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虚構の真実性はどこまで現実性を持つか?
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#2です。 >それでも人は(子どもを含めて)何が何でも生き延びる道を行くと思うからです。 : そういう面はある、というか、それがむしろ自然でしょうね。 件の子供たちにしても、山を降りて村人の家に盗人に入るなどして糊口を凌ごうとするほうが、わたしに言わせても、むしろ健全な自我の状態であると思います。 「おとう、今日はこれでうまい煮込みでも作ってけろ」などと言いつつ盗んできた野菜やウサギの肉などを父親に差し出す。 それに対する父親の反応は作者次第でどうにでもできますが、いずれにせよ、こちらのほうが自然の理に適っていると思うわけです。 つまり、実際問題として、食い物が無いぐらいのことで首を差し出すような子供の存在は考えられない。 その意味では現実性に乏しいと言えます。 ただ、わたしはこれを民話的な、つまり、象徴的な話として受け止めたわけです。 ブラジュさんはお嫌いでしょうが、また、わたしもほとんど知らないのですが、各地の民話、あるいは神話というものを渉猟することは精神分析においては極めて重要な意味を持っていると考えられているはずです。 あるひとつの場面において、人は日常的には思いもよらなかった言動を選択するものではないかと思います。 かの子供たちにしても、父親の追い詰められている雰囲気を、自らのアイデンティティの崩壊だと感じた可能性はあるでしょう。 これがタナトス(死の欲望)を刺激したことが直接的な要因として無理なく仮定できます。 歴史からの例ですと、明治天皇の死を控えた段階で自死を夢想した(そして崩御後に一部によって実行された殉死)などを挙げていいかもしれません。 (現代社会においても無意識的にはほとんど変わっていないと思いますが)情報化がさほど進んでいなかった過去においては、親の言動が全ての世界であるという子供は多かったと思います。 それに加えて、自らを犠牲にすることによる超自我的カタルシスの実現という要素が加わってくるので、さらに現実的に起こり得るという可能性は高まるでしょう。 そもそも、ほとんどの子殺しや心中などは、愛すればこそ殺すという自我脆弱性がその要因ですから、この作り話にしても(柳田の話に信憑性を与えることをよしとする場合には)父親の精神状態を元にして解釈するのが妥当であり、その意味で、子供が斧を研いでいたかどうかは派生的な、つまり、逆算的な所作にすぎないのではないか、ということです。 逆に考えると、そういった極限状況というものを柳田が反時制的に創造したと言えるかもしれません。 現実性という焦点の当てどころか若干異なっていたかもしれませんが、例によってあまり深く考えているわけではありませんので、暇つぶし程度にでもご笑納くさされば幸いです。
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- hakobulu
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#5です。 > ひとつ。タナトスは 死の欲動とは言え みづからに対してもあるいは他者に対しても 破壊しようとする欲動です。 : その場合でも、他者に対する破壊や攻撃自体がタナトスの目的ではない、というのがわたしの理解です。 一般的に言って、タナトスが優位になっている人間においてそれらは行なわれがちですが、それより先にすでに自らを終わらせたいという欲動が顕著になっている場合、その手段として他者への攻撃が生まれることがあるのだと思います。 > ひとつ:エロスが生の欲動で それと密接にからんだかたちで 死の欲動としてのタナトスがあるとしたら 《生きる》ことが ふつうの自然の振る舞いであるのとまったく同じように 《ほろびる・ほろぼす》ことも ふつうの自然の振る舞いであるという仮説でなくては おかしい。 : そのとおりですし、別に否定はしていないと思いますが。 「人間的」とか「人間にふさわしい」「正統の行為」といった表現をなさっていたので、それと「自然発生的な人間の感覚」とは分けて考える必要がある、ということを述べたわけです。 「>ふつうの自然の振る舞いである」というより、「本来的に持っている欲求の現われである」といったほうが誤解が少ないかもしれません。
