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ほにゃらか形而左右学 COP15
先日、COP15が閉幕しましたが、100ヶ国以上の元首が集まって侃々諤々。閉幕後の評価が、論者によって正反対の評価があったりして、私のような凡人には、一体、何だったのか、さっぱり判りません。 そこで、以上のような事柄を、一般化してみると、 各集団が、各集団を包括している全体的問題に関して、各集団の利害関係を代表した諸個人の合意は、如何にして可能か。 全体会議と称して、叩き台の原案の策定方法すら紛糾したような。如何に各国の選良・賢人とは言え、100人以上では、効率よく話し合うことはできないのでしょうか。こうした、会議とか組織とかの、工学的考察も含めて、われわれ地球人は、如何にして、合意を得ることが可能なのでしょうか。 やっぱり、絶対的外部(つまり神頼み)に頼るしかないのでしょうか。
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環境保護主義を賛美することが当たり前となった国内の情報だと、 今回の紛糾はすごくわかりにくいですよね。TVだけ見てればなんで良いことなのに合意できないの? と感じると思います。ただ、別の視点を持ってみると理解しやすいのではないでしょうか。 まず開催前の事情から。 環境保護に関しては京都議定書という枠組みがありました。ところが今回のCOP15での日本政府は、 『京都議定書と同じ内容なら合意しない』と立場を明確にして国際会議に臨みました。 ここがまず解りにくさの第一点ではないでしょうか。国内では『京都議定書』はすばらしいもの、 として扱われているのにおかしいな?と思われるかもしれません。 実は京都議定書の枠組みはアメリカ以外の先進国のみに (つまりすでにやっているヨーロッパを除けば主に日本に)削減目標を課した、 日本にとってみれば外交的敗北以外の何者でもなかったわけです。これをまず払拭する。 今回の日本の目的はここです。実際に、各国も環境保護に同意することはやむなし、 といった風潮になりつつありました。従来型の会議であれば、何の問題も無かったでしょう。 ところが、開催前に事情が一変します。『クライメートゲート事件』の発生です。 環境保護主義の大元の理論を作るときに科学者達がやりとりしたメールが流出し、 その理論の元となったグラフが、実は一般人に『温暖化が起きていると誤認する』 ように細工されていたものであることが判明してしまいました。 科学、というと動かしようの無い絶対の事実を扱っているように思われるかも知れませんが その実はブレ幅の大きい実測値を"理論に基づいてもっともらしく"見せる技術でもあります。 特に温暖化問題というのは『予測のうちで最も酷い場合』を喧伝し、 最初のシミュレーションから数年経過した後、中央値から大きく下に触れていても 『予測の下限は超えていない』と嘯く、まったく褒めらたものではない不誠実さによって成り立っています。 とはいえ、これは従来の"科学的な態度"と何ら変わるものではなく、温暖化を主張する 科学者にとっては何が問題なの?という反応がほとんどであったようにも思えます。 ですが、このあたりの感覚は、やはり科学者特有のものかもしれません。 会議は最後まで紛糾し、さらには開催国側が『合意によって作られるはずの文章』 をすでに作っていたことまで判明。 科学者以外にとっては、やはり何よりその不誠実さが大問題であるのです。 結局、従来型の全会一致方式を取ることはできず、 新たな温暖化対策に合意する国のみで『対策に留意する』という 一番最低の強制力の言葉での採択となりました。 後に、史上最低の国際会議と呼ばれ・・・るかどうかは、やはり ここ2~3ヶ月のうち発表される合意国による独自対策の声明によるでしょう。 温暖化が本当かどうか。これはひとまず置いておくとして、 (ぶっちゃけ私はこの件に関してキチガイ扱いされる側・つまり懐疑派なんですが) 以下は質問の、様々な意見がある中で、如何にして合意を得るか。 そのプロセスについての話に絞ります。 そもそも会議とはいかにあるべきか。 一般的な認識では、賛否両論を持ち寄り、議論を尽くした上でその正当性を確認するという プロセスとされているかと思います。 しかしながら、こういった『ブレーンストーミング型(知識の交流から何かを生み出す)』 の会議は、特に時間が限られた国際会議のような場ではふさわしくない、ということが 今回、判明してしまいました。 では、日本古来の会議の形、つまりネマワシをすればよいか?これも違います。 これ以上、会議を儀式化することは、それこそ各国代表があつまるという壮大なムダを 何度も繰り返すことになりかねません。 日本のビジネス界からは最近流行のToDo(すべきこと)を明らかにする、あるいは PDCAサイクル(計画・実行・チェック・修正)を確立するという解答が出てくるかもしれません。 もちろんこれはそれなりに支持を得られる考え方だと思います。 ですが、今回のCOP15という最低の会議は、全く別の、最高となり得る解答の形を示したのです。 つまり、全会一致である必要は全く無い、というもの。 提案されたアイデアを合意した人間のみで行えばよいのです。 開き直りかよ!とツッコミが入りそうですが、全くその通り。開き直ればすべて解決します。 平等な負担、といっても、その平等の意味は考える人によって違うのです。 万人に共通する平等というものは、概念としてはあっても、その合意を強制することは 決して出来ない。まして持ち寄った情報が嘘・・・とはいえないまでも、作為が多いものであれば 合意を得るための最大の障害、『不信感』が生じてしまいます。 この提出した情報の不誠実さの代償を、すべての参加者に負わせるのは、もはや道理として通りません。 情報の提供者とそれに同意した人間達に責任を持たせることで、誠実な会議は実現できるのかもしれません。 ここで初めて、単に目立つことを目的としたセンセーショナルな、そして実現不可能な パフォーマンス的なアイデアを廃し、ようやく"自分が出来うる範囲での実現可能な協力" を話し合うことが可能となるのです。 まぁでも私はそれでもCo2削減反対だけどね。キチガイでごめんなさい。
