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穢多の身分は平民の七分の一に相当
- およそ穢多の身分は平民の七分の一に相当する。穢多七人を殺すにあらざれば町人一人の下手人を出すことはできぬ。
- 穢多七人に平民一人、一人の下手人が欲しくばあと六人殺して来い!人間のあさましさを語るものである。
- 穢多はそれでも存在の七分の一は人間であったか。これは封建身分制の一例であり、付和雷同性や革命を起こすという気概の無さと関連している。
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ご質問の趣旨が良くわからないのですが、仰る「何が悪いのか?」とは何についてのことでしょうか。 >まことに人間のあさましさを語るものである。 ご提示の文章のこの部分については疑いを挟めませんが、 >そして時代の違いを見なければなりませんが この事件やそれを招きかねない社会の情況について このあたりも含めて、質問者様は現代の、今の社会の状況と比較されておられるようにも思うのですが、それにしても、以下の1から6までの条項は何を示しておられるのでしょうか? まさかこの中から”差別が悪いことではなかった”?!という選択肢も含めて適切な(差別の)原因を選べなどとおっしゃって折られるわけでもないのでしょうね。 > 弾左衛門は涙で黙した。部落の民も沈黙を守った。しかも武士階級に絶対服従した当時の江戸の民は これを《名裁判》として賞め讃えた。 このあたりはたしかに 2.封建身分制。民主制以前。 時代が悪かったといえばそれはたしかに間違いのないところでしょう。 3. 付和雷同性もしくは思考停止という状態。 こういったものに原因を求めるのも間違いではないと思います。ことに 3.についてはすぐれて現代に通じる問題性もあると思います。 4. 革命を起こすという気概の無さ。 当時の被差別民にそれだけのちからがあったかどうか、彼らの無気力に原因を求めるのは無理でしょうね。 高橋貞樹氏のその著書は悲しいことにまだ読んではいませんが、被差別民の発生を含めた身分制度の歴史的ななりたちは、私のような浅学のものでも、ここには一息では書けないようなさまざまな要因があり、複雑な状況があったと記憶しています。ただ、高橋氏が、ここで「まことに人間のあさましさを語るものである。」と見事に表現されておられることでそのすべてとまではいわないまでも、非常に多くのことをその中に含んでしまったという意味で、すばらしいことであると思いました。つまり、人間が人間を差別し、お互い(の心)を平気で傷つけあうということは、人間のおろかさ、無知、人間以下の行いをしているという以外のなにものでもないということをこの言葉が簡潔に表現していると思うからです。 ご参考になれば。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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bragelonne さん、ANo.6です。 私は東京の下町生まれ、育ちであるせいか、遠まわしの言い方しないし奥歯にものの挟まったことも、当てこすりもしておりません。 でもbragelonne さんに、いいたいことというか、申し上げていることがなかなか伝わ羅内のだという事をまた、痛感させられました。 私はつらいというのは私がつらいのではなく、この質問がなんと質がわるい質問だろうという意味です。 第二に掲げている1.~5.の綱目の文言の選択やないようを批判しているのです。それもつらい話です。 人間や庶民、生活者に気概の無さということをいうのは提言者の人間観を批判せざるを得ません。 付和雷同ちか思考停止という文言は支配されている事、生活範囲の限定されている存在に対してご理解がは不十分な言い方だと存じます。 被差別部落千年史は私も長く居た図書館で知っております。 私がその大学で教育を受けた時代は、解同とかのこともなく、差別や部落の問題を取り上げていました。 今はそういうタームではなく、いわゆる地域福祉という一般的概念の中の事柄にいこうしてきていましょう。直りかけた傷を殊更に穿(ほじく)り返して、医学の勉強をすることはどうかと存じます。 臭いものに蓋をするのではないのですが、やはり扱い方を批判します。
お礼
