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ほにゃらか形而左右学 COP15
先日、COP15が閉幕しましたが、100ヶ国以上の元首が集まって侃々諤々。閉幕後の評価が、論者によって正反対の評価があったりして、私のような凡人には、一体、何だったのか、さっぱり判りません。 そこで、以上のような事柄を、一般化してみると、 各集団が、各集団を包括している全体的問題に関して、各集団の利害関係を代表した諸個人の合意は、如何にして可能か。 全体会議と称して、叩き台の原案の策定方法すら紛糾したような。如何に各国の選良・賢人とは言え、100人以上では、効率よく話し合うことはできないのでしょうか。こうした、会議とか組織とかの、工学的考察も含めて、われわれ地球人は、如何にして、合意を得ることが可能なのでしょうか。 やっぱり、絶対的外部(つまり神頼み)に頼るしかないのでしょうか。
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環境保護主義を賛美することが当たり前となった国内の情報だと、 今回の紛糾はすごくわかりにくいですよね。TVだけ見てればなんで良いことなのに合意できないの? と感じると思います。ただ、別の視点を持ってみると理解しやすいのではないでしょうか。 まず開催前の事情から。 環境保護に関しては京都議定書という枠組みがありました。ところが今回のCOP15での日本政府は、 『京都議定書と同じ内容なら合意しない』と立場を明確にして国際会議に臨みました。 ここがまず解りにくさの第一点ではないでしょうか。国内では『京都議定書』はすばらしいもの、 として扱われているのにおかしいな?と思われるかもしれません。 実は京都議定書の枠組みはアメリカ以外の先進国のみに (つまりすでにやっているヨーロッパを除けば主に日本に)削減目標を課した、 日本にとってみれば外交的敗北以外の何者でもなかったわけです。これをまず払拭する。 今回の日本の目的はここです。実際に、各国も環境保護に同意することはやむなし、 といった風潮になりつつありました。従来型の会議であれば、何の問題も無かったでしょう。 ところが、開催前に事情が一変します。『クライメートゲート事件』の発生です。 環境保護主義の大元の理論を作るときに科学者達がやりとりしたメールが流出し、 その理論の元となったグラフが、実は一般人に『温暖化が起きていると誤認する』 ように細工されていたものであることが判明してしまいました。 科学、というと動かしようの無い絶対の事実を扱っているように思われるかも知れませんが その実はブレ幅の大きい実測値を"理論に基づいてもっともらしく"見せる技術でもあります。 特に温暖化問題というのは『予測のうちで最も酷い場合』を喧伝し、 最初のシミュレーションから数年経過した後、中央値から大きく下に触れていても 『予測の下限は超えていない』と嘯く、まったく褒めらたものではない不誠実さによって成り立っています。 とはいえ、これは従来の"科学的な態度"と何ら変わるものではなく、温暖化を主張する 科学者にとっては何が問題なの?という反応がほとんどであったようにも思えます。 ですが、このあたりの感覚は、やはり科学者特有のものかもしれません。 会議は最後まで紛糾し、さらには開催国側が『合意によって作られるはずの文章』 をすでに作っていたことまで判明。 科学者以外にとっては、やはり何よりその不誠実さが大問題であるのです。 結局、従来型の全会一致方式を取ることはできず、 新たな温暖化対策に合意する国のみで『対策に留意する』という 一番最低の強制力の言葉での採択となりました。 後に、史上最低の国際会議と呼ばれ・・・るかどうかは、やはり ここ2~3ヶ月のうち発表される合意国による独自対策の声明によるでしょう。 温暖化が本当かどうか。これはひとまず置いておくとして、 (ぶっちゃけ私はこの件に関してキチガイ扱いされる側・つまり懐疑派なんですが) 以下は質問の、様々な意見がある中で、如何にして合意を得るか。 そのプロセスについての話に絞ります。 そもそも会議とはいかにあるべきか。 一般的な認識では、賛否両論を持ち寄り、議論を尽くした上でその正当性を確認するという プロセスとされているかと思います。 