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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。)

日本語の基本構文とは?

このQ&Aのポイント
  • 日本語はA‐ハ B‐ガ C‐ナリ。 / C‐スルという基本構文で成り立っている。
  • 日本語の文は主題を提示する形で構成されており、問いと答えが一つの文になっている。
  • 英語のS-V-O型式を内蔵しており、和文は非線形の構文であり、英文は線形の文型である。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.10

破格を安易に受け入れてしまいますと、 古典の解析の際の誤謬の増加を避け難くなりますので、 たとえ企業の御偉方達が基本(初心)を忘れて、 平気で堕落(「修破離」の離)を押し付けてきましょうとも、 文法の学習の際には、基本に戻っておくべきでしょう。 因みに、大手のコールセンターの多くで、 新人の二重敬語が矯正されなければ、 指導者が罰則を受けたり、その新人達が解雇されたりしていますので、二重敬語の問題は非常に重要なのです。 だからこそ、容易に加入し得るサイトで、 破格を受け入れた議論を展開する為には、 悪影響を防ぐべく、破格に関しましての大前提を、 先に表明させておく遣り方の採用が、 比較的に望ましいのだろう、と思われます。 確かに当事者意識の問題と違いますので、 インフォームドコンセント(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88)と比べる程に深刻な内容なのではなかろう、と思われますが、折角の教育を蔑ろにしてはmottainaiのではないでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ★ 破格  ☆ について 誤解があります。社会一般にとおれば それが正式の文法規則になります。言語のならわしとは そういうものです。  用言の否定法は ナイという補充用言(助動詞)を用います。  これは けれども 状態用言(形容詞)です。形容詞の法活用をおこないます。   行か‐ナイ。 / 行か‐ナケレバ・・・  けれども ナフという動詞の活用をする否定法があり得たのだそうです。ナは無シのナであり フはたとえば取ルから 取ら‐フ(⇒取らえる=捉える・捕らえる)が派生しているように 相互行為の相(意味)(つまり アフ:合う)や継続の相(つまり フ⇒ヘル:経る)を添えるもののようです。   行か‐ナフ:(連体法)行か‐ナフ‐時 /(条件法=已然形) 行か‐ナへバ   行か‐ナイ:行か‐ナイ‐時   /  行か‐ナケレバ  このように行か‐ナフというかたちの否定法があり得たのです。むろんあなたのおっしゃる《修破離の修(守)》としての《基本》は この動詞型活用の行か‐ナフのほうにあると見られます。そういうものです。  ですから 次の命題は安易な叙述になります。  ★ ~~~~  破格を安易に受け入れてしまいますと、  古典の解析の際の誤謬の増加を避け難くなりますので、  たとえ企業の御偉方達が基本(初心)を忘れて、  平気で堕落(「修破離」の離)を押し付けてきましょうとも、  文法の学習の際には、基本に戻っておくべきでしょう。  ~~~~~~~  ☆ 何が初心で何が基本か 分かったものではないのです。  ★ ~~~~  因みに、大手のコールセンターの多くで、  新人の二重敬語が矯正されなければ、  指導者が罰則を受けたり、その新人達が解雇されたりしていますので、二重敬語の問題は非常に重要なのです。  ~~~~~  ☆ わたしの知ったことではありません。という前提の上で ひとには接しているべきです。あなたはただ強制しているだけです。その口調からしてという意味です。まぁ わたしがここまで寛容すぎたかも知れません。  ★ ~~~~~  だからこそ、容易に加入し得るサイトで、  破格を受け入れた議論を展開する為には、  悪影響を防ぐべく、破格に関しましての大前提を、  先に表明させておく遣り方の採用が、  比較的に望ましいのだろう、と思われます。  ~~~~~~~  ☆ いつから インタネットに管理中枢部が出来たのですか?

その他の回答 (25)