クリアさん ご提言をありがとうございます。 わたしのお応えは 否です。 わたしは謙遜することはありますが 対話として相手に伝えることにおいて その内容をそのまま表現します。(遠回しに言うときにも その自分の意図を含めた伝達内容を それ以外のことを基本的に交えずにそのまま 明らかにしています)。 ですから 文字通り お応えは 否です。 ★ 直りかけた傷を殊更に穿(ほじく)り返して、医学の勉強をすることはどうかと存じます。 ☆ この回答を評価するという投票が 多く集まっていますが その方々にもお応えします。このもんだいは 無条件に《無用》というのが 答えなのです。それ以外にありません。 《無用》と捉えているものに《直りかけた傷》というのはありません。それは 《なお傷つけようとして実際に機会を得たら攻撃してくる側の心の病》です。それ以外に 当事者に傷も問題も非もまったくありません。 ★ 臭いものに蓋をするのではないのですが、やはり扱い方を批判します。 ☆ 《扱い方》に気を配るというのは それなら攻撃する側への配慮になるというものです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 人間や庶民、生活者に気概の無さということをいうのは提言者の人間観を批判せざるを得ません。 付和雷同とか思考停止という文言は支配されている事、生活範囲の限定されている存在に対してご理解が不十分な言い方だと存じます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これらは それでもなお 攻撃を受ける側の身の潔白を確かめるための選択肢です。 攻撃する側が 百パーセント悪いのですが 念には念を入れ 確かめつつものごとは進めるというものです。 あとは 見解の相違になるかと思います。どちらも互いの見解を認めざるを得ない局面に入るのだろうと思います。 * 《支配されている》――この表現は ことさら取り上げるとすれば 卑屈であると考えます。共同自治に《支配・被支配》はないと考えます。そういう見解の相違でもあるかと思います。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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第一点として 1.~5.に掲げているものに民衆や大衆、特に日本の場合、当てはめようとすると無理があると存じます。 日本の場合の特殊的事情は、外部的交流が多くない事、そして支配されている側の生活とそれへの教育と指導の浸透性の問題があること、などがあります。 批判に必要な知識や情報もないとともに、同調する事付和雷同とは微妙な質的差異があり、それは現実には大きな要素であること。人間とその社会においては精密な機械以上にこの微妙精妙な事は大きな意味性があることです。 第二点として 掲げられている各フレーズには一定の意見・見解による構成があり、事態の認識と評価に必ずしも妥当性と公平性が期し難いのではないかとぞんじます。言い換えればほかに何か分析の仕方がないものでしょうか? 第三点として 今はこの亀岡というのは今戸ですね、今の今戸にも清川町にも、橋場にも、石浜にも無論、空襲前からこのような一定の方の居住地域はなかったし、あったとしても誰も意識はしていないのではないかと存じます。ここで不用意な地域名が出されると、反って困惑したり心理的に思うこともあるかと存じます。このあたりは私も小学校などで多くの友人もいて、気付けばえぇっと思うでしょうね。 古くからの住人も居ないわけではありません。弾左衛門や山田浅衛門の子孫もいるが、無用にみなさんのことは掘り返す事はしないようにしています。臭いものに蓋ではなく、無用ですね。 日本の庶民もどこの国の人も、みなそれほど変わりません。浅ましさという表現や分析よりも、人間としてのもう少し異なる分析が、人に対して欲しいという気持ちです。 封建制は封建制、身分制は身分制。制度疲労の問題もありえますが、今、身分制やその意識が誰にもないでしょうか?当時の秩序や歴史的経過のものであり、それが価値評価により論じられる性格ではないように存じます。 革命の気概のどうのは、人間と庶民の認識の浅薄さだと存じます。人間や庶民民衆を何処まで信じ愛する事ができるか。それはその人の存在性ですよね。 真崎稲荷って、今は石浜神社でしょう。でも浅草のではなく、荒川区の南千住ですよね。私らここらは遊び場でしたが。 どうもなにか、後味のあまり・・・ご質問ですね。つらい話です。 マハアートマガンディも白人のジャーナリストのくだらない質問に、質の悪い質問だといったままでした。 つらいことです。bragelonneさんともあろう方が、何かつらい。しょうがないですが。ごめんなさい。
