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なぜ人びとは けんかをしないのか?
なぜ人びとは――マドモアゼル・紗江のように―― けんかをしないのか? 1. 《なぜ けんかをしては いけないのか?》という質問をしたことがあります。 ○ (趣旨説明)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ここでは けんかを 口論にしぼってください。 つまり 自己批判をふくめて 批判をすることです。 存在を愛し〔まちがっていると思うところの〕思想や行動を 憎むことです。 なぜ いけないのでしょう? 理由が分かりません。おしえてください。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 2. そこでのべストアンサーを掲げます。それを出発点にするのがよいと考えました。ながいですが 検討してみてください。 ○ (べストアンサー) ~~~~~~~~~~~~~~ 3. 口げんかは、良いと思います。手が出るよりは、ま しですし、 競いあうようなスポーツは嫌ですが、 絶縁は互いへの臆病さを増しますし、ここち悪く、 4. 自分自身と口げんかできないひとは、まずいです。 自身との絶縁ですから、 自己批判できないひとは、建設的な口げんかをできないと 思います。 自己批判できないひと同士のけんかは、怖いので否定の対 象です。 口げんかに止まらず暴力になり心身を壊しあうことになり そうなので。 5. 自己批判できる人どうしだと口げんかは長引かない かもしれません。つつましいでしょうし。 けんかしつづけるということは、両者ともにか一方に自己 批判するスキルがないということなのでしょうか、 6. 互いを批判するよりも多くまざまざと自己批判を開 示しあうのが良いのかもしれません。 互いの精神性や人間性に関し建設的であるには。 ひとびとが自己批判のスキルを高めてゆくには。 頭と言葉を使い陰気な精神のストリップをどこまでもする のが良いのだと思います。 7. 徹底的な自己批判、自分と向き合うこと、自省を、 したことがない人は、けっこう多いと思います。大人にも、 自己批判のしかたを、あまり学ばないかもしれません、 自己批判に関して、ひとびとは教育も開発もされず、 ほとんどの教師も親も自己批判なんかしていないかもしれ ませんし、 思考停止の世の中で、自分は正しいのだという態度の人や 集団や情報ばかりが満ちていますし、 ・・・(あと省略します)・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 8. このように自己批判が 基礎であると質問者も考えます。 9. それが 哲学としての対話である。そう考えるという意味です。 むろん その自己批判を終えたあとの見解や思想に 賛同する場合 これも 対話であることは言うまでもありません。 10. さて 対等で自由な・《感情論理》を避けた建設的なけんかを どうぞふるって寄せてください。なぜ そうしないのか? という問いです。 11. ▲(コトバンク/ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典:感情論理(読み)かんじょうろんり(英語表記)logique de sentiment; affective logic)~~~~ 12.. 論理的な筋道をたどっているようにみえながら,感情的な因子が思考の過程やその方向を規定しているような場合に,感情論理が働いているという。 13. T.A.リボーによれば,理性の論理は結論に向うのに対して,感情論理は目的に向うとされる。 ・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 14. 吾人は 塚原・ロジックから――さらには クウキ・マジックから――自由にならんことを!
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- Nakay702
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「お礼コメント」をありがとうございました。 > ☆ えっ? そうなんですか? ⇒そうなんです。車同士の「あたり屋」に遭遇したときなど、最悪でした。 > ◇ おまえはアホか? > ◆ あんたよりは より少なくそうだ。 ⇒はっはっは。これはいいアイデアですね。覚えておいて実践します! そういえば、スペインの小話でこんなのがありました。 《 数頭のロバを連れて野道を歩いていた女性に、気取った若者が言いました。 「こんには、ロバのお母さん。」 すると、女性は、涼しい顔で答えました。 「さよなら、私の息子よ。」 》 (スペイン語のburro「ロバ」は「うすのろ、バカ」の意味があります。) 以上、簡単ですが、お礼のお礼申しあげます。