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- 来生 自然(@k_jinen)
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No.7です >>> No.7 お礼欄 タイムマシンですか、これは、事実の共有が出来ると言う意味でしょうか。 <<< もっとはっきり言えば、「温暖化したとしても寒冷化したとしても、その時になったら分かる」という意味です。 したがって、 >>> しかし、タイムマシンに乗って、未来を見てきた人が、本当の事を言っていると、いかにして証明するのでしょうね、やっぱり、1000人ぐらいの人が行って、見てきたことが全て一致することでしょうか。 ちょっとメモリを間違えて、1000年ばかり狂ったら、全然一致しなかったりして。 <<< といったレベルではなく、「全人類が地球ごと」未来から過去へと訴えようとする情況を念頭に置いています。 >>> ところで、肝心なのは、個人と代表の合意に社会構造的に違いが有るかどうかなんですが。 <<< ボトムアップ的選出であっても、トップダウン的決定であっても、民衆の代表として立つ側(以下、代表側)が為政に関わるとき、それが適応される共同体全体(代表側+民衆側)との繋がりを継続しつつも、意志決定時には、民衆側から、ある意味分断されざるを得ない代表側。。。 (すでに、幾人かの方々が指摘されている様ですが)そのような「繋がり合いつつ、分断される」構造は、「代表と民衆」といった二分法的ではなく、たとえば「代表と代表団と専門家主任と専門家集団と啓蒙家と教師と親と子と・・・」といった具合に(垂直的に)幾層にも渡り、かつ「政治的、法律的、技術的、経済的、歴史的、感情的、理念的・・・」といったような、(水平的に)複数の並列する概念・分野にまたがって、複雑に織りなされていることでしょう。。。それらは動的に変容していくものでしょう。。。 無論、対象となる問題の規模と複雑さとが関連することになるのは当然のことですが。。。 さて、今回は、対象となる問題が地球「全体」の問題であるという観点からいえば、まずは(全体から切り離されない人々という認識の下で)方向性が揃うことが第一義的であり、(様々な情勢があるゆえ)足並みが揃わないのは当たり前だという認識からスタートすべきだと思います。無論、時間的な問題も念頭に置かねばならないでしょうが。。。 >>> 「問題なのは、この支配者をどこからつれてくるかということだ。人間は仲間の人類のうちに、この支配者を探すしかないのである。しかしこの支配者となるべき人物も、もともとは一人の支配者を必要とするいき物にすぎない。だからどうしてみたところで、公的な正義を具現する元首、正義そのものであるような元首をみつけることはできないのだ。人間はこうした支配者として一人の個人を探すかもしれないし、正義のために選ばれた人物の集まりを支配者としようとするかもしれない。しかしどちらにしても同じことである。法律にしたがって権力を行使する支配者がさらに上にいなければ、だれもが自分の自由を濫用するに決まっているからである。だから最高位に立つ元首は、みずからが正義の人物であり、同時に人間でなければならないのである。」 (『啓蒙とは何か』カント 中山元訳) <<< については、「?」ですね。。。 特に >>> 法律にしたがって権力を行使する支配者がさらに上にいなければ、だれもが自分の自由を濫用するに決まっているからである。 <<< での、「決まっている」という断定を下す辺りは。。。 私なら、 === 問題なのは、この代表者をどこからつれてくるかということではなく、代表者との関係がどのようにあるかであろう。相互に影響を及ぼし合う関係が前提としてあって、その関係が断絶し孤立していたなら、だれもが自分の意志をどのように決定すべきか(自由すぎて)迷うからである。だから代表者は、みずからが共同体を代表する者であり、同時に孤立した情況をも想定されうる人間でなければならないのである。 === とします。 ※「複数にして単数の存在」、ジャン=リュック・ナンシー著、加藤恵介訳、松籟社、p.73-74 >>>【存在】は、区別なく、【かつ】区別された仕方で、同時に単数かつ複数である。(中略)実存するものは、それが何であれ、実存するがゆえに共-実存する。実存することの共-含意とは、一つの世界の分有である。一つの世界とは実存に外在的な何ものでもなく、他の諸実存の外からの付加でもない。世界とは、それらの実存を一緒に配置する共-実存である。(中略)それゆえ、最初の審級において存在があり、次いで <共に> の付加があるのではなく、存在の核心に <共に> があるのである。 <<<
お礼
あけましておめでとうございます。 思考実験 代表者とは、人間でないとまずいでしょうか。例えば、構成員と直接端末で繋がっているコンピュータとか
補足
御礼が遅くなりました。 新年を祝う、爆竹や、人々のざわめきも収まり、鐘の音を聞きながら、書いています。 なんと申しましょうか、痒いところに手が届かないような、じれったさを感じて、何度もお礼を書き直したのですが、御回答の内容に合わせるよりは、率直に感想を書き込んでしまったほうが、かえって質問文の未熟な点もはっきり出来て、結果的には、良い方向に行くような気がします。 さて、一番の問題点は、代表同士の合意の点です。 これは、具体的には、日本で例えると、普天間の移設問題、この問題の内容ではなく、一旦合意したと言う形式のことです。内容に関しては、環境の問題同様、一説関係有りません。政権が変わったから、当然だ、という見方もありますし、この話は、二国間の条約ですから、相手方さえ納得すれば、すむことでしょう。 しかし、日本だけではありません、米国は環境問題に関して、クリントン政権・ブッシュ政権・オバマ政権と政権が変わるたびに、態度を変えています。 つまり、代表者が一旦合意したことを、政権の変更によって、あっさり反故にされる、このような合意のことを、一体どういう言葉を使って表現したらよいのかと。 もう一点の問題点(痒いところ)は、組織について、 代表者と構成員という一般的表現にしておきます。