回答No.26

日本語の省略の技術には、古来から法則性が無かったのでしょうか? ハングル語の事例は「連文節」の物と違っていましたので、 分かり難い部分が残っています。 日本語の多重敬語が破格に属している、という御指摘を、 既に他の方から伺っていますが、たとえ仮設だとしましても、 奈良・平安時代の古典の現代語訳が可能になっている事情を鑑みますと、 省略されている主語の齟齬が伴なっている場合にも、 聴衆・読者達が理解し得る基準もが其処へ盛り込んでいた、 と考えられませんでしょうか? 確かに、そうしますと、以前に私が言及しました通りに、 聴衆・読者達への表敬を損ね得まいか、という懸念が残りますが、 連文節の流麗な展開で「無常」を表現しよう、 と若し著作者達が望んでいらっしゃったのでしたら、 敬語に期待して主語の省略を網羅していたのだろう、と考えました。 __________________________________ 因みに、業務の休憩中に思い付いた儘の内容を綴りましたので、 送信前の推敲が乏し過ぎるのかも知れませんが、 何卒御容赦を御願い申し上げます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  まづは主語の省略という話として 次の会話の一端を見てください。大野晋から引いたものです。   ● 《行こうと言ったのに 嫌だと言うものだから 怒っちゃって 帰って来たのよ》    =《 A が行こうと言ったのに B が嫌だと言ったのに C が怒ってしまった結果 自分も帰って来た》   ☆ 登場人物が四人いるというわけです。  結論から言えば このような省略は 日本語においては 基本的に言ってその文脈(情況)から来ています。  つまりは いま話している相手は 話し手が思うに このように主語を省いても分かってくれるだろうということがある。その思わくをも含めて文脈ないしその場の情況から判断して 起きているものです。  つまり 法則と言うのであれば   話し手は聞き手とのあいだで省略してもよい(つまり話が分かる)と思えば 省略をする。  となります。  ただし  ★ 敬語に期待して主語の省略を網羅していたのだろう  ☆ というのも当てはまると考えます。この場合 書き手は読み手とのあいだに どの程度のなじみや知り合いの度合いがあるか分からないのですから 原則として省略はしないと思われます。けれども この場合〔に限っては〕 敬語の表わし方によってその主語が誰であるかが分かるとすれば もう表わさない。ということなのだと思います。  言いかえると こじつけのように響くかも分かりませんが 敬語の使い方も大きく文脈ないしその場の情況という条件に含まれると考えるものです。  ということは いかに作品の中で敬語の重畳さが目立つと言っても その使い方は けっきょく日常会話においてと同じ表現が用いられていた。こう考えられませんか? つまり二重敬語の煩雑さなどにまるでこだわることなく そのまま言い表わしたのだと。後世の民主主義の主張者からの物言いなどには目もくれていないのだと。  韓国語については ひとつ文例を引きます。  ▼ (創世記1:3 )하 나 님 이  가 라 사 대  빛 이  있 으 라 !  하 시 매  빛 이  있 었 고   hana-nim-i karasadae bid-i isseu-ra ! ha-si-mae   bid-i  iss-eoss-ko   主-様-ガ  曰く    光-ガ  あれ!  おっしゃるーと 光-ガ あって  ○ 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。  ☆ -i または -ga がおおむね日本語のガ格であり -eun または -neun がハ格です。後者はここでは出て来ていません。語順は ほとんど同じです。

回答No.25

御紹介を賜りましたページ(http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6251937.html)の質問文では、主語が省略される表現が地中海諸国にも存在している事情が何故か見落とされていますね。 3人称命令の質問への回答をも踏まえまして、考えさせて頂きますと、 「伊太利亜・西班牙・葡萄牙」等の地中海諸国の言語表現でも、 主語の省略が文法的に許されている故に、間接的ながらも、 3人称命令が可能になったのだろう、と思われましたが、如何なのでしょうか? 因みに、其のページ(http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6251937.html)への投稿を為さる際に、回答を提供なさっている方々が其の事情を指摘なさらず、出題者の方に論旨を合わせて「ハングル語」の事例を紹介なさっている、 という配慮にも、皆様の優しさを感じました。 そういう部分でも私は学びを深めていこう、と思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 「伊太利亜・西班牙・葡萄牙」等の地中海諸国の言語表現でも、 / 主語の省略が文法的に許されている  ☆ この言語事情についての認識は まちがいです。  主語は省略されているのではありませんし その同じ主語を主題として取り立てる場合には とうぜんのように言葉として表わします。  西語ではたしかに主語を言い表わさずに   Te quiero.( You love-I. )  と言います。述語動詞の quiero がすでに主語を含んでいるからです。したがって ほかの誰でもなくぼくがきみのことを好いているのだと言いたいときには その主語( yo )をあたかも日本語のハ格による主題提示のようにオモテにも言い表わします。   Yo, te quiero.( Me, you love-I. )  主語を言葉として出すか出さないかは 意味の違いがあります。省略されているのではないですし 文法的に許されているというのでもありません。出す場合と出さない場合の表現形式があるということです。  その違いをさらに指摘しようと思えば 主格( S )に対する対格( O )が西語でははっきりと表わされるというところだと思います。  ぎゃくに言えば 日本語では そのように線形論理における意味連絡を言い表わすか言い表わさないかは 意味が多少とも違って来ます。ふつう 愛の告白では――それこそいろいろありましょうが――ただ    好きだ。  と言うだけです。その対格つまり相手のことをはっきりと取り立てる場合にのみ その対格語を言い表わします。    きみが好きだ。  だから このようにガ格で なおも線形的な味気ない意味連絡を嫌って あくまで主題提示のかたちを取って表現しています。そのあと 確かに主述対格を直線上に並べるなら ぼくガきみヲ好くというふうに解釈できるという極めて悠長な表現の仕方をしています。  そしてそれは 好くという論述用言(述語動詞)が 日本語では人称別に活用することはないからです。用言の法活用は 主格語の人称にはいっさい関係なく表現されます。  西語では amare という不定法活用のかたちと そしてたとえば 人称別に amo / amas / ama / ・・・という活用形があり そのことは逆に言うと 日本語のように全人称に効く万能の《好く》という活用形はないわけです。このことからも 主語を省略しているのではないと言えると思います。  * 紹介の質疑応答は けっきょく言いにくいことですが わたしの回答のみ参考にしてくださいと申しました。ほかのものは 言語学として参考にならないと申し添えます。言い足りない気分で申し上げています。