- Nakay702
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ちょっと面白そうなテーマなので、私も私見を披露させていただきます。ご期待に沿う回答かどうか分かりませんので、もし的外れの回答でしたら、どうぞ無視なさってください。 ★「けんか考」 二人いればいさかいが起こる、つまり、人間が「複数いるところには必ずけんかが始まる」、という。自己チュウ、けっこう。利己主義、けっこう。しかし、たまには、利他のため、というのもあっていい。常にでなくてもいい、せめてそういう面を忘れずにいたい。その意識をけんかの「手引き」に含めたい。そうなると、方法は、「ディアレクチーク(弁証法)的対話形式のけんか」、「正反合の応酬応報」が最良の方法、ということになる。 自分の見たものは、宇宙のほんの一部である。相手の見たものも、一部だけに違いない。誰も一部ずつしか見られないのなら、足し算をしない手はない。パッチワークよろしくこれを張り合わせればよい。それというのも、我々はこれによってのみ、より高みに上ることができるのだという。まさにこの「パースペクティヴィズム」こそ、「神の視点」に際限なく肉薄するための唯一の方法である、と偉い哲人(オルテガ)は言った。 不満を抱いていながら何も言わずに(=けんかせずに)根に持つのは陰険の極みである。これは何も生まない。いや、むしろ最悪の副産物を生む。すなわち、それは、「ルサンチマン」である。足し算とはえらい違いである。「けんか、は足し算の予備作業である。」 ★「口げんか見聞録と感想」 リスボンで街の通りを歩いている時であった。二人の男が大声で争い始めた。たちまち二人の周りに人垣ができた。野次馬である。かく言う私もその一人…。 事の顛末はこうである。交差点で青信号が黄色に変わった。一台のタクシーが急いで通り過ぎようとアクセルを踏み込む。と同時に気の早い歩行者がその前に飛び出してきたので急ブレーキをかける。すると、タクシーの後方にいたバイクがタクシーに追突して転倒、通行人たちは一斉にバイクを気づかった。幸い大したことなく、起き上がって次の青信号を待って走り去っていった。その時である。タクシーと歩行者が、えらい剣幕でののしり合いを始めたのである。二人とも物すごい形相である。我々は半円形を描いて彼らを取り囲み、高見の見物としゃれ込んだ。彼らは延々とののしり合う。よくもそんなに言葉が続くものである…。 一般に印欧語は「けんか用語」が豊かなのである。ののしり合いは少なくとも十数分は続いた。二人とも始めは鬼の形相で口角泡を飛ばしていたが、段々と語勢は穏やかに、笑顔交じりとなり、最後には何と、握手を交わして別れたではないか! 互いに相手を罵倒し尽くして、「充分に満足した」という風情であった。 ひるがえって日本ではどうか。日本語の場合、他人をなじったり罵倒したりするための表現が極めて貧弱だといわれる。ある仏文学がセリーヌ『なしくずしの死』の訳で翻訳賞を取ったときにつぶやいたことを思い出す。「原作では、しばしば数ページにわたって口汚くののしる表現、個人を罵倒する表現、卑猥な表現、淫靡な表現等々が続く。このような俗語・卑語・隠語・階級方言の類は翻訳者泣かせである。もはや日本語にならない。日本語には、この種の表現が少なすぎるのである」と。 なるほど、それで日本人同士のけんかの場面では、言葉の応酬だけでは憤懣を発散できず、別れ際に「覚えてろ!」などとのたまうのだ。だから、日本人のけんかで手が早いのは、「けんか用語」の不足から来る、などと穿った見方が出てくるのである。 ところで、気弱な私は、いつも負ける。だから、口げんかはあまり好まない。理不尽でも、金を払って済むならそれで収めたいくらいだ。事実、これまでその類に費やした金は数百万円を下らないと思う。そんな時、私は自称プチブルだから、「これでいいのだ!」と自分に言い聞かせる(赤塚さん、ありがとう)。 それはともかく、もしもけんか好きの御仁がおられたら提案したい。日本語の「けんか用語の語彙」を開発してほしい、と。そして、口頭だけでけんかして、最後にお互いの博識ぶりと健闘ぶりを讃えあって、「覚えてろ」ではなく、「おかげで溜飲が下がりましたよ」などと感謝しあって別れる。そんなけんかをお勧めしたいな~、と思う昨今なので、あるんである。
お礼