しかしながら、こういった『ブレーンストーミング型(知識の交流から何かを生み出す)』 の会議は、特に時間が限られた国際会議のような場ではふさわしくない、ということが 今回、判明してしまいました。 では、日本古来の会議の形、つまりネマワシをすればよいか?これも違います。 これ以上、会議を儀式化することは、それこそ各国代表があつまるという壮大なムダを 何度も繰り返すことになりかねません。 日本のビジネス界からは最近流行のToDo(すべきこと)を明らかにする、あるいは PDCAサイクル(計画・実行・チェック・修正)を確立するという解答が出てくるかもしれません。 もちろんこれはそれなりに支持を得られる考え方だと思います。 ですが、今回のCOP15という最低の会議は、全く別の、最高となり得る解答の形を示したのです。 つまり、全会一致である必要は全く無い、というもの。 提案されたアイデアを合意した人間のみで行えばよいのです。 開き直りかよ!とツッコミが入りそうですが、全くその通り。開き直ればすべて解決します。 平等な負担、といっても、その平等の意味は考える人によって違うのです。 万人に共通する平等というものは、概念としてはあっても、その合意を強制することは 決して出来ない。まして持ち寄った情報が嘘・・・とはいえないまでも、作為が多いものであれば 合意を得るための最大の障害、『不信感』が生じてしまいます。 この提出した情報の不誠実さの代償を、すべての参加者に負わせるのは、もはや道理として通りません。 情報の提供者とそれに同意した人間達に責任を持たせることで、誠実な会議は実現できるのかもしれません。 ここで初めて、単に目立つことを目的としたセンセーショナルな、そして実現不可能な パフォーマンス的なアイデアを廃し、ようやく"自分が出来うる範囲での実現可能な協力" を話し合うことが可能となるのです。 まぁでも私はそれでもCo2削減反対だけどね。キチガイでごめんなさい。
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私もCOP15の評価はちんぷんかんぷんです。 しかし、こういう難しい議論というのは、成果とは無関係に参加プレイヤーの政略調略的力量を白昼のもとにさらします。 そして、さらされることにより序列の再編が起き、必然的にリーダー格同士の話し合いにより調整されると思います。
お礼
あら、意外に楽観的ですね。 経済的な連合で、プラスサム、お互いに利益を上げましょうという、舞台の上での合意と、環境的な連合で、マイナスサム、つまり、どこかが損をするのではないのかと、疑心暗鬼名状態での合意とは、同じものではなく、結構悲観的な見方になりそうな気もするのですが。 そうだと良いですね、有難うございました。
- mashumaro2
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こんにちは。 >如何にして、合意を得ることが可能なのでしょうか。 合意を「得る」というからには、新しく生み出す(生み出された)ものを「得る」、もしくは誰かが「失い」それを「得る」のどちらかであるはずです。 日本人なら周知であろう、聖徳太子の十七条憲法「一に曰く、和(やわらぎ)を以(もち)て貴(たふと)しと為し(なし)、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。」の「和」。 これに私たちは多少引き摺られ、いとも簡単に「和を為せる」と思うフシがあるのかもしれませんね。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%83%E6%9D%A1%E6%86%B2%E6%B3%95 一方、日本以外の国々では、一体「和」「合意」をどのように捉えているのでしょうね。 まあ、それはともかく、たとえば言語的にはどうでしょう。 通常日本語では「私は意見を持つ。」というより「私は思う。」と表現をかなり目にするのではないでしょうか。 「意見」「私見」を「持つ」というよりも。 「ある」「抱く」というやや婉曲な言い回しを積極的に用いているように映ります(もちろん「考える」という表現もありますね)。 