確かに多くの方が仰るように、二分法による断絶は良くありません、しかし、カテゴリー毎に組織したり、レベル毎に組織することによって、断絶がなくなる根拠はどこにあるのでしょうか。とはいえ、私自身も、二分法ではない組織の方が有機的な?がりの可能性があると思っています。自分でもそう思っているのですが、なぜそうなるのか、組織を細かくしても、断絶が細かくなるだけで、今度は分断された個々の点をどう乗り越えるのか、という問題が出てくると思うのです。 私が、組織を細かくした方が良いと思う理由は、諸個人の理性の限界、知識の分有(心臓移植のナンシーです)傾向性の存在、と言った人間の特性から導かれるものなのです。で、そこに、カントのアプリオ、難問が出てくるわけです。つまり、人間が限界を持っているにもかかわらず、人間の中から代表者を選ばなければならないと。 この事に関して、恐らく多くの人は、無意識のうちに、知識に優れ徳のある人が何時かはでて来るんだと期待していると思うのです、例えば越境もそうした意味合いが込められていないでしょうか、私も期待したいです、しかし、聖人君子は物語の中にしか、出て来ません。 そろそろ、文字制限に引っかかりますね。 編集しなおしてもよいのですが、除夜の鐘の音も、聞こえなくなったことだし、最後に、一つの思考実験を提案して、お礼とさせていただきます。 なお、上記文章は、文字制限を越えるはずですから、補足欄に投稿して、思考実験は、お礼の欄に呈示させていただきます。
社会学者の宮台氏がよく言及する、政策的な能力と政局的な能力という切り口で考えてみましょう。 敢えて環境問題の合意内容というのは政策的と言えるならば、合意に至るまでのプロセスとメンテナンスは政局的と言えるでしょう。 別の言い方で表現すれば、政局的能力で維持された基盤の上に政策的なものが乗っているともいえます。小沢一郎的なるものを基盤抜きには民主党の政策ができないのと同じです。 そうであるならば政策的なものよりも政局的なもの、合意よりもプロセスを競う会議によりなれば、環境における擬似冷戦体制を構築でき、結果として合意も進むと思います。 >いったい、代表は、何を代表しているのか、そして、それゆえ、代表同士の合意は可能なのかと。 その国の政治・外交・謀略的力量を代表しているのではないかと思います。そして、力量が劣ると看做されればバトルロワイヤルの如く叩き出されることの繰り返しにより合意に至るのでは? ちなみに鳩山首相はいい仕事をしましたがCOP15自体の目に見える成果がなかったので評価されていません。 国際舞台での政局的なものを評価し応援する仕組みが無い日本は早々に叩き出されるでしょう。
お礼
政策と政局ですか、面白い切り口ですね。 ふぅ~む、なんだ~最初から合意に至るめんどくさい説明・説得を省いて、ひたすら多数派工作ですか。 鯨の時に日本が失敗した方法じゃあなかったでしょうか。 バトルロワイヤルで追い出したとしても、それは合意による解決では有りませんから、一種の停戦条約ですね、そうすると、反撃の機会を狙う相手との、永久の冷戦状態、時々開戦、また停戦、のいたちごっこ。 これが人間の未来のようですね。 あれ~理性はどこへ、有難うございました。
- VenusAurea
- ベストアンサー率33% (5/15)
今、No.13さまの御意見も拝見しましたけど、温暖化についての問題などは、ほんとうに紛糾しやすいみたいですね。私、あまりよく分かってなかったので、今さらですけど、ちょっと驚きました。。 さてと、ある種の独特な文章感覚でいらっしゃるのか、正直言って、たしかに、分かりにくいですよ。言い訳したいわけじゃないですが、それもあって、どーせ、またまた誤解してしまってるのかもしれませんが、先に御容赦願っておきますね。 >社会的な力に関して、それを悪ではなく、善に向ける構図は無いものか あくまで局所的視野内においてと、より高次の視野レベルとでは、「善と悪の構図」が簡単に引っくり返るなんてことは、いくらもありそうですよね。 >個人と集団の代表によって、合意の条件にどのような変化があるのか、或いは無いのか 「個人と代表の違い」からではなくて、「個人と代表の共有事項」にこそ左右されるのでしょうね、実際。 個人と社会の関係って、切っても切れない相互依存的ですから、区別が難しいのは、もちろんそうでしょうけれど つけていただいたオマケのぺたを見たって、基本的に、個人の資質を不問に付せるものではないじゃないですか。だけど、そのへんの見極めからしてが、なかなか困難ではありますので、 会議における合意とか集団における合意が、より高次のレベルを視野にして、良き方向性を目指してなされるべきである、その観点によって、どのように構造、或いは組織を構築されていくべきなのか、ということになるでしょう。つまり、 >個人が社会の構造によって、ある程度規定されるのならば、いや、個人の意志より社会の構造が強力になってきた現在では、社会の構造を如何にするべきなのか、 むしろ、この「規定の力」を利用すればいいのではないですか。いや、実際、されているはずですし、では、どのように「規定づけて」いくのか望ましい社会構造を構築するべし、こういうことになるでしょう。そりゃあ、そこが、これまた難しいわけでなんでしょうけど。 >独裁体制のもとでの個人の責任 と言いますと、まずはナチスあたりを連想しますが、 >たんに敗れたにすぎない のは何故か、という総括は是非とも必要でしょうね。そこで、反省も出てくるでしょう。 >体制に心からしたがった人は誰もいないとか、少なくも裁かれる犯罪計画に心からしたがった人は誰もいないと主張されるようになったからです。これは嘘でしたが、困ったことに、単純な嘘でもなかったし、まったくの嘘と言うわけでもなかった 心から従ったのでないとあれば、何ものが、従わせたのであるか、 いくぶんかは、心から従ったのでもあるならば、何ゆえだったのか、そこにメスを入れなくてはならない。 ところで、ここが目についてましたが >疑心暗鬼状態になるプロセスまで突っ込んだ解説を聞いたことはない これ考えると、まさにヤバいのでは?と思います。 これからの時代課題として、やはり、「学際的研究」の重要さが増しているということは非常に大きいと思います。 学問分野に限らず、「お隣さん」を的確に知ることの大事さということじゃないでしょうか。 それも、相手の弱みを掴むためで、自分は決して懐手を出さないぞ、ということでは、かえって大いにマズいことでしょうけども。 障害などを始め、種々のハンデを抱えている人への支援システム、 誰かは失ったものが誰かは得るというのであれば、得た者は与える側にまわる、 合意にガマンはつきものであれば、不公平は必ずや糾弾されるべきはずですから、透明性の高いシステム構築をやることで、すぐに限界が来そうな個人の資質に頼りきらなくて済むようにしなきゃいけないのかなと思います。 大雑把で申し訳ないですけど、とりあえず、こんなとこ。
