※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:なぜ けんかをしては いけないのか?)
なぜけんかをしてはいけないのか?
このQ&Aのポイント
けんかによる口論は建設的な対話を行う機会を奪い、暴力に発展する可能性がある。
自己批判の欠如や思考停止の傾向がけんかを引き起こし、問題解決を妨げる。
自己批判を通じて精神性や人間性の向上を図り、建設的な対話を展開することが重要である。
この質問は リワ゛イワ゛ルです。あたらしい見解は さほど出ないかと思っておりますが いろんな角度からあらためて見直しておきたいと考えました。どうぞよろしく。
○ (前身の質問での趣旨説明です。)~~~
ここでは けんかを 口論にしぼってください。
つまり 自己批判をふくめて 批判をすることです。
存在を愛し 〔まちがっていると思うところの〕思想や行動を憎むことです。
なぜ いけないのでしょう?
理由が分かりません。おしえてください。
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そこでのべストアンサーをも掲げます。それを出発点にしたほうがよいと考えました。あまり後戻りは したくないと思うからです。でも 検討してみてください。
○ (べストアンサー) ~~~~~
口げんかは、良いと思います。手が出るよりは、ましですし、
競いあうようなスポーツは嫌ですが、
絶縁は互いへの臆病さを増しますし、ここち悪く、
自分自身と口げんかできないひとは、まずいです。自身との絶縁ですから、
自己批判できないひとは、建設的な口げんかをできないと思います。
自己批判できないひと同士のけんかは、怖いので否定の対象です。
口げんかに止まらず暴力になり心身を壊しあうことになりそうなので。
自己批判できる人どうしだと口げんかは長引かないかもしれません。つつましいでしょうし。
けんかしつづけるということは、両者ともにか一方に自己批判するスキルがないということなのでしょうか、
互いを批判するよりも多くまざまざと自己批判を開示しあうのが良いのかもしれません。
互いの精神性や人間性に関し建設的であるには。
ひとびとが自己批判のスキルを高めてゆくには。
頭と言葉を使い陰気な精神のストリップをどこまでもするのが良いのだと思います。
徹底的な自己批判、自分と向き合うこと、自省を、したことがない人は、けっこう多いと思います。大人にも、
自己批判のしかたを、あまり学ばないかもしれません、
自己批判に関して、ひとびとは教育も開発もされず、
ほとんどの教師も親も自己批判なんかしていないかもしれませんし、
思考停止の世の中で、自分は正しいのだという態度の人や集団や情報ばかりが満ちていますし、
・・・(あと省略します)・・・
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☆ (この回答の筆者の方には 掲載について事後承諾になりますが よろしくお願いいたします)。
☆ このように自己批判が 基礎であると質問者も考えます。
これが 哲学としての対話である。こう考えるという意味です。
むろん その自己批判を終えたあとの見解や思想に 賛同する場合 これも 対話であることは言うまでもありません。
さて 対等で自由な 建設的なけんかを どうぞふるって寄せてください。つまり 哲学におけるけんかという主題についての情報交換となります。(これは 念のために 自分の主張を推し出すためのものではなく またアンケートをとるためでもないということを表わしたものです)。
お礼
なるほど。と思うと同時に それだとすると こんどは何故その《マクロ的視点》に人びとはしたがったか? が問われると思います。 へきゆさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 社会全体の秩序を考えて むしろやむを得ず ひとつの倫理的な規範としては互いに 《けんかは いけない》という申し送りをした結果 一般的な道徳律のようになったのだと。 ここでじつは へきゆさんに参加してもらっている【Q:自律・自我・さとりは すべて観念のまぼろし。】の問題になると思います。 わたしの歴史的なその伝統についての感触としてはなのですが どうも上から蓋をかぶせるようにして・しかもクウキのごときやわらかいあたたかい繭のごときこの道徳規範をおしつけたという仕掛けがあるのではないか。というものです。 つまりは 人びとは・庶民は しょっちゅうけんかをしています。仲が良いからです。腹にふくむものがないからです。 ★ ~~~ 口けんかは、己の悪いところを発見確認できる から、それを素直に受け入れ、直すべきは直す。 