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願掛け宗教の定着理由と否定実験の可能性

宗教には、多かれ少なかれ、願掛け的要素というものがあり、それが種となるか付随的かは宗教によると思います。 日本的な宗教(仏教神道)は、かなり、この要素が強いものだと思われます。あと、エジプトのピラミッド建設などもこの精神です。 このような信仰の定着は、 「もし、その願掛けをやめてしまったら、今よりわるい事態になるかもしれない。だから、公開しないために、この行いを続けよう」 という精神が多少ともあるのではないでしょうか。本当は、めんどくさい、でも、それによって物事が好転しなければ、むしろ悪化しては、たまらないから続けると。 もしも、宗教を排除しようという政治勢力があって、こういう政権が 「以後何年か何十年か、いままでの宗教行事を一切禁じる」 という触れを出し、その結果それが守られ、それ以後、本当に願掛けをしなくてもまったく事態は変わらないということが人々に納得されたとすれば、宗教というものは衰退したのでしょうか?

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  • tanuki4u
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回答No.2

衰退しない。 願掛けが効果がないことは、逐次的にしか否定されない。 願1 から 願N までに関しては願掛けの効果が無いことが証明され納得されても、願N+1 に関しては未否定である。 願いは言い方を変えると、欲望でありたとえば、月しか知らなかったときには 月に行きたい!という欲望しかなかったが、惑星が発見されれば、その惑星に行きたい!という別種の欲望が新たに発生する。 たぶん欲望は人間の本能なので社会体制ではなくせない。 よって願掛けは不死鳥のように復活する。

garcon2000
質問者

お礼

数学的帰納法的に証明されてしまえば、(とりあえず、一回まったく祈祷の類をやめて変化なし!じゃあ何回やっても効果なしと仮定すると、そのもう一回多くやってもやっぱり効果なし!)「効果」という点では完全否定されるということが常識になれる気がしますが、それだからといって衰退はしないでしょうね(慣習ファッションとして) 事象Nまで否定されたところで、欲望という人間的なものを愛呈している以上、無駄なのでしょうね。

その他の回答 (4)

  • nob_004
  • ベストアンサー率24% (8/33)
回答No.5

 願掛けをしなくなる、というのがまず無理でしょう。  宗教施設を(神社仏閣から家の神棚、お墓にいたるまで)すべて破壊したとしても、結局は何かを拝む行為におきかわるだけだと思います。  また、宗教には「現世利益(お金がほしいとか試験に合格したいとか)」以外にも「死後の安寧」を祈るという側面もあります。こちらは祈った効果について証明不能ですので(祈ったから天国へ行った/祈らなかったから地獄に行った、というのは確かめようがないですよね?)、事態は変わらないと人々が納得することもありません。よって宗教は衰退しない、と言えると思います。

garcon2000
質問者

お礼

もしかしたら、時間の矢(エントロピー)の法則というものに関与してませんかね。常に物事は未来形であるということ。その時間のおかげで、人間というのはこういう習性を持ったのではないでしょうか。動物も理性があればこうなるのでしょう。 未来=未知 そして、生物はなんとか、死する身である運命を背負いながら、生存しようという願い本能がある、そこに「願掛け」という慣習は成立しているのでは。

  • tak0san
  • ベストアンサー率35% (14/39)
回答No.4

願掛けは宗教というよりも人間の根源的な心理に根ざしていると思います。 何かを願う   :うまくいった。 なにもしなかった:うまくいかなかった。 このようなことがあると統計的にはまったく意味がなくても人間は 願掛けをしたおかげでうまくいったと認識するようにできていると 聞いたことがあります。 だから宗教を排除したとしても、この政権を信じることでうまくいくんだ という別の願掛けになっているのでは?

garcon2000
質問者

お礼

何かを願う:うまくいかなかった(うまくいった) なにもしなかった:うまくいかなかった(うまくいった) この右辺の結果は、左辺の変数にまったく関与しない(相関がない)ということが、証明され続け、人々の意識に一般的になれば、どうかなという問題です。 何かを願う:うまくいった なにもしない:うまくいかなかった これでは、迷信がまことしやかに作られていきます。 では、 何かを願う:うまくいかなかった なにもしない:うまくいった ということが統計的に優位になったとき、人はどうするんでしょうね? こういう点にも興味あります。 まさに、統計学の問題ですね。 なにか、願う→うまくいく という意識のプログラムがあるようですね。

回答No.3

 過去の共産国では、「宗教は迷信である」というのが国としての公式見解であるとして、事実上宗教を禁じていたわけです。ですが、崩壊後に宗教も復権しました。

garcon2000
質問者

お礼

共産主義は、宗教の非否定を行ったんですね。興味深いことです。しかし、とりあえずも国家存続中は原則論だけとはしても、禁令を施行できたんでしょうかね。それはかなり革新的だと思います。

noname#204885
noname#204885
回答No.1

>本当に願掛けをしなくてもまったく事態は変わらないということが人々に納得されたとすれば、宗教というものは衰退したのでしょうか?  どうでしょうか。現代人、特に若者で、本当に「願掛け」の効果があると信じている人はそうはいないでしょう。それでも受験シーズンはあれだけ天神様が賑わうことをどう解釈するか。 効果は無いと頭ではわかっているけど、「だめもと」「わらにもすがる」「参拝して損はしない」「自分の決心の強さを確かめる」と言うような気持ちの方が大きいのだと思います。気分の問題ですね。そういう意味も含めて、「日本人は願掛け宗教がすき」と言われれば、全くそのとおりだと思いますが・・・。 宗教ではないですが、「丸山ワクチン」は仰るようなシチュエーションにかなり近いように思います。政府が客観データを根拠に認可をしない方針だったのですが、患者団体の強い要求が通ってしぶしぶ使用を認めていると言う状態ですね。医薬品としてはかなり例外的な扱いですが、御利益信仰が客観的事実をもねじふせた一例だと思います。

garcon2000
質問者

お礼

慣習行事的な心理状態になっていますね。本来の切実さ真剣さからシフトしてファッションに堕落している現状です。そういう生き残り、存続方法を双方(かける側かけられる側)で取っているようですね。 丸山ワクチンって存在感あったのですね。医療分野にもその類がありましたか。

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