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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:デカルトのコギトの《われ》は 《非物質的な実体》?)

デカルトのコギトの《われ》は《非物質的な実体》?

このQ&Aのポイント
  • デカルトのコギトの《われ》は、《非物質的な実体(アートマン)》であると言われています。
  • デカルトがコギトする《われ》は、霊的であり、形体が無いとされています。
  • デカルトはアウグスティヌスの議論とは無関係であると主張していますが、その主張は疑問視されています。

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回答No.4

bragelonneさん こんにちは。 そろそろ締め切りの投稿かもしれませんが、回答します。 私が思うに、デカルトは「思惟・精神」と「延長・物体(身体)」という二元論において「思惟」だけ持って「延長」を持たないのは「神」だけであるとして、世界から、「霊」という存在を排除(例えば「思惟」だけの天使はいない)することにより、狐にとりつかれたとか言うような迷信を取り除き世界を平明なものにしたことは評価しますが、「神の中世」から「自我の近世」に至る上において、言葉の整理が行われず、言葉の混乱が現在にも続いているではと思います。 中世において、霊とか魂とか心と呼ばれた語をラテン語とギリシャ語と正確かわかりませんが、私が本を読んだ限りの日本語訳を揚げます。 anima/psyche(霊魂:あちこちに引き回される感情や感覚の座) intellectus/nous(知解・理解:理性によって分かるの意) mens/?(存在を見分けることのできる理性の働き) cor/?(心臓・心の奥底) spritus/?(パウロが霊と肉と言う時、使った霊) この中でなぜ、デカルトが近代精神としてmensを選んだのか意図が分かりませんし、先に回答したように新プラトン主義のヌース(nous)、ラテン語のintellectusを英語のspiritと訳すべきという研究者もいるようではっきりしません。spritusのほうがspiritの語源のような気がします。 神学科の名誉教授に尋ねてみましたが、中世のこれらのラテン語を一概に、現在の言葉にしようとしても一対一のような言葉の意味でとらえ分類することは出来ないと教授されました。 plapota師匠が回答に参加くれることを望みます。 さて、これらの語源を調べているうちにbragelonne哲学の「知解」の定義も私はあいまいになってきました。あまり聞きなれない言葉ですが、「知解」は上述のように、intellectus/nousを中世哲学研究家は知解と訳すようです。 以前のお礼にbragelonneさんは 「<悟性>:知覚を認識する。知覚は 世界事実に接して起こるゆえ 悟性は 世界の事実認識である。 <理性>:悟性の成した事実認識ないしその情報を整理しつつ――その一つひとつの意味内容を整理しつつ―― そこからさらにあらたな(或る意味で将来へ向けての)意味を捉えようとする。この場合 しばしば意味の連絡は 感性を括弧に入れておいての論理的なつながりに収斂していく。 <知解>:感性の得た感覚を認識して知識ないし情報として捉えたあと理性がこれを意味づけさらにあらたな意味連関をみちびきだす。あるいはさらに理性は 事実認識としての情報を概念として整理し この概念をすでに――感性から一たん離したかたちの――観念としこの観念を 想像力にまかせてあやつりつつ 或る種の推論をみちびく場合もある。こうして 選択肢をととのえ 判断過程へと送る。ここまでが 知解という作業である」 と定義してますが、カントの言わんとしている、カテゴリー(純粋悟性概念)を理性にもたせ、さらに理性の上に知解という人間の最上位の能力を定義づけしようとしているように思われますが、その意図はいかなるものなのか?intellectus/nousとは別の概念なのでしょうか? では、お礼をお待ちしております。

