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日本語は論理表現にふさわしくないのか?
- 日本語が論理表現にふさわしくない理由を考える
- 日本語の文型が論理的な連絡を省略していること
- 言語外の要因から主体があいまいに表現しようとする可能性
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岡潔の情緒が話題になってるが、参考として「春宵十話」のはしがきから引用しとこう。 「...数学とはどういうものかというと、自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術の一つであって、知性の文字板に、欧米人が数学と呼んでいる形式に表現するものである。 私は、人には表現法が一つあればよいと思っている。それで、もし何事もなかったならば、私は私の日本的情緒を黙々とフランス語で論文に書き続ける以外、何もしなかったであろう。私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問うひとに対しては、スミレはスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えて来た。」 http://www.lib.nara-wu.ac.jp/oka/fram/koto.htmlの「岡博士の紹介」 なんか見ると、有名になった第7論文の着想は、大学をやめて太平洋戦争末期の困難な時代に郷里で土地を切り売りして生活しながら発見したということだから、岡潔は偉大ではあるよな。
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#7です。 >この質問は しっかりとした文章で自己表現をおこなおうと言いたいわけで そうしないのを日本語の所為にするなという問いかけです。 それは理解してます。ただ日本語は、自堕落な表現にもとっても向いている(ような気がする(^^;))。言いたかったのは、自由度の高さです。 >ひとりいましたね。外国語の苦手。物理学のノーベル賞受賞者で。英語は好かんと。小林のほうか益田のほうだったか。 益川さんですね。以下ウィキから引用。 ・外国語は大の苦手で、大学院入試では数学と物理学は満点であったものの、ドイツ語は完全白紙で英語も散々な成績だったため、入試委員会で合格を認めるかどうか問題となったという。 ↑院では大抵足切りがないので助かった・・・(^^)。 >★ 構文解析 ☆ って何ぢゃいな。と思ってしまいます。 恥ずかしいので、これ以上は申しません・・・(^^;)。 >北海道は ひょっとして あそびかぁ。 いえ、現住所です・・・(^^;)。 >数学も 情緒の問題なのですか? 岡潔は世界的に見ても特異な数学者です。ふつうは(普通でもないけど)数学的感性どまりで、数学的情緒を語れる人なんて、岡潔くらいです。 数学的感性の違いは確かにあります。それを数学理論の開発思想の違いと言うと、余りに無骨すぎる。 岡潔の多変数関数論とほとんど論理的に同値なものに、カルタンの理論があるのですが、読む人が読むと水と油だと言います(自分は読んでません。難かしすぎる)。 シュワルツの超関数(直訳は分布理論)と佐藤超関数も、ほとんど同じ事が出来ますが、全く発想が違います。 西欧vs日本でなくても、古典的な実数論で、「デテキントの切断法」と「コーシーの数列に基づく構成法」は、水と油どころか、全く無関係なアイデアと思えます。でも論理的には同値な結果を出します。 [追伸] MS-DOSと付き合って10余年、Windowsと付き合って20余年、Programer's Work Benchから始まってVisual StudioにいたるMSの統合開発環境と付き合って30数余年で、IEなんか使い放題!。 UnixやLinuxに乗り換えようかと思った事もあったが、もう遅すぎる。この歳になっては今さらもう、後戻りは出来ない!。 俺って、舞狂素腐徒(マイクロ○○○)の犬だなぁ~(^^)。 「もうもう」言えるところが日本語っぽい気もするのですが、狗の(走狗の)グチでした・・・(^^;)。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 きょうは 特別。暑さです。とうとうこちらは 本格的な猛暑。さきほどエアコンを入れる前に 33度ありました。部屋の中がです。8月10日あたりまでつづきます。 プロフィールをいつも見ていないのですが 道産子でしたか。これは 失礼しました。 ★ 言いたかったのは、自由度の高さです。 ☆ それは あるのでしょうね。政治家の話などは 文としての締めがないと思えるほど 長くつづきますね。このあいだ 岸信介の本を読んでいて そのしゃべったのを文章に起こした場合 延々と一文がつづきます。句点が来ない。 益川さんでした。(いちおう 先輩。秋にホームカミングデーがあるとか。会費を払えとか。ちょうど今夕 会報が来ました)。 ▲ ドイツ語は完全白紙で英語も散々な成績だった ☆ かえってすごい。です。 ★ 岡潔は世界的に見ても特異な数学者です。 ☆ 《特異点》なわけは そうなんですね。 ★ ふつうは(普通でもないけど)数学的感性どまりで、数学的情緒を語れる人なんて、岡潔くらいです。 ☆ 感性と情緒とは ちがうんかいな? ★ 数学的感性の違いは確かにあります。それを数学理論の開発思想の違いと言うと、余りに無骨すぎる。 ☆ ぢゃあ 飛躍してでも 証明が出来てる。とか? なあんて。 ★ 西欧vs日本でなくても、古典的な実数論で、「デテキントの切断法」と「コーシーの数列に基づく構成法」は、水と油どころか、全く無関係なアイデアと思えます。でも論理的には同値な結果を出します。 ☆ ここまで来ると !”#$%&’() あぁ そう言えば ブロウワーを覚えました。《直感》派。 エクスプローラーは まだ危険なんですか? 銀行口座が グーグルchrome だと開きません。
- NemurinekoNya
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googleのChromeを使っていらっしゃるのですか。 Windowsのインターネット・エクスプローラー、IEは何かと問題がありますのでね~。 重いし、遅いし、そして、何よりも、セキュリティーの面において脆弱性がありますので・・・。 わたしも、Windowsでは、Chromeを使っています。 本当は、Ubuntuで使っているのがFirefoxなのでWindowsでもFirefoxを使いたいのですが、 どうもわたしのPCですと相性が悪いようなので、Windowsを使うときは、Chromeを使っています。 セキュリティー的には、Chromeは結構強そうですね。 ただ、デザインがあまりにシンプル過ぎるので、物足りないものを感じますが。 Ubuntuは、 誰でもタダで自由に最新の技術と機能を使えるようにという思い、《思いやり》から生まれた基本ソフト・OSです。 また、そこで使われているアプリケーションも全てタダです。 ───タダだからとバカにしていけません。サポートはありませんが、機能面において、商用のソフトの先をゆくものが多数存在します。最新の技術が惜しげもなく使われている。商用ソフト開発の前段階としての実験的な面も存在するのですが・・・─── コンピュータの開発者や、そこに使われるソフトの開発者には、《思いやり》にあふれる方が世界中に多数おられるようで、何の見返りを求めることなく、こうしたものをセッセと提供してくれるんですよ。 世の中、ほんと、捨てたものじゃありません。 すくなくとも、Ubuntuの中では、国境や民族の差、垣根は存在していませんので。 世界中の数多くの言語・文字に対応しています。 Ubntuとは違うのですが、 世界中の子供が誰でもパソコンが使えるように───特に、発展途上国などの最貧国の子供たちが対象───という考えから生まれたSugarという基本ソフト・OSもあります。 こちらは、100ドルラップトップと呼ばれるもののOSとして使われています。 OLPC XO-1 http://ja.wikipedia.org/wiki/OLPC_XO-1
お礼
ご回答をありがとうございます。 いえいえ。PC はとんと分かりません。 Explorer はまだ 危険なのですね。このこともぜんぜん知りません。 そう言えば Linux は知っています。 ぱそこん。勉強する気がありませ~~ん。 ◇ すくなくとも、Ubuntuの中では、国境や民族の差、垣根は存在していませんので。 / 世界中の数多くの言語・文字に対応しています。 ☆ そこまで気が利いているのですか。手間暇がたいへんでしょうね。
- NemurinekoNya
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思いやりを有していない民族? お隣の韓国のことですか(ポリポリ)。 韓国語(朝鮮語)には、「思いやり」に該当する言葉がないらしいですね。 言葉がないということは、その対象である「思いやり」も韓国(朝鮮)人には無い、ということになる??? ちなみに、わたしが使っているPCのOSは、Ubuntuです。 Ubuntuは、アフリカのズールー語で《思いやり》という意味でございます。 Windowsなんて、重くて、遅いから、使ってられるか!! ―――と言いつつ、あまり使わないのもなんなので、最近、使い始めています――― 使えば使うほど、 セキュリティーなどのためにプログラムなどを更新すれば更新するほど、 PCは重くなり、 ファイルは肥大化してゆく。 ユーザーに対する《愛》や《おもいやり》が欠如している。 Ubuntuは、軽くて、速くて、いいですよ~。 電源をONして、10秒くらいで、PCを使えるようになるんで。 ユーザーだけではなく、PCに対する、《思いやり》が大切ですね。
お礼