回答No.24

http://okwave.jp/qa/q6538042.html 此方の内容を拝見しました。 現時点での妄想的な私見によりますと、 日本語のみならず、東洋文化圏内では、価値の良し悪しに関わらず、 多重的な尊敬の技術が非常に発達していましたので、 時制の様な論理的秩序の踏襲が技術的に難しくなっていたのではなかろうか、と思われます。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。  日本文の表わすところは けっきょく大きくその枠組みとしては(あるいはむしろ枠組みを取っ払おうとしてのように) まづは自然という世界なのでしょうね。あるいはつまり 世界は自然なのであるというその姿(時空間)なのでしょうね。つまり論理もへちまも まづは ありません。  ハ格によってひとつのことば(語句)をみちびくかたちにおいて これを中心主題として これからわが自己表現の世界を開きたいと思いますが まづはみなさんどうか聞いてください――と あたかも尺八をプオウーッとひと吹きするかのように 言い出しています。   こんにち‐ハ 〔お天気‐ガ よろしいようで〕  のハ格がそれだと思います。  ★ 日本語のみならず、東洋文化圏内では、価値の良し悪しに関わらず、 / 多重的な尊敬の技術が非常に発達していましたので  ☆ この敬語法の発達はそのとおりだと考えますが その尊敬関係をめぐる語法とハ格の主題提示なる語法とは わたしは別だと見ますよ。  尊敬語法について ひとつの事例を見てみます。その語法は時代とその特に身分関係をめぐる社会情況に応じて作られて来る(つまり わたしの言う《第二次の敬語法》ですが) したがって時代とともに消えて行く。こう見ることの一環としてです。ヂャワ語における敬語法についてです。  【Q:「手本」の対義語】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5168258.html  ☆☆(上記への回答No.10) ~~~~  敬語法として次のように分類されるものがある。  1. 普通体:ンゴコ( Ngoko )語としてのヂャワ゛語  2. 丁寧体:ンゴコ語と共通の語彙のほかに クロモ( Krama )丁寧語を用いる。  3. 尊敬・謙譲語:一部の語彙として クロモ・インギル( Krama Inggil )語群がある。  4. ンゴコ体とクロモ体の中間=マディヨ語:数としてごく一部。    5. 文例  Ngoko 体・・・・・・・・・・・Krama 体  (1) Gedhang iki tak-pangan.・・・Pisang punika kula tedha.    バナナ-この ぼく-食べる。・・バナナ-この 私-食べます。  (2) Radhione tak-dandani.・・・・Radhionipun kula dandosi.    ラヂオはぼくが修理する。・・ラヂオは私が修理します。  (3) Gedhange ko-pangan.・・Pisangipun panjenengan dhahar.     バナナは君が食べる。・・バナナはあなたが召し上がられます。  (4)Radhione ko-dandani.・・Radhionipun panjenengan dandosi.    ラヂオは君が修理する。・・ラヂオはあなたが修理します。  6.語例  Ngoko 体・・・・Krama 体・・・・・Krama Inggil 体  _______________________________________________________________  ・ ある: ana・・・・・・・・wonten・・・・・ ―  ・出かける:budhal・・・・・bidhal・・・・・ tindak  ・起きる: tangi ・・・・・・ tangi・・・・・ ・・ wungu  ・ 買う: tuku ・・・・・・・tumbas ・・・・・ mundhut  ______________________________________________________________  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ 日本語の比ではないようにも見えます。あるいはお隣りの韓国ではその言語が きわめて複雑な敬語の形式に分かれていることで知られています。  【Q:私達は口頭会話でも、そして文章でもよく主語などの人称指示を省略します。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6251937.html  その回答No.9で 用言の語法ではなく《対称(二人称)》――いわゆる代名詞――についての説明を掲げています。  第一次の基礎的・基本的な人と人とのウヤマヒから出る敬語のほかに尊敬語法が必要だという根拠はないものと見ます。  必ずしも推論を述べたわけではありませんが このような敬語法に対する見方から行けば 次のご議論には別の考え方を持つに到っています。  ★ 多重的な尊敬の技術が非常に発達していましたので、 / 時制の様な論理的秩序の踏襲が技術的に難しくなっていたのではなかろうか、と思われます。  ☆ 尊敬語法が発達しなくても 《時制を実際の時系列にのっとって明確に表示する文型》はもともと発達しなかった。それとは別の独自の構文をかたちづくって それとしての言語慣習を持つに到った。  ただし そのように時制の区分の明示をしなくても 文の受け取りをつうじた結局においては 《論理的な秩序》を潜在性としてでも 持ち得ている。と見られるからです。  尊敬語法の有る無しは 論理思考を表わすための文の構えとは 相関性があるとしても その相関性によって文の伝えようとする論理性を致命的にそこなうものではない。こう見ます。

