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石井裕之氏は「壁」という本で

石井裕之氏は「壁」という本で 「鯨が存在しないは証明できん」といっていますが 何かが存在しないって本当に証明できないんですか? 確か、5次方程式の解はないと証明されたはず。 ただ、ここは、「できないは 証明できん。できると思ってがんばろう」の方が前向きでいい様な気がしますが・・・   また、こういうのって無理にでもポジっぽい方向で解釈した方がいいのでしょうか?

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回答No.5

ついでにいえば、「1000回続けて成功しても、次も失敗しないということは証明できない。1回でも失敗すれば、失敗するという証明になる」というのと、同じロジックなのだと気づいてもらえたら、そもそも、非存在証明と、ポジティブとかネガティブが本来無関係だと、わかっていただけると思います。

その他の回答 (5)

回答No.6

鯨を持ち出すまでもなく、あらゆる公理系は「不完全= その公理系では否定も肯定もできない公理を含む」か 「矛盾=Aと非Aを同時に導く」かのどちらかであるという 証明がゲーデルによってなされています(不完全性定理)。 そもそも「存在」性自体が、原理的(=絶対確定)に無限不確定= 無に還元される不確定性を、階層現象表面(非決定)的に定性化 する(いい加減=「コップ」という存在はなく、イスと同じ素粒子 の“並び方”の違いに過ぎない)ことによって生じるものならば、 その「証明」は、「矛盾=相補的不確定性」を起こして当然。 「有る」とは「無い」とは分からないことなのです。 5次方程式の代数解は存在しない=5次元時空として自在に 変換できないにしても、4次元時空にプラスされる量子的な 「コンパクト化」や虚数的な「潜在化」として、たとえば 超弦理論では26次元によってこの世界は成っています。 物理や哲学は、その対象の証明ではなく、無への還元=自己 起源の自覚化へのプロセスに過ぎません。 (他人に認められたがったり、人をけなすのに躍起となる滑稽)

回答No.4

だから、この手の話には、「直接的には」という言葉が意図的に省略されているのです。 「1000回やってできなくても、できないとは、『直接的には』証明できない」 これは正しい。 「1回でもできたら、できたという証明になる」 これも正しい。 ただし、 「やってみなくても、『間接的に』失敗するという証明ができることもある」 これも、正しい。 ただ、「間接的な証明」というのを、だまされずに理解できるだけのセンスは必要。

madonna13
質問者

お礼

なんだか、論理力が弱い人がいい意味でひっかかり ポジになるようにしていた感じですね。 論理に詳しい人に返答してもらうことで 筆者の手口が分かったのでよかったです ありがとうございました!!

madonna13
質問者

補足

二回目の回答の6~7行目の 失敗する要素というのは、実際に起きてしまったとしたらですよね? 失敗の要因というのは、想定されている段階と実際に起こった段階がある。 想定だとこれからそれらを避けて、失敗しないようにできる。 しかし、実際に起こったとすると「だから、何をやっても失敗する」 という結論になるのは、納得です。 ま、あくまでこの論法の場合ですが・・・ こんなネガな考えは、嫌ですからね・・・

回答No.3

補足です。 あと、「存在しないということは直接証明できない」ということと、「ネガティブなことは証明できない」というのは、本来関係ありません。 この話は、「失敗するという(ネガティブなことは)証明できないのだから、ポジティブに行こう」という話になっていそうな気がしますが、なにも、存在=ポジティブ、非存在=ネガティブと限るわけでもありません。 そもそも、「失敗する要因はない」という「存在しない小計」、直接的には証明不能なのですから、この論法では、「だから、何をやっても失敗する」という理論になってしまうはずです。 あと、「直接的に証明できない」ということと、「どんな方法でも証明できない」は別のものです。 これは、表裏の関係であって、「鯨がいないということは直接には証明できない」けど、「鯨がいるということは証明可能(釣ってくればいいそうですね)」ということが書かれているそうですが、これを見るだけでも、「直接証明できない(鯨がいない)」ということと、「事実として鯨はいない(存在証明はできるのだから)」ということは関係ないことがわかります。

madonna13
質問者

補足

石井氏は「1000回やってできなくても、それは、できないの証明ではない      できてしまえばできたことの証明になる」という方向で読者を前向きにしていこうとしています。

回答No.2

まず、数学のお話から。 数学の証明で、「存在しない」という証明がなされているものは、存在しないです。 数学の世界では、「存在しない」ということは、「存在すると仮定すると矛盾が発生する」という方法論で証明しますから、これは(厳密には、数学の理論の上では)間違いないことです。 なお、5時方程式の解は存在します。 それどころか、n 次の複素係数方程式は、(重複解をその数だけ数えれば)複素数の範囲で n 個の解を持つというのも証明されています。 証明されているのは、「5次以上の方程式を、四則演算と開平(ルートのこと)だけで算出する一般的な方法はない」ということです。 これも、「そういうものがあれば、矛盾する」ということです。 さて、冒頭の鯨の話は、「悪魔の証明」とも呼ばれているもので、「存在しないということは直接的には証明できない」ということを言っているに過ぎません。 数学の場合、「それが存在すると矛盾が発生する」という形で証明できたのと同じで、間接的には証明可能な場合が多いものです。

madonna13
質問者

お礼

哲学的な観点と  数学的な観点の2方面からの解説ありがとうございました。 特に「悪魔の証明」という呼び名があったことは参考になりました。

  • shubal
  • ベストアンサー率20% (402/1958)
回答No.1

関係ないかもしれませんが、デカルトか誰かが言っていた「われ思う、ゆえにわれ在り」とオーバーラップするのですが。

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