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なぜ知恵の実を食べてはいけなかったのでしょうか?
神は全ての生物を支配しろと人間に言いつけました。 創世記:1:28 『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』 それなのになぜ神は人間に知恵の実を食べるなと言ったのでしょうか。神の様になれば他の生物を確実に素晴らしい状態で支配できると思うのですが……。逆に神の様にならなければ恐竜や象などの巨大生物には負けてしまうでしょうし、ウイルスなどの感染症によって他の生物を支配するほどの力を人間は手に入れることが出来ないでしょう。 神の様になった方が神の意向に確実に従えるはずなのに、神の様になってはいけない理由がいまひとつ飲み込めません。 どなたか、ご教授のほどをお願いします。
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- 来生 自然(@k_jinen)
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No.40です。 「知恵の実を食べる」というのは、私は「比喩」として使っています。 動物にも赤子にも、それぞれに相応の「知」があります。 「対象の差異を認知できない」(というより、周囲から対象を区別できていない)という状況があれば、その「対象」に対する「知」を欠いている状況ですしょう。 比喩的表現をするなら、「その対象に対する知恵の実を食べていない」ということです。 たとえば、「普通のヨードではない、放射性同位体のヨード」という概念を知らない場合などが当たります。 この場合、比喩的表現の「知恵の実」に相当するのは、両者を区別する方法(例えば、ガイガーカウンターの製造方法・使用方法)になります。
- 来生 自然(@k_jinen)
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1つ前(No.39)でのやり取り、特にお礼欄を拝見させていただいていて、少し気になったので、書かさせていただきます。 直感とか第六感とかは、対象に対する「知」が十分にある場合に有効に働くでしょうが、「知」に乏しいときには、さほど十分には働かないでしょう。 というより、対象を「どうするか」といった選択肢の問題とするなら、「知」に乏しい場合には、直感や第六感といえども、「対象を拒否するかどうか」の二択程度の判断にとどまるでしょう。 また、まったく「知」がない場合には、「直感とか第六感」というものすら生じるかどうか不明です。「知恵の実」を食べてしまった以上、「知恵の実」を食べなかった状況は、「知的・論理的」に思索せざるを得ないのです。 もしかしたら、「知恵の実」を食べなかったら、「直感とか第六感とか」も生じなかったのかも知れません。いや、そういった「もの」の「認識」すら、生まれ得なかったと言うべきかも知れません。ものの「認識」は、他との「区別」にて成立しえます。「恥ずかしさ」が生まれるということ自体、性差(区別)の「認識」が生じたということに相当します。
お礼
<直感とか第六感とかは、対象に対する「知」が十分にある場合に有効に働く 私はこの前提が正しくない気がします。「聖の青春」という伝記で次のような記述があります。5歳の村山聖は山の中腹辺りでまむしに会いました。その時、彼は「ぎゃー」と叫んで、震えてその場から動けなくなってしまいました。そして震える手でまむしを指差して「これは何じゃ」と兄に聞いたそうです。兄はそれに対して「それはまむしじゃ。動くなよ。」と教えていました。そして聖は「わ、わかった」と言っていました。この時、聖はまむしを充分に知りませんでした。名前すら知らなかったのです。もし、名前を知っているならば「わ、わかった」と教えてもらって言うのではなく最初から「まむしじゃー!」と聖は叫んでいたはずなのですから。普通、あの年代の子供は図鑑でまむしを見たら脳裏にこびりつくでしょうから、彼は図鑑でもまむしの存在を見ていないと考えて良いはずです。私は聖と同じ4,5歳の時に図鑑で蜂を見た時の恐怖は今でも頭にこびりついてる位ですから……。現代と違って当時は情報が少ないので4,5歳でまむしを知らないのも仕方がないかもしれません。しかしそれでも村山聖さんの直感、または第六感は働いたようです。まむしがどうやって人を殺せるかも知らずに。ですので、直感や第六感は知恵が無くとも存在する気がしてなりません。