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なぜ知恵の実を食べてはいけなかったのでしょうか?

神は全ての生物を支配しろと人間に言いつけました。 創世記:1:28 『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』 それなのになぜ神は人間に知恵の実を食べるなと言ったのでしょうか。神の様になれば他の生物を確実に素晴らしい状態で支配できると思うのですが……。逆に神の様にならなければ恐竜や象などの巨大生物には負けてしまうでしょうし、ウイルスなどの感染症によって他の生物を支配するほどの力を人間は手に入れることが出来ないでしょう。 神の様になった方が神の意向に確実に従えるはずなのに、神の様になってはいけない理由がいまひとつ飲み込めません。 どなたか、ご教授のほどをお願いします。

みんなの回答

noname#181697
noname#181697
回答No.31

ANo.9です。 他の方が良い回答をなさっているので、 私も前回答の補足の様なものを書いてみたくなりました。 善悪などの相対的な判断を下すのは自我の働きです。「自分と言う視点」が生じると、物事を彼我に代表される様な二分化、相対化をして受け止める様になります。アダムとエヴァが裸でいる事が恥ずかしくなったのは、知恵の実を食べる事で「自分」と「それ以外の存在」を認識する事が出来る様になったからだと思われます。 また、理解は比較対照によって深まるものなので、善悪を知るのと、知恵を獲得するのは同じ事であるという事が出来ます。逆を言うと、比較対照するものが無いと、我々には何も理解する事が出来ません。善がなければ悪とは何かが判りませんし、記憶と現状を照合する事で、物事を判断する場合もあるかと思います。 それに対して絶対的叡智には、視点や価値評価というものがありません。それこそが人間の本性であり、幸福そのものではあっても、深まるという事がないし、進歩も無い。つまり、未来が無い。ある意味、完結しちゃってる訳です。 もし、アダムとエヴァが知恵の実を食べないままでいたなら、我々はネイティブアメリカンの様に、大地に根付いた心豊かな生活を続けていたかも知れません。でも、自我の無い世界には、競争によって磨かれるという事が無いので、恐らく今の様な文明は存在しませんし、この先にある筈の高度な文明も存在し得ません。 神としては、どちらの可能性も潰したくなかったのではないかと思います。だからエデンには知恵の樹があったのだと思います。人類の未来は、人類自身に選ばせたかったからこそ、蛇に唆(そそのか)された人類が許せなかったのだと思います。 神が知恵の実を食べるなと言ったのは、自分と言う視点でしか物事を考える事が出来なくなると言う、自我の弊害を良く知っていたからだと思います。全知全能の唯一神が、事の善悪を判断するのと、我々人類がそれぞれ自分の視点で善悪を判断するのとでは、訳が違いますし。 神の言葉に従わず、知恵の実を食べてしまった人類にも、倒(こ)けつ転(まろ)びつ文明を発展させるか、神の教えに従って個人単位で罪を贖うかの選択が許されている様に思います。そして、これもまた自我の持つ可能性である訳です。  

noname#142902
質問者

お礼

とても勉強になりました。有難うございます。比較しなければ理解できない、という部分は心に響きました。丁寧に解きほぐして説明してくださって有難うございました。 私は矢張り、文明はあった方が良いと思います。この物を持って、更に心も豊かになりたいと願っています。文明によって更に心が磨かれる。それを願っています。 何度も有難うございました。

  • alwen25
  • ベストアンサー率21% (272/1253)
回答No.30

意地が悪いというより、人間の能力では 理解不能といったほうがいいと思います。 私の考えでは、後で人類を救済するために イエスを(三位一体のため神自身を) 磔刑にするよりは、アダムとエバを 「善悪をする木の実」を食べた直後に 殺し、新しい罪のない人間を作った 方が効率的だと思います。