お礼
なかなか難しいですね。 各集団が、各集団を包括している全体的問題に関して、各集団の利害関係を代表した諸個人の合意は、如何にして可能か。 これは、簡単にいぅと、世界中の国が合意できる可能性のある、事柄とはどんな条件があるのか。 但し、国に限定すると、国内問題とか地域問題が欠落するため、上のような、解り辛い表現にしてしまったのですが、その辺りで、ご迷惑をかけているようで、書き方を改めて見ます。 1)個人と集団の代表との関係 これは集団によってさまざまでしょうが、代表は構成員の利益を代表している、諸個人の合意によって代表が決まる。 2)集団の代表と他集団の代表の関係 これは、集団の代表の集団、例えば、市長会・知事会等々ですが、さらには二国間の条約、地域間の自由貿易連合、等々。これも、当該、構成集団の利益を代表して、構成集団の代表によって合意がなされる。 3)集団の代表と他集団の代表の関係II この代表の集団の上位に、何者の上位者がいない、同時に外部もない。こういう集団が、国連のようなものですね。問題のCOP15も、ある意味でこの範疇に入るかと。 そして、問題の要点は、1)も2)共通の利益と言う立場で集まることが、理論的には可能です。ですからこのレベルでは、共通の利益に向って、どんな手段をとるべきかと言うことの合意は比較的には容易であると言えるのではないでしょうか。1)も2)それなりに十分複雑で、そう簡単には言えないかもしれませんが、3)のレベルとは、違いが有るのではないのか、と言ったことです。 ですから、質問の構造が複雑な上、中心問題は、3)の状態が、1)2)違っていることを前提とし3)の立場からの考察を求めているわけですね。1)と2)も3)と同じとして回答されると、話が噛み合いません。 カントのコピペは、カントの文章の真意と外れて、こうした構造の説明のつもりでしたが、上手く伝わらなかったようで、言葉は難しいですね。 そこで、改めて、ご回答を拝見すると、1)2)の問題に重点がおかれている様に感じます。 ところで、3)を意識されて、御回答されたとしますと、もう一度考え直さなければなりません、実際のところどうなんでしょうか。それに、どの辺りが分かりにくかったのか、ご指摘も頂けると幸いですが。
#2,#4です。今度は、関係ない話ばかりは書かないので、もう一度許して下さい。 #10さん、私はあなたの意見に賛成なので、便乗させて下さい。 合意や妥協を得るためには、何よりも事実関係をはっきりさせる事が必要です。それが前提です。そうでなければ、違う言語(げんご)を話している事になり、COP15は、本当に時間の無駄になってしまいます。そういう意味で、#1さんの物言いは見過ごせかった、というだけです。 #1さんの言い方では、温暖化推進派(って言い方も変ですが)の言う事は、全くの嘘八百に基づいたものだ、という風に自分には読めました。もしくは、そういう印象を与え兼ねないと。 推進派は、危機を強調するために、確かにやりすぎました。しかし、それに対応するために懐疑派が、 >『予測の下限は超えていない』と嘯く、まったく褒めらたものではない不誠実さによって成り立っています。 などど言いだしては、クライメートゲートで、推進派がやった事と全くいっしょです。念のため言いますが、これは#1さんを指しているのではなく、一般論です。#1さんは、 少なくともそれが科学的に正しいと"言うことが出来る"ことは理解している. と言ってくれましたので。さらに言うと自分は、#1さんとその後の発言には、賛成なんです。 最後に、 >このページは、明らかに、懐疑論(環境に関する)を批判する立場ですね、これを公平と表現するのは、恐らく現実的に多数派と言う意味でお使いのことと思いますが・・・ 違います。自分で読んで判断しました。私は、懐疑派のページもかなり読んだつもりです。読んだ中で、公正な評価をしていると思ったから、ここをご紹介しました。 まず「懐疑論(環境に関する)を批判する立場です」という色眼鏡をはずして、自分で読んで(流し読み以上で)判断して下さい。そうでなければ、事実関係ははっきりせず、合意も妥協も得られません。それが第一歩です。最後は自分で判断するしかありません。 こういう事を言うのは、推進派も懐疑派も、伊達や酔狂で議論してる訳ではないからです。推進派も懐疑派も、その先には国という最大の利害関係集団がいるからです。COP15とその後で、日本がどういう合意や妥協をするかで、私やあなたの老後がどうなるかが、決まるからです。
お礼
>今度は、関係ない話ばかりは書かないので、もう一度許して下さい。 こちらこそ、お礼飛ばし、お許し下さい。質問の意図と喩えの事実の問題がが交錯すると、質問者には今回の質問を有益なものに誘導する技量が不足する事を鑑みて、苦渋の決断でした。 で、>関係ない話ばかりは書かないので、 と言う事は、関係ない話も書くんですよね。 最後の部分は、大いに関係しそうですね。 ご紹介頂いたページを、〔1〕~〔6〕まで、さらっと通読しました。最後の三ページはグラフだけでしたが、さて、そのことを確認した上で、あらためて、公平とはどういうことでしょうか。 一般的に、対立するAとBの論を公平に扱うためには、最低限、両者の論を並列することが必要な条件になるかと思います。改めて確認しても、ご紹介頂いたページでは、懐疑派の論拠、懐疑派をして懐疑派とするには、それなりの論拠が有るはずですが、それが示されていないため、私の公平という規格から外れると言うことです。ご回答者様は、この件に関してすでに色々な勉強をされているようで、いまさら、懐疑派の論拠を示されなくとも、すでにご存知でしょうから、必要ないわけですが。 そこで、問題なのは、このような簡単な、僅か数ページの記述の判断に関しても、御回答者様と質問者では食い違いが起きてしまう。そこでこの食い違いを埋める合意は、如何に可能か、と。 確かに、諸個人の間の合意に関しては、事実の関係を明らかにすることは、重要ですが、質問の趣旨は、国と国との全体的合意、つまり、世界中が合意する条件ですから、事実関係は重要であっても、それですべてが汲み尽くされているのでは、ないのではないだろうか、と、尋ねているんですがね。 お気に召すかどうか分からないけど、お歳暮、贈っときます。 有難うございました。