お礼
おつらい思いをさせ申しておるようですね。――ご回答をありがとうございます。 まづ基本的にですが 今回これまでに寄せてもらった回答を見てもわたしは 基本的によかったと思います。ひとつにみなさんがそれぞれご自身の見方考え方で事件を捉え それに評言を与えている。もうひとつに 特に趣旨説明で指し示すこともないままに 現代・現在の日本社会と合わせて そのつながりの側面についても 議論しておられる。こういった事由によってです。 ですから――質問にどういう事件を取り上げるかについては この記事を読んでただちに決めましたところ 土地の選択については クリヤさんにはどうも多大な不都合なお気持ちを生じさせてしまったのですが―― クリヤさんも ほかの回答者の方と同じように 事件や社会の情況についてご見解を述べていただければありがたいとは 思います。 つまりその問題についてですが ★ 古くからの住人も居ないわけではありません。弾左衛門や山田浅衛門の子孫もいるが、無用にみなさんのことは掘り返す事はしないようにしています。臭いものに蓋ではなく、無用ですね。 ☆ このご自身がおっしゃっているような考えとかたちにおいて 対応していただければよいとやはり基本的には考えます。過去の歴史やその遺物については 基本的に《無用》という姿勢において ただしなおも幽霊のごとく残存放射能のごとく尾を引いて漂っている現実問題に関して 考えるところを述べてもらえば何の差しさわりもない こう思っております。むしろ そういう問題点を孕んでいるのではないでしょうか? お心の整理も大切なのではないでしょうか? わたしなどは 長年不通になっていますが友だちもおりますし 夏祭りには呼んでもらって家にも泊めてもらいました。もしそうならばわたしも《穢れて》おります。 もう少しこの話をしましょうか。わたしはまったく何の意識もなく多くの同級生と友だちになって行ったのですが 或る日 友だちの友だちの一人から こういう仕打ちにも遭いました。かれは満面に笑みを浮かべて よう○○(わたしのことです)よと言いながら――横から寄ってきたものですから――思いっきりわたしの背中を開いた右手で叩きました。つまり オモテっぷりは友情のしるしだったのですが ウラの思いは おまえも そろそろ事情が分かって来たところだろう? もう縁を切りたいのではないか? 無理しなさんな。お前らの根性はだいたいみな似たり寄ったりだ 悪いことは言わん ここらで黙って引き下がるのがいちばん賢いことだよ。というわけです。 もんだいは――わたしにとっての問題は―― その叩きっぷりは半端ではなかったのです。まるで手の力がうしろから前の胸にまで突き抜けるかと思うほどでした。そしてその 痛い痛い ということだけでその場はおしまいとなりました。その後もけっきょく何も起きませんでした。という話です。 どちらの側にも疑心暗鬼から何から何まで人びとの心には 幽霊の放射能がまだまだはたらいています。そして ★ 臭いものに蓋ではなく、無用ですね。 ☆ ではないでしょうか? 話が持ち上がったそのつど 《無用》と言って行くしか方法はないように考えます。《無用》のことで 《つらいこと》というのは無いのです。 ★ 革命の気概のどうのは、人間と庶民の認識の浅薄さだと存じます。人間や庶民民衆を何処まで信じ愛する事ができるか。それはその人の存在性ですよね。 ☆ これは ただそういう回答を先取りしておいただけのことです。 ★ 事態の認識と評価に必ずしも妥当性と公平性が期し難いのではないかとぞんじます。言い換えればほかに何か分析の仕方がないものでしょうか? ☆ 《和して同ぜず》でしたか そういう言葉がありますね。その精神で 何でもござれという構えをも飲み込んでもらって もともとのやわらかな勁さを発揮していただかなくてはなりません。若い方々に率先してその範を示していただかなくてはなりません。すべて被創造世界のことなのですから。どんな質問が来ても ★ 私らここらは遊び場でしたが。 ☆ と言って軽くいなしていただかなくてはなりません。どないでしょう?