回答No.23

矢張り、私の誤解が含まれているのかも知れませんが、 日本語の特徴を考える際に、 私は下記の内容(隣接関係)にも拘って参りました。 http://www006.upp.so-net.ne.jp/inamoto/writing/kumitatekata/kakari_chikadukeru.html http://okwave.jp/qa/q6720261.html と申しますのも、日本語の用言の活用には、 『独特な「連用形」』もが含まれているからなのです。 つまり、此の連用形の御蔭(価値判断のつもりはないです。)で、 たとえ主語が省略されている状態の文節が連結されていましょうとも、 奈良・平安時代の日本文学の様な表現もが実現し得たのではないでしょうか? 因みに、妄想的な私見によりますと、 主語省略状態での文節連結が、「連歌」の基盤を拵えたのだろう、 と思われます。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  子規の薔薇のうたについては 回答者の解説を読むと なるほどきれいに自然の調べに乗せてうまく 繊細な気持ちをも 表わしているなと思いますね。  わたし自身の捉え方は その読みをあまりにも時間をかけて努めておこなうように強いているのではないか です。それなら散文(非定型)で上手に表わすこともできるのではないか。  あるいはつまり 短歌ひとつに意味合いを詰め込み過ぎているように感じます。  たぶんいま言っていることは 趣味嗜好の問題であるのだろうとは思っています。  構文の問題ですが わたしの場合には一つひとつ主題を投げ入れて行く結構(構え)だと言っていますが その主題どうしの  ★ 隣接関係  ☆ に注目されたとのこと。そして特に  ★ 日本語の用言の活用には、『独特な「連用形」』もが含まれている  ☆ というひとつの特徴に焦点を当てる。こういうことのようです。  すなわち  ★ ~~~~~  つまり、此の連用形の御蔭(価値判断のつもりはないです。)で、  たとえ主語が省略されている状態の文節が連結されていましょうとも、  奈良・平安時代の日本文学の様な表現もが実現し得たのではないでしょうか?  ~~~~~~  ☆ これは 現代語でもじゅうぶん適用されうる見方だとまづ思います。  と言いますのも ただちに我が田に水を引くかたちになりますが 用言の連用形というのは 何を隠そう 体言相当であり 体言と見なされるなら それ自体でそのまま主題と成り得る。こういう事情からだと見られるからです。  もっと言えば――これは 誰かの見解として本で読んで知ったことですが―― 日本語の文はすべて名詞から成っており名詞相当の語句の羅列であるとまで言えるようなのです。それは 論述主題で用言を用いこれを活用させていても 連用形はそのまま概念法の活用であり名詞ないし体言に当たる こういう事情を言っているはずです。  ▼ くれなゐの 二尺伸びたる 薔薇の芽の 針やわらかに 春雨の降る  ☆ 文末の論述用言(述語動詞)《降る》 これも存続法(終止形)と見るよりは 連体法(連体形)だと見られます。連体形ならそのあとに体言が来ているはずです。  ○ ・・・降る〔とき。 / ころ。 / きょうの日。 / この世界。 / ・・・〕  ☆ のようにです。だとしたらこのうたで 体言相当でない語句は 《やわらかに》だけではないでしょうか。《春雨‐ノ》というノ格 これもむろん基本として連体法(次につづく体言につなげたい気持ち mood )でしょう。そのあと用言の《降る》とのかかわりにおいて その動作(現象)の主体として主格を担い いわゆる主語と呼ばれる線形論理としての意味連絡を担います。  S-V-O の意味連絡はあくまで――日本文においては―― 結果論だと言えるはずです。つまり 文の構えとしては 主題を次から次へと言い出して行くのですが それは 体言の羅列として成されて行く。こういうかたちなのだと見られます。  つまり 《二尺伸びたる》は 用言の《伸び》が述格を担うからにはその主格があるはずです。むろんそれは《薔薇の芽〔‐ガ〕》であるわけですが その意味連関は あくまであとで分かるようになっている。これだと考えます。  つまりは 《二尺》も《伸びたる》も さらにあるいは《伸び》(=連用形=概念法)も《たる》(=連体法⇒次につづく体言の省略としてそのものが体言相当語句と見なされる)も けっきょくみな小主題を成すべく体言として表出されている。  《くれなゐ》も《の》も《薔薇》も《芽》もみな 体言の羅列として成り立っている。とさえ見られます。おそらくその一連の体言の行列にわづかに波を起こし風の吹くのを感じさせるのは 《降る》という論述用言であるよりは 《やわらかに》という論述条件(副詞)なのではないでしょうか。《降る》という語句を含めて《やわらかに》のほかはみな 図柄としては地を成している。みな体言の行列の中におさまっていて地となって背景を構成しており 《降る》という現象でさえ 動きはないかに見える。わづかに《やわらかに》だけが 地の中に浮かび上がる図として描かれた。  もし日本文がこのように成り立っており 成り立ち続けるのなら 連歌形式が延々と続き得ると考えるのは 無理のないところだと見られますが どうでしょう?

