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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。∽《聖なる甘え》)

ハ格とガ格のはたらきについての探究

このQ&Aのポイント
  • 日本語の基本構文であるAハBガCについての探究。
  • AハBガC構文は始原的な自己表出を含みながら、意味連関も示している。
  • 和文は非線形の構文であり、線形のSVO文型も内蔵している。

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  • ok9608
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回答No.8

言語学については まったくの素人です。ここでの このような質問と答えは 大変勉強になり お礼申し上げます。以下感想です。 少し調査をしましたところ 主語省略の日本語について  三上章、金谷武洋の流れをくむ 岡智之先生が 主語省略ではなく 主語不必要の立場から ir.u-gakugei.ac.jp/bitstream/2309/1169/1/18804314_57_08.pdf で 日本語について述べておられます。日本語は 空間について述べていくかたちになっており それは 主語を必要としない 主題についての文となる という説明のようです。別の説明では 主題は述語論理に対応し、主語は主語論理に対応しています。述語論理は 言葉以前のイメージ的同一性を重視する論理であって、より基底的、より根底的、無意識的である と説明されてます。 Bragelonneさんの聖なる甘えに通じるのではないか と思います。ただし言語学会では まだ少数派のようです。 以下は私の推測です。 人類は自然環境(空間)の中の群れる生き物として発展してきたと思うのです。どのような環境にあって生きて行くことができるかが重要であって言葉もそれを反映して来たのではないか と思うのです。だから人類発祥以来 述語論理(主題)の言葉が続いてきているとおもうのです。ところが 何らかの理由で 群れから 飛び出す人類もいたわけです。 彼ら(個)は 群れ人類よりは 厳しい自然環境、人間環境に対して 立ち向かわざるをえなかったのではないか、と思います。生きて行く上で 個の役割が重要であって 言葉としては個反映して 主語論理になって来たのではないか とおもうのです。主語論理は 英仏独語が突出しているようですが これらが最初の純粋な主語論理語としますと 述語論理から分岐した時点は 以外と人類史のなかの今に近い過去かもしれません。数多くの言語の歴史的、考古学的、民族史的 なつながりが明らかになれば おもしろいと思います 以上失礼しました。

