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純粋で普遍的な無意識が・・・

キリスト教の愛や仏教の慈悲も、純粋で普遍的な無意識の現れだと思えるのですが このような道徳的無意識とも超越的無意識とも呼べるものが 宗教の信心の有無に関わらず、これからの時代の人々の心の支えになってゆけるかどうか、その可能性についてお聞かせください。 また、若い人達の自殺の問題もあり 無宗教の人達にも受け入れられる、精神的な指標といったものが必要なのではないかと思っています。 そうしたものを具体的に示す事ができるのかどうか、といった点についてもお聞かせください。 宗教に直接関係しておられる方にとっては、或いは、厳しい質問と受け止められる面もあるかと思いますが、ご教示くださいますようお願いいたします。

みんなの回答

回答No.8

節穴を通して外の世界を見ることを想像してみてください 穴に近づけば近づくほど見える世界は広がります 実は人間は言葉という節穴を通して世界を見ているのです 見る世界を広げるには言葉の穴に近づくこと それは言葉とは何であるのかを理解することです 理解し言葉の実態が見えてくれば おのずと見える世界は広がります 宗教もイデオロギーも経済も科学技術も すべて言葉の産物です 言葉の中でそれらを見ているうちは それらが生み出す諸問題 戦争も偏見も貧富の差も・・・ あらゆる病を治して本来あるべき姿には戻せません 言葉の節穴に限りなく近づいて その穴を抜けて真実の世界に飛び出すことこそ 純粋で普遍的な無意識を獲得することなのです 真実が見えなくて何もできないことと 真実が見えているけど何もできないことは 似て非なるものです

noname#99640
質問者

お礼

言葉と意識と実践の問題でしょうか。 言葉を介して、言葉を超えた世界に踏み込むべきという事ですね。 そこに真実があるという捉え方なのでしょう。 言葉が概念の表現のレベルを超えて、概念の本質の領域を示しているところまで、言葉を見据えなくてはいけない という事なのでしょうか? 実践面においても踏み込むべきとの感じですね? 手厳しいながらも有益なアドバイス有難うございました。

noname#96547
noname#96547
回答No.7

純粋なことに、無意識とか、意識とか、関係ないんじゃないの? 結構みんなまっとうだよ。

noname#99640
質問者

お礼

そのような見方をされても宜しいと思います。 健全性がそのまま純粋であるという見方は正しいと思われます。 より健全なものを求めて・・という風に解釈していただければ幸いです。 有難うございました。

回答No.6

貴重な疑問だと思いますので すこし説明を深くしたいと思います >自然との触れあいも薄い人には、どのようにその心を伝えればよいのでしょう。 人間の中にもちゃんと自然があることに気づけばいいのです。 肉体は自然の一部であるし、自我の背景にはHART(こころ)という 自然(純粋で普遍的な無意識)がちゃんとあります。 このHARTはすべての生き物に共通のものです。 人間のために生まれさせられ殺される家畜にも 人間と同等のHART(純粋で普遍的な無意識)があります。 自我(マインド)とHART(純粋で普遍的な無意識)の違いに 想いをめぐらせることを訓練しなければなりません。 人間が抱えるすべての解決策は自然の中にあると言ってもいいでしょう。 その解決策が見えるか見えないかの差なのです。 若い人達の自殺の問題も自然から学べば 人間の数が多すぎることが原因とわかります。 生物は数が増え過ぎるとHARTが病むようになっています。 単純にあさはかな経済論理で少子化対策を謳うのではなく 生物学的見地から人口を統制するべきでしょう。 たとえばわたしの師はシマリスですが シマリスは寝起きに最初にすることは ストレッチなのです あくびをしながらの全身全霊のストレッチです わたしはシマリスのまねをして あくびをしながら大の字に体を伸ばします するとわかるのです 宇宙は自分のためにあるとでもいうような爽快感がそこにあることが きっとシマリスもそんな感覚をもっているのだと思います。 純粋で普遍的な無意識を探し求めれば そのお手本は言葉を持たない自然界にありますが そこに気づける人はまれです オオカミ少女がオオカミになるように 人間は本来ふるさととも国家とも無縁の存在として 純粋で普遍的な無意識を持って生まれてくるのです。 そこに帰って行くのが賢者というものなのでしょう。