noname#142902
質問者

お礼

新しい人間作り。確かにその通りです。鋭いです。そうですよね。新しく人間を作れば色々と面倒くさくないでしょうね。 鋭い意見を有難うございます。

  • alwen25
  • ベストアンサー率21% (272/1253)
回答No.29

「善悪を知る木の実」を食べることは、 ただ、善悪が分かるようになるだけで、 知恵がつくわけでも、頭がよくなるわけでも ありません。 リビングバイブルという本に(私は この本はあまりにも本来の聖書から 離れていることが書いてあるので 好きではないのですが) 善悪を知る木の実を食べる前の状態が 「善」で食べた後の状態が「悪」だと 分かったというものすごく皮肉なことが 書いてあります。 聖書には、その後、命の木の実の話が出てきていますが どうしても「善悪を知る木の実」を食べたければ 先に「命の木の実」を食べておけば、神様は アダムとエバを罰しようがなかったらしいです。 >『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。』 おまえ(女)の産みの苦しみを大きくするといいながら こんなことを言うのは、どうしても「呪い」に見えてしまうのですが。 実際に、ノアが登場するあたりに、神によって呪われた地にという ようなことが書いてあります。

noname#142902
質問者

お礼

上の回答からすると神様は割と意地が悪いとも思えてしまいます。 アベルとカインも神様が悪い、と言う事も出来るかもしれません。 恐らく神様には何か事情があるのでしょう。 闇を知らぬものに光は見えない、そこがテーマではないでしょうか。

回答No.28

善悪の判断は相対的な基準に基づいている故に、其の実を食べますと、 絶対的な叡智からの乖離が促され得るからなのではないでしょうか?

noname#142902
質問者

お礼

<善悪の判断は相対的な基準に基づいている そうですね。言われてみて気付きました。 よく考えてみると、何かを善と判断すると『肯定』です。一方で何かを悪と判断すると『否定』になってしまいます。善とう判断で導かれる結果は肯定、悪という判断で導かれる結果は否定です。 私は否定自体が良くないと思っています。なぜなら、否定できる物事がこの世にあるでしょうか? ホームレスを否定できるでしょうか? 彼らは恵まれない環境にあるからこそホームレスになってしまいました。仕方がありません。逆に言えばホームレスに対して徹底した援助をしないでおいて彼らを簡単に否定したとしたら、それ自体がおかしいと思います。ホームレスに限らず、社会的な弱者が存在する時点で、それを存在せしめている私達にも非はあるのですから。 私はこの世に否定できる物事は存在しないと思うのです。悪と呼ばれがちな物事にもそうならざるをえない理由があります。その様な自分の価値観に合わない物事を悪と名付け、自らを善と名付けて正当化する。それは良くないのではないでしょうか。そうしたくなる気持ちは非常に分かるのですが。 つまり、この世の物事はもともとは全て善なのに、それに悪というラベルを貼って否定してしまう。自らを善と銘打って正当化し、相手を悪と銘打って否定する。それが行われるから善悪を判断してはいけないと思います。 故に、善悪を知る実を食べてはいけなかったのでしょう。 このことに気付かせてくださる回答を有難うございました。