bragelonne
質問者

お礼

 おうけい9608さん こんにちは。いつも読んでいただきありがとうございます。  ハ格・ガ格構文にかんしては 三上章の『象は鼻が長い』のあとには議論がなかったと思っていました。(空白の期間がわたしにはありましたが)。今回は    ○ 岡, 智之:「主語」はない,「場所」はある : 場所的存在論による日本語主語論への一提案  なる論考をおしえていただきありがとうございました。細々とながら 欧米文法の見直しが問い求められていると思いました。  ご回答をありがとうございます。  そうですね。まづは   ★ (むすびのことば) ~~~  主語論理は 英仏独語が突出しているようですが これらが最初の純粋な主語論理語としますと 述語論理から分岐した時点は 以外と人類史のなかの今に近い過去かもしれません。数多くの言語の歴史的、考古学的、民族史的 なつながりが明らかになれば おもしろいと思います  ~~~~~~~~   ☆ に同感です。広範囲にわたる研究があらたにすすめられていくことを今から思っています。  ★ ~~~  ・・・ところが 何らかの理由で 群れから 飛び出す人類もいたわけです。 彼ら(個)は 群れ人類よりは 厳しい自然環境、人間環境に対して 立ち向かわざるをえなかったのではないか、と思います。生きて行く上で 個の役割が重要であって 言葉としては個反映して 主語論理になって来たのではないか とおもうのです。  ~~~~~  ☆ 環境ないし場(あるいは 時空間)につつまれる状態から飛び出して行く人びとも 人類の中には いた。そしてその場合には 主題を一つづつポンポンと提示してゆっくりと話し合うというよりは その主題ごとの意味内容を直線的にすべて串刺しにしてすでに初めから表明するという言語表現のかたちを持ったようです。  《極北の詩人》か《密林の聖者》かとたとえてみましたが いま現代の世界の情況としては むしろ あいまいでユックリな主題提示の方式のほうが 《限界情況にある詩人》かはたまた《周縁に追いやられた聖者》かと見まがう状態になっているかも分かりません。つまり 後者は たとえばわれわれ日本人の――言語類型の視点から見た――情況です。  自然や第二の自然としての社会やの環境や場 これに 自分のほうからも包(くる)まって行くかのように浸(つ)かっている《甘え》の情況は グローバリズムなる流行に合わないということのようです。  主語(あるいはむしろ主体)論理 これが 世界をくまなく突っ走っているようです。  これに 待った! をかけたいというような質問でもありました。      *  岡智之論文は そのようないとなみが続けられていることに意義があると思います。正直に申して そう理解しました。  (1) 《主語》なる概念をきちんと把握していません。と申し上げねばなりません。  《主格語》と《主題語》の意味を持たせているようですが どちらつかずのまま議論しています。  言いかえると 文における主格(つまり 論述の述格と意味連絡する主格)とそして話し手が提示する主題(つまり意味連関をまだ話者は決めずに言い出す主題)とは そもそも文の構造における位置づけが違っています。  主題提示をそれとしてはっきりおこなう日本文や韓国文では これらの主(S)・述(V)・対(O)の格関係は それがどのように成り立つかについて 二の次の関心事です。したがって 後者の意味連絡は 文が表わされたそのあと二次的に決まる。しかもそれは 別の筋道として成り立つ。  よって この(α)構文による文は 主題提示層と線形論理層との二層構造になると考えられます。これを措いて 話はすすまないと考えます。  (2) 日本文などが重視する《述語論理》は 《場》が優先されると言いますが 表現としてはそういうかたちが 欧米文の《主語論理》の文型においても成り立つと見なければなりません。  ( e-Greek ): Ἐν  ἀρχῇ  ἦν  ὁ  λόγος            ( En  arkhe  en  ho logos )  ( e-English ):In the beginning was the Word  ( e-Japanese ): はじめに ことばがあった。(ヨハネ福音1:1)  このように《はじめに》は 《場ないし時空間》です。それが優先される表現も じゅうぶんあり得ます。  (3) あるいは 次の文例です。    ( f-Hebrew )בְּרֵאשִׁית בָּרָא אֱלֹהִים אֵת הַשָּׁמַיִם וְאֵת הָאָֽרֶץ׃       ( be-resit bara elohim et-ha-samaim w-et-ha-arets. )  ( f-E. ): In the beginning God created the heaven and the earth.  ( f-Jp. ): はじめに神は 天と地をつくった。  この場合を見ても 《神(S)-つくる(V)-天地(O)》という線形論理が優勢ですが そうではない要素も たとえばやはり《はじめに》という場の提示において見られなくない。その時空間にひとは そのまま包まれると言っているのみであるかとさえ受け取れます。神がどうで何をしたという問題ではなく いまこの世界に位置するわたしは その世界にあるという自同律を表わしただけであるように受け取れます。  そのあと 主語論理(もしくは 主体論理)が神なら神がとして・あるいは人間なら人間がとしてもっぱら独立するかのように表現されるようになった。こう見られます。  言いかえると 言語じたいの罪ではなく 理性やその論理思考を突出させその行為主体としての人間を推し出して来たことの問題であるだけかも知れません。  (4) すなわち 《主体論理の優先》と《場の情況の優先》とは 必ずしも構文や文型の問題から生まれたという見方に限定するのは 早計かと思われます。  ( g-Jp. ):おほきみは神にしませば 赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ (万葉4260)  ( h-Jp. ):おほきみは神にしませば 水鳥のすだく水沼を都と成しつ (同・4621)  これなどは 人間が自然環境をも開拓し開発する姿がうたわれています。まさに《主体論理》が前面に出されています。という例証も可能かと思うからです。  ( f-Jp. ): はじめに神は 天と地をつくった。  と変わらないのではないでしょうか?  (5) よって次のように二層構造を取り出して分析する必要を なおまだ 感じます。どうでしょうか?    ☆☆(No.2補足欄) ~~~~  (α) 《 A‐ハ B-ガ C-ナリ。 / C‐スル。》なる非線形構文     ( c ) 私ハ お前ガ 好きだ。   (α‐1= 狭義のα): 一次として 主題提示の層    《 A-ハ       B-ガ         C-ナリ 。》    中心主題‐ハ格  関係主題‐ガ格  論述主題‐述格・法活用(断定法)   (α‐2⇒ ω): 二次として 線形論理の層    《 (ω) S(主格)‐V(述格)‐O(対格).》文型    ( c-1 ) A love(s) B.(我ガお前ヲ好く)。    ( c-2 ) B love(s) A.(我ヲお前ガ好く)・     ~~~~~~~~~~~~~~