しばらくです。ご回答をありがとうございます。 ★ 「けんか考」 ~~~~~~~~~ 二人いればいさかいが起こる、つまり、人間が「複数いるところには必ずけんかが始まる」、という。自己チュウ、けっこう。利己主義、けっこう。しかし、たまには、利他のため、というのもあっていい。常にでなくてもいい、せめてそういう面を忘れずにいたい。その意識をけんかの「手引き」に含めたい。そうなると、方法は、「ディアレクチーク(弁証法)的対話形式のけんか」、「正反合の応酬応報」が最良の方法、ということになる。 ~~~~~~~~~ ☆ 言ってみれば ヘンな表現ですが《けんかの慢性化〔による建設的内容の実現〕》でしょうか。《時間過程としての学習過程を当然のごとくたどる双方のあいだのやり取り》でしょうか。 ★ 自分の見たものは、宇宙のほんの一部である。相手の見たものも、一部だけに違いない。誰も一部ずつしか見られないのなら、足し算をしない手はない。パッチワークよろしくこれを張り合わせればよい。それというのも、我々はこれによってのみ、より高みに上ることができるのだという。まさにこの「パースペクティヴィズム」こそ、「神の視点」に際限なく肉薄するための唯一の方法である、と偉い哲人(オルテガ)は言った。 ☆ 《唯一》っぽいですが 唯一ではないと思います。 全体観という視点があり得ます。あるいはそれは けっきょく《ひらめき》と呼ばれる視点ですね。 全体を隅々まで知るというよりは ものごとを全体として知る。そういう知性が 有効にはたらく場合があるかと思います。 部分観ないし要素還元主義による認識とそして全体観とを ともに利活用する手があるかと思います。 ★ 不満を抱いていながら何も言わずに(=けんかせずに)根に持つのは陰険の極みである。これは何も生まない。いや、むしろ最悪の副産物を生む。すなわち、それは、「ルサンチマン」である。足し算とはえらい違いである。「けんか、は足し算の予備作業である。」 ☆ 根に持たずルサンチマンをもいだかない場合というのは 自分が相手よりも知性なり地位なりについて上だと思っている(思い込んでいる)ときでしょうね。 でも けっきょくその場合も 化けの皮が剥げますから 同じく《最悪の副産物を生みがち》である。 ★ 「口げんか見聞録と感想」 ~~~~~~~ リスボンで街の通りを歩いている時であった。二人の男が大声で争い始めた。たちまち二人の周りに人垣ができた。野次馬である。かく言う私もその一人…。 ・・・(中略します)・・・ 一般に印欧語は「けんか用語」が豊かなのである。ののしり合いは少なくとも十数分は続いた。二人とも始めは鬼の形相で口角泡を飛ばしていたが、段々と語勢は穏やかに、笑顔交じりとなり、最後には何と、握手を交わして別れたではないか! 互いに相手を罵倒し尽くして、「充分に満足した」という風情であった。 ~~~~~~~~~~ ☆ なるほど。《意識の流れ》などという概念が聞かれますが かれらにあっては《意識の高い者どうしのあいだで その意識の対立とやがての統合》が 社会過程である。のかも分かりません。たぶん そうなんでしょう。 もし時に及んで《意識関係の破綻》に際しては 上(二階)と下(一階)とのあいだで回転(レヴォリューション)が起きる。・・・ ★ ひるがえって日本ではどうか。日本語の場合、他人をなじったり罵倒したりするための表現が極めて貧弱だといわれる。 ☆ じっさいそうらしいですね。 ★ ある仏文学がセリーヌ『なしくずしの死』の訳で翻訳賞を取ったときにつぶやいたことを思い出す。「原作では、しばしば数ページにわたって口汚くののしる表現、個人を罵倒する表現、卑猥な表現、淫靡な表現等々が続く。このような俗語・卑語・隠語・階級方言の類は翻訳者泣かせである。もはや日本語にならない。日本語には、この種の表現が少なすぎるのである」と。 ☆ あぁ。そこまでの原文に かなしいかな 出遭ったことがないのですが さもありなん・・・ということになるんでしょうね。 ちなみに TVドラマなどを見て気づいたのですが かれらは 互いにずいぶん顔を近づけてしゃべりますね。演技なのかも分かりませんが おそろしいくらいに顔と顔を向き合わせています。 ★ なるほど、それで日本人同士のけんかの場面では、言葉の応酬だけでは憤懣を発散できず、別れ際に「覚えてろ!」などとのたまうのだ。だから、日本人のけんかで手が早いのは、「けんか用語」の不足から来る、などと穿った見方が出てくるのである。 ☆ なるほど。《けんか》一般に まだ馴染んでいない。 ★ ところで、気弱な私は、いつも負ける。だから、口げんかはあまり好まない。理不尽でも、金を払って済むならそれで収めたいくらいだ。事実、これまでその類に費やした金は数百万円を下らないと思う。 ☆ えっ? そうなんですか? ★ そんな時、私は自称プチブルだから、「これでいいのだ!」と自分に言い聞かせる(赤塚さん、ありがとう)。 ☆ 悲惨に到らないということですね。不要な難を避ける。 ううーん。でも やっぱり理屈に合わない場合は そういう選択をしたならやはり 腹が膨れることになるような気がしますが。・・・ ★ それはともかく、もしもけんか好きの御仁がおられたら提案したい。日本語の「けんか用語の語彙」を開発してほしい、と。 ☆ あっ。それはですね。相手に合わせて・つまり相手の表現に合わせて――ちょっと意味が違うと思いますが 売り言葉に買い言葉で――応対するとよいと思います。 ◇ おまえはアホか? ◆ あんたよりは より少なくそうだ。 ★ そして、口頭だけでけんかして、最後にお互いの博識ぶりと健闘ぶりを讃えあって、「覚えてろ」ではなく、「おかげで溜飲が下がりましたよ」などと感謝しあって別れる。そんなけんかをお勧めしたいな~、と思う昨今なので、あるんである。 ☆ まあ どうですかねぇ。つまり 《意識の対立と統合》という特徴に代えて 《情感の破綻と統合》といった社会過程を土壌とする場合に ふつうの日常生活で《意識》のミサイルを発射し合うことが ただちに出来るかどうか。ですね。 ただし 哲学カテにおいては 主題や問題を扱う中で 互いの主観をやり取りすることは 実現させたい・・・ものですね。
- ノーバン(@nobound)
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自己批判的にけんかしようとしても、どこかで、相手の逆鱗に触れてキレるんではないかなという怖さはありますね、人は。まあけんかの歯止めがわからない怖さです。 逆に自己批判とは自分がキレるレベルを知ることかもしれません。これが難しい。みんな自分がキレるレベルがわからないから、けんかできないのかもしれません。 大人になると友達作りが難しいのは、キレても許して仲直りできるのは子供のうちだけだからかもしれません。あるいは何を言われてもキレないレベルになるとか?キレるとけんかはたぶん違います。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 自己批判的にけんかしようとしても、どこかで、相手の逆鱗に触れてキレるんではないかなという怖さはありますね、人は。まあけんかの歯止めがわからない怖さです。 ☆ 《歯止めがかからない》なら 哲学としてのけんかではなくなると考えます。 ただし: ★ 相手の逆鱗に触れ ☆ るという要素は 哲学のけんかという範疇を逸脱するものではないと思います。つまり 口論つまり言葉による表現としての――自己ないし相手への――批判であるのですから。 ★ 逆に自己批判とは自分がキレるレベルを知ることかもしれません。これが難しい。 ☆ つまり 哲学としてのけんかは 《自分がキレ》そうになるとき それをも自己批判し得るという内容を保つことだと思います。 ★ みんな自分がキレるレベルがわからないから、けんかできないのかもしれません。 ☆ それは 乱暴な言い方かも知れませんが 試行錯誤になるかと思います。つまり そこで《哲学としてのけんか》をどう保ちつつ続けるか。だと考えます。 つまり 自己批判が基礎であり基本であるという行き方だと思います。 逸脱してしまったなら なおそうならないように 自己批判を推し進めることだと思います。 ★ 大人になると友達作りが難しいのは、キレても許して仲直りできるのは子供のうちだけだからかもしれません。 ☆ 《友》をどう規定するか? あるいは 《友》をひとはつねに必要とするか? といった主題のもとに考える必要があると思います。 といった過程を経て 大人であっても しかるべき友情関係に入ることは 出来るかも知れないと思います。 ★ あるいは何を言われてもキレないレベルになるとか?キレるとけんかはたぶん違います。 ☆ なるほど。どこまでも《キレる》ほどの自己批判または相手への批判に ひとは耐え得るか? といった問題になるようですね。 たとえば: ▲ (趣旨説明欄:6) 精神のストリップ ☆ とあるように けっきょく《赤っ恥ぢを掻く》ことに どう耐えるか? なのかも分かりません。 あるいは――考えるのですが―― 哲学の門をくぐるときには そこに《精神のストリップを厭うなかれ》と書かれていたはずだとは思います。 つまり 日常生活の中において誰にも当てはまるように一般的で通常の《批判としてのけんか》が出来ればよいのですが 取りあえずは 哲学カテにおけるやり取りでそのめざすところを実現して行ければよい。と考えるのですが どうでしょう?