お礼
認められません。
- hakobulu
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> ☆ このような事態がじっさいにあることと 人間の存在について自然本性としてのごとく破壊衝動ないし死の欲動つまりタナトスがそなわっていると説くこととは 似ても似つかない別のことです。後者は どこから見ても あとからのコジツケであり まやかしとしか言いようがありません。 : タナトスというものが独立して存在するわけではなく、あくまでエロス(生[性の誤植ではありません]の欲動)の裏返しとして、こうした心(あるいは脳)の動きがある、ということです。 この世に生を受けた時点からエロス優勢の状態で(おそらく慣性の法則的に)進むわけですが、その裏側には常にタナトスが付いて回り、なんらかのきっかけでエロスが衰退すると、コインを裏返すようにタナトスが優勢に転じようとします。(当然、その逆もあるでしょう) たとえば、この時点で「絶望的」といった感覚に人は襲われるはずですが、しかし、絶望的と感じる力があるうちはまだ大丈夫ですが、それは、絶望的というのは、絶望的ではないものを前提にした感覚だからです。 この時点では、タナトスが優勢になりつつもエロスの横顔程度は垣間見ることができます。 しかし、それをさらに乗り越えてタナトスの独壇場に移行してしまうということも当然あると考えるのが自然でしょう。 > ☆ 顕在化は 殉死が要求されたときにすでに成っています。大君に仕える者たちが好き好んで一緒に死のうと思っているわけではありません。あとからの――むしろ理性によるしわざとしての――コジツケです。大君の側が そのように要求したのです。つまり あろうことか メイレイしたのです。みな くるっているというそれだけの話です。 : 殉死を強制された、というわけですか。 その場合はタナトスも何も全く関係ないでしょう。 タナトス云々はあくまで心の自然な動きについての解釈なので。 > 沖縄の人たちは 広い意味でのクウキによってメイレイには従うのだ ゆえに死ねと言われれば死ぬのだと思い込まされていたのです。タナトスに従ったというバカな言葉を吐く人間が ひとりとしているものですか。ぬちどぅたから。 アマテラス語のペテン学問によって 集団的な精神錯乱に落ち入っているのみです。 : 基本的にはそうでしょうね。 きっかけとしてそういった要素が強いことは戦場の兵士たちにも同じことが言えると思います。 しかし、いくら命令とはいっても、生の欲動だけしか人に存在しないとすれば、自死という行動に至ることは決してないでしょう。 全て終わらせたい、というのがタナトスとしての欲動だろうと思います。 ここに働きかけようとする為政者はいつの時代にもいますが、それはある意味で的を射た方法論と言えるでしょう。 このまやかしに対抗するためには強力な自我が必要になります。 > タナトスが 生まれつきの欲動であるなどと言うのなら ホロコーストもヒロシマもみな 人間にとってのふつうの・もしくは正統の行為であると言わなければなりません。地震やツナミのごとくまったく自然のチカラのしからしむることだと言わねばなりません。 : 「ふつうの」と「正統の」を「もしくは」で接続するのはかなり無理があると思います。 タナトスは自らの究極的安定を目指すものですから、基本的には他者の死とは無関係です。 基本的には、というのは、他者の死がカタルシスの発散としてタナトスを満足させる場合もあるからです。 こうした現象はエロスの力が弱まっている人に起こりがちですが、現代に生きる人々の多くは多様な意味で病んでいます。 地震や津波による破壊の跡を見て爽快感に襲われた人はおそらく多かったはずです。 > 死だけではなく あらゆる暴力・あらゆる不法行為も 同じく破壊の欲動であり 一面としてながら きわめて人間的なおこないであると言わなければなりません。ウソつきから・スリかっぱらいから レイプから DV から 足の引っ張り合いから誹謗中傷 みなみな すべてすべて きわめて人間的な人間にふさわしい自然の出来事であると言わねばなりません。 : そうですね。 まず、「きわめて人間的な出来事」とおっしゃるのはそのとおりです。 ただ、人間とは常に矛盾した生を抱えた存在でしょう。 動植物のように純粋に生のみを追う生き物とは言えません。 個人的には、本能の一部と思考とをいつの時点でか引き換えにしたのだろうという気がしています。 人間は人間にふさわしいものを模索し続けるべく運命づけられた動物なのではないでしょうか。 いずれにしても、このようなわけで「人間的な出来事」とはいかにも人間がやらかしそうな出来事という意味に設定すべきであり、求めゆくべき「人間にふさわしい出来事」とはまた別のものと捉えるのが自然だろうと思います。 > お礼欄における ☆☆ 先祖代々 ☆ は むろん アソビとしての表現です。 : 大丈夫です。 当初から冗談として受け止めております。 因みに「ひいおぢいちゃん」という表現ですが、なんかかわいそうな気がしますね。 「ひい~おぢいちゃん」のような印象で。 対で「きゃあおばあちゃん」などもあっていいように思います。
お礼
ご回答をありがとうございます。 わけ 分かりません。 ひとつ。タナトスは 死の欲動とは言え みづからに対してもあるいは他者に対しても 破壊しようとする欲動です。すり替えてはいけません。 ひとつ:エロスが生の欲動で それと密接にからんだかたちで 死の欲動としてのタナトスがあるとしたら 《生きる》ことが ふつうの自然の振る舞いであるのとまったく同じように 《ほろびる・ほろぼす》ことも ふつうの自然の振る舞いであるという仮説でなくては おかしい。 ★ ~~~~ 殉死を強制された、というわけですか。 その場合はタナトスも何も全く関係ないでしょう。 タナトス云々はあくまで心の自然な動きについての解釈なので。 ~~~~~ ☆ 都合のわるいところでは 理論の内容をすり替える。わるいくせです。 ばかばかしいったらありません。
- hakobulu
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#3です。 > ですから 柳田が その小さな小説において述べたことは 子どもたちが言わば自発的に死を決意しその提案さえおこなったということですが 言おうとしたことは 子どもたちにしろ誰にしろ ひとは死なない。死のうとはしない。生きる。のだ。というこのただひとつのことだと思われます。 : それが自然な状態であることはたしかでしょうね。 生への欲求は理屈ではないから、つまり本能だからです。 しかし、人は本能だけで生きているわけではないので、そこにタナトスが存在するのはむしろ自然だろうとわたしは思います。 死のうと好んで意志することはなくても、死のうと意志する状態にまで精神的に追い詰められる、あるいは感化されるという状況はあり得るものでしょう。 柳田の物語は、そして実際の事件は、そうした親子のタナトスの相乗効果が現実化したもののような気がします。 しかし、先にあげた戦時中の例も含めてですが、家族にであれば自らの死の実現をむしろ嬉々として申し出ることにさほど抵抗が無いように見える、という点に、おっしゃるところの「死のうとはしない。生きる。」という人間本来の欲求を軽々とクリアしてしまうおぞましさがあり、柳田の場合は、それゆえに物語たり得ているのではないでしょうか。 優れた文筆家は無意識のうちに(たとえ作り事であっても象徴的に)真理を描写するもののように思います。 因みに、埴輪というのも、もしおっしゃるような理由でできたのだとすれば、タナトスの顕在化に対する怖れから生み出された、一種の防衛機制(抑圧)と感じます。 先祖代々お嫌いなんですか。 面白いと思いますけどね。
お礼
はこぶるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ 死のうと好んで意志することはなくても、死のうと意志する状態にまで精神的に追い詰められる、あるいは感化されるという状況はあり得るものでしょう。 ☆ このような事態がじっさいにあることと 人間の存在について自然本性としてのごとく破壊衝動ないし死の欲動つまりタナトスがそなわっていると説くこととは 似ても似つかない別のことです。後者は どこから見ても あとからのコジツケであり まやかしとしか言いようがありません。 ★ 因みに、埴輪というのも、もしおっしゃるような理由でできたのだとすれば、タナトスの顕在化に対する怖れから生み出された、一種の防衛機制(抑圧)と感じます。 ☆ 顕在化は 殉死が要求されたときにすでに成っています。大君に仕える者たちが好き好んで一緒に死のうと思っているわけではありません。あとからの――むしろ理性によるしわざとしての――コジツケです。大君の側が そのように要求したのです。つまり あろうことか メイレイしたのです。みな くるっているというそれだけの話です。 沖縄の人たちは 広い意味でのクウキによってメイレイには従うのだ ゆえに死ねと言われれば死ぬのだと思い込まされていたのです。タナトスに従ったというバカな言葉を吐く人間が ひとりとしているものですか。ぬちどぅたから。 アマテラス語のペテン学問によって 集団的な精神錯乱に落ち入っているのみです。 タナトスが 生まれつきの欲動であるなどと言うのなら ホロコーストもヒロシマもみな 人間にとってのふつうの・もしくは正統の行為であると言わなければなりません。地震やツナミのごとくまったく自然のチカラのしからしむることだと言わねばなりません。 死だけではなく あらゆる暴力・あらゆる不法行為も 同じく破壊の欲動であり 一面としてながら きわめて人間的なおこないであると言わなければなりません。ウソつきから・スリかっぱらいから レイプから DV から 足の引っ張り合いから誹謗中傷 みなみな すべてすべて きわめて人間的な人間にふさわしい自然の出来事であると言わねばなりません。 ★ 先祖代々お嫌いなんですか。 ☆ おばあちゃんも ひいおぢいちゃんも 言ってました。
補足
お礼欄における ☆☆ 先祖代々 ☆ は むろん アソビとしての表現です。
- hakobulu
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付けたし程度の投稿になりますが、以前見たNHKの「兵士たちの戦争」を思い出しました。 米軍に追われて逃げ込んだガマ(洞窟)で母親と妹を射殺した沖縄住民の述懐です。 最初は母親だけを殺したようです。 ところが、母親がくず折れるのを見た妹が、母親が撃たれた際の姿勢と同じように跪き「あんちゃん、おらも撃ってけれ。母ちゃんと同じとこさ行きてえ」とか言って、兄の持っている銃口を自らの胸にあてがわんばかりに懇願した。 男性がいざ引き金を引こうとした瞬間、妹が「ちょっと待ってけろ!」と急に叫んで、死ぬ前にどうしても水が飲みたいと言う。 危険を冒し外に出て木の洞にたまっていた一口にも満たないような水を空き缶に入れて持ち帰り飲ませてやると「あんちゃん、うめえよ~うめえよ~」と喜んだ。 妹を撃ったあと、男性は手榴弾で死のうとしたが不発で死に損なったりしているうちに米兵に見つかり心ならずも生き延びることになった。 男性はこのインタビュー後、たしか数週間で亡くなったというナレーションがあったと思います。 今回のご質問で共通していると感じたのは、親子兄弟の絆というものの愚かしいほどの強さといったところですかね。 柳田国男の話が真実味を持って感じられるのも、こういった家族関係というものが自我をやすやすと乗り越えた、または乗り越えているという真実がしばしば実感され得るからなのかもしれません。 ただ、「父親の苦境」とはいっても沖縄の話に比較すると絶体絶命感は希薄なわけで、むしろ父親の神経が参りきっていたことに対する読者側の想像力が絶体絶命感を醸成しているように思います。 子供たちの所作は、そうしたお膳立てから逆算されたものということなのでしょう。