noname#99640
質問者

お礼

シマリスは可愛いですね。 可愛いシマリスと一緒にいられる回答者様は、きっと幸せなのでしょう。 限られた自然の一部との触れ合いでも、そこから得るものが沢山あるようにも思われます。 純粋で普遍的な無意識・・・という言葉を質問するにあたり使わせて頂きましたが このような言葉でよかったのか・・・?という思いもあります。 人によっては解釈や受け止め方も違うかもしれない、という思いです。 できるだけ宗教的な臭いを消して、純粋な心を、という感じで使わせていただいたつもりでした。 私個人の感覚では 自然というものは、人間の純粋さなど、あまりにもちっぽけなもののようにも感じ取れます。 もっと大きなものがあるようにも思えます。 それは繋がっているのかもしれませんが分かりません。 或いは、純粋な心と思っているものすら生み出している、もっと大きな心があるのかもしれません。 まだまだ、自然から学ぶ事が沢山ありそうです。 ご教訓有難うございました。

noname#97825
noname#97825
回答No.5

本来は仏教用語かとは思いますが、「利自即利他」という言葉があります。 例えば、職業(や生き方)等々において、技量(や人格)等をより一層向上させて行くこと自体に喜びがあると共に、それによって他者へもより一層の幸福を味わって頂くことができ、そのこと自体が自身の幸福にもなって行く、というあり方です。 これであれば、宗教に限らず、自分も他者も共に一層幸福になって行くことが可能だと思いますし、その結果、この世とあの世を貫く幸福にも結果的にはつながって行くことが多いとも思えます。 ただ、次の自殺の問題もそうですが、仮に信じなくてもかまわないとしても、宗教的知識自体はあった方がいいとは思います。 人間は、霊魂が肉体に宿った形体であり、死ねば肉体から離脱して霊魂として存続するだけであり、主として善の方に傾けば幸福である、また神仏や天使はいらっしゃる、また、自殺すると死後は通常は苦しみが増す、ということを、あくまで一説として、そういう説もある、という程度でも結構なので、知っているだけでも、余計な苦しみを味わないですむことにつながる、ということはあるからです。 また、特に自殺に関しましては、精神的指標以外にも、 「何に苦悩していて、では具体的にどうしたら自殺しないで生きて行けるか」という具体的方法を一緒になって案出することや、自殺を思い止まった人々の、多種多様な体験解決事例を事例集として出版し、社会的に共有する、といった、具体的な対策も重要だと思います。

noname#99640
質問者

お礼

アドバイス有難うございました。 利他行の実践においては、自らの利を顧みないところに理想の本質があると思われます。 実利を他者に与えるという事は中々出来ない事です。 職業人の技術の世界においても同様で、技術の伝授は宝を与えるのと同じ意味合いを持つものと思われます。 教える馬鹿、教わる馬鹿・・・になってこそ始めて伝わるものです。 無心に教える、無心に教わる・・・ こういった経験を味わう事のできた人は幸せです。 人を信じる事のできる人間になれるからです。 自らを顧みず与える事ほど、偉大なものはないかもしれません。 また、このような心は与えていただいた直接の体験によって触発されるものと思います。 言葉だけではダメです。 そして一度このような心に目覚めてみると 周りの人が神様や仏様のように見えてくるのでしょう。 なぜ今まで気がつかなかったのかと・・・・・ 人を見る目が一変してしまいます。 指標とすべきものは、利他行の実践の中にある。 という有益なものを頂いた感じがいたします。 これならば無宗教の人達にも確かに通じるかと思われます。 正解の一つが見い出せた感じがいたします。 有難うございました。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.4

