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「陰徳」にはどんな得があるのでしょうか?

「陰徳」にはどんな得があるのでしょうか? 陰徳(人に知られないようにして行う良い行い。)を行うとどんな得があるのでしょうか。 良い行いは、他人に分かるようにして行えば、感謝され、良い評判を得ることができます。 しかし、人に知られない良い行いは、何もしていないのと同じではないでしょうか。 「陰徳陽報」とは、具体的にどんな得なのでしょうか? 是非教えて下さい。 ご回答は、精神論的、宗教的、抽象的なものではなく、本当に「具体的」に、「陰徳」の得な点をご教授して下さい。

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  • ベストアンサー
  • mmky
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回答No.5

>>良い行いは、他人に分かるようにして行えば、感謝され、良い評判を得ることができます。 ○これは子供にでもわかりますよね。 >>しかし、人に知られない良い行いは、何もしていないのと同じではないでしょうか。 ○これは立派な大人にしかわからないんですね。「人に知られない良い行い」と本人は思っていても「天網恢恢疎にして漏らさず。」でね。観てるんですよ。私ら年寄りは目に付く善行者より目に付かない善行者を観てるんですよ。 私もとっくに引退してますけどね、そういう人は必ず偉くしたものですよ。というのはね、目に付く善行者は誰にでも目に付くわけだから出世も早いわけですね。その反面転落も早いですよ。本人のせいじゃないですよ。上が落ちちゃうと下の本人も落ちるのですね。でもね。目に付かない善行者を見つけるとね、ゆっくりプロモートして行けば、そのうち社長にもなれるからね。それが陰徳なんですよ。わかるかな? 企業でも社会でも陰徳を積む者を見逃さない者(陰徳者)がいるのですよ。知恵者はみな陰徳者ともいえるね。

darmedyoo
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

その他の回答 (8)

noname#131237
noname#131237
回答No.9

徳と得は、同音異義語です。共通点はありません。辞書を引いてください。

darmedyoo
質問者

お礼

そんなこと分かっています。 あなたこそ私の質問をよく読んで下さい。

回答No.8

是には心を正常に保つ、と言う役割(徳)があります。心を病むという事は、自分自身の論理脳が発達し過ぎたために起きる現象です。 期待通りに物事が進む事を、当たり前の様に思う心です。人生は全てが未知との遭遇です。明日の事は誰でも判りません、ただ分ったような気になっているだけです。 思うように物事が行かなくなる事を、論理脳が察知する時に、心を病むきっかけがある場合があるという意味です。心を病むという事は、自分の心がストレスを作って、そのストレスを回避しようとする所から発生しています。 その元になるものが『漠然とした不安』或いは命への畏れ、或いは永遠に対する憧れかも知れません。それは、無いものねだり、或いは手に出来ないものを欲しがる願いと言ってもよいかもしれません。 何かをしたら『何かが返って来る筈』と言う思い込みが人間の心の中に芽生える時に、心を病む兆しがあります。大人に近くなって来て、知恵が付く事によって、心には悩みが生じて来るからです。 子供時代は、何も心配事が無かったはずです、何故なら心配が在っても、心配と一つになってしまえるからです、その結果他の事に興味を覚えた場合には『直ぐに忘れる』と言特技があったからです。 大人になって世の中の事が分かり掛けた事によって、悩みや心配事が増してきます。極端な話が『自分は何者か?或いは何のために生きるのか?』と言う事まで考えてしまうからです。 そういう事を考えなかった時代の方が、生きる事を楽しく感じていられました。そういう子供の心に帰る事を、『陰徳』は教えています。期待をしないでする事は、心の健康には最高の教えだからです。 期待する心のお陰で、悩みや心配事が生じると言う意味です。 子供は、何をする場合にも期待や、計算ズクで動くわけではないと言う意味です。返ってその方が楽しかったり、不安を覚えない事を知っているかのようです。 期待する心は、逆に、不安おも呼び込んでいると言う意味になります。人間が期待をしないで懸命に働くならば、お互いの力で、皆が幸福になるはずです。期待をする心が、争いを招いたり、不安の為に、お互いが信じられなくなっています。 人間が期待をしたとしても、全てが死に向かって進んでいます。何時かは今の人は全てが、この世からいなくなっています。期待しないで懸命に生きる事が出来たなら、この世は天国になる筈です。何故ならば『天国に一番近い存在は幼子』と聖書にも書いて有るからです。 皆が陰徳を積んで期待をしないで、懸命に生きる事が出来た時に、この世は天国になる筈です。何故なら期待する心が『心を病む』と言う地獄を皆の心に『妄想として』作っているからです。