補足
お歳暮 いま経済学に求められているもの ――若い人たちに―― 最近の学生諸君を見ていて感じることをまず述べてみよう。 すでに多くの人から指摘されていることだが、最近ますます画一的なものの見方をする若い人たちが増えてきているということがある。受験戦争をくぐり抜けてきたせいもあるだろうが、社会的な諸問題を考えるときにも、必ず正解が得られるということが前提となっているようだ。不正解もまた有力な答えであるという発想がそこにはない。むしろはっきりしない解答のなかにこそ、今後考えていくべき重要な問題がひそんでいるのではないか、というふうに思う人は本当に少なくなった。 大学に入って、経済学をはじめとする社会科学を本気で勉強しようとするときには、「この答えは、実はわからないのだ」ということが、自分の判断をとおしてしだいにわかるようになることが望ましいあり方だと思う。今日のように困難な問題が山積みとなってきている社会にたいしては、こうした哲学的姿勢を持たずに新しい展望を見つけだしていくことは不可能と思われる。大学にはいったなら、高校で習った知識の延長をまず疑ってかかるとよい。そして、あらためて自分の思想の世界を切り拓いてゆく、とりわけ理論と歴史を考えるときの自分自身の思考の枠組みを拡げていくということが重要である。 ・・・ 現代の市場社会、産業社会の枠組を外挿して未来の青写真を描くのは方法的にもまったく誤っている。いまこそ、市場経済の延長ではない、非市場経済における人間の経済を中心にした研究が始められるべきである。こうして、既成の経済学の枠をこえるような研究がなされない限り、われわれの生存に脅威を与える現代の危機から一歩も抜け出ることができないところにまでわれわれはやってきているのではないだろうか。 若い諸君の大いなる勉強をこれからおおいに期待したいというのが、私の緊急な願いである。マルクスの愛好したモットーは、いまも示唆に富むことを忘れないでほしい。 「すべては疑いうる」 『生命系のエコノミー』 経済学・物理学・哲学への問いかけ 玉野井 芳郎 1982年11月30日 初版第1刷発行
- mashumaro2
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失礼致しました。 ×「博愛≠ましゅまろ」でないのは言わずもがな ○「博愛≠ましゅまろ」なのは言わずもがな 二重否定で良くトチるのですが、3度見直したので、今度は大丈夫ではかと。
補足
御伽噺 むかしむかし、ある国に、大きな湖がありました。 そこに住む住人は、その湖から、小魚を取り、豊かに生活していました。 ある日、遠くの国から、機械に乗って、少数の人々が、その湖に、大きな魚を運んできました。 大きな魚は、たちまち小魚を食べつくし、むかしから住む住人は、小魚を収穫することが出来なくなりました。 大きな魚は、養殖場という囲いに入れられ、所有権と言う護符がペッタリ、むかしから住む住人には手が出せません。仕方なく、むかしから住む住人は、その養殖場で働き、大きな魚を切り身に加工する仕事を始めました。 自分たちの作った、魚の切り身は、綺麗に包装されて、どこか遠い国に運ばれます、僅かな賃金では、とてもそのりっぱな切り身を食べることが出来ないからです。 どこかの遠い国にはこばれた、大きな魚の切り身は、冷凍されて保管され、高く売れるところへ売りさばかれます。沢山の人が、毎日毎日、それを少しずつ食べますが、あまりにも人が多いし、それに毎日のことですから、保管されていた魚の切り身は、すぐなくなります。 そこで、養殖場では、毎日毎日、魚の切り身を綺麗に包装紙、飢えた人々によって、遠くの国に運ばれていきます。 これが社会の再生産の構図の一部をお話しする、御伽噺です。主に過去形で書きましたが、未来の話にしても良かったんですし、遠くの国の話にしましたが、この国の話にしても、良かったんですよ。 参考資料(『グローバル化と奈落の夢』西谷修編「ひとみなそれぞれのアフリカを・・・ダーウィンの悪夢」から)
- mashumaro2
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No.5です。的を射ない拙文に対するfishbowl66様の懐深いお返事にお礼を申し上げます。 合意の可能性の実験、承知致しました。 殊にCo2削減問題は、本質を探るほどに、より面白いものが見えてきそうです。 キャップ・アンド・トレードにより独り勝ちするロシアと負け組日本、省エネ優良国日本のCo2削減推進と景気悪化の悪循環等々。 グラフの読みはともかく、いまの風潮に安穏としているのは劇ヤバ!と、私も思います。 fishbowl66様からお礼をいただいた件です。 「知識の分業化/専門化における階層的、社会力学的次元の差の構造」 ご指摘の通り、現代の「持てる者」の最たるものは「高度な知的専門性」です。 その希少性、非代替性から強力な権限と影響力を持つために、一般人は依存せざるを得ません。 そこから得られる情報を掌握し、ビジネスさながらの効率的なチームが各国に組まれており、そのリーダーシップの倫理、資質、合意の質がいま問われているということでしょうか。 No.1様のご指摘の「京都議定書」のツケ、それは「議長国の面子」として、国民にとり法外に高い代償となりました。 ですが会議の参加当事者の「評価」と「会議の成果」について、国民は広く様々な情報を得られていたのかどうか。 