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法哲学のレポートのテーマについて

こんにちは。 大学の法哲学の授業でレポート課題を出されたのですが、テーマが思いつかなくて困っています。というか、どうも興味のあるテーマが見つかりません。 それくらい自分で考えろ!っていう感じなのですが、ぜひ誰かの意見を聞きたいです。 過去にはアファーマティブアクションと、ロールズの正義の二元論について書いたことがあります。 これ以外に法哲学に関するテーマで「これ面白いよ!」っていうのはありますか?ぜひ教えてください。よろしくお願いします。

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  • Nakay702
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回答No.1

>大学の法哲学の授業でレポート課題を出されたのですが、テーマが思いつかなくて困っています。というか、どうも興味のあるテーマが見つかりません。 >それくらい自分で考えろ!っていう感じなのですが、ぜひ誰かの意見を聞きたいです。 >過去にはアファーマティブアクションと、ロールズの正義の二元論について書いたことがあります。 >これ以外に法哲学に関するテーマで「これ面白いよ!」っていうのはありますか?ぜひ教えてください。よろしくお願いします。 ⇒「アファーマティブアクション」と聞いて思いついたのですが、それと関連するテーマで「差異と差別」という論題はいかがでしょう。簡単に言えば、差異は自然的区分であり、差別はいわば(しばしば悪意を持った)人工的区分ですね。しかしこの2つの概念は現実には往々にして混同が起こります。 (1)かつてフェミニズム運動が世界的に盛り上がったときに、ある印欧語の辞書編集者が、名詞・形容詞などの代表形を男性形とするのをやめ、ジェンダーに関係なく、純粋にアルファベット順に語彙を配列した。その結果できあがったものは大変な代物で、統一性や整合性を欠き、全然使いものにならなかった。 (2)日本のある公共団体で、都会の子供が自然を身近に体験できるよう「子供自然公園」を造った。目的に適うよう、山あり、川あり、滝あり…と自然をそのまま再現することを目指した。ところが水周りについては、子供が溺れることのないように、川のどこでも、子供が立ったとき顔が水面に出るような深さにした。それで、本来の自然界でなら深いはずの滝壺がフライパンのような形になった。「フライパン」の中で楽しく遊んだ子供が、後年本物の滝壺で溺れる、といったことのないように祈るばかりである。 (3)アメリカでaffirmative action(差別撤廃運動)が起こったとき、それに呼応して差別用語の撤廃運動も起こった。そして、例えば、Mr.に対して、Mrs.でもMissでもないMs.が登場し、cripple(かたわ)を廃して、physically handicapped(身体障害者)が用いられるようになった、等々。そこまではよかった。ところが、short(ちび)をvertically handicapped(垂直方向に不自由)などと言うようになると、もはやこれはお笑いの世界である。あるアメリカは、これをpolitically correct(政治的に正しい)などと揶揄しているとか。 (4)ある語学参考書の中に『シンデレラ』の物語が採用されたが、なぜか一部が抜け落ちていた。ガラスの靴をシンデレラに履かせてみようとする使者に、継母が「時間の無駄ですよ。その娘は卑しい掃除女ですから」と言う場面である。欠落の理由を出版社に尋ねたら、「掃除を職業とする人に対する差別表現なので削除した」というのがその答えだった。 (5)かつて昭和天皇が四国の阿波踊りを観覧した際に、「踊る阿呆に見る阿呆…」の後半「見る阿呆」は天皇陛下に失礼との意見が出て、その部分を削除したとか、変更したとか!…などなど。  以上の5例は、共通にある種の現代的病理を示しているように思われます。(私はこれを「正し過ぎ症候群」と名づけたことがあります。)それは、表面上は似ているが、本質はまったく異なる事柄を混同しているところから来る、と考えます。おそらく、自然から由来する、あるいは自然に応じた必然性のある「差異」と、人為的になされる、無用の、ないし悪意のある「差別」との混同ではないでしょうか。  かつて高校野球でよく聞かれた「○○高校倒せ~!」という応援が今はまったく聞かれなくなりました。高野連によって禁止されたからだと言われます。「野球の試合で、相手を倒す」ことのどこに悪意があるというのだろうか? また、小学校の運動会の駆けっこで、差別を避けるために1等2等などの順位をつけないことにした学校がある、と聞いたことがあります。それでは、何のために駆けっこ(競争)をやらせるのでしょうか?  このような、無意味な「配慮」をすることに、一体いかほどの意味があるというのでしょうか? むしろ害悪のほうが大きいのではないでしょうか。それはまさしく、「差異」と「差別」の混同の何物でもないと思うのです。なぜこのような世相が登場したのでしょうか。思うに、現代人の意識が「洗練」され過ぎ、人工性に毒されてしまった結果ではないでしょうか。あるいは、人間本来の感性を侵されて軟弱化し、自然を有り体に見られなくなった結果ではないでしょうか。このような勘違いが今後も営々と続くようであれば、現代人はますます軟弱化し、脆弱化していくこと必定であろう、と憂える次第です。  以上、個人的な憤りの類をヒステリックに書きましたが、この私見の部分はさておき、質問者様にご提案したいのは、冒頭にも掲げたとおり、「差異と差別の考察」です。副題として「現代社会の世相を剔抉(てっけつ)する」とでもするのはいかがでしょう。すなわち、「差異と差別の考察 ― 現代社会の世相を剔抉する」です。ご参考までに。

tsubaki0107
質問者

お礼

丁寧な回答ありがとうございます!具体例まで書いていただいて、非常に参考になりました! 差異と差別ですか…私たちの生活でも度々議論になる問題ですね。アファーマティブアクションだけでなく、授業で扱った平等に関する様々な論題を絡ませながら書くことが出来そうで、とても面白そうです。 さっそく図書館に行って、関係しそうな本をたくさん借りてこようと思います! ありがとうございました!