bragelonne
質問者

補足

 ▲ 岡, 智之:「主語」はない,「場所」はある : 場所的存在論による日本語主語論への一提案  ☆ について 論評します。  ▲ (《主語論理》と《述語論理》  pp.103-104 ) ~~~  (ω′)「主語論理」とは,  個々の主体または客体(存在者)から出発し,そうした主体または客体がおかれている所在=場所=述語をその主語に属する性質として論じる論理である。  (ω′‐1) たとえば,    ( i ) 「太陽は輝く」  という文では,太陽という主語が輝くという性質を有すると考える。  太陽という主語がまずあって,この主語に包摂されるものとして輝くという性質を述定するのである。  これは,先に述べた尾上の主語論の前提になっている論理である。  これに対し,  (α′) 「述語論理」は,  所在=場所=述語から出発し,その場所において包み込まれる主体や客体(存在者)について論じる論理である。  (α′‐1) 例えば,「輝く」という所在=場所から出発し,輝くものが包摂するものを同一のものとして論じるのである。  (ω′‐2) 主語論理からすれば,女性と太陽は,主語,主体としては明らかに異なるものである。しかし,  (α′‐2) 輝くという述語的同一性のもとで見るならば,女性も太陽も輝くものであり,「太陽は輝く」,「女性は(男性にとって)輝く」故に,「女性は太陽である」という結論を導く。  (α′‐3) 述語論理は,言語以前のイメージ的同一性を重視する論理である。  (α′‐4) また,述語論理は主語論理よりも基底的,根底的な論理であり,意識を形成するのが 主に主語論理であるとすれば,無意識を形成しているのは主に述語論理なのである。  ~~~~~~~~~  批判を展開します。  (1) 日本語が もし述語論理〔=(α′)〕に従う構文をつくるのならば    ( i ) 「太陽は輝く」  という主語論理〔=(ω′)〕の表現形式がどうして出来るのか? これについて 説明しなければならない。  欧文の翻訳形としてのみ現われるのであろうか?  (2) 次の文例は   ▲ 所在=場所=述語から出発し,その場所において包み込まれる主体や客体(存在者)について論じる   ☆ ものと見られる。これは 反証となる。   ( j-Jp. ) 明日、このしるしが起こる( Exod.8:19 )   ( j-Hbr )  לְמָחָר יִהְיֶה הָאֹת הַזֶּֽה         le-mahar yihweh   ha-ot hazeh         (to-morrow it-will-be the-sign this. )   ( j-E. ) to morrow shall this sign be.(Ex.8:23 )   ( j-Chinese ) 明天 必有 這神蹟。           (明日 必有 此のしるし)  すなわち《とき》としての《所在=場所=述語》が 取り立てて表わされていると考えられる。むろん この種の例はいくらでもあるはずだ。  (3) ちなみに 前項の文例をさらに ほかの言語で見てみよう。   ( j-French ) Ce signe  sera   pour demain.           ( this sign shall-be for tomorrow. )   ( j-German ) morgen soll das Zeichen geschehen.           ( tomorrow shall the sign appear. )   ( j-Russian ) Завтра будет сие знамение.           ( zabtra budet sie znamenie )           ( tomorrow shall-be this sign. )  ここでは わづかにフランス語文例が 《主語論理》のかたちを採っている。  (4) 述語論理(α′)ゆえに   ▲ (α′‐2) 輝くという述語的同一性のもとで見るならば,女性も太陽も輝くものであり,「太陽は輝く」,「女性は(男性にとって)輝く」故に,「女性は太陽である」という結論を導く。  ☆ と言っても そんなタトエは 主語論理の言語でもいくらでもあると言わねばならない。   ◆(旧約聖書・雅歌 2章) ~~~  2章 1節(女がみづからをたとえる) わたしはシャロンのばら、野のゆり。     I [am] the rose of Sharon, [and] the lily of the valleys.  2章 2節(男が女をたとえる)  おとめたちの中にいるわたしの恋人は 茨の中に咲きいでたゆりの花。      As the lily among thorns, so [is] my love among the daughters.  2章 3節(女→男)  若者たちの中にいるわたしの恋しい人は 森の中に立つりんごの木。わたしはその木陰を慕って座り 甘い実を口にふくみました。  ・・・  2章 9節(女→男)  恋しい人はかもしかのよう 若い雄鹿のようです。ごらんなさい、もう家の外に立って 窓からうかがい 格子の外からのぞいています。  ・・・  ~~~~~~~  ☆ 主語論理というのは 主体意識のつよい表現形式であって そのような主知主義的な側面の問題であるのではないか? 近代人の理性にかかわるような。  それは 構文や文型との直接の対応を持つものではないと見られます。日本文などの(α)構文においても見られると言わねばならない。  また 述語論理は (α)構文にかなりなじむ表現形式だと見られるけれども 主格語を推し出す(ω)文型においても じゅうぶん用いられると見なければならない。  また (α)構文の日本文でも 主体意識を推し出した主語論理の表現はあり得ますから。  ○ 『おほきみは神にしませば 赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ』→    =おほきみハ おほきみガ 神にしませば 赤駒の・・・。    こう表現していると――現代から見て―― 捉えられます。  こう考えます。 