結局、他国に蹂躙された教訓に乏しいためか、日本は異文化間のリーダーシップを発揮できないゆえに「ツケ」で「面子」を立てるが関の山なのかもしれません。 でもそれって、ロングスパンではどうなのでしょう?! 「現実の格差問題=貧困は個人の努力不足」 これは実質的な機会均等社会である国内においては言及し得るかもしれませんね。 もっとも国外では、世界基準である「個人の努力結果としての就学と就労、そして報酬」のエントリーすら、ままならぬ人々が大勢、一概には言いきれないかと思われます。 ・個人の努力不足ではなく、社会を常に再生産する社会的力が、貧困の原因とすれば貧困は社会的な被害者 はい、そうとも言えるかもしれませんね。 経済分野、科学分野の偏重傾向で、私達の日常、私達自身が、数値化、相対化、合理化という価値観のもとに「商品化」している時代においては。 ただ、「社会を常に再生産」というくだりに、従来通り「経済性」を意味付与するか否かで、文脈が大きく変わってくる気もするのです…。 ・運悪く障害をもって生まれた人が、施しを頼るしかないとすれば、恐らく彼等は怒ると思うのです たしかに障害が効率性、能率性に不利に働くことは、個々の事例で十分考えられます。 でもだからこそ、原理主義的な経済一辺倒に陥らない自己の絶対評価という価値観も当然用意されるべきであり、むろんビジネスが絡みはするものの、アール・ブリュットなどの芸術が徐々に脚光を浴びてきているのではないでしょうか。 ・博愛の精神と言うのでしょうか、こういうのは美しくて、一見、非の打ち所のないものなのですが あらま。「博愛≠ましゅまろ」でないのは言わずもがな、です。 ネット上で経済至上主義、或いは巷のCO2削減運動一辺倒の風潮に、寂しくキャンキャン吠えているのだと、御笑覧下さいますよう^^
お礼
再度のご回答、有難うございます。 広いお心遣いで、拙いお礼に接していただき、それも感謝いたします。 さてさて、やはり、言って見ないとわからないものですね。 最初に、COP15を単に、合意を得ることの難しい会議の例として引っ張ってきたのですが、結構複雑な問題があることがわかりました。その点、早々に、#1様と#2様のご回答が頂けたのは、幸いでしたね。 もう一点は、意外、と申しますか、私の非常識と捉えたほうが正しいのでしょうが、無意識のうちに、社会を個人に還元できると考えられている方が多いということですね。尤も、一概に誤りとして否定するつもりは無いのですが、社会を個人に還元できない、ある物である、と言う視点から自分が質問していることを、最初から明確に書いておいたほうが良かったようですね。 例えば >「現実の格差問題=貧困は個人の努力不足」 >これは実質的な機会均等社会である国内においては言及し得るかもしれませんね。 この点にあまり拘ると、質問の趣旨から外れてしまいますが、残念ながら、認識のずれを感じてしまいますが、恐らく、社会的力の過小評価か、上記の、方法論的個人主義などと、難しい表現で言われている、社会を単なる個人の集合とする見方から、来ているのではないでしょうか。 この違いを、際立たせようとすると、つまり私の考えでは、われわれの能力自体が、社会によって規定されていると考えるかどうかだと思いますね。つまり、原始時代には、頭が良いことより、力があるほうが優れているわけですが、白を黒と言いくるめる、法律的能力を持った人が優れた立場に立つためには、そのような社会が必要だと言うことです。 私も、同様、キャンキャン吠えているだけで、何の能力もありませんが、だからこそ、代表に関して、あれこれ考える機会がもてれば、幸いかな、などと考えています。 ちなみに、社会の再生産に関して、疑問をお持ちのようですので、上の回答の補足欄に書いておきます、補足欄に書くと、他の回答者様にも伝わる場合がありますので、御理解下さいませ。
- VenusAurea
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お返事を拝見しました。 いたって単純素朴なことしか申せませんで、もの足りないこと、すみませんことです。ですけれど、 >成る程、事実関係を明らかにすれば、合意は得られるとお考えでしょうか。 違います。 それは、合意を得るための初歩も初歩です。ですからこそ、これを抜かすわけにはいかないと思います。 ネゴシエーター云々については、現実に、その暗躍的活動力が発揮されているという話を見聞しますし、実際、無視して理想論を語っているつもりはないのですが、質問者さま御自身、以下のように申し添えてもいらっしゃるので、この箇所については、私も、まともに受けとってはおりません。↓ >まぁ、尤も本気で以上のようなことを考えているわけではないのですが、 >しかし、質問の仮定として、各々の代表は、各々の集団の利益を代表しているわけで、たとえ、事実関係が白黒ハッキリしていても、白も黒にしてしまう、ネゴシエーターこそ、代表にふさわしいですし、卑近な話では、善悪併せ呑む、懐の深さも指導者としての資質なのかもしれません、事実関係が明らかになって、損害が生じることになった集団の代表者は、その任務を放棄して合意することは可能なんでしょうか。 >ここでも、個人と集団の代表によって、合意の条件にどのような変化があるのか、或いは無いのか、 ですから、いかに個的・局所的レベルを脱することが可能か、結局、それに尽きると申し上げております。 損害、と一口に申しましても、耐えられる、耐えるべきレベルと、そうでないレベルとがあります。 間違いなく「白黒ハッキリ」しているとあれば、その「白」が誰にとっては「黒」となり、誰にとっては「黒」が「白」になり得るのかを確認せねばならないです。 これでもまだ、全然初歩的ステップだと思いますが、その段階では、自分側の利害だけではなく、交渉相手それぞれの利害度合いについても、同じく確実な把握が必要になってきます。 それができる代表者であるかどうか。 でないと、お互いの可能な限り、譲歩と許容に関して、適切な話し合いが進められないはずだからです。 だって、合意を得るべきことのレベルや次元を考えてみて、それが、すべての人々に等しく関わるはずの大ごとであれば、個的・局所的集団の利害に拘泥していては、、世界規模の指導者役割を果たせましょうか? そんな人、代表にふさわしいのでしょうか?