☆このような道徳的無意識とも超越的無意識とも呼べるものが宗教の信心の有無に関わらず、これからの時代の人々の心の支えになってゆけるかどうか、その可能性についてお聞かせください。 人間が共通に持つ道徳的無意識とも超越的無意識と呼ばれるものは、哲学的、精神分析的表現ですが、わかりやすく言えば人間は、神・仏の性質を有しているということですね。つまり、人間が単なる肉体ロボットではなく神の子・仏の子であることが広く信じられれば、もっと自分を大切にするでしょうし、また自身の無限の可能性も信じることができるでしょう。単なる猿をベースの脳ロボットでなく神の子・仏の子であれば人々の未来も明るくなるのでは。 まあ、仏教では道徳的無意識とも超越的無意識とよばれるものを仏性といいますが、この仏性を信じるだけでも未来が明るくなり世界の争いごとは減っていくでしょうね。人間罪の子思想では未来はくらいよね。

noname#99640
質問者

お礼

ありがとうございます。 回答者の方から、たぶん仏性という言葉が返ってくるとは思っていました。 仏教者の方であれば自然な解釈であり、自然な言葉でもあると思います。 お答えの中に素晴らしい言葉がありますね。 >無限の可能性を信じることができる・・・ 仏性に基いた無限の可能性でしょうか? こう言えるのは、仏性に照らされている事を知っている人だけのようにも思えます。 照らされている事を知っているから、その可能性も信じる事もできるのでしょう。 仏教に正しいご縁を頂いている方は、何の心配も無いと思います。 しかしながら、それ以外の無宗教の人達に、既成の仏教的表現を用いて心の支えなるものを示したとしても、それが受け入れられるのかどうか といった点は大変気になるところです。 また線香臭い話か・・・また坊主の説教か・・・もういいや なんかもっと楽しい話はないのか?・・・できないのかね? などと聞き流されてしまうかもしれませんね(失礼・・ちょっと言い過ぎ・・・) どうにもならない類の人もいますが お釈迦様が諦めずに説かれたように、何とか今の世でも方法があるような感じもします。 どなたか方便を発揮してくださる方はいないのでしょうか? それとも、仏性を信じて、ただじっと待つしか無いのでしょうか? 仏性の芽が出るきっかけ、のようなものをmmkyさんにも期待します。 有難うございました。

回答No.3

自然界の生き物が手本になるでしょう。 自分の好きな自然界の生き物、たとえばすずめとか トンボとか、バッタでもいいでしょう。 その生き物を深く観察すれば その生き物のこころが見えてきます。 言葉を持たない自然界の生き物のこころは あるがままなのです。 言葉を持った人間があるがままのこころを 手に入れることはほとんど不可能です。 しかし、近づくことはできます。 その好きな生き物に学び そこに尊敬の念のような感情が芽生えたら こころはあるがままのこころに近づけたことになります。 無我の境地ではいけません。 自然界の生き物たちは無我よりも 自然にイキイキと生きているのですから。

noname#99640
質問者

お礼

私も自然の生き物が大好きです。 子供のような感じさえします。 羽づくろいをしている雀なんかは可愛いくてどうにもなりません。 よく癒されるとか言いますが 私の場合は、何というのか心が起こされる感じがします。 眠っている心を目覚めさせられるような新鮮な感覚です。 心の指標を自然から学ぶ、学べ、とおっしゃられていますね。 自然から学べる人は幸せだと思います(私も幸せなのだろうか・・・?) 確かに、透明で純粋なもの・・変わりなく崇高なもの・・ そうしたものに近ずく事ができるかもしれませんね。 しかしながら、自然との触れあいも薄い人には、どのようにその心を伝えればよいのでしょう。 普遍的といっても、私などはまだ自然の中にそれらを明らかにするところまではいっていません。 ましてや、具体的な指標とすることなど遠く及ばない感じさえします。 新しい精神的な指標の必要を感じてこの質問をいたしました。 自然からは確かに尽きることの無いヒントが得られるとは思います。 貴重なアドバイスありがとうございました。 失礼な点がありましたらご容赦ください。