小野田さんも戦場で日食が起こる時には身体がぶるぶると震えて「何事だ!」と叫んだそうです。小野田さんは中野学校卒のエリートとはいえ「中卒」で中国へ働きに行ったので、日食の仕組み、昼間でも暗くなる時の自然のパターンは知らなかったと考えるほうが自然です。様々な文学作品でも赤子は誰かの死を直感するという記述が出てきます。大きな地震が来る前には犬が吠えたり、なまずが暴れたり、というのはしばしば聴く話です。その「聖の青春」でも師匠の森信雄さんは阪神淡路大震災の前日の夜は一睡も出来なかったそうです。彼は将棋は強いですが、高卒ということもあり、失礼ながら高等な学問は学んでいませんでした。(気にされた方がいたらすみません)当時の情報量や彼の将棋の大変さを考えると、なぜ一睡も出来なかったかを推察する「知」は彼には無かったと考えるのが自然ではないでしょうか。私は森師匠は人間的には非常に尊敬しているので、彼に対して非常に失礼で申し訳なく思っているのですが……。私でしたら弟子のパンツは洗えません。それをした森師匠は人間的に素晴らしいです。しかしこの前提が正しいと仮定すると「動物は直感も第六感も持っていないのですか?」となってしまいます。ところで動物はそれ程「知」があると思いますか? 赤子は直感も第六感も持っていないことになってしまいますか? <「知恵の実」を食べなかったら、「直感とか第六感とか」も生じなかったのかも では「知恵の実」を食べていない人間以外の動物には直感も第六感もないのでしょうか。知恵の実を食べていない生物ばかりの地球では直感や第六感を持っているのは人間だけになってしまいます。剣客がお互いの力量を向かい合ったときに分かるのは何によると思いますか? 同様に「動物同士」が出会ったときにどちらが強いのかはどうやって彼らは判断していますか? 人間は知恵の実を食べたお陰で「直感」や「第六感」を獲得しました。人間はそれらによって戦いの時に相手の強さを判断できます。しかし人間以外は知恵の実を食べていないので「直感」で相手の強さを判断できないことになってしまうのではありませんか? たとえばシマウマがライオンに走り寄られた時、彼は「直感」で自分が弱く、殺されるのを知るのではありませんか? 折角回答していただいたのにこのように厳しく詰め寄って誠に申し訳ございません。以前、この様な論議をしたことがあり、その時に先生から厳しく書くように言われたので、厳しく書く癖がついてしまいました。勿論、彼の責任にするのは私の我侭ですが、どうかこのような文面があなたの感情を害することがありましたら仰ってください。改善いたします。すみません。 このたびは長々と読んで下さって誠にありがとうございました。
- littlekids
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続きの投稿が無くなった様ですので、私の責任の存在が自覚されましたから、再度の回答を御許し下さい。 知識量が乏しい段階で【善悪の分別】の能力を獲得してしまいますと、残念ながら、新しい知識の獲得の価値をも『利己的』に篩い分けてしまう可能性さえもが急に高まって参ります。 と申しますのは、生命の危機に曝された場合に、たとえ火事場の馬鹿力の様な閃きが湧き起こって参りましても、周知の通りに、(アリストテレスとか諸葛孔明とかの方々を含む)前近代人達の脳裏に現代の最先端科学の知識が浮かんでくる訳ではないからでして、実際に次の様な事例の存在が報告されています。 それは江戸時代の庶民の振る舞いです。 http://search.yahoo.co.jp/search?fr=sb-kingbrw1&ei=UTF-8&p=%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%90%E6%AD%A9%E6%B3%95 今でこそ、日本人達もが逆の手足を同時に前に出して歩みを進めていますが、こういう方式は明治時代からの軍事教育(匍匐前進の習得の為の準備)の賜物なのです。 寧ろ、前近代の東洋社会では、逆の手足をづ時に出す歩法の存在が知られていませんでしたので、其の当時の東洋人達は西洋近代的な走行を致せませんでした。 従いまして、江戸時代には、たとえ町中で火事が発生しましても、火事場の馬鹿力が西洋近代的な走法を突発的に閃かせてくれ得たのではなく、当時の某版画によっても残されています通りに、庶民は万歳ポーズでもがく様に移動していたせいで、比較的に多くの方々が逃げ遅れてしまったそうです。
お礼