その他の回答 (13)

  • vasco
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回答No.3

ボクシングはキング・オブ・スポーツであり、ドラマと感情の凝縮であり、小宇宙の現れです。 「興味ない」などとは言わないでください。 人が求める真理はすべてリングの上にあります。言語を構成を読み解くまでもなく、人間のすべての自己表出、論理展開、そして意外性がプロボクシングにはあります。 世界チャンピオンを目指すことを「聖なる甘え」とするならば、それはあまりに罪深い熾烈な競争を生み出しています。そしてボクサーは「聖なる甘え」を中心に様々な感情を味わうのです。 たった一発のパンチでベルトを巻いた者、何度も挑戦しながらついに戴冠できなかった者、苦労の末に掴んだベルトがコミッションの都合ですぐに移動してしまった者…。 まるで壮大な人生のミニチュアです。いえ、ボクシングが人生にあまりにも酷似しているのでしょうか? そして人生で最も光り輝く瞬間は、ほんの一瞬です。 http://www.youtube.com/watch?v=rx3ES3xhutY&feature=related この動画は、とある男の人生最高の瞬間を映した動画です。 たったの13分の短い動画ですが、これを見ればあなたは必ずや真理を見出すことでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  どうでしょう すべては《聖なる甘え》のもとに しかも思いをいだき考えを生み出し それぞれの分野でそれぞれのつとめを果たして行くのでしょうか。  そういういとなみの中に ことばが いろんな言語として どういう歴史経験を持って来ているのか? これをまなんで行きたいと考えます。  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~  11. 《ぼく‐ハ》と言ったそのとき ひとつの小宇宙が現われ 《注文‐ガ》と継いだとき もうひとつの小宇宙の現われとともに それらの意味連関がつくられて行く。《うなぎ‐だ》と締めて それまでの宇宙遊泳を 何がしかのキヅナでつなげた。  ~~~~~~~~~~~  ☆ じつは このくだりが われながら 気に入っています。  これが 聖なる甘えと さらにどうかかわるか? どうつながるか? 探究して行きたいと思っています。  ということは 同時に 英文などの言わばすでにつながり中身についてもまとまっているロケット型の文型を 日常生活で用いている場合の 人びとの心的現象というもの これがどのように 実際に あるのか? これにも大いに興味も関心もあります。  (英文などにわたしも接して来ていますが 生活感覚で英語など外国語を知っているというわけではないので いろんな経験についてなどさまざまな人たちからおそわりたいと思っています)。  ボクシングが このとき どういう位置づけになるのか? どういう経験則などなどを持っているのか? 分かりましたら それもたのしいことかと考えます。