bragelonne
質問者

お礼

 やああ。風邪だったのですか? ご回答をありがとうございます。  デカルト本人の書簡での文章です。  ▲ ego vero illud adhibeo adprobandum me cogitantem esse immaterialem  & incorpoream substantiam;  ☆ (私訳):わたしは じつは その命題の《われ》を――つまりアウグスティヌスの言う《われわれは存在し 自分たちが存在することを知っており かつその知解が存在することを知っている》なる命題における《われ》を―― 《考えるもの(コギタンス)》としての《われ》として〔捉えこれを〕 非物質的かつ非肉体的(=霊的)な実体に当てて言っています。  アンドレス・コヰウスというオランダの閣僚が デカルトにそのコギトは すでにアウグスティヌスが書いていると言って指摘したのを承けて デカルト本人によるその返事の中で述べたものです。:  ▲ Renati Descartes Epistolae : partim ab auctore latino sermone conscriptae partim ex Gallico translatae, in quibus omnis generis quaestiones philosophicae tractantur & explicantur plurimae difficultates ... : pars secunda.  http://catalog.hathitrust.org/Record/009287973 (サムネイル化(文字化けがあります))http://babel.hathitrust.org/cgi/pt?q1=cogito%20ergo;id=ucm.5323545972;view=plaintext;seq=412;start=1;sz=10;page=root;num=404;size=100;orient=0 (原本) http://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=ucm.5323545972;view=1up;seq=412 (p.404) Ren. Descartes Epist. Pars IL Epîst. CXVIIL  HAbeo tibi gratiam pro loco Divi Augustini,quem mihi indicasti,  quicum principium hoc meum, Cogito, ergo sum, aliquomodo consentit,  illum hodie legi in oppidi hujus Bibliotheca,  & revera video eum illo uti ad probandam existentiae nostra: certitudinem,  & deinde ad ostendendum esse in nobis aliquam Trinitatis imaginem,  quatenus sumus, scimus nos esse, atque illud esse,  & hanc quae in nobis est, scientiam amamus;  ego vero illud adhibeo adprobandum me cogitantem esse immaterialem incorpoream substantiam;  quae duo diversa valde sunt.  ▼ これの英訳が 趣旨説明欄に掲げたものです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 『デカルト全書簡集』という全八巻が 知泉書館から刊行されつつあります。一・ニ・三・五巻が発行済みですが 図書館でしらべた結果(索引だけでしらべたのですが) この書簡はまだ訳されていない模様です。  これはですね。考えてみれば 単純に言って 学者の怠慢だったのではないかと考えます。要するに そのワレは《考える理性》として伝わっているからです。長い間広くそのような解釈が出回っています。        *  ○ 悟性  ☆ は ただ《分かる・理解する》という意味として片づけたほうがよいと考えます。  つまり 理性の内にふくむかたちです。  理性がおこなう能力行為が 《知解・知解力 intellectus ・ intelligentia 》だと捉えます。  それは 理性が感性と或る種の仕方で 対(ペア)を成すと見られているので 記憶と意志とに対しては 別の言葉を使ったほうがよいのではないかという考えからです。  それに 身と心との内の心を精神としてとらえるとき この〔身と一体としての〕精神は 《精神が精神する》はずです。ひとは生きていて 動態であるからには。  《わたしはわたしである。――1=1 のごとく――》ということですが 精神のハタラキとしては 自覚ということになるはずであり そのような自同律(自己同一性)については 具体的に何かを自覚するというよりは やはり《精神が精神する》と言ってよい。  それは 取りも直さず われらが意図せずともまた意識しないかたちで 脳細胞がおこなうハタラキであり それが《記憶》なのだと見るわけです。  その記憶の倉庫から 知識や情報を取り出して思考をおこなうのは――理性なのですが そのハタラキを別の言葉で――知解と呼びます。  意志をさらに別の行為能力とするのは 知解が用意した選択肢からえらぶという段階としてあり 別になると見るからです。理性の考えた選択肢の序列にはさからって むしろよさそうでない施策を意志がえらぶ場合もあるからです。  記憶と知解および意志 これが精神のみっつの行為能力であると見ます。(司法・立法・行政の三権に当てて見ています)。      *  なお 初めに見たように デカルトの《われ》が 霊的な実体だとすると 要するに《アートマン(霊我)》のことだとするのが 妥当でしょうね。    ただしそのとき《考える》とも言っていることに重きを置いて捉えるなら それは 《それ(あれ)が考える。 Es denkt. = It thinks. 》といった捉え方もがあるようです。  これは わたしの見方で言うところのニーチェの阿呆が 言い出したことらしい。学問的公正を期して そのことに触れておきます。  【Q:《それが考える( Es denkt. )》とは?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8851455.html  ☆ ただしこの質問でのやり取りは まだあまり熟していないと考えます。(このとき デカルトのことはつゆ知りませんでした)。