- meido2010
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長い物には巻かれろですか?。 そういうのは、刃物をや拳銃を服の下からチラつかせて「言うことを聞かな ければこれだぞ」と言う。 そういうのを覇権主義と言うのですよ。 喧嘩しないのが賢明だ。 自己批判は真理の裏返しだ。 トップを批判するのはとんでもない。 私ならうまくやって出世してみせる。 という魂胆が見え見えですよ。 あなたにとってトップも利用すべき対象なのでしょう。 その為に、トップも利用して偉くなれば勝ちだ。 という安易な考えなのでしょう。 それでは何も変わらないし、誰の為の組織なんだか分かりませんね。 国家事業であるアマスポーツを食い物にする輩が偉いか。 国の代表をオリンピックに出すアマ連が、そんな連中に食い物にされる なんて冗談ではありませんね。 顔を洗って出直してこい。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 長い物には巻かれろですか?。 ☆ クウキ・マジックと呼んだものです。論理による説得を別とした同調圧力のことです。 ★ そういうのは、刃物をや拳銃を服の下からチラつかせて「言うことを聞かなければこれだぞ」と言う。 ☆ クウキ・マジックの行き着く先は そういう場合があり得ます。 ★ そういうのを覇権主義と言うのですよ。 ☆ いや クウキ・マジックを駆使するのは すでに多かれ少なかれ《覇権》を握った権力の側です。 むろん 小さな職場での権限をめぐる上下関係から来る場合をふくみます。 ★ 喧嘩しないのが賢明だ。 ☆ それは 自己防衛のためでしょうね。色をつければ その組織における自己保身ですね。 あるいは 男の立ち場から表現すれば 《妻子を含めた家族の生活のため》〔に けんかはしないということだ〕と考えられます。 ★ 自己批判は真理の裏返しだ。 ☆ ん? 自己批判は 真理にもとづこうとする意志行為です。 ★ トップを批判するのはとんでもない。 私ならうまくやって出世してみせる。 という魂胆が見え見えですよ。 ☆ ん? わたしが 自己防衛のためにしろ家族を養っていかねばならないためにしろ けんかをしないのは ひとえにそれらを通り超えて その組織の中で《自己保身》のためは言うにおよばず すでに或る種の《覇権》を追い求めているからだ。・・・こう解釈するのですね? ☆☆(趣旨説明欄) なぜ人びとは――マドモアゼル・紗江のように―― けんかをしないのか? ☆ つまり 宮川紗江選手のように けんかすべし・・・と言っています。 ★ あなたにとってトップも利用すべき対象なのでしょう。 その為に、トップも利用して偉くなれば勝ちだ。 という安易な考えなのでしょう。 ☆ 《トップ》にしろ誰にしろ・あるいは自分自身にしろ 自由な社会のためには みんな《利用します》よ。 ★ それでは何も変わらないし、誰の為の組織なんだか分かりませんね。 国家事業であるアマスポーツを食い物にする輩が偉いか。 ☆ 《なぜ けんかをしないか?》という問いですよ? ★ ~~~~~~ 国の代表をオリンピックに出すアマ連が、そんな連中に食い物にされる なんて冗談ではありませんね。 顔を洗って出直してこい。 ~~~~~ ☆ 《クウキ・マジック》に対してけんかをしているわたしが 《顔を洗って出直してくる》と けんかはするのですか? しないのですか?
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 「お礼コメント」をありがとうございました。 ☆ いいえ。こちらこそ いつも建設的なご見解をありがとうございます。 > ☆☆ えっ? そうなんですか? ★ ⇒そうなんです。車同士の「あたり屋」に遭遇したときなど、最悪でした。 ☆ そうですか。相手にもよるんですかね。確信犯と言いますか 話の通じない相手の場合には それはそれは 苦労します。 > ◇ おまえはアホか? > ◆ あんたよりは より少なくそうだ。 ★ ⇒はっはっは。これはいいアイデアですね。覚えておいて実践します! ☆ まぁ ちょっとの笑いくらいは取れるかと。 ★ そういえば、スペインの小話でこんなのがありました。 《 数頭のロバを連れて野道を歩いていた女性に、気取った若者が言いました。 「こんには、ロバのお母さん。」 すると、女性は、涼しい顔で答えました。 「さよなら、私の息子よ。」 》 (スペイン語のburro「ロバ」は「うすのろ、バカ」の意味があります。) ☆ なるほど。相手の言い分を一応みとめているというところが ミソかも知れませんね。 ★ 以上、簡単ですが、お礼のお礼申しあげます。 ☆ お互い話が通じ合うというのは たのしいものですね。 訂正です。 【まちがい】☆☆(No.4お礼欄) 《情感の破綻と統合》といった社会過程 【ただしい】☆ 《情感の共同性――その綻びと取り繕い〔としての統合〕――》といった社会過程