あぁ きちんと応答しなかったなぁ。0ふーる0さんに。 ご回答をありがとうございます。 ◇ Ubuntuは、アフリカのズールー語で《思いやり》という意味でございます。 ☆ へえぇ。そういう思想の人が考案したのですかね。 Windows は もうヰルスの心配はないんでしょうか。あの時以来 Chrome を使っています。 ◇ 韓国語(朝鮮語)には、「思いやり」に該当する言葉がないらしいですね。 ☆ 日韓辞典には まづ 漢字語が出て来ます。 (1) 《トンジョン(同情)‐ハム(すること); トンジョンシム=同情心》。 もうひとつあって 〈古語〉として: (2-1) 《サンサン(想像)》。 次に 固有語で (2-2) 《ヘーアリム》。ヘーアリダという動詞は 《推し測る;汲み取る;察する》とある。 ・ シムジョン(心情)マン(だけ)ヘーアリョ(汲み取って)ジュセヨ(ください)。 ☆ この場合の《心情》は 《気持ち》くらいの意味でしょうか。 (2-3) チューリャン(推量) (2-4) チューチュク(推測) 《察する》は 思いやりに近いと言えば近い。ですかね。
- 0fool0
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>寄ってたかってその人の《資質》の開花を遅らせたりつぼみの時に摘んでしまったりすることがあるかに思われます。コノヤローと言いたいです 何かあったんですか? そう言えば他の方の質問で「思いやり」の事を書き込んだのですが、其の後考えてみたら、それを有していない民族の事を思い出しました。 どちらが人類のスタンダードなのかな?と、ちょっと面白いですね。 それとも双方、消える運命なのかw
お礼
世の中 何もなかったんですか? そういう問題でした。 ご回答をありがとうございます。 一面をすべてだと見る見方を卒業したいものです。
- 0fool0
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日本語は道具 使う人間の資質に頼るしかない
お礼
0ふーる0さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 使う人間の資質に頼るしかない ☆ これは 普遍的に妥当するでしょうね。 とすると ★ 日本語は道具 ☆ というのは 《言語は道具》という意味になるのでしょうか。 あとは 人呼んで《社会力学》の問題があるかとも思います。 何とか作用とか重力とか。そのようなチカラが 寄ってたかってその人の《資質》の開花を遅らせたりつぼみの時に摘んでしまったりすることがあるかに思われます。コノヤローと言いたいです。
- NemurinekoNya
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《境地》を推し出している。ということでしょうか? というよりも、 三木清の場合は、理性(ロゴス)万能主義への批判なのでしょう。 「近代の哲学はレトリックの問題をほとんどまったく無視しもしくは忘却しているが、それはその抽象性と貧困化とを語るものである。哲学は自己の本質を失わないためにここでも自己の端初、すなわちギリシア哲学に還らなければならない。ギリシア哲学においては論理学よりもレトリックが寧ろ先位をを占めていた。」 論理学の父であるアリストテレスは『アルス・レトリカ』を書いているじゃないか!!と。 「現実的な言葉は、アリストテレスがいったように、話す人、それについて話される物、聴く人という三つの要素を含んでいる。これに応じてレトリック的な証明も具体的には三つの要素から成りたっていると考えることができる。それは上に述べた話し手のエートス(個々人的な性格の意味)による証明、聞き手のパトスによる証明、そして話される物についての客観的照明である。初めの二つは広い意味でのパトスにおける証明と見ることができ、これに反して最後のものはロゴスによる証明である。したがってレトリック的な思考も完全であるためには論理学的思考の要素を欠くことができない。 かような論理学的な思考の産物を普通いわれる思想と呼ぶならば、思想は何等文学にとってなんら不必要なものではなく、むしろそのような思想の乏しさが我が国における文学の欠点であった。そのために日本文学には局部的な直観的な深さや思考の細かさはあるにしても、西欧の文学に見られるような綜合、構成、外延に欠けていた。 (中略) そこに論理学的に思考することが必要であろう。しかしながらその場合、論理学的な思考はただそれだけ独立に進行するのではなく、つねにレトリック的な思考と結びつき、むしろこのものの一要素、一側面でなければならぬ。思想はこのようにして生きた思想となり、それ自身が或る直観性を得てくる。」 (以上、『レトリックの精神』からの引用。) 日本文学に思想性が欠如しているのか、 作家が自身の思想性を価値のないものとして、あえて、作中に表わさないようにしているのか、 ―――わたしに言わせれば、むしろ、思想性を表現しないことによって、文学作品は普遍性を獲得する、永遠なものになる――― そのことについての考察が三木清には欠如している、と思いますがね。 