一方、英語、フランス語などではどうでしょう。 have, avoirといった「持つ」というニュアンスの動詞を用いた「意見」にまつわる表現は、ごくごく自然に用いられているようです。 I have my reasons.「私なりにわけがあるのだ。」 I'm sorry, but I have a different opinion.「すみませんが、私の意見とは違う。」 Vous avez raison.「あなたは正しい。」 J'ai eu une bonne idee.「良い考えが浮かんだ。」 なにぶん素人考えにつきご容赦を、と申し上げた上で、 合意を得るという崇高な理念とは、実際には容易に実現しがたいものであり、賢人云々にかかわらず、世界規模の会合では温度差が生じて当然とも言えるでしょう。 人は自分と同一性の意見を「守る」ために主張し、より合理的な話し合いを行うのです。 双方において鼻から自分の意見を変えようと心積もりをするとか、相手の意見が容易に変わるであろうことなど、本来は期待していないはず。 それは自分と同一性の意見を「持つ(持っている)」、すなわち、それ自体をも少なからず「失う」恐れを孕むことを意味するからです。 その話し合いの深刻さ、死活問題の度合いが増せば増す程に、論議は混迷を深めるはずです。 そしてこの当たり前とも言える前提のもと、諸個人(各集団の代表者)が最善の「落としどころ」を見出す類のものではないでしょうか。 >われわれ地球人は、如何にして、合意を得ることが可能なのでしょうか。 環境問題だけでなく、捕鯨や軍縮等において一事が万事、 他に先んじる、或いはより多くを所有するといった利害関係というものは、全て経済的な枠組みの範疇で複雑にビジネスに絡んでいるという現状を弁えた上で、 >やっぱり、絶対的外部(つまり神頼み)に頼るしかないのでしょうか。 他人(他国)が「持つ」ことに対し、羨望を抱き平等を望むということ、これすらも生存をかけた自己保身の一つの形でありましょう。 ですが全人類が平等に「持つ」ことなど、到底不可能に近いはずです。 「持つ者、持たざる者」の現実の差を直視すれば、経済至上主義から脱却し、神頼みならぬ「新しい理念」が求められてしかるべきかと思います。 ですが、やはり、 「持てる者、持てる側、余裕のある者」からの「積極的な働きかけや創意工夫」というものが≪人としてあるべき≫ではないかな、というのが拙い私の持論です。
お礼
ユニークな視点からのご回答に感心する次第ですが、此処では、微妙な違いを明らかにするために、些細な違いを問題とする点をお許し下さい。それらの点を明らかにすることで、考察が深化することを期待してのことであり、ご理解が頂ければ、つまり合意の可能性の実験とでもご笑納頂けると、幸いです。 >諸個人(各集団の代表者)が最善の「落としどころ」を見出す類のものではないでしょうか。 此処で私が強調したいことは、諸個人と代表の違いに関してです。例えば、具体的にデーターの調整に関しても、温暖化を防止するグループの代表として、誰にでも理解しやすいような資料を提供することは、代表としての行為としては、理解できる範囲のことです。そして、その代表は、実は別のところで(例えば資産の運用に関して)金融工学の振興を図るグループの代表者が作る、誰にでもわかる、わかりやすいデーターを信頼して、個人として投資行為を行っている、と言う点です。つまり、既に、知識に関しても分業が一般化して、すぐ隣接した学業に関しても、双方が全く理解しあえないように専門化した現状では、代表としての合意と、諸個人としての合意には、階層的な次元で、或いは社会力学的次元で、違いがあるのであり、その違いの構造を明らかにする、と。 >「持てる者、持てる側、余裕のある者」からの「積極的な働きかけや創意工夫」というものが≪人としてあるべき≫ではないかな、 博愛の精神と言うのでしょうか、こういうのは美しくて、一見、非の打ち所のないものなのですが、例えば、現実の格差問題を取り上げて見ると、貧困は個人の努力不足と説明されるわけです、しかし、個人の努力不足ではなく、社会を常に再生産する社会的力が、貧困の原因とすれば(実際問題としてこの傾向が増していると思いますが)貧困は社会的な被害者であることになります。この点を極論すると、運悪く、運悪くですよ、運悪く障害をもって生まれた人が、施しを頼るしかないとすれば、恐らく彼等は怒ると思うのです。 我ながら、下手なお礼ですが、お互いに、よく考えること、考えたことを簡潔に表現できること、等々を楽しめることができれば、幸いです。有難うございました。