noname#100496
noname#100496
回答No.2

マヤ暦では、普遍的な無意識の時代が、2012年から始まると言われています。世界中で、日本人だけが、情緒思考体質なので、普遍的無意識を、理解する事が出来ます。今は、論理思考で行動してますが、何かきっかけがあれば、情緒思考に戻ります。そして普遍的無意識時代の、手本になれます。日本語について説明します。世界中で日本語だけが、言葉の目的が、用件を伝える事と、情緒を発生させて心を癒す事の、相反するふたつの目的があります。情緒と用件は両立しないので、用件が曖昧に成りやすいです。他方、外国語は、用件を伝える目的だけです。だから論理的、合理的に成りやすいです。理由は、発音が、外国語は子音、リズム、アクセントが強いので、脳を自我を刺激して、自己主張、自己表現に適してます。しかし母音が弱いので、情緒が発生しません。他方、日本語の発音は、子音、リズム、アクセントが弱いので、自己表現には、不向きです。しかし母音を強調するので、母音の時に、脳が休み、脳波がアルファ波になり、情緒が発生します。この影響で、日本人は、情緒思考体質になりました。

noname#99640
質問者

お礼

重ねてご回答ありがとうございます。 言葉の重要性は確かなものと思います。 また、言葉以前の発音についても深いものがあるのですね。 発音と意識との関係は、言葉の伝達において大切なものであると感じさせていただきました。 同じ概念でも与える影響が違ってくるのでしょう。 以前にTVで聞いた言葉を思い出しました。 教育に関する内容でしたが、どなたの話だったか残念ながら忘れてしまったのですが、印象に残る言葉でした。 心が正しければ、正しい言葉が出 言葉が正しければ、正しい心になる というものでした。 簡単な言葉ですが、奥は深いようにも思われます。 言葉を大切にしなければいけないという事でしょう。 貴重なヒントを頂きまして有難うございました。

noname#100496
noname#100496
回答No.1

脳の思考を休めたら、人の心が、自然の情緒と交流するので、心が癒され、慈悲の心になれます。脳が思考してる時は、人と自然の情緒との交流を、脳が遮断するのでストレスになります。人の心は、脳の自我と、自然の心である、神の無我が、合体して出来ています。だから本当の自分に、もどるには、脳を休めたらいいです。幸い日本には、脳を休める方法が、たくさんあります。仏教の、瞑想、座禅があります。日本の伝統文化は、脳を休めて、自然の情緒、心の癒しを、目的にしています。雅楽、文楽、能、歌舞伎、落語、茶道、華道、演歌、民謡、日本画、和歌、俳句、など、また世界中で日本語だけ、脳を休めて、心を癒す、情緒思考言語です。外国語は、論理思考言語です。また中国老子は、脳の思考による、人の知恵を否定して、無知を、脳を休ませる事を奨めています。その流れとして太極拳があります。ブッダは、人が瞑想で、脳を休ませ無我になれば、救われると教えています。世界中で日本人だけ、思考行動パターンの基準が、情緒です。外国は、アメリカでも、中国でも、論理思考で、自己表現です。だから日本人は、情緒思考と和風文化に、目覚めたら救われます。そして日本人が、新しい時代の手本になれます。

noname#99640
質問者

お礼

早速のご回答ありがとうございます。 幅広いご見識の中から日本文化の素晴らしさを教えていただきましてありがとうございました。 そこに希望を見出せる可能性もあるかとは思います。 しかしながら、芸術や宗教に縁もゆかりも無い人に対して どのような手本というか精神的な指標を示すべきものなのでしょう。 回答者様のように、既に精神的な指標を得ることのできた人は幸せだと思われます。 しかし、そうした個人的とも思われる指標の内容が より多くの人達に、特に若い無宗教の人達に受け入れられるかどうか、といった点については、失礼ながら疑問の残るところでもあります。 日本文化の底流にあるものの大切さを受け止めさせていただきます。 ありがとうございました。

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