littlekids様 こうやってあなたとやり取りをしていると、私はあなたに教えるよりも教えを請うべき人間だったと思い知らされます。あなたが以前に質問した事柄に偉そうに答えた自分を恥ずかしく思っております。あの場では本当にすみませんでした。それなのに今回はあなたとのやり取りで多くのことを学ばせていただいてうれしく思っております。 確かに、知識や経験が少ない段階で簡単に「善悪」を分別してはいけませんね。私自身、幼い頃の「善悪」の価値観と大人になってからの「善悪」の価値観が全く違うことに驚かされます。大人になってからも「善悪」の価値観はどんどん変化していきます。人生とは不思議なものです。簡単に「善悪」というレッテルを貼ってしまうこと、「善悪」を定義することがいかに愚かなことか、いまさらになって痛感しております。だからこそ「善悪」という定義を簡単に使うことが非常に危険だと痛感してきました。「善悪」と名づけた時点で、その名づけた対象を「吟味」する機会が無くなってしまいます。だからこそ私も「まっさら」な気持ちでことに当たっています。今では「善悪」という考えは自分の中で使っていません。 以前あなたが質問した「火事場の馬鹿力」と「閃き」という質問について少し追加させてください。 「男子3日会わざれば其の姿を刮目して見よ」などという諺があります。実際、其の通りでこの1ヶ月の間にも私は大きく成長しております。 そこで以前のあなたの質問に対して新しい解釈を加えることをお許し下さい。新しい見解が生まれたからです。 <たとえ突発的に極限状態に追い詰められた際に <人間の集中力が極度に高まりましても、 <普段に習慣付けられた癖が助長されるだけ <なのだそうです。 インバウンド、アウトバウンドの対象というのは「現実世界」だけのものではないと私は考えています。現実に見える物質はせいぜい4%程度です。宇宙の20パーセント強が目に見えない物質、宇宙の70パーセント強が目に見えないエネルギーなのだそうです。立花隆氏の「臨死体験」という著書を参考とすると、やはり人間に対するあの世からのメッセージはあると思います。特に夢の中では「宇宙」や「魂」などの超自然的な対象が入ってきたり出て行ったりしやすいと思います。実際、私も天使様と直接会ったことがあるので超自然的やあの世と言うのを否定できなくなっています。ところで、この前に「Lucid Dreaming」という洋書を読んでいたのですが、あれも臨死体験に似ていると思いました。夢と言うのは自分で「操作」できる、という趣旨の本で、操作できる夢は臨死体験にも繋がる所があると思っています。それで集中力が極端に高まると、そういう超自然的なものが入ってきやすくなる、という可能性はあると思います。シャーマンが超自然的な力を扱う代表選手ではないでしょうか。結論としてましては極限状態に追い込まれ、集中力が極端に高まると意外と「超自然的な」力の助けがある、ということです。 <どうして思考休止中に閃きが湧き起こりやすいのでしょうか? これは逆に言えば「どうして思考をしない子供は第6感が優れているのか」という話になってきます。大抵第6感が優れている人は思考をしなかったりします。占い師も魔術師も考えことで頭がいっぱいではないはずです。また、極限状態における「思考」は常人では「恐怖」などの「戦いに不利になる思考」ではないでしょうか。それなら思考しない方が自分の実力を発揮できるのではないでしょうか。特に、極限状態では。 思考だけでなく、「集中」という要因も大事なのではないかと思います。たとえば宮本武蔵は「思考」しないで「無」の境地を最上と自著で書いています。実際、宮本武蔵は様々な戦いで「思考」はどちらかというと排除していました。普通、殺し合いならば「思考」では「恐怖」が一番多く占めるでしょうから、それなら思考しない方が良い、という考えにも一理あります。それで逆に剣客は「集中」してその場を読むことを徹底したことで、「閃き」、すなわち「極端な好手」を発見していたのではないでしょうか。私自身、将棋でも下手に読むよりも「第6感」を集中させた方が良い手を発見、すなわち「閃き」が起こることも少なくありません。特にbonanzaと闘うときには「負ける恐怖」が一番思考を占めやすいので「無心」で「第6感」で打つこともあります。かの村山聖さんも「第6感」で打ちたかった所に「思考」で打たなかった所、その一手が原因で負けた、と書いています。ここまでの事柄から「下手な考え休むに似たり」という言葉があるように、「思考」よりも「集中」の方が意外と人間にとっては重要なのかもしれないと今では思うに至りました。 