質問者様、すいません。これで最後にします。#2です。 #1さん。 >少なくともそれが科学的に正しいと"言うことが出来る"ことは理解しています。 という事であれば、私は何も言う事はありません。どんな事でも、「それが、何々の意味で正しいと言うことが出来る」が、精一杯だからです。マイケル・マンのグラフについてもそうです。 ただ、私のような奴らがいる一方で、あなたのような人達もいる・・・。そこがわかりにくい処だと思います。温暖化については、紛糾するわけです。
- wiz0621
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No.1です。 長々と主題からずれた議論をするつもりはないので、念のため一度だけ態度を明らかにします。 今回の件で、もちろんグラフの正誤について論じているわけではないのです。 少なくともそれが科学的に正しいと"言うことが出来る"ことは理解しています。 視覚操作部分とされる1950年以降の"気温低下"の説明なんて、温暖化議論の 一番初めの部分ですしね。 要するに今回のCOP15で紛糾した内容は、 第二次報告から第三次報告の間に、起こり得る被害の度合いが修正された時の議論と 同種のものなんです。温暖化問題の初期には最初に人間の住む街が沈む映像を見せつけた挙句、 その後に沈まないことが明らかになったときに、 とりうる誠実な態度というのは社会的にその明らかになった部分を知らしめることなんです。 しかしそれを行わなかったですよね。 今回の問題のクライメートゲートにしても、そこに生じた疑念は同様なんです。 今までにその視覚的操作の部分が度々指摘されていたのに、そういった議論は 報道すらされない。論じるべきではない、とする自称学者すら居るのが現状です。 もちろんそれが科学者の仕事ではない、科学者の仕事は報告書の訂正までだというのならば それまでの話なのです。ただ、温暖化の宣伝には熱心なのに、情報の訂正にはその情熱が急に失われる。これは何故か。 もし、訂正が科学的に正しいというのならば。繰り返しになりますが、その初期の条件から 変わったということを同等以上の熱心さで、もっと大々的に周知することこそが、 情報に対する真摯な態度であると思うのです。第一次~二次報告に基づいた明らかな誤謬を 放置することではなく。
>われわれ地球人は、如何にして、合意を得ることが可能なのでしょうか。 という質問の趣旨とは、はずれた応えです。すいません。自分は態度をはっきりさせたいので、名指しで行きます。 [クライメートゲート事件] >最初のシミュレーションから数年経過した後、中央値から大きく下に触れていても、『予測の下限は超えていない』と嘯く、まったく褒めらたものではない不誠実さによって成り立っています。 #1さん、違います。それこそが誠実です。だからこそシミュレーション結果(中央値)に対する、予想可能な最大誤差範囲『予測の上下限』を付けます。『予測の下限は超えていない』からこそ、『予測の上限に達する可能性は否定できない』と警告します。 次に、クライメートゲート事件の中でも、とりわけマイケル・マンの気温変動グラフの事を言っているなら、あれはシミュレーションなどではありません。観測結果です。1000年~1980年付近までの間接観測と、1900年以降の温度計による実測とを、「重ねて」示したものです。もし温度計による実測を重ねる事が「まったく褒めらたものではない不誠実」と言うなら、一番確実な実測データを使わない事こそ「許し難い不誠実」だと、自分は言い切ります。当たり前の話だと思います。 添付画像に、マイケル・マンのグラフを揚げます。これは、公開資料で出典も明記しますので、無断転載ではありません。 出典:IPCC第3次評価報告書 第1作業部会政策決定者向け要約(気象庁訳)より. マイケル・マンのグラフには、間接観測の『予想可能な上下限』が明記されています。図の灰色部分です。さらに間接観測の方法,精度も、出典であるIPCC第3次評価報告書(気象庁訳)には、明記されているはずです。 