その他の回答 (3)

回答No.3

bragelonneさん こんばんは。 疲れのため、脳内の情報処理スピードが遅く、論理形成の出来ない断片的回答かもしれませんが、私が、医学的視点から哲学にメスを入れた情報を提供します。異論、反論や、先のアリストテレスの完全数の件など、読んだ本に間違いもあることを了解したたき台にしてください。 先に結論から書きますが、デカルトは「方法序説」をラテン語でなく母国語のフランス語で書きましたが、フランス語では「精神」と言う言葉は「ame」しかなく、ラテン語のmens とanimaを区別できないとして、「省察」において、anima(霊魂)は両義的でしばしば物質的な意味合いも含むから、「思惟が、それに直接内在するところの実体はmens(精神)と呼びたい」としたそうです。 ですから、デカルトは思惟を霊と考えた可能性はあるかもしれません。しかし私はフランス語はできないので、お・も・て・な・し・さんから教えてもらいたいです(笑)。 しかし、このことを考察するにあたり「プネウマ」について調べましたので参考までに。 ギリシアのヒポクラテス(前460頃~前375頃)は、あらゆる動物(人間)の身体は食物・飲料・プネウマによって養われているとして、「体内のプネウマ(ピューサ)」と「体外のプネウマ(アエール)」と呼びましたが、両者は成分的に異なるわけでないが、体内に入ると濃縮されたり血液と混じり純粋でなくなると考えたそうです。さらに、プネウマは脳に知力をもたらすものとし、アエールはまず脳に行き、そこから血管を通って体の隅々に行くと考えたそうです。ですからヒポクラテスはプネウマは物質ととらえたのではと私は思います。 アリストテレス(前384~前322)は「霊魂のプネウマ(プネウマ・プシュキコン)」という命名で生体の機能をつかさどる「プシュケー」とその機能を支える物質である「プネウマ」としたそうです。プシュケーは形相とも、とらえられますが、身体から独立した実体としての形相としては認められず、身体(質料)と結合した個体が実体である。魂のように身体から乖離するのは「ヌース」と考えていたようです。 ガレノス(123頃~199頃)はアリストテレスの物質であるプネウマの考えを発展させ、血液が胃腸で摂取した食物から肝臓で作られ、この時「自然のプネウマ」が吹き込まれる、呼吸によって取り込まれる「宇宙のプネウマ(大気)」は肺を経て心臓に入り「生命のプネウマ」となり、「自然のプネウマ」を得た血液は心臓で「生命のプネウマ」に触れて、暗褐色から鮮やかな動脈血となり、一部は脳に行って「霊魂のプネウマ」となり、神経管を通り全身に送られると考えたそうです。 この、「霊魂のプネウマ(プネウマ・プシュキコン)」こそ、デカルトが考えた「動物精気(esprits animaus)」と考えられているそうです。 ここにあげた、ヒポクラテスやガレノスは、アラブ人のアヴィセンナと共に中世の大学の医学部においては必須科目だそうで、プネウマの考えは受け継がれたと考えます。 医学から離れ、補足ですが、キリスト教が入る以前のローマの人々はストア学派の哲学を信仰してました、その教えは、この世のすべてのものはプネウマから出てプネウマに帰る。個人霊魂(プシュケー)も世界霊魂(プネウマ:ロゴスと呼ばれることもある)の一部であって一時的にそこから分離したにすぎない。死んだら世界霊魂(プネウマ)に戻るだけだから、自然の法を早く悟って、この法則に身を任せ欲を去り、自然の定めに従って心静かに生きるべきと説きました。ちなみにストア派における世界霊魂(プネウマ)も世界に広がる始原物質と考えられていたようです。 さて、問題は上記にあげたプネウマは物質としてとらえられてきましたが、キリスト教においてプネウマ(Pneuma)は「聖霊」を意味します。これをどうとらえるか?ちなみに、新プラトン主義において、一なる者(神)とプシュケーの間に「ヌース」を位置づけたそうですが、ラテン語では「intellectus」。日本語では「知性」「理性」「精神」と訳されますが、英語でmindではなくspiritと訳すべきだという人もいるそうです。 総括すると、デカルトは少なくとも、「霊魂(アニマ)」の概念は受け継ぎましたが、「物質(corpus)」と対置する「精神(mens)」を打ち立てました。このことが、世界を古代中世の神秘主義から開放し平明な世界観を提示したか?あるいは、ますます、精神(心)を思考するのに混乱にいたらせたか? 脳内のカラータイマーが鳴っているので、そろそろ寝ます。お礼をお待ちしてます。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ フランス語では「精神」と言う言葉は「ame」しかなく  ☆ 精神は esprit が一番よくつかわれると思います。幾何学の精神 l'esprit de géométrie 繊細の精神 l'esprit de finesse 。  âme は たましいと訳されるのが ふつう。âmes des poètes 詩人の魂。  あと mental 精神の / mentalité 知力・精神状態 があります。  あとは そのままとします。  ★ ですから、デカルトは思惟を霊と考えた可能性はあるかもしれません。  ☆ あり得ません。デカルトのボケの口からのみあり得ます。  思惟を霊と見なしたなら 霊が思惟するということですよね?  宇宙霊魂 プシュケー・トゥー・コスムー  世界霊魂 アニマ・ムンディ  これらが思惟をおこなうのなら その内容を確かに人間の言葉で表現できるでしょう。  《考えるわれ》が 非物質的な実体であり 霊的なものであると言ったのは 苦し紛れの発言というよりも すでに――わたしには思われるのですが―― かねてから用意してあった言い訳でしょう。ボケ カボチャ スットコドッコイです。