回答No.22

失礼を致しました。 「伊勢物語」の主人公と在原業平とが同一人物だと言われている事情から、直接体験の「き」を用いていた様に誤って覚えておりました。 因みに、二重敬語に関する質問を私が提出させて頂いておりまして、 それに対しましての興味深い回答が寄せられていますので、 其のURLを紹介します。 http://okwave.jp/qa/q6719490.html 恥ずかしながら、私の誤解の箇所もが指摘されています。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  No.19&20で《二重敬語》という点に注意を払い得ずに終わってしまったことを悔いています。  それというのも 尊敬語法の第一次(基礎)と第二次(派生・飾り)という区分にのっとって考えた場合 第二次の敬語法は時代とともに廃れると考えていますので それと同じように二重敬語についても取り扱っているとすでにお伝えしていると思ったからです。  その考えにいまも変わりはありません。    源氏・冒頭からです。  ▼(源氏・桐壺) ~~~~  ・・・朝夕の宮仕へにつけても 【桐壺更衣は】人(* 妃たち)の心をのみ動かし 恨みを負ふ積りにやありけむ いとあつしく(* 病がちに)なりゆき もの心細げに里がちなるを 【帝は】いよいよあかずあはれなるものに思ほして 人のそしりをもえ憚ら≫せ・たまは≪ず 世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。   ●(Seidenstecker 訳) ~~~ Everyhting she did offended someone. Probably aware of what was happening, she fell seriously ill and came to spend more time at home than at court. The emperor's pity and affection quite passed bounds. No longer caring what his ladies and courtiers maight say, he behaved as if intent upon stirring gossip. ~~~~~~~~~~~~~   ・・・  ある時は≫大殿籠り≪すぐして やがてさぶらは≫せ・たまひ≪など あながちに御前去らずもてな≫させ・たまひ≫しほどに・・・  ● ( ibid. )~~~~~ 〔 He insisted on having her always beside him, however, and on nights when there was music or other entertainment he would require that she be present. 〕Sometimes two of them would sleep late, and even after they had risen he would not let her go.・・・   ~~~~~~~~~~~~~~~~  ~~~~~~~~~~~  ☆ 《大殿籠り》は《寝る》の尊敬語だそうです。用言そのものを言いかえる語例ですね。ほかは 二重敬語の例だと思います。しかもこれらは 最高敬語だとか。帝の動作について言っているからでしょうか。  ですが もし最高敬語というようにして 尊敬語にも度合いがあるとすれば その用法はますます社会そのものの言語慣習に即したものであると考えられます。もし《ことばの乱れ》だという見方をするとしたら この虚構作品の問題ではなく その時代の情況こそが問題だとも見られます。  でも乱れからは 尊敬の度合いをきちんと決めて用いたりもしないように思われませんか?  とにもかくにも 時代の身分関係が そのような言葉づかいをしていたし 人びとをしてその用法を用いせしめた。こう考えますが 甘いですか?

回答No.21

周知の通りに、「伊勢物語」の冒頭に、 『初めに男有り「き」』という表現が登場していますので、 「初めに言葉有き」という表現との類似性を考えてみましたが、 分かり難いものですから、其の儘の状態で申し上げますから、 御付き合いを宜しく御願い申し上げます。 ______________________________________________________________________________________________ 先ず、例えば、伊勢物語の側の表現へ「ハ格」を盛り込んでみます。 そうしますと、「初めに男 ハ 有りき」になりますので、 性別の比較が盛りこまれているかの様にも感じさせませんでしょうか? 従いまして、そういう誤解を防ぐ意図が託されていたのか否かは分かりませんが、 「ガ」を其処へ当て嵌めた方が比較的に望ましいかろう、 と私は勝手に想像しました。 そして、其れに対しまして、「初めに言葉有き」の場合には、どうなのでしょうか? 此の際には、言葉との比較対象が見付かり難いですね。 従いまして、「ハ格」が当て嵌められても宜しい様な印象が窺われますが、 「ガ格」でも構わない様にも感じられます。 此処には非常に重要なポイントが隠されている、 と思われますから、御意見を賜れますでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  いや 伊勢物語は    ○ 昔 男ありけり。  で始まっています。あるいは《「初めに言葉有き」》というようにハ格など主題提示の格をつけない場合 それは 《絶対格》もしくはそのまま《無格》と言います。  《絶対的に・すなわちほとんど相手の存在を顧慮せずにそして文としての意味を成すかどうかさえ顧慮せずに 自己表出そのままに言い出すかたち》です。  それでも 主観においては 一つひとつ主題を取り上げて話題としたいという趣旨のもとにあります。  無格のままかろうじて なんらかの思想の表明を論述としての主題の提示において終えることができたら 文となります。  けっきょくそのかたちも 基本的に主題提示という構文になるということだと思います。あとは やはり意味連絡を読み取ることになる。  そこで 《男ハ》とハ格を添えるならどうか?  その場合はやはり この《男》という主題をすでに書き手も読み手も知っている(または 知っていると見なす)ことを意味すると捉えます。ガ格なら 何か或る別の中心主題が出されていて それに関連する第二主題としてこの《男》を持ち出した。こう捉えます。   ガ格の場合には 書き手も読み手もその第二主題のことを知らなかった(または書き手が知らなかったと見なした)かたちではないか。  無格の場合も どちらかと言えば ガ格がみちびく場合と同じような位置づけになるように思いますが どうでしょう?   

