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カントの「要請」に関する質問
- カントの「要請」と「信仰」についての質問です。カントは「信仰に対して場所を得ておくために知識を取り除かねばならなかった」と述べていますが、この「信仰」とは神の存在、魂の不死、自由の3つを「要請」することを意味するのでしょうか?
- カントの「要請」と「公準」についての質問です。道徳の実践のために神の存在、魂の不死、自由を「要請」するとき、それは「公準」とは言えないと聞きました。一般的には「要請」は「公準」の意味もあるとされていますが、どのような場合に「要請=公準」の意味になるのでしょうか?
- カントの「要請(する)」という原語についての質問です。カントは「実践理性批判」で「要請(する)」と訳される原語として、名詞のPostulatと動詞のpostulierenの両方を使用しています。これらの中で主に使用されているのはどちらでしょうか?
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いい加減な情報がネットで流れているのでしょう。 カントが名付けた「実践理性の要請」の要請(Postulat)とは、カントが古典数学から借りてきた概念です。 それは「演繹体系の構築に必要な、明証的でも明証的でもない命題」を意味し、もともとはラテン語の動詞postulare(要求する、要請する)に由来する語です。 カントは、理論理性による認識によっては肯定的にも否定的にも論証不可能な形而上学の対象である「自由」、「霊魂の不死」、「神」を実践的行為がそれなしには成り立ち得ない欠くべからざる前提という意味で、「実践理性の要請」と名づけたのです。 以上、坂部恵の解説によるものです。
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- bokeyu
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No2ですが訂正します。 明証的でも明証的でもない命題⇒明証的でも証明可能でもない命題 です。 ちなみに、現代数学の公理論いおいては「公理」と言っていいかもしれません。
>「私は、信仰に対して場所を得ておくために知識を取り除かねばならなかった」 私はカントについては、純粋理性批判の一節しか知らない者です。 狭い解釈になりますが 上記の言葉は 感性と悟性との関係において 信仰を感性と見なし、知識を悟性と見なしているように感じました。 それは、直観と分析的思惟との関係でもあり 直観の働きが、分析的思惟の働きに優先するという、別な言い方でもあるように思います。 感性が悟性に与えるものは、悟性にとって「公準」や「要請」を意味するのではないでしょうか。 それは、たとえ不可解なものであっても、悟性においては、受け入れざるを得ない命題である といった事のように思います。 >取り除かねばならなかった とは 受け入れざるを得ないものを示しているのではないでしょうか。 感性が与えるものを、悟性が無条件に受け入れている という解釈をするならば 信仰における感性面の重要さを言い表しているように思います。 信仰とは知識ではない と言っているようにも思います。 知識の神は 神ではない とさえ言っているようにも感じられます。 以上は私の狭い解釈ですが その延長線上にあるものは 信仰における危険性であるのかもしれません。 神の存在を無条件に受け入れる という信仰の有り方です。 その事を最終的なものとするのかどうかが問われてくるのではないでしょうか。 カント自身は、神の存在を無条件に受け入れる事を、最終的なものとしたのかもしれませんね。 そんな気がします。 参考にしてください。
お礼
ご回答ありがとうございました。たいへん参考になります。
お礼
ご回答御礼。ところで坂部恵の解説は、典拠も書いてほしかったです。著書名です。 カントは、「神の存在」や「魂の不死」や「意志の自由」を「実践的行為がそれなしには成り立ち得ない欠くべからざる前提という意味で・・・」というなら、それはまさに「公理」であって「要請」ではあり得ません。そこに「要請」などという言葉を持ってくるから文として成り立たなくなるわけで、どうして「公理」とか「公準」という訳語に1本化しないのですか?何故、日本の翻訳者なり紹介者は「要請」などという言葉を使ったのでしょうか? この点に関しては、また質問させて頂きますので、その時は前述の典拠も含めて、また御教示をお願い致します。 そもそも日本語で「公理」と「要請」では全然、意味が違うでしょう? そうではなくて「公理」や「公準」の説明語として「要請」という言葉も使われるというだけのことです。 ウィキペディアでいえば、「公理(Axiom)、それに準じて要請される前提を公準(Postulate)」といった表現です。このように「公理=要請」でもなければ「公準=要請」でもなく、「公準=公理に準じて要請させる前提」です。 どうしてこのような日本語の使い方を無視して、同じpostulatを「公準」だけではなく「要請」とも訳すのかがわからないのです。これは日本語としては言葉の誤用ですよ。 日本人のカントの翻訳者なり紹介者がいけないと思います。彼らが本来、上記のような関係にある「公理」(または「公準」)と「要請」とを混同させる訳し方や説明をしてきたのです。それで読者が混乱するのです。 「明証的でも証明可能でない命題」ということなら、日本語的には「公理」とか「前提」というなら解りますが、「要請」とか「要求」ということとは異なります。そう思いませんか? ふつう、「要請」と言うのは相手があって、文字通り、その相手に何らかのことを請けさせる(=行なわせる)ことです。しかし「公理」というのは相手に何かを使役する事柄を意味しません。 「要請」とか「要求」は動名詞であり「公理」とか「公準」は名詞であるという日本語の訳語としての根本的な違いを問題にしたかったのです。 ドイツ語でも動詞postulareについては日本語の訳語も動詞なり動名詞を用いなくてはなりません。だから「公理(化)する」といった訳語を造るべきなのです。これを「要請する」というからおかしいのです。 「前提(する)=公理」ということならまだわかるのです。しかし、「要請(する)」と「前提(する)」はイコールとは言えませんよね。やはり「要請(する)」というのは使役です。 哲学であろうと何であろうと、違う意味の言葉が一つの外国語の訳語として通用するというのはおかしいのです。日本の哲学者は外国語を翻訳する場合、かなり造語を要したはずです。カントの場合も「公理(化)する」とか「公準(化)する」という言葉を造る必要があったはずです。それも日本語としておかしいと言えばおかしいですが、違い意味の言葉を用いて混乱を来すよりはマシだと思います。