回答No.2

デカルトは「コギト」と「コギタンス」を同一視して、それを自我とか心と言い、実体と言い、自我の形而上学を唱え、心身二元論を唱えましたが、それはカントが批判したように間違い。 「コギト」というのは単なる視点、そこから世界が開かれてくる特異点のようなもの。 特異点を設定すれば、世界は混沌としたものでなく、秩序あるものとして見えてくる。 だけどデカルトは「コギト」だけでは、発展性がないから、自分の哲学をユークリッド原論のように公理・公準から定理へと進展し、体系を構築するための出発点として「コギト」に代わって、「コギタンス」にすり替えたんだろうね。 デカルトの弊害で、今の私たちは心とか精神が、それ単独で存在すると思っているけど、心は実体なんかじゃないから、それ単独では存在しえない。 現代のアメリカの「心の哲学」では、心というのは脳の活動の随伴現象とか、機能に過ぎない、と考えられている。 要するに派生体。 アウグスティヌスは哲学史によると当時のプラトン学派のカルネァデスの懐疑論に対して、懐疑論を批判し、その根拠として、たとえ私が欺かれているとしても「われあり」と言ったとされる。 「人を誤らしめる想像、あるいは何らかの表象を交えずに、私が存在し、その存在することを知り、また愛していることを知ることは私には絶対に確実である」と「神の国」で言ったとされる。 その意味ではアウグスティヌスはデカルトに先立って「われ」を発見したといえるが、デカルトの場合、近代的な自我で、アウグスティヌスはあくまで中世的で、そこから神が求められた。 彼は「神は真理である」とか「真理は神の内にある」とか言ったけど、デカルトの真理観とはまったく違う。 デカルトにとって真理とは「思考と存在の一致」にあった。 アウグスティヌスにあっては絶えずその背後に神が存在し、その神の「照明」の元にあった。 デカルトにとっても、思考と存在の一致を保証しているのは神の存在だったけど、かれの機械論的世界観によれば、神は世界のネジを最初に巻いた後は世界は機械式歯車時計のように自動的に動いてゆくので、神は必要としなくなった。 それはニュートンも同じで、神は最初は必要だけど、その後は必要でなかった。 神が必要で、神が世界の動きに伴ってそれを絶えず見守っていなければんらないと言ったのがライプニッツ。 だけどそんな話は神が存在すると信じていた時代の話で、今は誰も神なんて存在すると信じていないので、歴史的な意味でならあるかもしれないけど、今では「おとぎ話」。 私は物的一元論を正しいと思っているので、心とか精神というのは存在しないと思っています。 心的現象である思考・意志・感情・感覚を総称する概念が心と言われるもの、だから心自体は存在しない。 あなたはまだデカルトの心身二元論を信じているのだろうけど、もうそんなのは骨董品で、ノスタルジーにしか過ぎない。 それに心が実体だとすれば、実体とは「それ単独で存在し、他に依存しないもの」というのだから、実体はその定義からして無限でなければならない。 心が実体、身体も実体といって心身二元論を唱えるのはおかしいと思わないか? 無限なものが二つあるのはおかしい。 昔、ブルーノが宇宙が無限であると主張し、それがバチカンの怒りを買い、火あぶりの刑に処せられたのも、神という無限と宇宙という無限の二つが並び立たないからだった。 宇宙が無限ならば、神は必要ではなくなる。 それと同じで、心が実体ならば、それは無限でなければならず、もし身体も実体だといえば、矛盾になる。 無限が二つ並びたつのは矛盾。 そこからデカルトの後のスピノザは実体は唯一でなければならず、その唯一なものを神と言い、心と身体はその唯一の実体である神の属性だと考えた。 つまり、心とか身体は神の両側面だと考えたわけだ。 だからスピノザはデカルトの心身二元論に代わって、心身の平行論を唱えた。 心も身体も、それ単独で存在せず、神の側面であり、神の属性だという。 だけどそのスピノザの考えも、神が存在するという信念に支えられており、神が存在するという信念が崩れたら、その考えも維持できなくなる。 もし、唯一の実体があるとしたら、それは今では物体(物質)なのではないか? そして心というのはその物体である身体の派生体で、脳の活動の随伴現象とか機能と言われるもの。 