回答No.2

こんばんは。 ☆☆☆ (う) 語をその裸のままの姿で何らかの意思表示(つまり 文)に用いるのは あたかも絶対値として捉えているようであるゆえ 《絶対格》とよぶ。 ここに出てくる《絶対格》という概念がよく理解できない… 英語で言うと、 「文中に《dog:犬という普遍概念》は出てこず、かならず《a dog》または《the dog》という形になって現れる。言いかえると、イデア的な《dog》が冠詞《a》や《the》をともなって《a dog》になるということで《具体性》を持つ」 ということをおっしゃっているんですか? この意味を誤解したまま議論を進めると、かみ合わない議論になって、とんちんかんな方向に進むので、説明をよろしくお願いします。 ☆☆☆ (き) すなわち 幼稚とも見える始原的な自己表出を思わせる《A‐ハ B‐ガ C》構文は それと同時に すでに語のあいだの互いの論理連関を示す仕組みにも成っている。同時にそう成っているというところが ミソである。 はて、そうなるのだろうか? 【例】  《僕》《好き》《(その)犬》 これは、  《僕》は《(その)犬》が《好き》  《(その)犬》は《僕》が《好き》 とどちらとも解釈できる。 この単なる単語の羅列がどのような意味を有しているのかを判断するためには(日本語では、語順は意味内容に基本的に関係しない!!)、 《話し手》と《聞き手》の状況、場、文化的背景などを共有することが前提なのではないか。 ☆☆☆ (く) 言いかえると 日本語文は 英文などの《S-V-O》文型をも ふくみ持っている。 う~ん、これ、どうでしょう。 日本語の(文の)意味の持つ曖昧さ、多義性から、意味の上で英文などの《S-V-O》文型を含みうるということならば、反対はしませんけれど、単語間の論理連関まで含むとは言えないような気がします。 ☆☆☆  (け) 欧米の文型では 裸の自己表現がほとんどない。絶対格における語の羅列が ゆるされがたく 裃をつけていないと文としての表現とは成り立ちがたい。  (こ) これは 日本文や韓国文に見られる・ことばのナラワシの始めにおいてじんるいが有したと思われるような《聖なる甘え》を削ぎ落として来たかたちなのではないか?  これは、日本文や韓国文では、《dog》と《a dog》の区別が明確ない、普遍と具体が混在していて、そこに、曖昧さが、《聖なる甘え》が発生する。 欧米の言語では、普遍と具体の明確であり、《聖なる甘え》がそぎ落とされる、 という意味でしょうか? ☆☆☆ 僕は、 「《○○○は…》 と表現されとき、○○○は具体的存在から一般化された○○○に変換され、こっちの世界に戻ってくる」 と思うんですよ。 特に英語のSVO型に近い意味内容の日本語の場合は。 『わたしがそれをする』 『わたしはそれをする』 意味する内容はまったく同じなのだけれど、 《わたしが》は主体性、具体性、個別性が強い。 それ故、《私》がむき出しになってきて、時に人から反感を買う。《なんだ、こいつ。生意気だ》となる。 《わたしは》の場合は、 Talking about me,ホニャララ という感じで、一回、《私》の個別性が引っ込む。そして、一般化された《私》となってあらわれるので周囲からの反撥を買わない。 同時にこの一般化された《私》は、もはや個別性を含んでいないので、《私》のしたことに対する無責任を生む土壌になる。 さらに、日本語は、必ずしも主語を必要としないから、ますます無責任の発生を助長する。 副助詞《は》の存在が日本人の《甘え》につながるのでは、と。 いま思いついた、単なる思いつきです。 《一般化された》は《所属集団に同化した個別性のない》とした方がいいかな…