回答No.27

No.11,18 and 23です。 >>> No.23 御礼欄 私はそうは思わないのです。宗教は一般民衆を操るには最良の手段です。もし、悪徳宗教によって人々が多大な苦しみを受けているとしたら、その様な宗教に対抗する為にこういうことを馬鹿真面目に考えるのも私は大事だと思います。無知なままでは「あなたには悪い霊がついている」と言われたら対抗できないでしょうから……。その様な霊感商法もありますので……。 <<< 信じている方々にとっては、そういった視点も1つの解決方法になるかもしれませんね。 「知恵の実=善悪の知識の実」ということですから、 >>> 「あなたには悪い霊がついている」と言われたら <<< 「わたしは知恵の実を食べたものの子孫だから、善なる霊か悪い霊かの判断は、神のレベルで可能なのです。私に対してそのように言うということは、あなたにこそ、悪い霊がついているのです」 と、言えるのでしょうね。。。(そこまで言わなくても、自身の判断がぐらつくことはないのでしょうね) でも、そういった勧誘に対し、上述のように反応すること(反応しなくても考えること)は、最終的には信じるところの絶対神そのものを巻き込んで「善か悪か」の宗教戦争へと繋がるのでしょうね。。。 一般的には、善か悪かの判断は非常に難しいものがあります。 「悪と善」http://okwave.jp/qa/q5093480.html (↑ここでは、私は例示しただけで、直接的な回答は避けています) でも、一般的に「個人レベル、ないし、限定された集団レベル」では、共通の判断が可能になっています。宗教を信じている・いないに関わらずです。 もし、私に「あなたには悪い霊がついている」と言ってきたら、次のように対応するでしょうね。 >>>>>> 例1.(相手が弱そうなときのバージョン) よくわかりますね。わたしは、無償で悪い霊を良い霊に変えることができます。 いままでそうやって生きてきましたし、これからもそうなのです。 たとえお金が無くても、壺が買えなくても、だれでも自分自身の霊が悪いことをしようとするなら、良いことをするように変えていくことができるのです。 悪いことをされても、良いことをして返すことができるのです。 私の行いを見て、悪い霊が修行をして良い霊になって帰って行くのです。 人間とは、すばらしいものなのです。皆、そのような力をもっているのです。 貴方の心は貧しいのですか? 壺や金がないと、悪い霊を良い霊に変えることすらできないのですか? 生まれたばかりの赤子にも悪い霊を良い霊に変えるだけの力があるというのに、情けないですね。 <<<<<< >>>>>> 例2.(通常はこちら) 貴方にとっての善・悪は、私にとっての善・悪とは異なるのです。 さっさと帰らないと、私にとっての良い霊が、あなたに災いをもたらすかも知れませんよ。 <<<<<< 下記に私の日記の一部を貼り付けておきます。「ヨブ記」および「ヨブヘの答え」と合わせて考えてください。 また、この間の東日本大震災の折、東京都知事が「天罰」と言ってしまった事件も合わせて考えてみてください。 >>> 1994.9.26の日記から一部抜き出し みんなが正しいと思うが故に正しい行いをしてきた人々に幸いあれ。 神も悪魔も善も悪も、全て人がそうであると判断することによってのみ人に認識されるというのに。 神と直接交信した人は考えればいい。 その対象が神であるという判断はその人がしたのだから。 その人の話しを聞いて信じる人は考えればいい。 神が存在するかどうかを判断したのではなく、その話を正しいと判断したのだから。 神が存在するならば、人は判断の対象として神を見てはならない。 存在すら判断してはならないのである。 判断の対象とした途端、その存在は神ですらなくなる。 単に人の善悪の基準に照らしだされた悪魔に対比されるべき存在としての言葉としての神でしかなくなる。 一方、判断することをしなければ神を信ずることが出来るであろうが、 その時には,人は人としての価値観を持ちあわすことが出来ないということを知るべきである。 それゆえ、神と悪魔の違いすら判断できないことを知るべきである。 ここに記述した神は、人の思考の対象としての神である。 存在するならば人が如何に考えようとも如何に思おうとも存在する。 人よ静かに考えるがいい。 いったい神とは如何なる存在をさして言うのか、 それは他人と共有できる存在でありうるのか、 言葉や、絵や、シンボルや、歌や行いによって他に知らしめることが出来うる存在なのだろうか。 軽々しく神の祝福を垂れ給う人々よ。 罪深き人々よ。 何が真実でありうるのだろうか。 あなたの判断による審判は常に人々にもたらされていると言うのに。 人は一人一人の判断の上に立って善悪を認識し、行動してゆく。 その価値判断の基準は、自己を中心として家族、 自分にかかわりのある地域、動植物、 そして民族あるいは国家、さらに地球、太陽系、銀河系、さらには大宇宙にまで及びうる。 人の思考の及ぶ限り。 しかし、自分との関係の深いものから順に価値判断に及ぼす影響は順に弱くなってゆく。 空間的な配置もさることながら、時間的な事物の価値判断に及ぼす影響も異なる。 今から自分が生きていくであろう未来に関しては多大な価値を見出すであろうが、 自分が死んでから後の未来に関してはそれ程多くの価値を見出さないであろう。 さらには過ぎ去った過去にたいしては、 価値判断の基準を修正する為に,考慮に入れる程度だろう。 人が人として生きていく限り、 争いは絶えず、民族は協力し、紛争を起こし、国家が生まれ連合し分裂し消滅してゆく。 全ての人が信じるべきものを信じたとしても個々の価値判断が異なり、境界が生じ断裂が生まれる。 <<<

noname#142902
質問者

お礼

悪い霊への対応はとても勉強になりました。有難うございました。 日記は非常に含蓄に富んでいいると同時に美しい詩に感じられました。 丁寧に書いてくださってとても勉強になりました。

