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オルテガ・イ・ガセーの言葉から考える日本の現状とは?
- スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセーの言葉「文明は何よりまず、共同生活への意志である。他人を考慮に入れなければ入れないほど、非文明的で野蛮である。」から考えると、日本の現状は共同生活への意志が弱まっているのかもしれない。
- また、彼の言葉によれば、分解への傾向は野蛮さを象徴するとされており、現代の政治や地域社会のありようも、この野蛮さを持つ小集団がはびこる時代と言えるかもしれない。
- しかし、彼は自由主義派を最も寛大な制度として讃え、敵と共に生きる決意を宣言している。日本の現状は、このような共存の精神が必要なのかもしれない。
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オルテガ・イ・ガセーは1883~1955に生きたスペインの哲学者ですね。そのことを考慮に入れれば、彼のこの言葉のもつ極端な誤謬も理解できないわけでは無さそうです。その後の人類の文明や文化に対する認識の発展を考慮に入れて彼の言葉を言い換えてみると、以下のようなる筈です。 「非文明的と呼ばれてきた土着文化は何よりまず、共同生活への意志である。一つの価値観を他の多様な土着文化に押し付けて、その価値観の元に統一する意志をもつ文明の本質は、他の文化を排除する傾向にあり、他人を考慮に入れなければ入れないほど、文明は野蛮である。多様性と呼ばれる個性の出現は進化であるが、それに対して統一は個性の否定であり、退化である。さらに野蛮とは統一への傾向である。だからこそ、あらゆる野蛮な時代は、人間が統一する時代であり、たがいに分離した多様性に敵意を持つ統一集団がはびこる時代である。 (中略)自由主義は、既に権力を得た少数派の富裕層には最高に寛大な制度である。なぜならば、それはその富を自由に行使してその少数派が残りの中産階級以下の多数派を認めない権利だからである。しかし、自由という言葉には魔力がある。だからこそ、地球上にこだました最も魅惑的で危険なさけびである。それは敵と、それどころか、弱い敵と共存する決意を宣言する装いをする。しかし、それは反対者を自由の名の下に押しつぶして統治する!」 どうです、オルテガ・イ・ガセーとは正反対の結論になっていますね。西洋文明は今まで数々の多様な文化をキリスト教文明の名の下に押しつぶし、殲滅して来ました。オルテガ・イ・ガセーのスペインは、中南米の文化を完全に殲滅して、今では中南米の人達は自分たち固有で多様な言葉を失い、スペイン語で統一されてしまいました。日本の固有な衣装等も、西洋文明に統一され、現在では圧倒的に洋服です。また、日本の若者は日本語を使うよりもカタカナ語を使うことに魅力を感じているようで、過去の中南米の悲劇が見て取れます。 ローマによる統一も、地方文化の多様性の否定でした。歴史的に見て、あらゆる文明は、多様性の否定の上に立ち、自らの価値観に統一すると言う運動でした。 アメリカの文明は現在世界中を席巻しており、世界中の若者達はポップ・カルチャーと呼ばれる文化に、水が高きから引くきに流れるように統一されつつあります。そして、アメリカの1%以下の富裕層は自由を国内外に大宣伝して、自由勝手のし放題に国内の中産階級や低開発国から富を吸い上げて、貧富の差を増幅させております。そのアメリカをコピーした日本でも、近年貧富の差がどんどん増幅しております。 オルテガ・イ・ガセーは第二次世界大戦後の民族独立運動や、近年の文化人類学による土着文化の複雑で多様な深みの発見や、それに対する西洋文化の相対的な単純さの発見を知らない時代に生きた哲学者です。また、近年の自然科学の進歩によって、例えば生物の進化とは分岐であり、多様性の出現の方向に向いており、統一化とはその反対に退化であると言うことが認識されるようになって来ましたが、その自然科学の成果も知らない世代の哲学者でした。 そのようなオルテガ・イ・ガセーの時代背景による知的認識の限界が、質問者さんが引用した、一見意味が通っているように見えるが、的を逸した間違った主張を彼がするようになってしまった原因でしょう。
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オルテガがどんな時代に(この素朴な自由主義賛歌を)謳ったのかということは余り関係ないと思いますが、なるほどこの言葉は質問者様の示唆されるように、今の日本政治や社会の危機的な状況に対して実に的確な警告を発しているようです。 彼の目には今の日本の国会が狭量で非寛容な野蛮人の集団同士がくんずほぐれつの醜い争いを繰りかえしており、その烏合の衆たる集団は更に内部から小集団へと分離崩壊しはじめていると見えるのですね。更に彼らが抱擁し救済する義務を負っている現前の荒廃した社会も彼ら同様更に共同や協調、相互協力などの古きよき美徳文化を失って分離離散、孤立主義の野蛮時代へ落ち込んでいく気配を見せているようです。 どこで、何を間違ったのかということですが、それはやはりオルテガが把握していたキーワードである「自由主義」というものが問題なのでしょう。われわれは確かにいったん確かに掴んだかに思えた「自由」というものを身勝手に歪め、そのの解釈を履き違えていたのかもしれません。 >自由主義派、最高に寛大な制度である。なぜならば、それは多数派が少数派を認める権利だからであり、だからこそ、地球上にこだました最も高貴なさけびである。 それは敵と、それどころか、弱い敵と共存する決意を宣言する。敵と共に生きる! 反対者とともに統治する!」 いまだにこういう基本的でたやすそうに見える理想が実現していないわけですから。 人間のもつエゴイズムが非寛容をどうあっても手放せないということがるのかもしれませんが、 方法論として、やはり多数決主義でしかない衆愚的民主政治にまやかしというか矛盾があったのではないかとも思えます。 これは政治スレになりました。
お礼
詳しく解説していただき有難うございました。私はプロテスタントのキリスト者ですが 日本キリスト教団と言う全体を総括する組織の上層部のありようにたいして、ある牧師が 述べられた文からの引用で、それぞれの教会が持つ歴史や多様性を多数決と言う一色に 塗りつぶすありように対する批判として読みましたが、権力をもった人間の非寛容と言う点では ここも変わらないと言うことを改めて認識しました。私達もプロテスタントの意味をしっかり 自分のものにしなければいけないと思い知りました。感謝です。
- ふじ-さん おたま-さん(@OtamaFJWR)
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>今の「政治のありよう」や「地域社会のありよう」に喩えると 「政治のありよう」=政治を政争と勘違いしている。 「地域社会のありよう」=無縁社会が急速に拡大している。 「競争が安定をもたらす」というのは間違い。 社会貢献のために「競う」のはありだが、「争う」必要はない。 真の競い合いで、勝つことは、より大きな社会貢献を成すことである。
お礼
ありがとうございました。 なにが大切で優先されるべきか、を見失った不毛の議論や揚げ足取りにはうんざりします。 市民社会 共同体 連体などと言う言葉もいつの間にか死語になり中身を失いました。 無関心社会が現実です。ほどほどに豊かになり助け合うこともなくなってきたのでしょうか。
お礼
回答有難うございました。国語のカテでの回答も拝読いたしております。 自由と言う言葉はある意味では禁断の木の実でもある。 何度も読み返してみます。自由の名のもとに、築かれてきたすぐれた知恵や独自の文化を 失いつつあると言うことは実感します。 言葉に関してはまず読書の習慣がない。 と言うことが長年子供の文庫に携わってきたものには悲しい限りです。