お礼
やや、これはしまった。誤解を与えてしまいました。 私が質問していることは、個人と社会の区別の問題です。 社会における出来事を、全て個人に還元できるのか、と言う意図があったのです。この点は分かり難いでしょうから、いつもの事ながら、ご回答者様にはご迷惑をお掛けする次第です。 例えば、一番端的に私の意図が表れているのは、#5様への私のお礼ではないでしょうか、誤解を与えてしまいそうな表現ですが、個人のレベルでの理性の高揚を否定するわけではないのです。 しかし、個人が社会の構造によって、ある程度規定されるのならば、いや、個人の意志より社会の構造が強力になってきた現在では、社会の構造を如何にするべきなのか、その例えとして、会議における合意とか、集団における合意が、どのような構造において、或いは組織において、なされるべきなのか、と言う事です。 個人の努力に関しては、ご回答者様のご意見に、何の反論も無いのです。 敢えて申し上げれば、社会的な力に関して、それを悪ではなく、善に向ける構図は無いものかと。 「独裁体制のもとでの個人の責任 ここで、体制に心からしたがった人々には、法的な説明責任とは異なる意味での個人的な問題や道徳的な問題は、ほとんど生じないことを思いだしていただきたいのです。こうした体制派の人々にとっては、回心して後悔しないかぎり、罪を感じることはできず、たんに敗れたにすぎないのであり、これは自明なことなのです。しかしこのごく単純な事実にさえ、混乱が生じたのでした。裁きの日がついに訪れると、体制に心からしたがった人は誰もいないとか、少なくも裁かれる犯罪計画に心からしたがった人は誰もいないと主張されるようになったからです。これは嘘でしたが、困ったことに、単純な嘘でもなかったし、まったくの嘘と言うわけでもなかったのです。」 ご迷惑尾お掛けしたことを、お詫び申し上げます。
補足
ついでに、#7様でしたか、お礼の文にも、関連したことがありますので、重複しますが、コピぺしておきます。 おまけ、をぺタ 「問題なのは、この支配者をどこからつれてくるかということだ。人間は仲間の人類のうちに、この支配者を探すしかないのである。しかしこの支配者となるべき人物も、もともとは一人の支配者を必要とするいき物にすぎない。だからどうしてみたところで、公的な正義を具現する元首、正義そのものであるような元首をみつけることはできないのだ。人間はこうした支配者として一人の個人を探すかもしれないし、正義のために選ばれた人物の集まりを支配者としようとするかもしれない。しかしどちらにしても同じことである。法律にしたがって権力を行使する支配者がさらに上にいなければ、だれもが自分の自由を濫用するに決まっているからである。だから最高位に立つ元首は、みずからが正義の人物であり、同時に人間でなければならないのである。」 (『啓蒙とは何か』カント 中山元訳)
お礼ありがとうございます。 >経済的な連合で、プラスサム、お互いに利益を上げましょうという、舞台の上での合意と、環境的な連合で、マイナスサム、つまり、どこかが損をするのではないのかと、疑心暗鬼名状態での合意とは、同じものではなく、結構悲観的な見方になりそうな気もするのですが。 おっしゃるような指摘をする学者の方もいますね。 しかし、疑心暗鬼名状態になるプロセスまで突っ込んだ解説を聞いたことはないので、ご存知でしたらどのなたでも結構ですので教えてください。
お礼
いやはや、油断もすきもありませんね。 >しかし、疑心暗鬼名状態になるプロセスまで突っ込んだ解説を聞いたことはないので、ご存知でしたらどのなたでも結構ですので教えてください。 まず一つ目は、単なる返還ミス。 もう一点は、私の思考回路の中にある、貧しいボキャブラリの中から、ぎしんあんきなじょうたい、と言う記号が、偶々転がっていたんです。なんなら、私の頭の中を覗いて見ますか。論理的プロセスなど皆無でしょうね。 あと、例えば先般、話題に登った事業仕分け、確かに、従来路線の、根回し・密室談合よりは、出来は良いのかもしれませんが、各担当者が、各省庁を代表して、公開の場で、どの省庁の予算要求をカットするのか、といった一見当然の会議が開かれなかったのは、なぜなんだろうと。 さらに、代表に関して、 COP15で、議会の動向に留意した、現状維持のオバマ。 宇宙人的、サービス精神の、どこかの国の首相、彼は、別の移設問題で、合意に関する疑心暗鬼をアメリカに与えてしまって、早速、国外移転を断念したようです。 あと、地元名古屋の、市長だぎゃあ、修正案を一蹴して、公約通り、市民税の減税。 比較するのも、恐ろしいが、公的保険を断念して、法案を成立させた、オバマ。 いったい、代表は、何を代表しているのか、そして、それゆえ、代表同士の合意は可能なのかと。 それでは、宜しくお願いします。
- VenusAurea
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タイトルには『COP15』という単語を出しておられるものの、私は、『COP15』そのものをめぐる話題に詳しくないです。ですが、そのことよりも、「利害関係を代表した諸個人の合意は、如何にして可能か。」こちらが、御質問の眼目と受けとりました。 他からの御意見ですが、 「温暖化の宣伝には熱心なのに、情報の訂正にはその情熱が急に失われる。これは何故か。 もし、訂正が科学的に正しいというのならば。繰り返しになりますが、その初期の条件から変わったということを同等以上の熱心さで、もっと大々的に周知することこそが、情報に対する真摯な態度であると思うのです。第一次~二次報告に基づいた明らかな誤謬を放置することではなく。」 このあたりには、私も大いに共感を覚えます。 それと、他の御回答にて貼付されている参考URLをサッと見せていただきまして、まず、最先端を行く研究組織の機密事項たるものは、これも最先端のセキュリティをもって守られているはずであろうに、易々と破られているとしたら、それは如何なる事態か?ということのほうに疑問を持ってしまいましたが、それはともかくとして、 なかで述べられている 「誠実に対応し、必要な訂正などがあればきちんとすべきであろう」 ここが第一に危急の重要なことだと思います。 ある目的の妥当性・必要性、それを達成できるか否かによる影響内容の如何及び規模、これらに関して、欺瞞のない判断材料を提出、正当にして適宜の訂正を行えるか否か。 そこに臨んで、個的・局所的視野を、どれだけ脱することができるか。 そもそも、その目的達成の要請が、個的・局所的レベルを超えた影響力と規模に及ぶものであるならば、その事情を最も認識している者こそは、妥当なデータ提出と、一般への周知努力を行えるはずです。これができない、となると、何故なのか?という不信は当然のこと起きてきます。当たり前のことでしょう。こうした不信感の蔓延こそは恐るべきことではないでしょうか。 欺瞞と隠蔽の工作というものは、失うことを怖れる「持てる者」が、しょせん、個的・局所的な利害意識と保身にとり憑かれて行う所業でしょう。「持たざる者」が、これに立ち向かうとなると、困難を極めるであろうことは明白です。 利害関係というものは、ほぼ誰しもが免れないことでしょう。