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西洋近代科学なのか否かに関わらずに考えてみました。

理論的な説明の為には、例外の排除が伴ないやすいのでしょうか。

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回答No.5

No.3,4 >朱熹は「太極」と「無極」との同一化の必要性を諭していらっしゃいますが、それと同じ様に考えられ得る発想なのでしょうか?  ソクラテスの存在論に東洋的なものが見出せるだろう。どちらが先かには関心がなく,複数の祖先が探求して同じところに行きついた知見を尊重したい。  ヌースは,インド哲学の「ブラフマン」「アートマン」に相当すると考えられる。宇宙論と人間論の使い分けで二つであり,本質は一であると考えている。  「太極」と「無極」については,朱熹がどうあれ,同一化したいのかしたくないのか,またソクラテス哲学やインド哲学と融合させたいのかどうかによる。能力原因と質料原因という構想もあり得るのだから。  「不完全性定理」は,「「真理はない」という真理」のような,自己言及のことだと思っている。これも論理の限界からくるもので,それを補うために,超越を構想する必要があるのだと考えている。  例外の排除は,論理の弱点だろうが,その弱点を補う方法をソクラテスの存在論に見てとって感動したことがあったので主張をしたまでだ。間違った見方をしているかもしれない。  自論を守るための恣意的な排除を私はしたくない。あなたがより例外の排除を伴わない理論的な説明ができれば,それはそれで素晴らしいことだ。

SakuraiTomoka
質問者

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有り難う御座います。 融合の相手の存在が認められている時点で、既に外部への排除が先立っているのでしょうから、そういう理論は「絶対無の混沌」から出てきていないのでしょうね。

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回答No.4

No.3 >外部の存在が既に排除になっていますね。 「全ての内」に対しての外部を言っているようだ。このように論理世界に人は視点を移すことができる。しかし,設定された論理世界の外部は論じないことが了解されているはずだ。またこの場合では論じる価値もないものである。

SakuraiTomoka
質問者

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有り難う御座います。 未だ引っ掛かりを払拭し切れないものですから、教えて下さい。 朱熹は「太極」と「無極」との同一化の必要性を諭していらっしゃいますが、それと同じ様に考えられ得る発想なのでしょうか?

回答No.3

 プラトン『ピレボス』で語られたソクラテスの存在論は以下のようなものだった。例外のない理論がどういうものであるかが分かる。科学は始めから例外を前提とした理論を許容しているが,それでも許容限度を超えた例外の排除が伴いやすい説明がある。それは,理論設定の過誤から生じるものである。  我々は議論の出発点を入念に設定するように努めなければならない。今,全体の内にある全てのものを二つ,あるいは君に依存がなければ三つに分けることにしたい。  神は存在の一部を無限として示し,他を限(もしくは限度)として示しているようだから,これらをまず二つの種類に分けることにしよう。  これに対して三番目の種類というのは,これら二つが混合されてそこから一つに合成されるものということになる。  いや待てよ。四番目の種類が入用となるではないか。すなわち混合の原因というものである。もし五番目に君の言う分解の原因というようなものがあるとしても,今のところは必要としていない。しかし必要になれば探し求めることを君は了解してくれるだろう。  それではまず最初に,以上四つのうちの三つを取り分け,その二つについて,そのそれぞれが他に分割され,また分散しているのを見たうえで,そのそれぞれをまた再び一つに統合して,その二つのそれぞれが一体どのようにして一でありまた多であるかを見る試みをしようではないか。   解釈すると,まず有限と無限の矛盾対(矛盾対なので肯定と否定も可能)を構想し論理的な例外の可能性を排除した上で,非論理的な矛盾対の同一性の成立を混合とみなし,その論理の外から混合原因が働くという機構を設定して,理論の基盤としている。  抽象的で分かりにくいと思うので,ちなみに『ピレボス』の主題では,快と苦を限度のないものとして第一の部類に入れ,賢者が口をそろえて天地を支配するものは知性(ヌース)であるということから,第四の部類として知性をおいた。この知性は,身体に対しては魂であり,天の全体に対しても魂の働きをするものである。第二の部類には数学的な秩序をおいているようである。快楽と思慮の混じり合った生活の中に,限度なきものが限度と和することが見受けられ,善の可能性のある現実を,第三の部類としている。

SakuraiTomoka
質問者

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有り難う御座います。 外部の存在が既に排除になっていますね。

回答No.2

どちらとも言えないと思います。 「完璧」な「理論」の構築には、今もってしても「到達」しているとは、言い難いのが現状だと思われます。したがって、むしろ「不完全」な「記述」の「理論」の方がむしろ「信憑性」が高いと思っていた方が、「落とし穴」に落ち込まないとも言えると思います。 これは、「数学」を除く全ての「理論」「学問」に共通する事と、私は考えています。 「整数 1 + 整数 1 = 整数 2」等には、「例外」の余地が有りませんね。 「男性 1 + 女性 1 = ?性 3」と成る可能性は、排除出来ません(笑い)。 「完璧な理論」が出来ても「ただし、???だけは、除く」という場合も、有り得ると考えられるし、例外が全く無い「完璧な理論」も当然有って然るべきですね。 これは、「この宇宙」だけにしか「通用」しないかも知れないし、そういう意味からすると「全く別の物理法則」や「論理」「数学」が成り立つ「宇宙」では、違ってきますね。 「理論的な想像や予言的に成立可能な別の法則のはたらいている世界」を、未だ「確認」出来ていない以上は、「西洋的方法」では、いつまで経っても「大統一理論」さえも、余程革新的なアイデアが閃く「天才」の出現を待つしか無いですね。

SakuraiTomoka
質問者

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有り難う御座います。 「不完全性定理」が諭してくれています通りに、全てを拾遺し続け得る手段は存在し得ないのではないでしょうか。

回答No.1

例外があるなら、その「理論」には漏れがあるという事です。 物事の本質まで把握せず、経験的、現象表面的に捉える時、 その理論性は近似であって、先入条件の変化によって「例外」 が生じるのです。

SakuraiTomoka
質問者

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有り難う御座います。 「A」という概念を規定した際には、 「非A」が論理的には発生し得ませんでしょうか。

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