お礼
はこぶるさん ご回答をありがとうございます。 あぁ ええ なるほど。現実味がじゅうぶん感じられるというご見解である。と思いますから 必ずしも回答No.1のもとこうこうせいさんのお考えのように・そしてそれに同調したわたしの応答のように すべて主観だと言ってこの問いかけ(ないし問い求め)を放棄せずともよい。こう考えなおしました。 すなわち その現実性の中身をしっかりと捉えこれを明らかにすることで 主観に閉じこもるのではなく 互いにそれを共同化することが出来るのだと。そしておそらく 異なった内容があれば それをも互いに提出しあいさらに練って行けばよいだろうと。 すなわち いまはこぶるさんのお考えでは ★ 親子兄弟の絆というものの愚かしいほどの強さといったところですかね。 ☆ 血のつながりには 独特のものがあって 虚構であろうとその事柄を活かすことはじゅうぶんあり得る。 ★ 柳田国男の話が真実味を持って感じられるのも、こういった家族関係というものが自我をやすやすと乗り越えた、または乗り越えているという真実がしばしば実感され得るからなのかもしれません。 ☆ であると。 そしてこれらは 次の条件のもとに言えることだと。 ★ ~~~ ただ、「父親の苦境」とはいっても沖縄の話に比較すると絶体絶命感は希薄なわけで、むしろ父親の神経が参りきっていたことに対する読者側の想像力が絶体絶命感を醸成しているように思います。 子供たちの所作は、そうしたお膳立てから逆算されたものということなのでしょう。 ~~~~~~ ☆ ・・・。つまり 考えてみますと わたしは今の今まで 話に圧倒されて分析などしていませんでした。なるほどなのですね。 さらに無理を言えるとしたら ☆☆(趣旨説明欄) それにしても その〔子どもたちの死を覚悟するという〕決心というのは いったい何たることかと・・・。 これについても はこぶるさんなり どなたかなり 解明してくださるとあり難いです。 わたしには それが分からないというその意味は それでも人は(子どもを含めて)何が何でも生き延びる道を行くと思うからです。ですが そうすると その意味では 話の現実性に対して――おかしなことに(つまりわたしは 中身に圧倒されていながら おかしなことに)――反論のようなものをも持っているということなのでしょうか。
- moto_koukousei
- ベストアンサー率54% (331/606)
ご希望のポイントがわかりません。 作り話かどうかを推理してみよということでしょうか。 その場合、多くのものは事実そのものではない、筋書きとか要約とかは、すべて筆者の作成した物語であると云って良いのでしょうか。 荒唐無稽であるものばかりでなく、司法裁判における検察側最終論告も、ある意味作り話です。 別に真犯人がいたり、動機や事件の経過に最終論告とは異なる解釈も可能です。 民俗学だけでなく、文化人類学や動物学などでの観察結果の報告でも、そうしたことは免れません。 筆者が意図的に、ある事実を記載しないで、ある事実を記載する場合にちょっと表現を工夫するだけで、まったく異なる印象を与え、特徴ある理解に誘導することは可能です。 A「娘は父親のもとに帰って来て死にたいと漏らした。弟をも道連れに一家心中を決意して」 B「阿爺、此処でわたしたちを殺して呉れと謂ったさうである」 AとBと比較した場合、単に、どちらも、同じことの要約表現の範囲と言えると思います。 Cには斧の記載があり、「二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことが出来なくて」 Dには斧の記載がなく、「子ども二人を殺したが 男は死にきれなかった」 これも、どちらも、同じことの要約表現の範囲と言えると思います。 Eには、「同じ歳くらゐの小娘を貰って来て」 Fには、「娘を奉公に出したが、その奉公先で主人夫婦の若息子の嫁から嫌われおカネを盗んだという濡れ衣を着せられた。