そういうのは、己の人格向上のためにはよいんじゃないか、 ということですよね。 ~~~~~ ☆ という効用を知ってか知らないでか そんなことにもお構いなしにけんかをしています。そして おおかたは そういう結果になっているのではありませんか? 家族をテーマにしたドラマなどは いまでもそういう筋書きになっていませんか? ★ でも、そんな人はごく少数でしょう。 ☆ と もしした場合にも 話は別の要因があるように思います。 ★ ~~~ ほとんどの口げんかは、修正不可能な部分を攻撃し 互いに憎しみ合って終わりです。 ~~~~~ ☆ おそらくこの種の事例は 《ほとんど全部》なのではなく〔おそらく〕少数なのだけれどもその結果があまりにもひどく悲惨であって 取り返しのつかないことになる場合がある。よって そのことを考慮するなら どうしてもやむを得ないと判断するしかないのだと。こうなったのではないかと考えます。 ところが・ところがです。ところが そういうふうに取り返しのつかない結果をまねいた場合というのは 大きくふたつに分かれるのではないでしょうか? ひとつは たしかに腹に一物も何もないのに その場の衝動的な感情の爆発によって 悲惨な結果に到ってしまったという場合です。広い意味でヒステリー現象だと言えば分かりやすいでしょうか。 もうひとつは 計算づくのけんかの場合です。あるいは もっと細かくみれば むしろけんかなどはしないという人間 A とふつうの庶民である人間 B とのあいだに 衝突が起きた場合がいい例だと思います。 庶民 B は よほどのことでなければ 手を挙げたりしないと思うのですが よほど《金持ちけんかしない》類型に入る人間 A の言動に腹をすえかねたのでしょうね。その結果 食ってかかり悲惨なけんかにまで発展したという場合。 さらにまだ 細かい話はつづきます。じつは その A と B のけんかには もっとおおきな問題があって むしろ A のほうは 自分からは手を出さないのだけれど けっきょくにおいておこなったことは B をけしかけたというその挑発行為のことです。 わたしの言いたいことは この事例のさらにあとの話です。この《決してけんかをしない主義の人間 A 》こそが その品行方正ぶりとそして取り分けその学力優秀ぶりによって アマアガリして行った結果 いまの国家におけるお二階さんが出来たという妄想としての歴史観です。 アマアガリして行く人が みなわるいと言っているのではありません。よい人も最後には 感化されてアマテラス公民の人間類型になってしまうという問題です。 《けんかは してはいけません》すなわち《和を以って貴しと為す》というクウキなる蓋をかぶせるのは むろんこのお二階さんたちです。 つまり そういう意味でも ★ つまり、マクロ的に考えていけない、ということにしたんだと思われます。 ☆ でも それにも・つまりそのような仕打ちにも スサノヲ庶民は耐えて来ました。一揆を起こすくらいです。反抗としてのけんかをやらかすのは。 つまり スサノヲ庶民の一階部分では みな平和です。けんかが絶えないほど平和です。腹に含むものなど ありません。富士山の日本晴れです。それが 《和の精神》としてのわが日本人の心です。 《和を以って貴しと為せ》と言われなかったら わたしは《和を乱す》ことを知らなかった。 ★ ~~~~ 一部のレベルの高い人に合わせて社会規範を構築しても 役に立たず、弊害ばかりになってしまいます。 それは、社会主義が失敗した理由の一つでも あるでしょう。 ~~~~~~~ ☆ 当否が相交じっていると思います。 庶民は おとなしい。みな総じて かしこいのです。ぎゃくに ★ 一部のレベルの高い人 ☆ というのは 明らかに《けんかをしない主義》のアマアガリ・シンドロームに罹った人を言います。つまり そのような《一部のレベルの高い人》に反発して これを排除して自分たち労働者・農民とその代表によって社会を造り直そうとしたとき そのあたらしい《一部のレベルの高い人たち》 ★ に合わせて社会規範を構築し ☆ たのが ★ 社会主義が失敗した理由の一つでもあるでしょう。 ☆ ほらごらんなさい。日本の庶民はかしこいでしょう。そんなヘマはやりません。あくまでお二階さんが 心を入れ替えて わかった われわれがわるかった 独走して来てしまったようだ だからここでみなさんの生活社会に大政奉還をおこなおうと言い出すところまで 静かに見守っています。みな平和です。 だから ○ けんかをしては 何故 いけないのでしょう? となるはずです。つまり もしこの史観が妥当であるならば へきゆさんまで アマアガリ神話なるクウキに毒されている。こう考えられます。 どうでしょう? からくりは ありませんか? あるいはそのようにカラクリを指摘するわたしの見方が くだらんカラクリでしょうか?