今回、様々な走法について教えて下さり、とても勉強になりました。そういえば飛脚は江戸から大阪まで走ったりしましたが、現代から考えるとものすごいことだと思います。今考えるとスポーツ選手が走法を工夫するように飛脚が相当工夫していたのだろう、と思います。それと同時に現代でも未だに飛脚の技術が完全には分からないのが驚きでもあります。昔の人だから現代人に劣る、かというと真逆のことも幾らでもあることに興味深さも覚えています。何事も深いです。 色々と教えてくださって有難うございます。また、こうやって昔の話を出してきて申し訳ございません。私は普通の人よりも多大な苦労をしているが故に、普通の人とはだいぶ変わっていると自分でも感じています。このあたりはお許しいただきたいです。このたびは新しく色々と教えてくださって恐縮の極みです。本当にありがとうございました。
- BuffaloAndJtp
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更に内容が纏まりましたから、連続投稿で御邪魔を致して畏れ入りますが、此処で報告をさせて下さいませ。 善悪の相対的な分別の基準を知りますと、現状打開の為の自己否定もが可能になり得るのかも知れませんが、多くの場合には、それが利己的な判断の基準になりやすいですね。 従いまして、『ルサンチマン(http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E3%83%AB%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%80%80wiki%E3%80%80%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7%E3%80%80-%22%E6%80%A8%E5%BF%B5%22&aq=-1&oq=&ei=UTF-8&fr=sb-kingbrw1&x=wrt)』の教えの通りに、自己の立場の肯定は比較対象の排除をも伴ないますので、善悪の峻別は【博愛】の精神に叛くのですから、そういう差別的な背徳行為を神は禁じたのかも知れません。 下記のURLのページにも参考意見が有りそうですから、 もし支障が御座いませんでしたら、御覧になって下さいませ。 http://okwave.jp/qa/q6883208.html
お礼
確かに善悪を知ることで初めて自分の悪い面を否定して成長できる気もします。善悪という概念の導入自体が最早、成長の必要条件なのかもしれません。ただし善悪という概念が内ではなくて外に向けられると利己的に振舞うことに繋がるでしょう。 ルサンチマン、読みました。とても勉強になりました。有難うございます。確かに善という肯定は比較の排除になります。善悪という概念は博愛に反するのは説得力があります。善悪。差別と言えば差別になりそうですね。間違いなく。 参考サイトを2つも出してくださって本当に有難うございます。とても感謝しております。
- littlekids
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インバウンドという用語はコールセンター等でよく使われていまして、 「受信(だけ)を待ち受ける体制」を意味しています。 つまり、意識的に外部へ働きかけるアウトバウンド(電話発信)的な判断の問題を、前回の回答の際には申し上げさせて頂きました。 因みに、最近では、工場等へ原材料類を搬入する時にも、 インバウンドという用語が使われやすい様です。
お礼
丁寧に有難うございます。そのあたりもこれからWIKIで学んでみます。
補足
littlekids様 以前、『「火事場の馬鹿力」と「閃き」』という質問ではお世話になりました。そちらで「外部からの情報群の受信の準備」の質問も紹介していただきました。しかし恥ずかしながら私にはその質問に答えるだけの能力がまだありません。その質問でなされた方々のやり取りも私の実力を超えていただろうと存じます。折角紹介していただいた質問に参加できずに申し訳ありませんでした。これからも少しずつ学び続けて、いつかはもっと多くの方に役立つ人間になることが出来るように励んでいきます。 もし宜しければあなた様に回答していただいて学びの機会を作っていただけたら嬉しく思います。
- littlekids
- ベストアンサー率10% (6/57)