そこで、誰にとっての利と害が、誰にとっては、どう作用するものか、その軽重などを明らかにすること、そのうえで、個的・局所的には重いものであっても、より広範なレベルに照らして影響が大きいと予測される場合には、ある程度にせよ、譲歩と許容が迫られることは必然です。その必然を避けようと画策する場合に、どのような最終事態がもたらされるか。ここが見通せない者に、専門家としての演説を振り回されては、たまったものではありません。 合意によって達成を目指す目的というものが、はたして、どういうものであるか、ということが明らかでないことには、それの必要性を認めていない者を合意のためのテーブルに着かせることはできません。まして強制などは猛反発を買うだけです。 反発する者の無知無定見を責める前に、どれだけ議題に関する判断材料を、まさに 誠実に 提出できたかということが、大変重要です。 昔の無学文盲を、偉い人たちが寄らしむべし、では、いまどき通りません。 まして、テーブルに着くこと自体を拒絶してはいない者から要請された判断材料を歪曲・隠蔽するなどのことがあれば、永久に、テーブルに着かせることが不可能になることも重々わきまえるべきことでしょう。 科学その他の専門に携わる者の発言力が大きい分野では特に、その分野の専門家の責任と誠実を問われる声は大きくなります。当然のことだと思います。 現代は、市井の一般人と言えども、情報取得と知識のレベルが高くなっておりますから、専門家の立場にいる者の、何らかの理由で、ひとたび邪まな目的を抱いたとなると、そのゆえの工作行為も、大変、たちの悪いものになるであろうことは容易に察せられます。 それでも、なお いわゆるデータの読み取り解釈にしても、一般人には相変わらず困難なことも多いと思いますし、ましてや、そのデータそのものの信憑性如何となると、お手上げ状態であることも多いのではないですか。 そういったあたりを、専門家の立場にいる者が、専門外の一般人の目をくらますような細工や操作をすることなど易いことでしょう。 また、一般の者にも読み取りや、確かなところを判断するに困難でないような程度のものであるほど、たちまち隠蔽工作に走ることも、ままあり得るでしょう。 個人や、ごく狭い範囲の利害に囚われた欺瞞的工作などをされていたのでは、将来的に重大な危険を招くことは容易に予測できますので、専門家、ましてや、ほぼ全員に影響が及ぶ恐れのある事がらに関して、私利私欲を離れた見通しと見識を持ってもらうことは、当然の要請です。その自覚があるかどうか、現状、なかなか危ういところがあるということでしょうか。 最終的には、ここのあたりを見極めるのに困難を極めているのではないでしょうか。 繰り返しになりますが 誰にとっての利と害が、誰にとっては、どう作用するものか、その軽重などを仮借なく明らかにすることです。
お礼
>誰にとっての利と害が、誰にとっては、どう作用するものか、その軽重などを仮借なく明らかにすることです。 成る程、事実関係を明らかにすれば、合意は得られるとお考えでしょうか。 しかし、質問の仮定として、各々の代表は、各々の集団の利益を代表しているわけで、たとえ、事実関係が白黒ハッキリしていても、白も黒にしてしまう、ネゴシエーターこそ、代表にふさわしいですし、卑近な話では、善悪併せ呑む、懐の深さも指導者としての資質なのかもしれません、まぁ、尤も本気で以上のようなことを考えているわけではないのですが、事実関係が明らかになって、損害が生じることになった集団の代表者は、その任務を放棄して合意することは可能なんでしょうか。 ここでも、個人と集団の代表によって、合意の条件にどのような変化があるのか、或いは無いのか、こうした点についても、お考え頂ければ、うれしいです。 詳しいご回答、有難うございました。
- 来生 自然(@k_jinen)
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>>> 絶対的外部(つまり神頼み) <<< でなくても、タイムマシン(広義の自己言及)が開発されれば、解決するかもしれないですね。。。 少なくとも、個々の人々が(国・民族といった)境界を越えることができないという概念を共有しつつ、それでも、そういった境界を越えようとする想い・思いを抱いて、個でありながら全体を語らざるを得ない(狭義の自己言及)ことを共感できれば、解決への方向性が見いだされるかもしれませんが、結局のところ、理想と現実という差異に集約されるべき運命なのかもしれません。。。
お礼
タイムマシンですか、これは、事実の共有が出来ると言う意味でしょうか。 しかし、タイムマシンに乗って、未来を見てきた人が、本当の事を言っていると、いかにして証明するのでしょうね、やっぱり、1000人ぐらいの人が行って、見てきたことが全て一致することでしょうか。 ちょっとメモリを間違えて、1000年ばかり狂ったら、全然一致しなかったりして。 ところで、肝心なのは、個人と代表の合意に社会構造的に違いが有るかどうかなんですが。 有難うございました。 おまけ、をぺタ 「問題なのは、この支配者をどこからつれてくるかということだ。人間は仲間の人類のうちに、この支配者を探すしかないのである。しかしこの支配者となるべき人物も、もともとは一人の支配者を必要とするいき物にすぎない。だからどうしてみたところで、公的な正義を具現する元首、正義そのものであるような元首をみつけることはできないのだ。人間はこうした支配者として一人の個人を探すかもしれないし、正義のために選ばれた人物の集まりを支配者としようとするかもしれない。しかしどちらにしても同じことである。法律にしたがって権力を行使する支配者がさらに上にいなければ、だれもが自分の自由を濫用するに決まっているからである。だから最高位に立つ元首は、みずからが正義の人物であり、同時に人間でなければならないのである。」 (『啓蒙とは何か』カント 中山元訳)
お礼
ほ~ぉ、COP15は、色々有ったようですね、京都議定書の評価も、そのような見方があることは知りませんでした。尤も、環境問題がこの質問のテーマでは無いですから、あまり詳しくは立ち入りませんが、事実の共有が、参加各国の間で成立していなかったようですね。この質問の、導入にCOP15を使用したのは、問題点として、地球温暖化の原因が、先進国にあるから、先進国が義務を持って、後進国には義務はないのか、と言った点の対立から、議論の合意の可能性のに関して考察を加えて見たかったのですが。例えとしては、複雑すぎて、焦点が曖昧になったようですね。 さて、問題のプロセスの件なんですが、ご回答のようなモデルとは、微妙に違うのではないだろうか、と言うような質問の意図があったのですが、判りにくいですよね。私も、回答者様同様、キチガイの一種でしょうか。 例えば、貿易振興の会議とか、世界金融に関する会議とかは、そもそも、貿易を振興する手段、金融を安定させる手段、つまり、ほとんどの場合(キチガイを除いて)それによって各国が利益を得ると言う前提があって、合意が成立するわけですね。ビジネスモデルも同様に、手段に関する試行錯誤であって、原理的には市場経済競争と同じなのではと、考えている、キチガイですね。 あと、 間接民主主義における、集団の利益を代表する個人が、集団の利益に反する合意を認めることができるのか。 この辺りに関しても、コメント頂けると、もっと有り難かったですね。 参考にさせて頂きます、有難うございました。