darmedyoo
質問者

お礼

全然質問の趣旨に合ったご回答とは思えません。

noname#118718
noname#118718
回答No.7

他人に影響されることが減るので、人格の底ができるのかと思います。 感謝されることだけ注意が向けば、迎合的な態度になり振り回されるでしょう。

darmedyoo
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.6

陰徳が徳とされる社会では、たとえ誰からも声を掛けて貰えない人でも「自分は一人っきりではないんだ」と言う安心を齎してくれるので、人々は疎外感や孤独感に苛まれずに幸せに暮らせます。 一方陽徳以外にその意義を理解出来ない連中の集団の中では、誰からも声を掛けて貰えなくなった人は完全に見放された人と言うことですから、疎外感や孤独感に苛まれ不幸のどん底に落され、絶望のあまり「誰でも良かった」なんて言うことをする人間があっちでもこっちでも出てくる、そんな物騒な世の中になります。 アメリカ人の親切とイギリス人の親切と言うは話しを紹介します。 例えば80才をゆうに越え、足下もおぼつかないおばあちゃんが交通の激しい道路を横断しようとしているとします。 まずアメリカから: それに気が付いたアメリカの好青年がおばあちゃんに近づき言いました。 「おばあちゃん、私の手に掴まりなさい。一緒に道路を渡りましょう」 これがアメリカ人の親切です。 次にイギリス: それに気が付いたイギリスの紳士が、黙っておばあちゃんの斜め後ろに立ちました。おばあちゃんばよぼよぼ渡り始めたので、すぐ後ろからおばあちゃんに気付かれること無く付いて行きます。おばあちゃんが危なくなったら直ぐに手を差し伸べますが、無事渡れたらそのままおばあちゃんに気付かれること無くその紳士は去って行きます。 イギリスのおばあちゃんは、たとえ誰からも声をかけられなくなっても、どこかで誰かが自分を見守っている人がいることを知っていますから、安心していられます。 アメリカのおばあちゃんは、誰にも声をかけられなくなったらそれで終わり、あんたはもうこの社会の一員じゃないよ、と言うことです。 ところで、アメリカのような社会でもおばあちゃんが安心していられる方法があるんですよ。そのように誰にも頼ることができなくても、絶対に頼りになるものがあるのです。それがお金です。ですから、陰徳を徳と認めない社会では、人々は異様にお金に執着するようになります。お金はあるに越したことはありませんが、それでも陰徳を徳と認めている社会では、適度に暮らせるお金で人々は満足しますが、陰徳を徳と認めない社会ではただただお金だけが頼りの社会ですから、人々はお金以外に価値を認めない大変単純な世界になります。ですから、「清貧」や「霞を食って生きる」言う概念はアメリカ人には理解出来ません。またその理由で、アメリカには皆てんでんばらばらで人の塊という集団はありますが、社会と言う物が存在していません。現時点でもアメリカでは金持ちは増々お金を集めることに躍起になり、世界で類を見ないほど貧富の格差を広げています。日本もそんな国にならないと良いですね。

darmedyoo
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 アメリカとイギリスがそんな単純に比較できるとは思いません。

noname#123390
noname#123390
回答No.4

徳行、善行というのは、元来見返りを求めないものです。 見返りを期待する善行はかぎりなく商行為に近づきます。 コンビニの店員の元気な挨拶とか---。 ですから 陰徳(誰にも知られずに徳を積む)こそが真の徳であるといえます。 つまり、 徳と得は同次元で論じられるべきものではありません。 しかし徳が得になることは確かです。 徳が社会にゆきわたったら、みんな快適な生活が出来るとは思いませんか? そう願って徳行を積むのは、ある意味スパンの長い商行為であるともいえますが。

darmedyoo
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

回答No.3

本当に具体例を示しましょう。 隠匿の具体例:誰もいない公園でゴミを拾ってごみ籠にすてる。     これが何もしていないのと同じだと思いますか? 陽報の具体例:きれいになった公園で気持ちよく過ごすことができる。     これ以上の得を求めますか?

darmedyoo
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 もっと大きな例を示して頂けませんか?

回答No.2

真の生きる目的は、物質的豊かさ≒他人による評価ではなく、 精神的充足感≒自己による評価がベースです。 他人による評価が充足感に直結する、虚栄心に毒されている場合を 除けば、得が「陰」であるか否かは、その価値に影響しない。 生きることが自分の意思に基づく限り、生きる意味(充足感)は、 他人に何をしてもらえるかではなく、自分が何をできるかである (自律的行動=充足)。

darmedyoo
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

回答No.1

 下心がなければ・・・・・  行為そのものが、「得」。  これが具体例(精神世界の事柄なので)。  でも、結果の現れるのは、いや実感できるのは・・・・・  だいぶ先だと思います。  一回こっきりでは、はかなく消える。  継続してこそ、結果が現れる。  ・・・・・と、思います。

darmedyoo
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 何を仰りたいのか良く分かりません。