- rin00077
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人間のあさましさというよりも、人間の弱さではないでしょうか。 特に江戸時代の差別があからさまな時代は、武士により庶民が虐げられて きたのであれば、その庶民は自分より身分の低い人を求めるでしょうね。 ここに人間の弱さがあるように思えますね。 そして、現代もその精神はかわらないと思いますよ。 差別というのは、人種差別や民族差別いがいにも、たくさんありますよね。 先ほど違うカテで、「手紙」という小説の中に出てくる「差別されて当然だ」と いう意味を教えてほしいという質問がありました。 http://okwave.jp/qa/q6070643.html 簡単に内容をいうと、強盗殺人を犯した兄を持つ弟が、社会のなかで幾多の差別や 偏見を経験するのですが、犯罪者を身内に持っているから「差別されて当然だ」と ある人から言われるわけです。 要するに「誰もトラブルには巻き込まれたくない。だから犯罪者を身内に持つ人は 遠ざけてほしい」ということですね。 たしかに、それはそうであろうが、それが当然だ。と考えるのはなぜだろうか? なぜ、「犯罪を犯したのは兄のほうだから、何もしていない弟は関係ない。」と、 いう方向に考えるのが当然にならないのか? これも人間の弱さからくる差別だ、と僕は思っているのですが。
お礼
りんさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 あぁ。ええ なるほど。現代で言えば――封建身分制ではないでしょうが ないにもかかわらず――その場の空気に逆らえない・流されてしまうといった情況につながるでしょうか。 ★ 人間のあさましさというよりも、人間の弱さではないでしょうか。 ☆ あさましさを発揮する前にすでに弱くなっている。でしょうか。 ★ 特に江戸時代の差別があからさまな時代は、武士により庶民が虐げられて / きたのであれば、その庶民は自分より身分の低い人を求めるでしょうね。 // ここに人間の弱さがあるように思えますね。 /// そして、現代もその精神はかわらないと思いますよ。 ☆ 或る意味 困ったものですね。《いぢめの連鎖》ですね。わたしは 《上にいる者からの意識の排泄》と言っていますが これは排泄を受ける側から言えば《アース役の連鎖》になると思います。《弱い者へのしわ寄せの感染列島》になってしまいますね。 そうだとすれば ★ 犯罪者を身内に持っているから「差別されて当然だ」と / ある人から言われるわけです。 ☆ これも ひょっとすると 《弱い者へのしわ寄せ》あるいは《そこに弱い者がいるから いぢめる》というくせ(エートス)の問題も入っているかも知れません。 ★ 要するに「誰もトラブルには巻き込まれたくない。だから犯罪者を身内に持つ人は / 遠ざけてほしい」ということですね。 ☆ これが 頭で考えた理由づけでしょうね。そのほかに もっと本能的な弱い者いぢめも咬んでいるかも知れません。 そう言えば 芸能人がその子どもが不祥事をしでかすと 親としてもあやまりますね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ なぜ、「犯罪を犯したのは兄のほうだから、何もしていない弟は関係ない。」と、 / いう方向に考えるのが当然にならないのか? これも人間の弱さからくる差別だ、と僕は思っているのですが。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは ですから 親子や家族と言えども 人格は別だという考え方をしないのでしょうかねぇ。もしこの思考停止が原因だとすれば その《弱さ》は 空気からの影響というよりも 《頭を使わない》傾向がわるいようにも思います。また 悪については 人と行為とを区別するという習慣をつけることが必要だと思えて来ます。 ありがとうございました。 * 吉川(君島)十和子は 夫とともにつぐないをする側につきましたね。夫婦は 人格が一体であるという側面があるのでしょうか。
>1. 《人間のあさましさ》 ・・・だと思います。 これは何時までたってもなおりません。 非人と武士の立場が逆転した時には、非人は自分たちがやられたことを武士に対してやるだろうと思います。 現在の世でも本質的には変わりません。 人権派の人が、人にやさしいかと言えば、そんなことはありません。 人権派の人の言うことに抗弁したりすると、人権無視で吊るしあげられます。恐ろしいです。 人権ボランティアというのは、人の上に立ちたいという人が多いですね。 (強者の上に立つことは、なかなか大変ですが、弱者の上にはすぐに立てます。
お礼