まあ、私の考えとあなたの考えはまるで正反対だから、決してそれを認めないだろうけどね。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 「コギト」というのは単なる視点、そこから世界が開かれてくる特異点のようなもの。 / 特異点を設定すれば、世界は混沌としたものでなく、秩序あるものとして見えてくる。  ☆ そんな簡単に特異点なる視点を人間は体得し用いることができるのでしょうか?  アウグスティヌスは:  ★ その(* 懐疑論を反駁する)根拠として、たとえ私が欺かれているとしても「われあり」と言ったとされる。  ☆ 詳しくは      欺かれていると気づいたわたしは 存在している。     われに還っている。     存在していないなら 欺かれないのだから。     また わたしは欺かれることを欲していないというそのわたしは    たとえ誰かに具体的なものごとで欺かれていたとしても けっきょく    存在としては何ものによっても欺かれない。     わたしは 存在である。  といったところでしょう。  ★ その意味(* 省略します)ではアウグスティヌスはデカルトに先立って「われ」を発見したといえるが、デカルトの場合、近代的な自我で、アウグスティヌスはあくまで中世的で、そこから神が求められた。  ☆ これは アウグスティヌスの神学〔および哲学〕に基本的にかかわることなので チャチャを入れます。  《神が求められた》のではありません。神がわれにおとづれた よってこれをわが心に受け容れた そこで成った《神とわれとの関係――つまり信仰の動態――》において わが存在や世界が与えられた・・・こういった順序での《われによるわれへの到来――自己還帰――》をしるしています。  この《われ》は 中世的も古代的も近代的もまた現代的もありません。そういう普遍的な存在論であることは 批判し否定するにしても まづみとめなくては話は始まりません。  ★ デカルトの場合、〔* その《われ》は〕近代的な自我で  ☆ あるということだそうですが この質問では 別の視点から問うています。   (う) 《考えている〈われ〉は 〔ひとつの(?)〕非物質的な実体      ( an immaterial substance )である。       つまり〈形体が無い・霊的 incorporeal 〉という意味合いである。》  とデカルトみづからが言っているが これをどう捉えるか? です。  つまり 《近代的な自我》とは似ても似つかない定義であるようです。(ただしわたしは 《自我》という用語は 哲学ではご法度だと考えています。《わたし》のこと以外に用いるのは 文学的なあやでしかないと考えるからです〕。  ★ デカルトにとって真理とは「思考と存在の一致」にあった。  ☆ これは 単なる主観のひとつのかたち(中身)であるに過ぎません。あやまちうる主観のひとつのあり方であり それ以上のことは何も意味がさだまってはいません。  先ほどの(う)の命題は 《考えるわれ》のその《われ》が 《霊的なもの》だと言っているのです。この点について 収拾をつけられるものなら そうしてください。というのが 問いです。  ★ アウグスティヌスにあっては絶えずその背後に神が存在し、その神の「照明」の元にあった。  ☆ この表現では げんみつな定義を内容として満たしません。  たしかに《非経験の場》としては 《神は人間の背後に存在する》と――想定そのものとして――言えるのですが ここで《われあり》というときの《われなる存在》にかかわっての話になれば 様相が変わって来ます。  神がいくらか具体的に成って来ます。なぜなら 先ほども触れたようにこの神を(とにかく神という名を)わが心に受け容れるなら そこに《非思考の庭》と呼ぶべき信仰が 動態として成るからです。  そこでは 《神は人間の背後に 依然としてありつつ しかもその〈光による照明〉はすでにあたかもわが心の庭にやどっている》と言っています。身と心とからあたかも汲めども尽きない水を泉が湧き出させるごとく 元気を生んでいるというわけです。  否定するにせよ バカにするにせよ こういうげんみつな定義と説明に対して おこなって欲しい。    ★ それはニュートンも同じで、神は最初は必要だけど、その後は必要でなかった。  ☆ これは そうかも知れないのですが そうでない可能性も留保しておきたいと考えます。ニュートンについては オモテ(タテマエ?)とウラとで 何を思っていたか分からないそうですから。  ★ 今は誰も神なんて存在すると信じていない  ☆ これは 普遍的な内容を成すとも思えません。ただ《おまえのかあちゃん 出べそ》という憶測を述べたにとどまります。  《神を信じない 神が存在するとは信じない》という命題は 神の定義(想定)からして 《神を信じないと信じる(受け容れた)》であり《神は無いと――つまり〈無い神〉を――信じる》と言ったことにひとしい。それ以外には 哲学として意味を成しません。  質問の趣旨から遠ざかって来ていますが 行論に沿ってお応えしていきましょう。:  ★ 私は物的一元論を正しいと思っているので、心とか精神というのは存在しないと思っています。  ☆ では そのようにいま発言しているあなたは 何ですか? 《あなたというモノ》ですか? モノがいま語っているのですか?    ★ あなたはまだデカルトの心身二元論を信じているのだろうけど、もうそんなのは骨董品で、ノスタルジーにしか過ぎない。  ☆ めちゃくちゃだ。デカルトのデの字も 要らないと言っています。何の意味もないと言っています。    ★ それに心が実体だとすれば、実体とは「それ単独で存在し、他に依存しないもの」というのだから、実体はその定義からして無限でなければならない。  ☆ 《心》は《われ》のこと(部分?)でしょうから このことをまさに(う)なる命題としてデカルトが語っている それをどう捉えるか? と問うています。  ★ 心が実体、身体も実体といって心身二元論を唱えるのはおかしいと思わないか?  ☆ クソくらえだと言っているではないか。  身なる感性の原野と心なる思考の緑野から成る自然本性は 狭義のものであって さらには人間なる存在には プラスαがある〔と想定される〕。それが 神なる霊を受け容れた《非思考の庭》だと仮説して言っている。この庭に受け容れている神なる霊は 《無限》であり 《非知》という一元論であることを語っている。  身や心は 経験事象である。あたりまえだ。  ★ スピノザは実体は唯一でなければならず、その唯一なものを神と言い、心と身体はその唯一の実体である神の属性だと考えた。  ☆ まちがい。後半がマチガイ。身と心とは――つまり狭義の自然本性は―― 人間として神とは絶対的な隔たりを持つ。(絶対的な隔たりゆえに 神は 相対的な存在である人間のもとをおとづれる。むろん 主観の内面の話である。良心・信教の自由という公理として じんるいは捉えた)。  ★ 神が存在するという信念  ☆ そういう信念や心情をもつことは自由だが それは神とは別である。《非知》が 人間の狭義の自然本性(感性や理性)のもとに捉えられるということはあり得ない。  信念や信条は 人間が人間の能力と努力において持つもの。《信仰》は 向こうからおとづれたのを受け容れて成るのみ。《神は無いと受け容れたなら 無神論という信仰が成った》ことを意味する。  信念の神というのが 観念の神でもあり わざわざニーチェが それは死んだと言いたがったもの。  ★ もし、唯一の実体があるとしたら、それは今では物体(物質)なのではないか?  ☆ 《非知》を神と言ってもよいし 《無い神》と言ってもよい。また有神論の中で その神を《ぶったい・ぶっしつ》と呼んでもまったく構わない。信教の自由のもとにある。イワシノアタマでもよい。    ただし そのブッシツを 目に見えるモノだと言ったときには 話が違う。《非知》ではなくなる。《非思考》でもなくなり 思考や認識の対象となる。  ★ そして心というのはその物体である身体の派生体で、脳の活動の随伴現象とか機能と言われるもの。  ☆ 途中で このように回答を書いているあなたは 何か? と問うたが そうするとこの《身体の派生体》としての心なのかな? 意志行為だというわけだ。その意志は あなたという人間のもの(行為能力)なわけだ。  つまり 心は現実ぢゃん。    ご回答をありがとう。(う)の命題について きちんと見解を述べよ。さては はぐらかし戦術に出たか。