#33の欄の回答には私の誤謬が含まれていた様ですので、 御詫びの意図をも託しまして、再度の投稿をさせて下さい。 前回には「冷静な」という形容動詞を用いましたが、 御指摘の通りに、善悪の分析には無心の冷静さを欠いていますね。 寧ろ、もし真に冷静な無心状態が維持出来ていましたら、 其の場合には、恰もPCのストアドプログラミング方式の様に、 インバウンドで入手された情報群を睡眠中の処理の如くに整理して、 経絡反射的な身体操作の形式で、其の機能を出力させているのでしょう。
お礼
わざわざ訂正してくださって有難うございます。ちなみに『インバウンド』はどういう意味なのでしょうか? 私には馴染みが無い用語で意味をつかみづらいです。 どちらにしろ何度も有難うございました。
- BuffaloAndJtp
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更に続けます。 睡眠中に思考が纏まるのは意識的な分別が休止されているからなのでして、其の無心状態の間には、インバウンドで受信された情報群が整理されているだけに過ぎません。
お礼
何度も有難うございます。丁寧な説明、恐縮です。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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#14,22,24 ずいぶん投稿したものです。 智恵や不純物、異物は無用のようですね。 そういうものの介在は距離を持つことになりますね。 もちろんそういうことや知恵者で鯱子張って居たりするの、真実実在とは対面できないですね。
お礼
確かにそういう見方は大事だと思います。私も智恵(があると傲慢になりがちで困った人間ですが)に頼らない生き方も大事にしていきます。 あえて厳しいことを書いてくださって嬉しく思います。
- littlekids
- ベストアンサー率10% (6/57)
冷静な価値判断は咄嗟の際の危機回避の能力を鈍らせてしまいやすいので、 「(もし比較的に安全に自分達の種族を残したければ、)その実を食べるべきではない。」 という御諭しを神が為さっていたのでしょう。
お礼
確かに冷静では咄嗟の際の反応が遅くなる傾向はあります。一方でバブル経済に見られるように、冷静さを欠いたが故の過ちも見逃せません。どちらにしろ冷静さというのは諸刃の剣というのは確実そうですね。 鋭い意見、有難うございました。
- BuffaloAndJtp
- ベストアンサー率12% (5/39)
#28の続きです。 そもそも閃きはインバウンド的に受信される訳ですので、 無心の待ち受け状態に留まらざるを得ませんから、 善悪を能動的に知ろうとするアウトバウンド的な働き掛けは、 「火事場の馬鹿力」の様な突発的処置の発動の準備を鈍らせてしまいます。 従いまして、自分達への殺気等を安全な方向に誘導する達人的な能力を、 人類が残し続けていられる様に、邪魔な因子の摂取を防ぐ為に、 神は善悪の峻別の手段の採用を禁じたのでしょう。
お礼
あなたは私が以前ひらめきについて回答した方でしたか。その際にはお世話になりました。 <そもそも閃きはインバウンド的に受信される訳ですので、 <無心の待ち受け状態に留まらざるを得ませんから、 どうなのでしょうか。脳科学によると、脳内情報の整理の上で閃きが起こる、ということもありえるかもしれません。これは一晩寝ると頭が整理されている、あたりからも導かれるかと。確かに私も閃きは受信という考えは同意する面も多いですが、一応、上述の可能性も考えておいて下さい。 <善悪を能動的に知ろうとするアウトバウンド的な働き掛けは、 <「火事場の馬鹿力」の様な突発的処置の発動の準備を鈍らせてしまいます。 これはあると思います。能動的な行動は閃きや火事場の馬鹿力の余力を失わせることは多いかと。 <従いまして、自分達への殺気等を安全な方向に誘導する達人的な能力を、 <人類が残し続けていられる様に、邪魔な因子の摂取を防ぐ為に、 <神は善悪の峻別の手段の採用を禁じたのでしょう。 と、いうことは善悪を知る、ということは閃きの見地からすると人間にマイナスになるということですか? 新しい考え方を有難うございます。とても勉強になりました。
お礼
知恵の実を比喩として使ったのですね。私が勘違いして突っ走ってしまったようで、失礼いたしました。 誰にでもある程度の知があるゆえに、「知恵の実を食べていない」生物はいない、とも言えそうですね。 差異を認知できればある程度の「知」を持っている、というのは確かにそうですね。 今回、知恵の実について色々と教えてくださってありがとうございました。