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近代市民革命について
近代市民革命は、金が出来た子が親を殺した、それを美的に理論で飾ったもの。 と授業で習ったのですが、具体的な様子が分からず・・・です。(汗) 王の保護の下に大商人となった資本集団が、資本が蓄積されるにあたって、王の保護が邪魔になり、もっと自由に商売をしたいという意思が生まれ、王制を打倒したということですが、具体的な様子や説明などをして頂ける方いましたら、教えて頂けますでしょうか? どうかよろしくお願い致します。
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フランスに関しての話になるのですが、 十七世紀のフランスでは、絶対王政の時代、王ルイ十四世が ヴェルサイユ宮殿を建てたりするなど、とにかく費用のかかる 事業をしたので、いくら税金をあげても出費が追いつかなく なりました。 そこで、当時の財務総監コルベールは、財政難を解消するため、 国内の金の量が多くなるように、輸出を増やして輸入を減らす ことを考えました。 その方法として、まず大財務官の特権を抑制したり、間接税や 関税を新設して、官製の手工業の工場を設立するためのの資金とし、 (これを王立マニュファクチュアといいます)それによって作られた 製品(武器、つづれ織り、船」、高価な器など)を特権を与えられた 貿易会社に海外に輸出させ、さらにはインドやアメリカ、セネガル などに支店を増やさせることにより、貿易での輸出を増やして フランスを貿易黒字にしていこう、といういわゆる重商主義政策を 行ったのです。 このようにして絶対王政が国内の特許企業を甘やかす事により、 国内の経済活動を促進させようとしていたのですが、 18世紀になって、イギリスで産業革命が始まるようになると、 例えば自国の石炭を採掘し、それを工場の蒸気機関の燃料にする といったふうに、分業化が行われるなどして、産業の仕組み そのものが変わってきたのです。 フランス国内でも、あちこちの地方で(例えば、北部のアンザン鉱山、 ノルマンディーの織物、リヨン周辺の絹工業など)といったふうに、 色々な工業中心地が出来るようになりました。 そしてそれらの工業中心地が自由に生産を拡大するためには、 あちこちで作られた生産物を、地方の都市同士で取引したり、 輸送したりする都市間のネットワーク作りが大事になってくるのですが、 にもかかわらず、フランスの国内産業に対する政策といえば、先に述 べた重商主義政策の時代につくられた、特定の工業組合に与えられた 特権、分断された国内の中での移動にかかる関税、貴族には ほとんどかからなくて民衆にはたくさんかかる不公平な税金のかけ方、 職人などを中世以来の親方制で私生活上、仕事上の制約を与える などの時代遅れの制度などが旧態依然として存在し、企業が自由な 活動をしたり発展していく事を妨げる事によって、産業革命の足を 引っ張っていたのです。 また、イギリスの場合は、既に名誉革命などによって、王権が弱められ、 ある程度社会、経済的な環境が近代化された産業の発展に沿うよう に整備出来るようになっていましたが、フランスの場合は、革命が起こり ませんでしたので王権がずっと強いままでしたし、また先に述べた 重商主義政策時代の弊害があまりにも甚だしかったため、 産業の発展は遅れたままでした。 (更に、イギリスとの植民地争いに敗れ、原料供給地と市場を失った事 も産業革命の遅れの大きな原因となったといわれます。) そういったことから、企業家や商人は、フランスがイギリスのような 国になるためには、もっと十分な経済活動が行えるような実情に 見合った法律を作らなければならない、そのためにはその足かせ になっている君主政体制そのものに抗議しなくてはならない という考えに至り、それが後のフランス革命の一つの原因に なったのであろうと、思われます。
お礼
ご丁寧に教えて頂きありがとうございました^^ 大変分かり分かりやすかったです。