bragelonne
質問者

お礼

 なるほど。理論は練って行かないとダメのようですね。でも 何とか持ちこたえ得ましょうか どうでしょうか。  ねむりねこさん あらためまして こんばんは。ご回答をありがとうございます。  (1) そうですね。まづは 《 A‐ハ B-ガ C-ナリ。 / C‐スル。》なる構文について おさらいします。わたしの見方でですが。  ★ 【例】 《僕》《好き》《(その)犬》  ☆ につきましては   ★ 《その犬》は僕になついていて 僕を好いている。  ☆ という事例はあっても  * 《犬》は僕になついていて 僕を好いている。  ☆ という事例はあり得ませんから――つまり《犬一般》と《僕》との関係は 犬のほうが行為主体である場合はありえませんから―― 別の文例を取り上げます。  ( c ) 私ハ お前ガ 好きだ。    すなわちこのようなハ格とガ格から成る《 A‐ハ B-ガ C-ナリ。》構文は 次のようにまったく違ったふたつの解釈が ふつうに・そして互いに自由に対等に できます。おっしゃるとおりです。  ( c-1 ) 《 Aガ Bヲ 好く》という解釈例:    ・ 私が好む相手は お前だ。  ( c-2 ) 《 Aヲ Bガ 好く》という解釈例:   ・ 私を好むのは お前だ。  言いかえると ハ格もガ格もそれぞれ同じように 主格(主語格)としてのガ格かまたは対格(目的語格)としてのヲ格かを意味し得ます。  言いかえると 文の意味連絡を確かめ明らかにする前の段階では ハ格もガ格もいづれもその意味は確定しない。こういうことになります。  言いかえると 文意が確定するのは おっしゃるように  ★(Б) 《話し手》と《聞き手》の状況、場、文化的背景などを共有することが前提なのではないか。  ☆ となります。  では 次の項目は何を言おうとしているか?  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~  (き) すなわち 幼稚とも見える始原的な自己表出を思わせる《A‐ハ B‐ガ C》構文は それと同時に すでに語のあいだの互いの論理連関を示す仕組みにも成っている。同時にそう成っているというところが ミソである。  ~~~~~~~  ☆ ですから この意味は 単純に 《ふたつの相い異なる解釈を許容して それらふたつの意味合いに分かれる論理連関を示す》となります。  一義的に決まらないだけであって 《非線形》の構文が 線形論理を指し示し得るという成り立ちであることに変わりはありません。こう成ります。  (Б)の広く言えば《文脈》という前提が必要ではあるけれど 非線形の構文じたいに線形論理を芽生えさせているし かたちづくっているとさえ言えると見ます。解釈として( c-1 )か( c-2 )かいづれかの文意に決まるというのは そのことを構文がすでに担っているからです。《文脈》なる前提は それらの選択のみにかかわります。  次のご批判についても 答え得ていましょうか?  ★ 日本語の(文の)意味の持つ曖昧さ、多義性から、意味の上で英文などの《S-V-O》文型を含みうるということならば、反対はしませんけれど、単語間の論理連関まで含むとは言えないような気がします。  ☆ 《あいまいさ》からではなく 構文の仕組みがすでにその論理連関を用意していると考えます。《多義性》というのは 構文が上で見たように動作の主客関係にかんして《両義性》をもって論理連関を用意している場合だと考えます。       *  (2) 《絶対格》について    ★ ~~~  英語で言うと、  「文中に《dog:犬という普遍概念》は出てこず、かならず《a dog》または《the dog》という形になって現れる。言いかえると、イデア的な《dog》が冠詞《a》や《the》をともなって《a dog》になるということで《具体性》を持つ」  ということをおっしゃっているんですか?  ~~~~~  ☆ これは 考えたことがなかったのですが どうなりましょうか。  もし英文などにおいては 大雑把な意味でイデアとしての犬なら犬を 言葉として持ち出すときにも 《 a dog / dogs / the dog 》などとして文意(それは 話し手の判断)に即してその語のあり方を決めなければならないとしたなら たぶんそこにはもうすでに《絶対格》の用法はなくなっているのかも分かりません。  無格 つまり 《 dog 》というかたちも あり得ると思いますが そしてその用法を自信をもっていま例示することが出来ず困ってしまいましたが それも 文意とのかかわりにおいて決まるものだとすれば 絶対格としての無格ではない。こう とりあえず考えてみましたが どうでしょう?  すなわち 語を主格(S)‐述格(V)‐対格(O)のつらなりにおいて表わして行きそこにすでに直線的な意味連関を成り立たせるような文型は すでに絶対格の用法を ほとんど無くしてしまったのではないかと考えられます。  これまでに考えたところでは 例外のごとくとしては 次が取り上げられます。   ( d ) Regret, I had a few.   ( e ) Le temps, c'est de l'argent. ( ≒ Time is money. = Time, it-is money. )    *  (3) 上記(1)および(2)を継ぐかたちで 一般に《あいまいさ》の問題です。  ★ ~~~  これ〔趣旨説明欄の(け)および(こ)〕は、日本文や韓国文では、《dog》と《a dog》の区別が明確ない、普遍と具体が混在していて、そこに、曖昧さが、《聖なる甘え》が発生する。  欧米の言語では、普遍と具体の明確であり、《聖なる甘え》がそぎ落とされる、  という意味でしょうか?  ~~~~~~  ☆ これは はっきりしていると考えます。  英文などのすでに論理的な意味連関を直接に表わす文型では 絶対格の用法をなくしているとすれば ぎゃくに見るなら 和文などの《非線形》の構文なる《あいまい極まりない》世界を知らないということになります。  語の表わし方として《普遍と具体が混在しているという曖昧さ》が明確に保たれている韓国文などの構文は 普遍と具体を文表現の段階においてもまだ決めないでおくというかたちが明確に たぶん意図して 採られている。のではないだろうか。   だとすれば 和文・韓国文においては  ★(編集しました) 曖昧〔ゆえ〕 《聖なる甘え》が発生する。  ☆ のではなく すでにおそらく始原的な文表現のあり方を基本的に受け継いでいて 幼児ことばのごとく そうだとすれば意味連関が積極的にあいまいなのであり 原初の《聖なる甘え》をじゅうぶんに保っている。と考えられますまいか?  ★(編集しました) 欧米の言語では、普遍と具体が明確であり、《聖なる甘え》〔も〕そぎ落とされる  ☆ のだと。  《甘え》とは もともと 赤子が母親の乳を吸うようにあたかも本能によってのごとくまたいわゆる人が自然本性によってのように振る舞う姿を言うとします。  《聖なる》とは 甘える対象が分からない・また甘える根拠が無根拠であるといった場合を言います。    *  (4) ハ格とガ格の違いによる文意の違い。  ★ ~~~~  僕は、  「《○○○は…》  と表現されとき、○○○は具体的存在から一般化された○○○に変換され、こっちの世界に戻ってくる」  と思うんですよ。  特に英語のSVO型に近い意味内容の日本語の場合は。  ~~~~~~  ☆ この主題につきましては あらためて補足欄にて検討しお応えしてまいります。  

