- 締切済み
徳川姓のなぞ
徳川家康が源氏の流れを汲む新田の「徳川(得川)」姓を名乗ったのは、野望のための策略であるというのが、通説のようですが、いや真実、新田の流れを汲むのだという有力な説はありませんか。当時家系というものが重視されたのでしょうが、それだけに、簡単に氏素性を騙ることができたのか、というのが疑問として残ります。
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
みんなの回答
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
源氏を名乗ることが「将軍になりまっせ」というフラッグ立てというのは、時代的にあり得ないと思う。 徳川を名乗ったのが 1566年 三河をほぼ統一した時代で、この段階で「将軍立候補」なんてのは、同盟者である信長に喧嘩売るようなもの。 では、なぜこの段階で源氏系列の徳川を名乗ったのか? ○ 叙任のため ○ 18松平ともいわれる一族問題 ○ 三河の歴史的背景 叙任のために、源平藤橘の何かを名乗った方が話は早いだろうなということ。家康の家系自体が、祖父清康の段階で、松平一族の中で、親分的なものになった程度であり、権威として松平一族の総領家でもなんでもなかった。松平より、一段上だよん!とする必要があった。 では、なぜ源氏をチョイスしたが? それは、三河が、足利家にとって第二のふるさととでも言うべき特別な土地柄だったから。 足利本家が、三河の守護になった鎌倉時代初期の段階で、庶子が分立したのが三河。細川、仁木、吉良などが、三河の地名を名乗っている。また、鎌倉時代末期に足利尊氏が、三河で兵力を整え、京都に出陣したのは、三河が足利家にとっての特別な土地であったことを示す。 つまり、三河の国人層にとって、源氏っていいよね、え?徳川って足利の兄貴の家系かよ。という感じだったと思われる。 だれの入れ知恵かわかりませんが、だいたいそんな背景
征夷大将軍は源氏の棟梁であることが必要だったのでは(頼朝以来)。 足利も源氏の正当な棟梁と言うことで征夷大将軍に成れたのでしょう。 織田信長や豊臣秀吉は”源氏”でないことがはっきりしていますね。それで征夷大将軍は名乗れなかったのでは。徳川家康は、武士の棟梁は源氏でなければ通用しないと考えて、”源氏”の本流である”新田氏”の名前を使って系図を作り上げ”征夷大将軍”に成り上がったのでは? 徳川家(松平家)より、ずっと源氏の本流に近いのは”喜連川”ですね。
- toshineko
- ベストアンサー率44% (258/575)
大名になれば、将軍や天皇に拝謁するために身分や官位を整える必要がでてきます。 そこで家系図の作成が始まるわけですが、全く何もない状態よりも、伝説の類でも良いので何かしら「源平藤橘」へ結びつくような事例を探してきたほうが作りやすいといえます。 そこで選ばれたのが「世良田有親」であり「松平親氏」であったのだと思います。両者に親子関係があったのかどうか分かりませんが、東国の源氏と三河の松平家との関わりがあった話を元に系図を作っていったと考えます。 ちなみに下記URLのウサギの話が徳川氏と林氏の特別な関係(献兎賜杯)を記した話であり、幕末の脱藩大名「林忠崇」へとつながります。
お礼
ありがとうございました。大変参考になりました。
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
織田家も、忌部になったり平になったりだから適当だったんじゃないの? 松永家も源氏だったり藤原氏だったりするし。 野望ってのは将軍家になったからと言う後付けだと思いますよ。 単に、普通の松平ちゃうねんと言うためだったかと。
お礼
ありがとうございました。特別なことではなかったのですね。
お礼
すごい。明快ですね。ありがとうございます。