これを悔やんで娘は父親のもとに帰って来て」 EとFとは、事情説明が大分異なりますが、この手の証言や記載の違いはよくあります。 もともと柳田の採録は曖昧なものが多いです。古老が柳田に話し聞かせる物語は、細部の再現性は高くないはずで、そのことは柳田も承知ですから、柳田が価値を認める大筋を書いて出版しているのでしょう。 裁判記録を見るのでも、裁判記録がすべて事実を均等表示しているのではないとの立場で柳田は理解するでしょうから、適宜取捨選択し、補って出版することはあるはずです。 『山の人生の子殺しの話は、事実よりも感じたるままの真実を尊ぶ柳田国男による作為だったと思う』『柳田作品は美しく、原話は陰鬱で抒情性がない事実の陳述。(子殺しに走った直接の動機もたいへん違う。柳田のは極貧、飢えだが、新四郎の場合は娘が奉公先でうけた屈辱である)』と書いている人もいます。 芥川などが活躍した時代には、今昔物語など他作作品を下敷きにした作品が多数発表されています。 単に日本語訳、現代語訳をしているのではなくて、そこに作者が命を入れたものにしています。 命を入れる結果、下敷きになった作品とはずいぶん趣きも、主題さえも変わります。 高瀬舟:安楽死 地獄変:芸術志向 栗良平の一杯のかけそばでも実話と思った人は多くいます。(貧困者への寄り添い) ご希望のポイントとは違うかもしれませんが、つぎのように思います。 『真実性や現実性を追求するのであれば、虚構を駆使した芸術的優秀さが必要だ』 『腕のない写真、感性の乏しく創造性のない記述者の文章が、迫真性や高い現実感をもたらすことはない』 『感動は、写真でも、絵でも、音楽でも、詩歌でも、小説でも、政治弁論でも、最終論告でも、最終弁論でも、当人の感性・思想性とテクニックが創り出す』
お礼
もとこうこうせいさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。回答しづらい質問だとあらためて われながら 思いました。 弱気になるなら アンケートどまりの質問だったかも知れないと思いました。 ★ アンケートではなく もしこれは 現実性は無いという結論を持たれたならば その推論などの中身をおしえてください。現実味があるという場合にも ご意見が知りたいです。 ☆ このあたりだけでしたね。はっきりとした問いは。 否定の回答ならば 現実味が感じられないから現実性はないと思うというのみになるかと思われてきます。質問者としてわたしは 何か感じたものですから むろん 問うてみたのですが 問いの性質からして なかなか答えにくいものだったかも分かりません。 ですから 文章なり表現ということなりについての一般論をのべて あとは 現実性に乏しいと結論づけるほかにないかもと われながら 思ってしまいました。 すなわち ★ ~~~ 『真実性や現実性を追求するのであれば、虚構を駆使した芸術的優秀さが必要だ』 『腕のない写真、感性の乏しく創造性のない記述者の文章が、迫真性や高い現実感をもたらすことはない』 『感動は、写真でも、絵でも、音楽でも、詩歌でも、小説でも、政治弁論でも、最終論告でも、最終弁論でも、当人の感性・思想性とテクニックが創り出す』 ~~~~~ ☆ といった一般的な議論で応答するほかないのかも知れません。 あるいは具体的には 次のような批評が出ているのですね。 ★ ~~~ 『山の人生の子殺しの話は、事実よりも感じたるままの真実を尊ぶ柳田国男による作為だったと思う』 『柳田作品は美しく、原話は陰鬱で抒情性がない事実の陳述。(子殺しに走った直接の動機もたいへん違う。柳田のは極貧、飢えだが、新四郎の場合は娘が奉公先でうけた屈辱である)』 と書いている人もいます。 ~~~~~~ ☆ あとは それぞれが自分の結論を最後にのべるというかたちになると言うべきでしょうか。 もっともぎゃくに言えば その《作為》の文章に いや現実味があると見る向きも 中にはあるのかも知れません。それもこれも けっきょくおのおのの主観を述べ合っておしまい。ということに成りかねないものであったかも分かりません。 ううーん。どうしたもんでしょう。 そうですね。