noname#137163
noname#137163
回答No.26

楽園からの追放と経験による人格の変容と楽園の獲得という循環は様々な話の元型になっていると思います。それを踏まえての私の解釈としては、最初から神の王子としての地位をあたえられていたが、神の忠告を破り追放され、生きる為に知恵を身に付けていったというものです。 では、神の真意を考えると、「大変だから忠告してたんだけど、好奇心は人間の性だからしょうがないか。まあ、そういう風に創つたんだがね。渡世で石の角に頭をぶつけながら賢くなるよう、見守っておこうか」ですかね。

noname#142902
質問者

お礼

そういえばそういう話はいくらでもあったと記憶しています。 神の王子、という考えは初めて知りました。有難うございます。

回答No.25

 No.10&15&19です。  あらためて投稿します。  ★(趣旨説明) 神の様になった方が神の意向に確実に従えるはずなのに、神の様になってはいけない理由がいまひとつ飲み込めません。  ☆ 簡単に次のように答えを出すべきでした。   ○ 《神のように知識を増やし知恵を深くするにつれ 神の意向に確実に従えるはず》なのに ではなぜ善悪を知る木から採って食べては行けないというかたちで 神のように成ってはいけないと言われたのか?   ○ 神は 知恵と知識を持つことと 存在することとが 同じであるのに 人間はそうではないからです。   ○ 神は 意志することと 存在することとがまったく――時空間の差もなく――同じであるのに 人間は――時間差があり それだけではなく――その意志の内容と 存在や行為の内容とが同じではないからです。  つまり 思うこととと言うこととが違い 言うこととおこなうこととがやはり違う。時間差をともなうだけではなく 中身も違って来る。  ☆ すなわち 神は存在から何から絶対であるのに対して 人間は何ごとも相対的で有限で移ろいゆくべきもので 実際そのからだは朽ちゆくものである。  神は むしろ無根拠であり 人間はその理性に任せて経験合理性にもとづく限りでものごとの根拠を求める。  ゆえに神のように成っては行けない。もしくは 成ることは出来ない。成ることが出来ると思ってしまう結果をもたらすとすれば――つまりそういう狭く整ってしまうような知恵と知識を得るのなら―― 知恵の木から採って食べてはいけないという感性としてのおそれを持ち得た。またそのおそれをじっさい感じつつ それでも採って食べた。  こういう物語なのだと捉えます。  哲学なのですから それとして根拠を求めてもよいでしょうが(科学は拡大深化してゆくでしょうが) それにさえ《神へのきよらかな畏れ》は先行するものと思います。無根拠ゆえに とうとい。  敢えて言えば そういうリンゴの物語ではないでしょうか。  

noname#142902
質問者

お礼

神が絶対的、人間は相対的。このあたりがとても勉強になりました。全く新しい価値観ゆえに新鮮でした。本当に有難うございました。

回答No.24

 ANo.14、22 お礼欄のコメント有り難う御座います:  Self-Realization Fellowshipのホームページご訪問有り難う御座います  人間の賢しい(さかしい)、低劣で貧弱な人間の賢しい(さかしい)智恵とはでしょうね。叡智ではないでしょう。  この小利口な智恵を捨てることについて聖書は結論だけ述べていますが、宗教の到っている結論には一定の方式や技法、あるいは行法(高野山あたりの方々はぎょうぼうとも読む)があります。  そういう世界と前提の中のことが多いものですから、そういう技法や行法の実践なくして読んでもわからないか、誤解することが多い。いえ理解はできないと存じます。  聖書もこの旧約もそういうものがあった筈ですが、多分年月の経過でおっこちていったのでしょう。  善悪をどうだのこうだの、あぁたらこぅたら論じることが判断にもならないし、善悪の決定にもならない。むしろそれをどうするか。どう対するか。  私どもは浅草で空襲、蒲田で空襲。死ぬ間際をたくさん目前にしてきて、ここ63年ほどは江戸湾の広大な湿地帯であった地域に住いしています。  小三敗戦。  まだまだ水路と大きな蓮池ばかりの地域でした。蓮は水面で綺麗な花をぱかっと開披きます。  しかし水面の下には蜘蛛の糸よりも深く、深い泥です。その泥深くに自己の意識の根を持ちながら一体として栄養を取りながら、人間の美しい叡智も咲かせてもらっています。  泥の中の営みに無用な価値判断を賦与したり、そういう対応をしつつ、執着し欲望して、それをあぁだらこぅたら小賢しく悩やむことは少しも益になりません。  そういう小賢しさと執着、欲望など投げ捨てよ。っていうのが善悪の判断智恵は無意味だということでしょう。  <私としましては神と自分が同一では無いことを望んでしまっているのです。神が自分とはかけ離れていることを。  ◇ただ自分とかけ離れた自分の根底は、基盤は神である。唯一者であるという事ですね。この両面は無論、かけ離れていますが、自分の根底と正体を忘れてしまっては失礼でしょうね。  <自分よりも絶対的な存在がいる、そういう存在をあがめることで自らを謙遜し、謙虚に生きて生きたいと願っているのです。  ◇そういう面と自分本体は紛れも無く唯一存在者、皆様や万物の根底である同じ唯一存在だという無理ない確信にあることですね。  <逆に神が自分と考えると己が傲慢になりそうで怖いのです。  ◇だからこそ傲慢には為りえないでしょう。謙虚と感謝、奉仕と喜びなんです。

