった。 年寄り扱いされたことに腹をたてたわけです。 なんでそういうことになってしまうか。 それは、経験によって導き出されたものだから、普遍妥当性を持ち得ないのだ、とカントは考えます。 真の道徳は、個々人の経験から導き出されるものであってはならない。 別の言い方をすると、対象によって引き起こされる快・不快の感情に基礎をおくものであってはならない。 こうすればあの人も喜んでくれるだろう、と思って行動するのは、結局は自愛ないし自己の幸福を目指したものにすぎないからです。 「もし幸福になりたいと思うなら~しなさい」という道徳律を、カントは仮言命令として退けます。 真の道徳律とは、幸福などのほかの目的を達成するための手段としてあるのではなく、それ自身が目的となるようなものでなければならない。従って、そこで与えられるのは、ただ「~しなさい」と命ずる定言命令でなければならない、と考えたのです。 こういう定言命令を経験に拠ることなく見出す理性が実践理性なのです。 >「道徳補完的連続性の宗教」 ごめんなさい。これ、わかりません。 どういう文脈で出てきた言葉なのかがわかれば、もしかしたらわかるかもしれませんが、カントが宗教をどう位置づけていたのか、ちょっとわからないんです。カントの宗教に関する著作までちょっと手が回ってない(^^;)んで、ここらへん、ご存じの方にお願いしたいと思います。
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- ghostbuster
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課題がどういったものかわからないので、ちょっと回答もしにくいのですが。 まず第一段階として、ものすごく大雑把な回答をします。 さらに正確なところ、詳しいところをお知りになりたければ、補足要求してください。 あと、これはあまりに雑ではないか、と思われる方がいらっしゃいましたら、どうかご指摘ください。 二元論とは、簡単に言ってしまえば、この世界はふたつの異なるものからできている、という考え方です。 カントは世界を「自然の国」と「自由の国」とに分けます。 自然の国とは、感性の世界です。 動物はこの世界の住人であり、この世界を支配するのは必然性です。 自由の国とは、叡智(理性)の世界です。 神や天使はこの世界の住人で、肉体を持ちません。この世界を支配するのは「目的」です。 そして、人間はこのふたつの世界にまたがって存在する、と考えたのです。 カントは動物と人間のちがいを「本能」にあると考えました。 動物は本能に縛られた存在で、本能のまま行動します。 本能に定められたまま行動するので、その行為の結果は必然でしかありえません。 人間は自然の一要素である肉体を備えた存在であるけれど、それだけではなく、理性を備えている。 それゆえに、完全に本能のまま行動するのではなく、自分で考え、決定することができます(自律)。 これがカントのいう「自由」です。 人間は「自然の国」に肉体を置きながら、理性を持っているがゆえに「自由の国」の住人でもあるのです。 カントはさらにこの「自由の国」を「目的の国」とも呼ぶのですが、なぜそうなのか。 それは、お互いがお互いを「目的」として取り扱う国だからです。 目的として扱うということはどういうことかというと、 No.668603 質問:カント、ベンサムとミル http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=668603 の回答#2の前半で書いていますので、良かったら参考にしてください。 人間は、事実としてこのふたつの国にまたがって存在しているけれど、このふたつの世界の断絶は、人間のうちにあって克服されるべき、とカントは考えたのです。 ほかにもカントはいくつか回答しています。 No.671187 質問:カントの考える自由 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=671187 No.748690 質問:ショウペンハウアーやカントの「意志」 http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=748690 の前半 こうした回答が参考になれば幸いです。 わかりにくいところがあれば、補足してください。 *専門家ではないので鵜呑みにしないでください! あくまでも私がこう読んでいる、ということに過ぎないことを、くれぐれも理解しておいてください。
補足
ghostbusterさん、詳しい回答ありがとうございます。拙い質問に回答くださったおかげで、ようやく分かり始めました。お言葉に甘えて補足させていただきます。 二元論に関係していると思われますが、理論理性と実践理性の違いについて少し悩んでいます。「汝の意思の格律が常に同じに普遍的立法の原則として妥当し得るように行動せよ」とは実践理性のことのようですが、これはどのような意味なのでしょうか。 さらに「道徳補完的連続性の宗教」との関連性はどのようなものでしょうか。 あと、理性と悟性は同じものだと考えていたのですが、違いますか? 長々と申し訳ありません。回答いただければ幸いです。
お礼
再度の詳しい回答ありがとうございました。 理解も深まりましたので、現在課題にとりかかっています。また落ちつき次第お礼をさせていただきます。 ありがとうございました。