回答No.20

すいません。 先程に投稿させて頂きました内容の説明には、 不十分な箇所が含まれていますので、 誤解が残ると勿体無く思われますから、追記をさせて下さい。 「源氏物語」等の中で、奇妙に感じさせている二重敬語は、 「会話文」ではなく、「地の文」の側に有ります。 確かに、「会話文」の中で登場人物達が話し相手への表敬を示している、という事情だけに注目しているのでしたら、世界史上の物語文学の多くの中で、其の展開を見出せるのでしょうが、 『「地の文」の中で、著作者達が虚構の登場人物達への敬意を表現している』 という展開は、奈良・平安時代の日本文学の中でしか見出されていないのではないでしょうか? _____________________________________________________________________________________________________________________ 因みに、係助詞の「は」の特徴につきましての私見は、 現時点で纏まっておりませんので、安易に申し上げられませんから、 其の言及を控えさせて頂きますが、御容赦を御願い申し上げます。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ▼ (源氏物語・桐壺) いづれの≫御≪時にか 女御・更衣あまた≫さぶらひ≪≫たまひ≪けるなかに いとやんごとなき際にはあらぬが すぐれて時めき≫給ふ≪ありけり。  ☆ 作者は 最初のふたつの例では《御》で尊敬を示し《さぶらひ》という謙譲語によって自分たちを落としめて相手をうやまうかたちで帝とその代に敬意を表している。そのあと 女御・更衣という身分の上の人たちに《たまひ》で表敬し 主人公の更衣にも《給ふ》という尊敬語を用いている。  こういう文体である。    ★ 奇妙に感じさせている二重敬語は、 / 「会話文」ではなく、「地の文」の側に有ります。  ☆ おそらくそういう文体で表現しなかったなら 読んでもらえなかったのでしょう。つまり読んでもらえても かえってその作者はえらそうにしていると思われ鼻つまみ者になってしまったのでしょう。  そのときその身の置かれた情況については 顧慮せざるを得ないと思いますが。・・・

回答No.19

17番の内容への回答を拝見しました上での続きに、 先ず言及をさせて頂きます。 日本の敬語の使い方に独自性が無いだろうか、 という点に私が注目し始めた理由は、 『「源氏物語」等の中での二重敬語』の理解への苦労でした。 確かに、小説等の物語文学を綴る場合には、 必ずしも読み手・聞き手に語り掛けねばならない訳では御座いませんので、 たとえ読者達・聴衆への表敬の為の露骨な言葉を、 意図的にそれ等の作品群へ盛り込みませんでしても、 作品として成り立つのでしょう。 でも、現代日本の実社会の企業で自社の身内の行為が他社へ届けられる際に、 身内の行為を謙譲語で表現する場合が「少なくない(寧ろ多いでしょう。)」、 という事情を踏まえて考えますと、 作品の世界の中の身内(登場人物達)への尊敬は、 読者達・聴衆への敬意が損なわれまいか、と私には感じられたのです。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ・・・作品の世界の中の身内(登場人物達)への尊敬は、 / 読者達・聴衆への敬意が損なわれまいか、と私には感じられたのです。  ☆ それは そうでしたら 感じられるのかも分かりません。  どうでしょうか。おそらくそのような見てくれを超えて中身を取ろうとするのではないでしょうか 文学作品にかんしては。  ▼ (大野晋:『源氏物語』小論) ~~~~~  下級貴族の女性が女性であることの悲しみを文章化したのは 『源氏物語』である。  『源氏物語』の著者は受領階級出身の女性である。稀な天才的な繊細な感受性 学問力 構想力 表現力を持っていても 女であるが故に そして受領の娘として生まれたが故に 紫式部は現世的な幸福を得ることはできなかった。  ・・・  紫式部は 男子が読んでいた『白氏文集』『史記』など極めて多くの漢籍に通じ 仏教を原典で読み 『古今集』以下の古典をそらんじていた。そして 光と言えば陰 栄えといえば衰え 喜びには悲しみという 物事の相反する面を絶えず見すえながら 微かな動きをとらえ ほのかな味わいを漲えた文体で 五十四帖にわたる物語を完成した。   散文文学としての『源氏物語』  作者は当時の男性以上に漢字・漢語に精通していたにもかかわらず それを正面に振りかざした漢字による表現を綺羅綺羅しくはしなかった。むしろ多少古い言葉遣いの和文体で あらわを避け 薄衣をまとう女性の姿体を思わせる筆づかいによって事を精緻に書き上げた。これは漢語に頼らずヤマトコトバによる物語文学の極致であり 女手(仮名)をもってしたからこそ成就し得た文章である。そこには いわゆる散文精神といわれるような強靭な精神が脈打っている。  どんなことがあってもめげずに 忍耐強く 執念深く みだりに悲観もせず 楽観もせず生き通して行き 自分の置かれている状況の薄暗さを見つめて じっと我慢してものを見すえる。見なければならないものにおびえたり 戦慄したり目を蔽ったりしないで 何処までも現実を見つめながら堪え堪えて生きて行く。このような《散文の精神》が はやくここに具現されている。  男子は漢字の世界に生きていて 常に中国の空を望んではその模倣を心掛けていた。だからその目には男と女との間の本当の関係あるいは人生の意味を見て表現する力は養われなかった。それに対して 女は 自分の悲しみと苦しみとを なまの言葉で直接文字化できる女手の世界に生きていた。だからこそ 『源氏物語』のような達成があり得たのである。  (大野晋:『日本語はいかに成立したか』 §12)  ~~~~~~~~~~~~  ☆ 日本語学者として言葉の観点から見た見解を挙げてみました。  たとえばひと昔前までは ペンを持って手で字を書きました。その字がへたくそだからと言って その中身がまったく捨てられるかと言えば そうではない。それと同じように 敬語の遣われ方によって作品の中身が左右されるとも思えないのですが どうでしょう?  それともその敬語の頻繁さは 致命的でしょうか?   それはそれで 文学評論の主題になるかも分かりません。たぶんその論文を実際に見て人びとは・そしてわたくしも判断することになると思うですが。