回答No.1

存在の本質についての考察が行き詰まった時、「それでも 私がこう感じている以上、“私”は前提となる」というのが、 「我思うゆえに我あり」のキモである。 それなのに、「『我』は存在的実体か?」と問うのは、 せっかくの先入観の排除を、また日常的な素朴唯物論で 台無しにするものだ。 「世界は心の中の現象」=「意識(自我仮説=記憶=時間の 流れ)と存在(空間仮説=予測=空間の広がり)の相補分化」 と考えれば、自然な帰結だ。(二次的な要素である存在の 如何に悩む必要はない)

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 「それでも私がこう感じている以上、“私”は前提となる」  ☆ つまりこの《〈わたし〉が――おのれの感じるや考えるおこないにとって――前提となる》こととその《〈わたし〉が存在する》とは 別でしょう。  このような《前提となる》か《存在するの証拠となる》かを別として この質問での問いは デカルト自身が   (う) 《考えている〈われ〉は 〔ひとつの(?)〕非物質的な実体( an immaterial substance )である。つまり 〈形体が無い・霊的 incorporeal 〉という意味合いである。》  ことを言って(書簡で書いて)いるが それを――いまの《われ考える 〔ゆえに〕 われあり》なる命題にからませて――どう捉えるか? です。  あと ほかにも《詩作》が書かれているようですが 要するに《前提》と《存在の論証》とは 同じなのですか? と問うてみます。  ご回答をありがとうございます。

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