bragelonne
質問者

補足

 お早うございます。  お礼欄からのつづきです。  まづ 若干のおぎないがあります。  ☆☆(お礼欄) (2) 《絶対格》について    これを 次のようにまとめてみます。  ○ (無格と絶対格) ~~~  1. いわゆる間投詞――これは 文の外でもしくは文の成立以前に 発せられると見ます――として 《あは!》とか《おー!》とか言う場合 これを語としては 《無格による自己表出》と捉えます。  2. 言いかえると 《神-ヨ!》というようにヨ格=呼格のかたちで言い出すその以前の段階において ただ《かみ(神)・・・。》と言うように格をつけないまま自己表出する場合は 《無格》活用とします。  3. それは 非活用だけれど 何がしかすでにおのれの主観が表出されようとしているなら 大きく文を成り立たせる自己表現に属するかたちとして 《無格による活用》としてみます。  4. そこから多少とも文の成立に近づく場合 それは 語を無格に活用して文(つまり主観判断)を表わそうとすると見ます。《神・・・われ・・・なんぢ・・・おそれ(または たたえ)・・・。》のごとく 無格の語を並べて行くだけにおいて もし文を成すと見なされるなら これは 語を絶対格に活用して自己表現をしたと見なします。  5. 始原的なかたちとして まづ《無格のままの語による自己表出》があり ここからさらにいくらか洗練したかたちとして《絶対格としての語をつらねる自己表現》がかたちづくられた。こう見たいと思います。  ~~~~~~~~~~~~    *  さて  ☆☆(お礼欄) (4) ハ格とガ格の違いによる文意の違い。  です。これにつきましても むしろ初めにあらましを述べてみます。(今回の質問は このようにすでにあらましがいちおう出来ているその段階を踏まえて 文の構えや型が人の心における《聖なる甘え》とどうかかわっているか? これを探ろうとしています)。  ○ 〔広義の(α)構文は 非線形なる狭義の(α)構造とそして線形論理をもっぱら表わす(ω)文型とを同時に含み持つという命題〕 ~~~~  1.(α):《 A‐ハ B-ガ C-ナリ。 / C‐スル。》なる構文    (ω):《 S(主格)‐V(述格)‐O(対格).》という文型  2.(α) 《 A‐ハ B-ガ C-ナリ。 / C‐スル。》なる構文は 次のように分析されると見ます。     《 A-ハ       B-ガ         C-ナリ 。》    中心主題‐ハ格  関係主題‐ガ格  論述主題‐述格・法活用(断定法)  3. 文例に即して 前項を説明します。    ( c ) 私ハ お前ガ 好きだ。   (あ) 第一に言い出される語は ハ格をともなって 文の中心主題として提示される恰好である。   (い) 話し手は この――聞き手にとってもそうであると思うところの――関心の中核をまづ話題とする。   (い) ハ格がそれだと示すところの中心主題である《私》を言い出したあと その主題に関係する主題を持ち出して話題とするのが 二番目の関係主題である。これは ガ格をともなう。   (う) 《私》に関係する主題として《お前》という語を話し手は 引き出した。   (え) これらふたつの主題についていかにあるかと問うて 答えを出すとするなら 《好きだ》という内容とかたちで提示した。   (お) 《好きだ》もひとつの主題であるが――つまり 最初から主題を次から次へとつらねて行くのだが―― 文が主観の判断を表わすとすれば それらは 問いの提示としての主題〔群〕とそれに答える論述としての主題とから成る。   (か) 主題格(ハ格およびガ格)と論述格とである。ほかに副次的な主題格(ヲ格・ニ格・ノ格など)がある。   (き) ここまでが 狭義の(α)構文である。  4. この・主題羅列のごとき(α)構文が いかに論理的な意味内容を その同じ構文において 指し示すことになるか?   (く) (α)構文において主題ないし主題格を提示しても まだ文意は定まらない。   (け) わづかに論述格のほうからさかのぼって主題格それぞれを捉えようとするとき 主題(《私》や《お前》)と論述(《好きだ》)の連絡や如何に? というところから 論理的な意味連関が定まって行くようになる。   (こ) 主題と論述との連絡とは それぞれの語のあいだの意味内容としての連関のことである。   (さ) 中心主題である《私》は たとえば論述の《好きだ》の行為主体となりうる。関係主題の《お前》も この場合 同じく そうである。   (し) あるいは別の見方として 《私》も《お前》も それぞれが《好きだ》の行為客体となりうる。   (す) つまり(α)構文の主題羅列なる形式は みづからがこのような意味連関を定めようとする要素(要因)であることを示すことまでは おこなっている。   (せ) かくて そのあとは 《文脈》にしたがってたとえば中心主題の《私ハ》は 論述の《好く》の行為主体であったり また同じく行為客体であったりする。   (そ) ( c-1 )《私ガ お前ヲ 好く》 また( c-2 )《私ヲ お前ガ 好く》。これらの可能性としての意味連関を (α)構文がそのまま用意している。いづれかに決めるのは 文脈である。  5. すなわち (ω):《 S(主格)‐V(述格)‐O(対格).》という文型が (α)構文そのものから得られる。   (た) すなわち この(α)の構文は 全体として主題のわがままな羅列というかたちにおいて非線形の構造を有していて その中に主観判断を表わすための意味連関としての線形の文型(ω)を宿している。         ( c-1 ) 《 Aガ Bヲ 好く》≒《 S-V-O 》という解釈例:     ・ I love you.     ( c-2 ) 《 Aヲ Bガ 好く》≒やはり《 S-V-O 》という解釈例:     ・ You love me.      6. すなわち(α)構文は ハ格やガ格で文をみちびくかたちにおいて 《一次として 〔単なる〕主題の提示 という語法》と成っており そしてそのあと ただしみづからの文の構えにおいて《二次として 論理的な意味連絡の確定をみちびく形態》と成っている。その構造が二層から成っていると考えられます。  7. 前項の図示です。  (α) 《 A‐ハ B-ガ C-ナリ。 / C‐スル。》なる非線形構文 ~~~~    (α‐1= 狭義のα): 一次として 主題提示の層    《 A-ハ       B-ガ         C-ナリ 。》    中心主題‐ハ格  関係主題‐ガ格  論述主題‐述格・法活用(断定法)   (α‐2⇒ ω): 二次として 線形論理の層    《 (ω) S(主格)‐V(述格)‐O(対格).》文型    ( c-1 ) A love(s) B.    ( c-2 ) B love(s) A.   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~~~~        *  さて ハ格とガ格の違いについて それぞれを《非個別性》と《個別性》との対比で捉えておられます。  ★ ~~~~  『わたしがそれをする』  『わたしはそれをする』  意味する内容はまったく同じなのだけれど、  《わたしが》は主体性、具体性、個別性が強い。  それ故、《私》がむき出しになってきて、時に人から反感を買う。《なんだ、こいつ。生意気だ》となる。  ~~~~~  ☆ 単純に言って ガ格は 関係主題としてあくまで〔ハ格の率いる〕第一中心主題のあと第二主題として提示されることを 基本とします。ので もし中心主題が提示されていずにいきなりガ格だけで何かを提示したとすれば それは どんな中心主題からの関係であるのか? といぶかしむことになる。と思います。  ★ 『わたしはそれをする』  ☆ は AハBガC 構文に合わせて捉えるなら:    =《わたしハ 〔わたしガ〕 それヲする》  となります。であるところ たとえば  ★ 『わたしがそれをする』  ☆ とだけ言い出したとするなら それは    (Ш) すでに相手に そのいまの文脈において第一中心主題は《わたし》だと分かっていた場合か それとも   (Ю) 分かっていないのに いきなり関係第二主題のほうから言い出してしまったか  これらのいづれかだと見られます。(Ш)なら 問題ないでしょう。(Ю)なら  ★ ~~~  《わたしが》は主体性、具体性、個別性が強い。  それ故、《私》がむき出しになってきて、時に人から反感を買う。《なんだ、こいつ。生意気だ》となる。    《わたしは》の場合は、    Talking about me,ホニャララ  という感じで、一回、《私》の個別性が引っ込む。そして、一般化された《私》となってあらわれるので周囲からの反撥を買わない。   ~~~~~  おそらく《あいまいさ》が 行為主体のあいまいさでありつづけるのなら  ★ 日本語は、必ずしも主語を必要としないから、ますます無責任の発生を助長する。  ☆ と言えましょう。  その同じ意味合いにおいて  ★ 副助詞《は》の存在が日本人の《甘え》につながるのでは、と。  ☆ と見る余地はあるかと。  ただしこれらは 不注意によるといった場合であり 構文に罪はないと見ますが どうでしょう?

  • vasco
  • ベストアンサー率15% (9/57)
回答No.1

だから井岡×ナパ第一戦は終了ゴングが30秒早く鳴らされたわけですか。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 鬼塚勝也  ☆ のほうについても よく分かりません。  乞う さらなるご説明を。