マイケル・マンの図が問題なのは、実測記録(赤線)が、『過去の間接観測の予想上限値(灰色部分の最大値)を越えている』ことです。そして灰色の帯の主要部分を、大きく越えている事です。 さらに注目すべきは、1600年以降、間接観測の『予想可能な上下限』の幅はしだいに小さくなり、1900年以降、間接観測の変動幅(灰色)と実測(赤)の変動幅は、そんなに違わない事です。これは間接観測の観測精度が上がったためです。という事は、少なくとも1900年以降、間接観測の結果と実測は、概ね一致していると見る事も出来ます。 1900年以前の間接観測の最大予想値(最大誤差)は、現在の間接観測の最大誤差より大きいと思えるのに、それすら実測が上回ってしまった。これが、マイケル・マンのグラフの意味だと思います。 どうでしょう?。科学者にしかわからないような、難解な話ですか?。詐欺ですか?。グラフを見る眼球と、文字さえ読めれば、誰でもわかる事と、自分には思えます。 クライメートゲート事件については、自分なりの意見を持っていますが、ここでは控えます。また、次のリンクは、非常に公平な評価と思えます。 http://eco.nikkei.co.jp/column/emori_seita/article.aspx?id=MMECza000024112009&page=1
お礼
質問の趣旨に外れた、ご回答を頂きまして、有難うございます。 科学とか統計の難しい話は、チンプンカンプンで、さっぱり分からないのですが、常々、グラフと言うものは、眼球と文字さえ読めれば、理解できるとは、思ってはいないんですけど。 例えば、メモリの取り方、X軸・Y軸のメモリはどのような規準で整合的になるのか、機会があれば聞いて見たいものです、多分、聞かないでしょうが。 それに、実数と偏差値によって、グラフのイメージは、大きく変わりますよね、その辺りやはり数学の知識がないと、グラフから意味を読み取るのは、才能がいると思うんですけど、慣れている人には、当たり前すぎるんでしょうね。 さて、ご紹介頂いた、ページを、さらりと読んでみました。このページは、明らかに、懐疑論(環境に関する)を批判する立場ですね、これを公平と表現するのは、恐らく現実的に多数派と言う意味でお使いのことと思いますが、ただ、通読すると、海面の上昇と、地球の温暖化は、必要十分条件ではないように、読めてしまいましたが、地球の温暖化は、温暖化が問題なのか、海面の上昇が問題なのか、その辺り気になりましたが、まぁ質問の趣旨に外れますから、流しておいてください。 事のついでに、質問の趣旨に関しても、コメント頂ければ、もっと有り難かったですね。 参考にさせて頂きます、有難うございました。
お礼
ほ~ぉ、COP15は、色々有ったようですね、京都議定書の評価も、そのような見方があることは知りませんでした。尤も、環境問題がこの質問のテーマでは無いですから、あまり詳しくは立ち入りませんが、事実の共有が、参加各国の間で成立していなかったようですね。この質問の、導入にCOP15を使用したのは、問題点として、地球温暖化の原因が、先進国にあるから、先進国が義務を持って、後進国には義務はないのか、と言った点の対立から、議論の合意の可能性のに関して考察を加えて見たかったのですが。例えとしては、複雑すぎて、焦点が曖昧になったようですね。 さて、問題のプロセスの件なんですが、ご回答のようなモデルとは、微妙に違うのではないだろうか、と言うような質問の意図があったのですが、判りにくいですよね。私も、回答者様同様、キチガイの一種でしょうか。 例えば、貿易振興の会議とか、世界金融に関する会議とかは、そもそも、貿易を振興する手段、金融を安定させる手段、つまり、ほとんどの場合(キチガイを除いて)それによって各国が利益を得ると言う前提があって、合意が成立するわけですね。ビジネスモデルも同様に、手段に関する試行錯誤であって、原理的には市場経済競争と同じなのではと、考えている、キチガイですね。 あと、 間接民主主義における、集団の利益を代表する個人が、集団の利益に反する合意を認めることができるのか。 この辺りに関しても、コメント頂けると、もっと有り難かったですね。 参考にさせて頂きます、有難うございました。