回答No.18

『吾輩「は」猫である』という表現の「は」と 『春「は」あけぼの』という表現の「は」とを、 或る書籍では、別の用法の助詞に分類していましたが、 如何に思われますでしょうか?

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  (1) 吾輩「は」 〔それ=吾輩‐ガ〕 猫である。  (2) 春「は」 〔それ=春に関連することとして それの良いところ‐ガ〕 あけぼの。  ☆ (2)は 確かにまづは一般の用法に従ってガ格でみちびく第二主題が省略されています。されているのですが この場合はしかも その第二主題じたいについてやや分かりにくい。やや分かりにくいにもかかわらず省略されている。  山ハ富士 川ハ○○川・・・というように聞くとすでにわれわれは分かるようになっていると思いますが これはそういう用法が定着して来たという歴史からなのでしょう。言いかえると 枕草子の時代では どうだったのでしょう?    言いかえると A‐ハ B‐ガ C‐ナリ。 / C‐スル。 の構文は 昔から初めから確かなものとして成り立っていたとは見ていません。  ガ格などは もとは いまの(あるいはその昔からの)ノ格の用法が ふつうだったと言います。   (3) 我‐ガ国 : ガはノ格〔属格(所有格と言いますか)〕   (3-1) 我‐ガ愛する国   (3-2) 我‐ガうるわしの国  (3-1)もじつは ガは基本的にノ格であり 我ノ国というふうにつづくのであり つながります。それは(3-2)の場合と同じです。  それが この(3-1)などの表現例の現われるに従って 《我‐ガ》と《愛する》とのつながりが注目された結果 これらの意味連絡としては 主格+述格 だと見なされるようになった。愛するの行為主体が 我だという線形論理のことです。  それは単純に言って 直接つながっているから そう受け取りやすいゆえだったのでしょう。  そしてその後 もともと中心主題を提示するハ格とコンビを組んで 基本構文をかたちづくるようになったものと捉えます。もともと主題提示をつらねるという文の構えは成り立っていたのですから この主格用法としてのガ格が その線形論理の用法に特化したというわけではなかった。  つまり非線形の超論理において ハ格と同じく主題を提示する役割を基本的に担って そのあと線形論理において主格を受け持つ。  ( a )ぼく‐ハ 〔注文‐ガ〕 うなぎだ。  ( b )象‐ハ 鼻‐ガ 長い。  これらでも ガ格は 述語に対して定義主格や現象主格になっているとそのまま容易に受け取れますが もともとの主題提示の役目が消えてしまったわけではない。ゆえに  ( b-1 ): 象‐ノ 鼻‐ガ 長い。  ( b-1-E ): Elephant's nose is long.  ( b-2 ): 象‐ガ〔持つ〕 鼻すなわち長いそれ‐ヲ。  ( b-2-E ): An elephant has a long nose.  のような相転移のごとき解釈をも許容するようです。