noname#142902
質問者

お礼

何度も丁寧に有難うございます。確かに人間ごときの知恵はとても叡智とは呼べないですね。今一度、自分を戒めます。有難うございます。私も傲慢なところがあります。間違いなく。 そういえば聖書は結論はありますが、その過程や理由などは述べていないので不親切と感じることは多いですね。それで勘違いも起こりうるかと。 確かに、善悪の判断という欲望は捨てるべきでしょう。 <ただ自分とかけ離れた自分の根底は、基盤は神である。 <唯一者であるという事ですね。この両面は無論、かけ離れていますが、 <自分の根底と正体を忘れてしまっては失礼でしょうね。 そういえば自分を作ったのは神ですから、そう考えてみれば自分の根底は神ですね。 <だからこそ傲慢には為りえないでしょう。謙虚と感謝、奉仕と喜びなんです。 宗教団体の教祖の中には自分を神と主張して悪業の限りを尽くす人もいるそうです。だからこそ自分が神とする思想は場合によっては危険なのではないかと思ってしまうのです。

回答No.23

No.11, 18です。 No.17のlittlekids氏が引用しておられるwikipediaの「知恵の樹」の下にてリンクされている「バナナ型神話」を読みましたでしょうか? 非常に興味深い内容ですので、引用しておきます。世界レベルで類型の神話があり、日本の神話やギリシャ神話にも似た内容があるとのことです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%8A%E3%83%8A%E5%9E%8B%E7%A5%9E%E8%A9%B1 >>> 神が人間に対して石とバナナを示し、どちらかを一つを選ぶように命ずる。人間は食べられない石よりも、食べることのできるバナナを選ぶ。硬く変質しない石は不老不死の象徴であり、ここで石を選んでいれば人間は不死(または長命)になることができたが、バナナを選んでしまったために、バナナが子ができると親が枯れて(死んで)しまうように、またはバナナのように脆く腐りやすい体になって、人間は死ぬように(または短命に)なったのである。 <<< >>> 旧約聖書の創世記に出てくる生命の樹と知恵の樹(善悪の知識の樹)の説話も、このバナナ型神話の変形であると考えられる。 エデンの園の中央には神によって2本の樹、すなわち、その実を食すと永遠の命を得ることができる生命の樹と、知恵(善悪の知識)を得ることができる知恵の樹が植えられていた。この内、知恵の樹の実の方は神によって食べることを禁じられていた(禁断の果実)。知恵の樹の実を除いて、エデンの園に生る全ての果実は食べても良いとされていた。 しかし生命の樹の実と知恵の樹の実、二者択一の内、蛇に唆されたとはいえ、人類は禁じられていた知恵の樹の実の方を選んで食べてしまったために、善悪の知識を得る代わりに永遠の命を得る機会を失い、神によってエデンの園を追放されてしまう。それ以降人類は必ず死ぬようになったのである。 (中略) この説話は神学的に解釈され意味づけされることによって改変され、神に対する不服従、原罪、罪に対する罰、などの観点が強調され、また生命の樹が物語の背後に隠れてしまったために、趣旨が変わってしまったが、原型は人類の死の起源を説明したバナナ型神話の一種なのである。 一般的なバナナ型神話と異なる点は、間違った選択肢を選ぶと必ず死ぬことが予め明示されその選択を禁じられていることである。しかしそれでも人類は間違った選択をしてしまうのである。これは多くの神話や民話によくみられる、「タブーを破ると悲劇が訪れる」という神話類型でもあると考えられる。 またバナナ型神話の類型からすれば、もしも人類が知恵の樹の実を選ばず、生命の樹の実を選んだ場合、人類は無知なままではあるが、それゆえに無垢なまま神に従順で、永遠の命を得て、エデンの園で幸せに暮らし続けた可能性を、死の起源と同時に示唆している。 <<< 神話というのは、ものごとの起源(「なぜ」という疑問に対して答えられない内容についての、物語的な理由付け)を説明し、納得するための1つの手段だと捉えることができると思います。 このことは、科学的な説明を求めようとすることにも当てはまるでしょう。 自身(人類)を納得させるために無理矢理造った回答(後付の理由)に対し、さらに「なぜ」と問いかけるのは、「もし、そうであるのなら」ある意味、無意味なことなのかもしれませんね。。。 私を含め「知恵の実」を食べていたとしても、その程度の知恵しかないということなのかもしれませんが、永遠にでもくり返そうとする「情熱」を併せ持っているともいえます。 哲学=智を愛する。。。 そのままなのかも知れません。。。