ベイス一番さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 人権ボランティアというのは、人の上に立ちたいという人が多いですね。 (強者の上に立つことは、なかなか大変ですが、弱者の上にはすぐに立てます。 ☆ なかなか鋭いですね。そうですか。いわば人間の――あるいは じんるいの――前史ですね。 選択肢を(1)から(5)まで挙げたのですが もうひとつ重要な原因を考え落としていました。 それは 仏教界からさえ忌み嫌われたという実際です。中で 親鸞らは 穢多の人びとの中へ入って行ったそうです。そうとうの人びとが同朋に加わったそうです。 その後 本願寺は穢多の信徒からの寄付金が絶やされずに送られて来るのに気を大きくしてしまったからなのか とうとう時代を追うごとにほかの仏教徒と同じように 穢多の人びとを忌み嫌いいわば搾取するようになったとか。(高橋貞樹:同書 第一編 第7章 四 仏徒の賎視観念運動――親鸞と真宗穢多寺と本願寺の堕落) ああ あ さ ま し や あさましや。ですね。 人間の前史のこととして捉えたいと思います。後史があるわけです。縁起も順観と逆観とがあります。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 現在の世でも本質的には変わりません。 人権派の人が、人にやさしいかと言えば、そんなことはありません。 人権派の人の言うことに抗弁したりすると、人権無視で吊るしあげられます。恐ろしいです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうなんですか。現在も まだですね。もうちょっとでしょうか。 ★ 非人と武士の立場が逆転した時には、非人は自分たちがやられたことを武士に対してやるだろうと思います。 ☆ これは カンボヂャでポルポトらがやったことですね。金持ちとインテリに対して容赦なく《仕返し(?)》をしたようです。そこら中 どくろがころがっているとか。 ★ これは何時までたってもなおりません。 ☆ 前史を終えれば直ると夢見ています。 ありがとうございました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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山谷ですか。私の生まれ育った清川町のとなりですよ。 まぁどうなんでしょうか。 今となっては歴史の事実なんでしょうか。 そして今となってはこの歴史事実を、事 更に 現代の事実としてではなく、人類の進歩の為の思索の挿話としてみたいですね。 ほんとうにつらい話ですね。早く卒業したいというだけの歴史ですよね。 それ以上に何かの意味を見つけられるのか、ともにご回答をお待ちします。
お礼
ご回答をありがとうございます。 江戸時代は とびきり酷かったと言います。 ★ ほんとうにつらい話ですね。早く卒業したいというだけの歴史ですよね。 それ以上に何かの意味を見つけられるのか、ともにご回答をお待ちします。 ☆ まぁ昔の話を引っ張り出して来るとは どういう魂胆かというところでしょうが この《つらい話》の構造を捉えたいですね。今回は おおがかりなものではありません。切り口を示してもらって 構造への取り組みの方向を見定めたいといったふうに思っております。 平民であっても 武士の横暴はそれはそれはきびしかったようですから。それを思うとなおさらという思いを持っても まちがいではないのかも知れません。それでは。
- Anti-Giants
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1,2,3,4,5のどれも少しは含まれると思います。 以下は私の「その他」の意見です。 基本的には経済差別だと思いますよ。 差別階級の人間をみんなで搾取すれば、それだけ経済的に楽になれますから。 現在でいえば、正規社員と非正規社員の違いかと思います。 例えば、結婚を考えてみましょう。 当時でいえば、差別階級と結婚するなどもってのほかでした。これは、昭和までは存在していました。現在、自分の娘に対して、相手の男性が「非正規社員」だからといって結婚に反対する親は、どれくらいいるでしょうか。そこそこいると思います。 社会的身分がどうのこうのいうよりも、結局はお金なんだと思います。 「汚い」とかののしっている連中は、経済的には差別階級と同じような生活をしていたのではないでしょうか。そして、少なくとも社会的には上に立っていることを確認するために、そのような「差別的」行動をするのだと思います。
お礼
アンティヂャィアンツさん こんにちは。ご回答をありがとうとございます。 まづ趣旨説明における書き間違いをただします。 まちがい: 5. 何もわるくない。 ただしい: 6. 何もわるくない。 でした。すみません。 さて ★ ~~~~~~~~~~~ 1,2,3,4,5のどれも少しは含まれると思います。 以下は私の「その他」の意見です。 基本的には経済差別だと思いますよ。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ あぁ そうでしたか。おもしろそうですね。 ★ 差別階級の人間をみんなで搾取すれば、それだけ経済的に楽になれますから。 // 現在でいえば、正規社員と非正規社員の違いかと思います。 ☆ つまりわたしは 遠いその昔の起源のことを考えていたものですから つまり初めは必ずしも経済差別から始まったものではないだろうと思っていましたから 考えてみませんでした。 つまり言いかえると やや第二次的な現象のようにも映りはしますが ともかく――どういうのでしょう?――時代の制度としても風潮としてもいわゆる社会の底辺にいる身分の者をねらって しわ寄せをする。