日本人は、ものごとを論理的に考えたり、表現できないのではなく、 論理的にバリバリと表現することを、極力、避けてきただけだと思いますけれどね~。 察しの文化ですよ、日本は。 「言葉にすると角が立つんで、あえて口にしませんけれど、分かってもらえますよね~。ね、ね、ね」 阿吽の呼吸といいますか、日本人同士は、これで分かるものですよ。 これで分からない人は、《KY》と呼ばれる。 ただ、かつて日本に存在した、こうした《甘え》は現在では通用しにくくなっているのは事実。 ですから、 誤解を招かないような正確な表現をこころがけないといけなくなっているのでしょうね。 で、 この質問の内容に戻りまして、 もしチョムスキーのいうことが正しいならば、 われわれ人間には普遍文法なるものが本来的に存在し、 世界のありとあらゆる言語は、この普遍文法のヴァリエーションにすぎないことになり、 どの言語がどの言語より、構文上、論理的に優れている、劣っている、ということはない。 で、 言語間において優劣の差があるとすれば、語彙ですよ、語彙。語彙の豊富さ!! どれだけ質のよい単語を多く有しているかです。 日本語なんか、この点と新語を作る能力において、ピカイチですよ。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ▲ (三木清) 論理学的な思考はただそれだけ独立に進行するのではなく、つねにレトリック的な思考と結びつき、むしろこのものの一要素、一側面でなければならぬ。思想はこのようにして生きた思想となり、それ自身が或る直観性を得てくる。」 ☆ これが まぁ 人格の全体なんでしょうね。おまけに 相手との関係性をも捉えているとすれば。 情感の共同性と意識の流れ このふたつを 彼我 いえ 我彼のそれぞれ特徴として捉えたことがありました。 つまりは パスカルの《繊細の精神と幾何学の精神》とです。 パスカルの言うとおり 両面があるとよいのでしょう。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 日本文学に思想性が欠如しているのか、 作家が自身の思想性を価値のないものとして、あえて、作中に表わさないようにしているのか、 ―――わたしに言わせれば、むしろ、思想性を表現しないことによって、文学作品は普遍性を獲得する、永遠なものになる――― そのことについての考察が三木清には欠如している、と思いますがね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしの持論と言いますか 見解は 思想とは生活態度である。です。哲学が その思想の裏方になると言いますか うしろで膨大な裏付けをおこなうということだと思います。 ただし ひとつ物言いがあります。ムラカミハルキは その思想=生活態度がけっきょく あいまいの美学としてあり もっと言えばモヤモヤ・ワールドの中に深く深く入って行っているかと思います。 そうして現代は: ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ただ、かつて日本に存在した、こうした《甘え》は現在では通用しにくくなっているのは事実。 ですから、 誤解を招かないような正確な表現をこころがけないといけなくなっているのでしょうね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ もしチョムスキーのいうことが正しいならば、 われわれ人間には普遍文法なるものが本来的に存在し、 世界のありとあらゆる言語は、この普遍文法のヴァリエーションにすぎないことになり、 どの言語がどの言語より、構文上、論理的に優れている、劣っている、ということはない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ チョムスキーは 苦手でして。言語能力というなら いちいち《普遍文法》というかたちで言わなくても 学者も一般人もほとんど誰でもが 万人にそなわっていると言うと思うんです。 まぁ それは別としまして: ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ で、 言語間において優劣の差があるとすれば、語彙ですよ、語彙。語彙の豊富さ!! どれだけ質のよい単語を多く有しているかです。 日本語なんか、この点と新語を作る能力において、ピカイチですよ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たぶん表現のかたちをも添えたいと思いますね。 それこそレトリックになるのかどうか。 《わるい》と言わずに 《より少なくよい》と言うと しゃれています。そういう語彙の豊富さは欲しいと思います。