いちおう趣旨説明に沿った見方も出してみましょうか。 ○ ~~~~ 目が覚めてみると 小屋の口一ぱいに夕日がさして居た。秋の末の事であったと謂ふ。二人の子供がその日当たりの処にしゃがんで 頻りに何かして居るので・・・ ~~~~~ ☆ とつづくあたり 《斧を磨いていた》のを発見するあたりですね これが言わばマ(間合い)をもって 読む者に迫真性のようなものを感じさせるかと質問者には思われました。短文の中にも 味を出しているなとです。 おそらく おっしゃるように ★ 筆者が意図的に、ある事実を記載しないで、ある事実を記載する場合にちょっと表現を工夫するだけで、まったく異なる印象を与え、特徴ある理解に誘導することは可能です。 ☆ の範囲内におさまることでしょう。そして それでも違った何かがあると思われるのですけれど このあたりを 哲学批評としてどのように進めたらよいか。これは むつかしいと まづは思われますし 言わなければならない。でしょうかね。 そういう意味で アンケートどまりの質問に終わりかねないと思いはしました。 どうしたものか。もう少し ほかの方々のご意見をもうかがってよろしいでしょうか。お気をわるくなさらないでくださいませ。 また この答えづらい問いにおつきあいくださって その点についても感謝申し上げておかねばならないと感じす。すみません。 さらに考えることもしてみたいとは思います。 もうしばらくおいて 閉じることとします。
お礼
はこぶるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 きわめて申し訳ないことにと言いますか あるいはきわめてあり難いことにと言うべきでしょうか 今回のご見解に接して わたしは わたしなりの解釈が持てました。 はこぶるさんは エロスすなわち生の欲動に対して――しかもむしろその生きるという動きのただ中にこそ―― タナトスすなわち破壊ないし死の欲動が起きるのだと捉えてのご見解でしょうが 例によってと言いますか わたしは 先祖代々からのアンチ・フロイトですから この点で 次のように考えました。ご回答を読み進むうちにただちに考えつきました。 ○ 柳田の物語のなかで 子どもたちは――字面の意味するところに反して―― 決して死んだわけではないし 死のうとしたのでもない。しかも そのように柳田は書いている。実際に起こった事実も その文面のとおりに死のうとしたし 死んでしまったのであるが 筆者である柳田は そのように書いて しかも子どもたちのこころざしは その死にはなかった。と言おうとしている。 のだと。 どういうことか? ○ ~~~~ たとえば――はこぶるさんは 乃木大将だか誰だかのような明治天皇の死に際して殉死したその事例を出しておられますが―― 考えてみるにです 考えてみるに その昔 大昔も大昔 大君(のちの天皇)の死に古墳をつくっていました。そのとき 最初は その大君に仕える者たちは みな殉死したらしい。 ところが これは いけないということで――死を勝手に出すことはいかんということで―― じつに人間はもちろん 動物も 仮りの形において殉死をしたことにした。つまり それが 埴輪です。 《タナトス》なんてのは ナンセンスです。人間は 生きるものです。乃木将軍は 気がくるっていただけです。漱石もそれにおつきあいしているだけです。 それにしても 気がちがっている状態は 現代にいたるまで まだまだ後を絶たないようです。 ですから 柳田が その小さな小説において述べたことは 子どもたちが言わば自発的に死を決意しその提案さえおこなったということですが 言おうとしたことは 子どもたちにしろ誰にしろ ひとは死なない。死のうとはしない。生きる。のだ。というこのただひとつのことだと思われます。 そしてそれは 文面では 子どもたちは 死のうとしたし 自分たちからすすんで殺されたと成っているからこそ 作者の心は 人は死なない。生きるものだ。と言わんとしている。 どこから見ても そのことを言おうとしている。 こういう文章を書いたのだ。 ~~~~~~~~~~~~ ★ ご笑納くだされば幸いです。