noname#142902
質問者

お礼

<No.11, 18です。 何度も有難うございます。 <神話というのは、ものごとの起源(「なぜ」という疑問に対して答えられない内容についての、 <物語的な理由付け)を説明し、納得するための1つの手段だと捉えることができると思います。 そうですか。 <自身(人類)を納得させるために無理矢理造った回答(後付の理由)に対し、 <さらに「なぜ」と問いかけるのは、 <「もし、そうであるのなら」ある意味、無意味なことなのかもしれませんね。。。 私はそうは思わないのです。宗教は一般民衆を操るには最良の手段です。もし、悪徳宗教によって人々が多大な苦しみを受けているとしたら、その様な宗教に対抗する為にこういうことを馬鹿真面目に考えるのも私は大事だと思います。無知なままでは「あなたには悪い霊がついている」と言われたら対抗できないでしょうから……。その様な霊感商法もありますので……。 <哲学=智を愛する。。。 学問は芸術です。  わざわざ色々と教えてくださって誠に有難うございました。

回答No.22

ANo.14  皆さんのご回答に関連して:  善悪を知る事は無用です。むしろそれが故に親鸞聖人の、まぁ苦悩と誤解も生じてきました。  理論知で余計なことに考えを持たないことです。  神の奴隷:神が自分であり、指図して使っている現象の仮想存在。  ということでしょう。  理屈ではなく、神って一切でしょう。  Self-Realization Fellowshipでは私はそう勉強していますが。

noname#142902
質問者

お礼

わざわざ有難うございます。 確かに余計な考えは持たない、というのも大事だと思います。 そういえば全てを含めて1つ。自分も宇宙も一体である、というのはインド哲学における宇宙の根本原則だったと思っています。即ち、自己の中心であるアートマンはブラフマンと同一であるという梵我一如の教えでした。 以前あなたに教えてもらった、Self-Realization Fellowshipのホームページをだいぶ前に覗いてみました。色々と面白いことが書いてあったのを覚えています。有難うございます。 <理屈ではなく、神って一切でしょう。 そうですね。アニミズム的に考えると、でしょうか。日本でも風にすら神を見るカムイ思想というのもありましたね。これはアイヌの人々の価値観ですが……。 ただ、私としましては神と自分が同一では無いことを望んでしまっているのです。神が自分とはかけ離れていることを。それは絶対的な存在に身をゆだねることを望んでいるのではありません。自分よりも絶対的な存在がいる、そういう存在をあがめることで自らを謙遜し、謙虚に生きて生きたいと願っているのです。ですので神が自分とは別の存在であることを私は望んでいるのです。逆に神が自分と考えると己が傲慢になりそうで怖いのです。それで梵我一如といいますか、神が自分、という考えがどこかで私は受け入れられないのです。インド哲学も素敵な考えだとは思いますが……。

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