こういったところでしょうか。何と言っても お上からのお墨付きで いぢめをすることが出来る。こうも言えるでしょうか。 被差別民が自分たちの職場を侵さないように守る。あるいは別の要素としても書いておられるように 結婚相手も よもや侵すまいけれども しっかりと垣根を守る。でしょうか。 ★ 社会的身分がどうのこうのいうよりも、結局はお金なんだと思います。 ☆ これは 次のように 経済事情が同じような場合に起こる情況というべきでしょうか。 ★ 「汚い」とかののしっている連中は、経済的には差別階級と同じような生活をしていたのではないでしょうか。そして、少なくとも社会的には上に立っていることを確認するために、そのような「差別的」行動をするのだと思います。 ☆ と言いますのも ぎゃくに――この本によれば―― 良民のほうが賎民の娘を 美貌ゆえにとも金の威光とも書いてありますが 娶ろうとして処罰を受けたという事例もあったそうです。そのくだりをも引いておきます。 まづ ◆ (高橋貞樹:同書) 〔穢多が〕身分を隠して一般民に紛れ去らんとして発覚すれば 厳重な処刑を受けた。寛政年中には 丹波・丹後・摂津の穢多が 百姓町人へ奉公して処罰されたことがある。穢多・非人が平人と交わろうとすれば その身分を隠蔽するより外はなかった。非人の子を遊女とすれば 本人・父母・雇主・証人 皆罪を得た。知らずして妻となしたものは 身元を糺(ただ)さなかったといった廉(かど)で処罰された。(p.135) ☆ と前置きして紹介しています。 ◆ (承前) ~~~~~~~~~~~~~~~~ 《おこよ源三郎》の物語は 部落民と普通民との結婚が悲痛な破算に終わった一例である。 穢多の小屋頭(こやがしら)の娘に生まれたおこよと 旗本・座光寺源三郎とは 雪駄直しの長五郎のとりもちで結婚した。初め 座光寺は途上におこよの美貌を見知り 長五郎を介してまづおこよを出入りの町人の養女ということにし それからこれを迎え入れたのである。 〔* 以下 いささか意味を取りにくい。〕 おこよの父母が忍びやかに愛娘に面会しようとする心持は涙なき能(あた)わざるものがある。長五郎は平人にして落魄しきたったものであるから のち足洗いをした。〔* 以上の箇所。〕 その物語の火のごとき恋の発端から破局までの経緯の裡(うち)に われわれはおこよの父が穢多であっても金の威光で尅上(こくじょう)せんとする意気と愛娘への涙ぐましい暖かき愛を見るが のち事(こと)露見して 御法度に触れた身分違いの交際のゆえをもって 哀しくも一同処刑されたという。 (pp.135-136) ~~~~~~~~~~~~~~~ ありがとうございました。
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お礼
長く引用します。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ただ、高橋氏が、ここで「まことに人間のあさましさを語るものである。」と見事に表現されておられることでそのすべてとまではいわないまでも、非常に多くのことをその中に含んでしまったという意味で、すばらしいことであると思いました。つまり、人間が人間を差別し、お互い(の心)を平気で傷つけあうということは、人間のおろかさ、無知、人間以下の行いをしているという以外のなにものでもないということをこの言葉が簡潔に表現していると思うからです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ こまあすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。こういったご意見はありがたいですね。 ★ ただ、高橋氏が、ここで「まことに人間のあさましさを語るものである。」と見事に表現されておられることで・・・ ☆ No.3のベイスさんと同じようにこの評言に思いを託しておられるようですね。 その点では No.3でのやり取りもごらんになってください。そのようにわたしは思いました。じんるいの前史は ひどい。後史に期待したい。これです。 (4)の革命をめぐっては 被差別民が無気力であってもかまわないと思います。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ 3. 付和雷同性もしくは思考停止という状態。 ・・・ことに 3.についてはすぐれて現代に通じる問題性もあると思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 《現代に通じる問題性》としてわたくしも考えており その主題としていくらかやり取りもして来ました。これからもいい主題を捉えて考えて行きたいと思っております。 (2) 封建身分制 ☆ これは 遺物として多少現代にも残っているでしょうか。 No.3で書きましたが あろうことか仏教徒らがこの賎民視に加担していたとかいう話がありました。反省してその内容を発表したということをわたしは知らないのですが もしまだでしたら するべきでしょうね。 わたしは この差別については 憲法違反として政府はただちに考えを明らかにし できることから政策の手を打つべきだと思います。 ありがとうございました。