お久しぶりです。北海道もあっついです(^^;)。 以前話し合った、「日本語は非線形だ」という事に落ち着きそうな気がするのですが・・・。 例えば、主語などを明確にちゃんと指定すれば、日本語にだって(?)論理的な話はもちろん出来ます。ただ文法が非非線形だという影響、つまり#5さんの意見には、否定できないところがあると思います。 >結論は あいまいということは 両義性ということ・すなわち意味がふたつあるということ・つまり ふたつに分かれるけれども きちんとそれぞれの意味が 論理的にも ととのっているということ。これを見ています。・・・ それはそうなんですが、論理的な話をしようとする場合、両義性があっては困りませんか?。 日本語はその文法の性質上(文法の、運用上可能である自由さかも知れないですが)、意味の重層構造をたやすく作れてしまうと思います。逆にそれ故、一を聞いて百を知るといった事態も起きうる気もします。 以下は書くかどうか迷いましたが、書いちゃいます(^^;)。 自分は外国語が大の苦手です。典型的には英語で、古文・漢文もその範疇に入ります。現在では印刷された英語の技術論文などは読んで読めない事はないですが、自分にもセンター試験を受けた時代がありました。 当時の自分は英語の論述問題など出されたら、パーフェクトに零点になる自信があった(実際そうなったし・・・(^^;))。しかしセンター試験の英語は7割取れたんです。7割とは、長文問題はほぼパーフェクトに正解という事です(発音記号などは全滅)。 どうしてか?。今でもそうだと思いますがセンター試験の回答は、約5択です。5択という事は、正解がその中に転がってる訳です。で、長文問題の本文と5択の正解候補に構文解析を実行すれば、正解を見つけられる事に気づいてしまったんです。 というか、そういう受験技術を開発しました(今では出来ませんが(^^;))。手前味噌になりますが、この技術はよっぽどの構造解析力(構文論的力)と、ある種の構文論的意味センス(文法が意味を発生させるという確信)がなければ不可能です。正答率は、95%以上でした。もう一回言いますが、今ではもちろん出来ません。よっぽど切羽詰まっていたんでしょうね(^^;)。 ※こんな邪道な方法で入試を突破したために、大学入学後は語学で惨々な目に合いました(^^;)。 マークシート方式の弊害だ!・・・(←お前が言うな!(^^;)) でも実体験として、次の事は言えると思うんです。「少なくとも英語は、文法が意味をほぼ一意に確定する」。日本語のように意味の重層構造はつくらないと。 どうでしょうか・・・(^^;)。
お礼
北海道が暑いですって? でーさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 日本語の文法の話になると そういうことですね。つまり: ★ 以前話し合った、「日本語は非線形だ」という事に落ち着きそうな気がするのですが・・・。 ☆ と。 この質問は しっかりとした文章で自己表現をおこなおうと言いたいわけで そうしないのを日本語の所為にするなという問いかけです。 ★ でも実体験として、次の事は言えると思うんです。「少なくとも英語は、文法が意味をほぼ一意に確定する」。日本語のように意味の重層構造はつくらないと。 ☆ と思っていたら 回答No.1のねこさんが 英文のあいまいさを指摘していました。 ひとりいましたね。外国語の苦手。物理学のノーベル賞受賞者で。英語は好かんと。小林のほうか益田のほうだったか。 ★ 構文解析 ☆ って何ぢゃいな。と思ってしまいます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ それはそうなんですが、論理的な話をしようとする場合、両義性があっては困りませんか?。 日本語はその文法の性質上(文法の、運用上可能である自由さかも知れないですが)、意味の重層構造をたやすく作れてしまうと思います。逆にそれ故、一を聞いて百を知るといった事態も起きうる気もします。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たぶん それゆえに《ロゴス》の重視よりは 《パトス》の問題だとなるようなのです。数学も 情緒の問題なのですか? 両義性は けっきょく文脈で決めて行くのでしょう。文脈は 大きいでしょうね。その比重は。 北海道は ひょっとして あそびかぁ。
- NemurinekoNya
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日本には、西洋の数学に相当する《和算》があります。 西洋の高等数学とほとんど同時代的に、 微分積分や代数学、幾何学が日本で生まれた。 そろばんという優れた計算機を使っての、非常に高度な数値解析や数値解析法まで、 日本人は、ほとんど独力で作り上げてしまった。 そして、 明治時代に西洋の数学が本格的に導入される時点において、 日本の和算の方が、西洋の高等数学よりも進んでいる分野もあった、 と言われています。 これは本当に驚異的なことなんですよ。 ヨーロッパ総がかりで、その盛んな交流において作り上げた数学とほとんど同内容のものを、 狭い島国である日本とそこに住む日本人が、ほとんど、独力で作っちゃったんですから。 ―――日本人にオリジナリティーがないというのは、大嘘です。オリジナリティーのない一部の学者や文化人の戯言にすぎない。自身のオリジナリティーの欠如を、日本文化や日本語の責任に帰しているだけ――― そして、 この極めて高度な和算がなければ、文明開化以降、急速に西洋文明の科学技術を吸収することはできなかった。 数学で裏づけられた西洋の科学技術を吸収・消化できる文化的・文明的土壌が日本にあったからこそ、これが短期間に可能であったんですよ。 ですが、 日本には、西洋の論理学に相当する学問の分野が、たぶん、なかった。 和算で言うと、論証は重視されなかった、らしい。 で、日本文化全般で言うと、 玄奘さんがインドからインドの論理学を中国に持ち帰り、《因明》と呼ばれるインドの論理学が日本にももたらされ、一時期、古代日本(奈良から平安初期)でも研究されたらしいですね。 ですが、 この《因明》は、サンスクリット語と密接な関係があり、 言語の体系・構造が異なる日本語に応用することができなかったので、捨て去られ、忘れ去られた。 論理学(ロゴスに関する学問)と対になる修辞学(パトスに関する学問)はあったんでしょうが、 この分野の研究は発達していたと思うんですが・・・。 因明 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E6%98%8E 三木清は『レトリックの精神』の中で 「レトリック的思考は主体的に規定された思考であり、その根底にはパトスがある。それとの区別において、ロジック的思考は対象的に限定された思考と見ることができる。後者の思考が一般的なものであるとすれば、前者は個別的なものに関わるといわれるであろう。論理学的思考は真理性Wahreitに関わるに対して、レトリック的思考の関わるのはむしろ真実性Wahrhaftigkeitである。」 と書いています。 また、こことは異なる個所において 「レトリックは特殊な思考の仕方であり、相手を説得することに、その信(ピスティス)を得ることに関係している。かようなものとしてレトリックも特殊な証明を含まなければならぬ。レトリックにはレトリックの固有な論理がある。レトリック的な証明はエンテテューマと称せられる。それは論理学的な証明にすなわちシュロギスモスとは性質の異なるものであるが、一種の論証であって、アリストテレスによるとレトリック的なシュロギスモス(推論)と看做されうるのである。」 と書いています。 三木清は、実は、すごいことを書いているのかもしれない。 西洋人は真理性Wahrheitを求め、 日本人は真実性Wahrhaftigkeitを求めている、 のかも知れない。 プラトンが天を指差しているのに対して、 アリストテレスが地上を指差している絵の如く・・・。 ちょいと余談。 インドには「魔術師」と形容された、ラマヌジャンという数学者がいたんですよ。 ―――――― 大学で系統的な数学教育を受けなかったため、彼は「証明」という概念を持っておらず、得た「定理」に関して彼なりの理由付けをするに留まっていた(寝ている間にナマギーリ女神が教えてくれた、など)。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3 ――――――――― ラマヌジャンは、自身の発見を自身で証明することができなかった、と言われています。 そして、その証明は、お師匠さんのハーディのお仕事(笑い)。 お師匠さんのハーディは ――――――――― また、ハーディは1から100までの点数で数学者をランク付けするのが好きだった。それによると、ハーディ自身は25点、リトルウッドが30点、偉大なるヒルベルトが80点、そしてラマヌジャンが100点だった。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3 ――――――――― と言っています。 ラマヌジャン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3 数学者の藤原正彦は ―――――――――、 自然科学で最も重要なのは美しいものに感動する「情緒力」で、数学的なテクニックじゃない。幼いころの砂場遊び、野山を走り回る、小説に涙する、失恋するなど、あらゆる経験がそれを培う。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%AD%A3%E5%BD%A6 ――――――――― と言っています。 偉大な日本の数学者、岡潔のパクリだな、この発言は・・・。 数学は、パトスの学問ですよ。それを理論、組織体系化するのに、ロゴスを使う。 藤原正彦は、 「すばらしい美術を持たない文化では、数学は決して生まれないのだ。美を愛する気持ちが数学を生み出すんだ」 みたいなことを言っていたな~。
お礼