bragelonne
質問者

補足

 じつは 悩んでいる問題があります。提出してみます。  ハ格とガ格とは 英語では 冠詞の使い分けに相当するという見方をめぐってです。  ( d ) ハ格は 定冠詞の the であり ガ格は 不定冠詞の a ( an ) である。  というものです。当たっている場合があるのですが いまの趣旨説明に述べている見方からすれば そもそも構文ないし文型において 二つの言語は基礎が違って来ているので 比較対照があまり用を成さないであろうと見なされます。果たしてどうか?   たとえば ヨハネによる福音から例文を引いて突き合わせてみます。    ( e-1 )(ヨハネによる福音書 1:1 新共同訳) 初めに言‐ガ あった。言‐ハ神と共にあった。言‐ハ神であった。  ( e-1-E )( KJV ) In the beginning was the Word, and the Word was with God, and the Word was God.  ☆ 《 God 》に関しては 大文字になっていますし 冠詞の問題はないと思われます。あるいはまた原文のギリシャ語ですとかほかの言語はいま別として 英文と和文との比較対照のみを取り上げています。  もう一例を引きます。  ( e-2 )(同上 1:6 新共同訳) 神から遣わされた一人の人‐ガいた。その名‐ハ ヨハネである。  ( e-2 )(口語訳) ここにひとりの人‐ガあって、神からつかわされていた。その名をヨハネと言った。  ( e-2-E )( KJV Jhn 1:6 ) There was a man sent from God, whose name [was] John.  ☆ このように( e-2 )の文例では 和文のガ格と英文の不定冠詞 a とが対応しているようです。そのガ格もそして不定冠詞も 同じように 第一中心主題(つまり《ことば》ないし《神》)から関係第二主題を派生させるかたちで 用いられている。派生させた関連主題は そのとき未知のものである。または未知のもの扱いとする。ゆえに 不定冠詞 a との対応は無理なくできるように見られます。  ただし ( e-1 )の文例では 互いに異なっている。つまり最初の《言 / Word 》についてみると片やガ格であり 片や定冠詞 the である。そのあとの《言 / Word 》については 片やハ格であり片や定冠詞の the でありこれらは ( d )の仮説に対応している。既知のそして定まった主題として扱っているわけである。  言いかえると 問題は次の対比にある。  ( e-1 ) 初めに言‐ガ あった。  ( e-1-E ) In the beginning was the Word,  さあ どうしたものか なやましい。  英文は この場合 《 Word 》をすでに初めから(この文の書き手は)みなに知られている主題であり話題になりうるものと見積もっているということなのでしょうか? 和文では そんな《言葉》のことは一般に知らないから そしてみなに知られているもの扱いにすることもむつかしいと判断したから 未知の第二主題をみちびくガ格を用いている。こういうことでしょうか?  じどうしゃがいしゃさんや或いはほかにも ひろがって展開する議論ないし説明をお持ちの方がいらしたら どうぞ ご投稿ください。   

回答No.17

15番の内容の続きで御尋ねを致します。 著作者達が自分の虚構の登場人物達への表敬を盛り込んで、 其の作品を展開させていく、という遣り方は、 海外のどの様な作品にも見られますでしょうか? 純粋に学びたいと考えて伺っておりますから、 具体例の紹介を宜しく御願い申し上げます。

bragelonne
質問者

お礼

  ご回答をありがとうございます。  ★ 15番の内容  ☆ は 次のNo.11からのつづきであるようです。  ☆☆(No.11お礼欄) ~~~~   ★ ~~~~~~   源氏物語絵巻等では、作者が、   『自分の「虚構」の登場人物達への「表敬」』を、   其の作品の中へ盛り込んでいます。   ~~~~~~~~~~   ☆ 表敬を盛り込みたかったからでしょう。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり だったらほかの国の文学作品に《作者が登場人物に表敬を言葉に出すこと》はあるのか? こういうご主張だと理解します。  1. 文学作品については わたしは評論をわるびれずおこないますが 世界の文学を読破したことはありません。一般の平均よりもとぼしいかも分かりません。  2. その上で考えるに まづ一般論として 登場人物どうしが その国その時代そしてそれぞれの身分に応じて互いに表敬し合うということはあるはずだと考えます。現代作品でも 時代の思潮は変わって来ていますが ウヤマヒにかんしては基本的に同じでしょう。  3. ところが作者が 主人公らに表敬するのは 珍しく奇異でさえあるのではないか?  4. この議論がどこへたどり着こうとしているのか分かりませんが もしそうだとしたら その作者らは 登場人物どうしが表敬し合うのと同じように 自分も登場人物らに対して表敬したということだとまづ思います。そういうかたちで作品をつくった。  5. 言いかえると その上で読者は つまり現代のわれわれも その文学としての良さやまづさを見取って行くのでしょうね。  6. その時代の身分関係に従って つまりその表敬のあり方にべったり従って 何から何までその社会の体制そのものをみづからが体現しているというとき そうだからと言って作品の良さがあればその良さが必ずしも減るものではない。こう考えます。身分関係には何が何でも抵抗しそれを破壊するのでなくては 人間性は表わされないとは考えません。  7. あとは 具体的な作品の具体的な表敬をめぐる表現そのものについて吟味していくことになるのではないでしょうか。  どうでしょう。

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