◇ ―――日本人にオリジナリティーがないというのは、大嘘です。オリジナリティーのない一部の学者や文化人の戯言にすぎない。自身のオリジナリティーの欠如を、日本文化や日本語の責任に帰しているだけ――― ☆ ここは 痛快ですね。けっこう多いんですよ。高い教養を身に着けている人たちのあいだにもです。 と最初に愚痴ってしまいましたが ねむねこさん ご回答・ご説明をありがとうございます。 ▼ (ヰキぺ:因明) ~~~~~~~~~~~~ § 1 インドの論理学の特徴 論理それ自体の真理性を追求するアリストテレスに始まる西洋の論理学と異なり、インドでは各々の立場からの真理到達(輪廻からの解脱など)の妥当性を問う側面が強かったため、認識論や存在論も含めた学問として発達した。 主張(命題)の証因(「~であるから」)についての学問である、とした仏教の態度にも見られるように、その背景には各宗派・学派によって否定されてはならないドグマが存在した(仏教では仏陀)という事情がある。仏教以外ではニヤーヤ(規則・規範 Nyaaya)という語が論理学を表す語として多く用いられた。 § 3 新因明 ・・・ 陳那とその弟子の著作は、玄奘によって中国にもたらされ、日本においても研究された。中村元によれば、奈良時代にはカント哲学の二律背反の問題に当たるものが論じられていた。 その著作が漢訳されず、日本には名前しか伝わらなかったが、陳那の後継であるダルマキールティ(法称)の論理学は、西洋のインド学・仏教学の方面からの再発見・再評価によって研究が盛んとなり、そのインドに与えた影響の大きさと全貌が近年明らかになりつつある。 ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 三木清は、実は、すごいことを書いているのかもしれない。 西洋人は真理性 Wahrheit を求め、 日本人は真実性 Wahrhaftigkeit を求めている、 のかも知れない。 プラトンが天を指差しているのに対して、 アリストテレスが地上を指差している絵の如く・・・。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ううーん。そういうことですか。 ただし 《真理性》も 相対的で経験合理性を内容とする推論で 仮りにその真理の補助線を示すかたちで説明するものだとは思われるのですが。 もともと 真理性ではなく真実性を問い求めている場合には では どう違ってくるか。《真理》は 自分たちの背後にひかえているとでも思っているのだろうか。 でも レトリックにかかわる真実性は 《主体の問題・信の問題・そしてパトスの問題》だと言っていますね。《境地》を推し出している。ということでしょうか? 言いかえると 論理をおのおの身と心との内におさめるといった形をすでに前提としているのでしょうか? ◇ 数学は、パトスの学問ですよ。それを理論、組織体系化するのに、ロゴスを使う。 ☆ とほほ2さんの言うように ◆ 岡潔・・・は、「数学とは情緒の表現である」と言っている ☆ ということなのですね。 ◇ インドには「魔術師」と形容された、ラマヌジャンという数学者がいたんですよ。 ☆ 何だか惜しいことをしていますね。でも 環境がととのったなら整ったで あまりチカラが発揮できなかったのでしょうか。 情緒のくに・日本も もっと自由におしすすめて行って欲しいですね。
- titelist1
- ベストアンサー率25% (712/2750)
No.3です。 日本語は言葉の数も多いし、論理表現に問題があるとは思っていません。問題があったらここまで発展していません。 私は人の話を聞いていても言いたいことを最初にずばりと言えば良いのになあと思うことが多いのです。結局はぐたぐた言っていてゆっくりと聞いているとやっと嫌だといっていることが分るようになるのです。日本人が優柔不断な民族だと思われているのは、前述したように言語の文法に原因があると思っています。
お礼
ううーん。微妙ですね。 まづは ちてりすと1さん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。 つまり 質問者から見ますと ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~ ( β ) 考えられることは おそらく言語じたいの問題ではなく (β-1) 論理的に述べない主体の問題である。あるいは (β-2) 論理的に述べようとしても 人間関係における社会的な力関係からかえって はばかられるという社会力学の問題である。 といった要因があるのか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ に落ち着くのですが そうでもあり そのほかにも原因があるともおっしゃっている。ように受け取られます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (あ) 私は人の話を聞いていても言いたいことを最初にずばりと言えば良いのになあと思うことが多いのです。 → ☆ (β‐1)かまたは(β‐2)かだと思われる。 (い) 結局はぐたぐた言っていてゆっくりと聞いているとやっと嫌だといっていることが分るようになるのです。 → ☆ これも前項に同じくだと思われます。 (う) 日本人が優柔不断な民族だと思われているのは、前述したように言語の文法に原因があると思っています。 → ☆ つまりは ここは 微妙ですね。まとめたかたちの(β)であるのだが その(β)なる事態こそ 《言語の文法に原因がある》という問題なのだと。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり (う)の問題です。日本語の文法が 論理があいまいだという議論ではわたしはいつも次の事例を引っ張り出しています。結論は あいまいということは 両義性ということ・すなわち意味がふたつあるということ・つまり ふたつに分かれるけれども きちんとそれぞれの意味が 論理的にも ととのっているということ。これを見ています。: ( a ) 太郎ハ 花子ガ 好きだ。 ( a-1 ) 太郎が好きな相手は 花子だ。/ Taro loves Hanako. ( a-2 ) 太郎を好きなのは 花子だ。/ Hanako loves Taro. このように両義性としてのあいまいさをやどす。というに過ぎない。と見ています。つまり ( a-1 )や( a-2 )は いづれも英文での S-V-O なる意味連絡があきらかな文型に対応しています。 これは ハ格やガ格が 意味連絡を示す前に 主題として提示されていることから来ているはずです。そのあとで 主格( S )や対格( O )が決まります。決まるのは 明らかなかたちですから 論理表現にとって何の問題もない。こうなるはずです。 つまりは ★ 日本人が優柔不断な民族だと思われているのは、前述したように言語の文法に原因があると思っています。 ☆ という一面での事態は 一見した場合の印象であって ほんとうのところは 文法としても ★ 日本語は言葉の数も多いし、論理表現に問題があるとは思っていません。問題があったらここまで発展していません。 ☆ ということである。こうではないでしょうか?
- tohoho2
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日本の数学者の特異例として、岡潔を挙げることがでるが、彼は、「数学とは情緒の表現である」と言っているな。 岡潔の連作「多変数解析関数について」の第10論文の序文で、 「この序文では技術上の細部に立ち入らずに、私がこの論文を書き終えて感じていることを説明するために、遠い昔から日本民族に固有の感情である季節感に訴えたいと思う。...それらのうちのいくつかは複素空間から離れてしまった。私はこれは冬だと感じた。...そうして春の気配を感じさせてくれる研究を行いたいと思った。この論文は一番はじめに摘まれた果実である。」 と書いているそうだ。 まあ、私のような凡人にはわからんけどな。 興味を持たれたら、最近発刊された「紀見峠を超えて」(高瀬正仁)を読んでみるとよい。
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とほほ2さん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。 そうですか。 ★ 日本の数学者の特異例として、岡潔を挙げることがでるが、彼は、「数学とは情緒の表現である」と言っているな。 ☆ まづ《特異例》だとおっしゃっているところにやや気が行ってしまいますが それは措いてまづは 日本語という言語における論理表現にとってひとつの問題があるかも知れないのですね。 ここに引用なさった《序文》は ★ 「数学とは情緒の表現である」 ☆ と言おうとしている。ということでしょうか? ただし わたしが考えるに: ▲(岡潔) 日本民族に固有の感情である季節感に訴えたい ☆ という内容を 日本語で論理的に表現している。ということではないのでしょうか? と単純に思ってしまいますが。 ★ 高瀬正仁 ☆ さんをわたしは知らないので いま少し議論が未消化になっているかとは思います。 もし仮りにですね 仮りに日本語は論理表現に向いていないのだとした場合 そうだとしても とほほ2さんは そのことをきちんと論理的に表現しようとされている。のではないでしょうか? つまり まだ説得されません。と思います。
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お礼
ご回答をありがとうございます。 岡潔関係でじょうずに応対しえなかったことを悔います。 ○ 多変数解析函数 les fonctions analytiques de plusieurs variables と言うのですね。 ▲ 「...数学とはどういうものかというと、自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術の一つであって、知性の文字板に、欧米人が数学と呼んでいる形式に表現するものである。 ☆ このあたりが分かればよいのですが。・・・