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HONDA社長と藤○さん

HONDAの創業者「本田」さんと、その会社に多大な貢献をしたと言われる経理の藤○さん。いろいろな書物を読みますが、実際のところ、同時に退職されたときの仲はどうだったのでしょうか? 「美談として褒め称えられている説」、どうしても社長になりたのを、うつわじゃないと言って「刺し違えて共に退職にもっていった本田氏説」きっと50年ほどすると真意がわからなくなると思います。(周りの真実を知る人たちも亡くなられるので)そこで、側近の方や、よく実情をご存知の方があられましたらお教えください。 この質問の趣旨は「なぜ、ヤマハのように家系会社にしなかったのか」「なぜ、ああもきれいに身を引けたのか」「個人資産を多く蓄えた藤○氏に社長になりたい野望はあったはずなのにどうしてそのようにならなかったのか」なんか二人の去り際が綺麗過ぎて、怪しいのです。

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回答No.1

こんにちは。 日経ビジネス文庫「本田宗一郎 夢を力に」という本は、もうお読みでしょうか? その本を読んでみると、社長の座を退く際の事実、家系会社にしなかった理由が見えてきます。 説明は、その本の中に書かれておりますので、ご参照ください。

epson01
質問者

お礼

ありがとうございました。

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  • jakyy
  • ベストアンサー率50% (1998/3967)
回答No.2

epson01様の疑問は、 清水一行の「器に非ず」という小説に書かれています。 清水一行もHONDAの創業者の引け際に疑問を持って、 この小説を書いたと「著者の言葉」に書いていますので、 お読みになると疑問は解けるかと思います。 【パートナー】 本州モーターズの五十島は、ブローカーの神山と知り合いて、会社の経理の面倒を頼んだ。神山は引きうけ経営の面を受け持つことになった。対等のパートナーのはずであった。 【経営危機】 五十島はバイクの開発に力を入れ、神山は銀行から資金の調達、株式の増資でお金を集めた。 バイクが思うように売れず、経営危機がおとずれた。 五十島は経営、販売の事は一向にお構いなしであった。 神山の努力で危機は乗り越えたが、社長は五十島のままで 神山はNo.2のままであった。 【軽自動車と欠陥車】 軽自動車に進出したが、欠陥問題で会社にピンチが訪れた。この機会にNo.2の神山は会社の社長になろうと画策したが、すぐに欠陥車問題は解決し、社長になる思惑は外れた。 【CVCCエンジン】 乗用車に進出するために、空冷エンジンをを主張した五十島が、水冷を主張する技術陣に破れたのを機会に、 神山は社長になろうと手を打ったが、CVCCエンジンの開発が成功して、社長の五十島はカリスマ的存在になった。 【退陣】 神山はこの機会に花道として退陣を迫ったが、逆に五十島に「俺がどうしてお前を社長にしないか、わかるか」と逆に反撃された。 あらすじはこんなところですが、No2のままで終わるのが耐えられなかった副社長が社長になろうと銀行などに寝まわしの手を打ったが、駄目であった。刺し違え退陣という手しか副社長には残っていなかった。 これが真相のようですね。 ソニーの井深と盛田の対立と構図はよくにていますね。 フィクションですが「器に非ず」をお読みになると 疑問は解けるかと思います。

参考URL:
http://www.tku.ac.jp/~sakai/seminer/list/sa.htm
epson01
質問者

お礼

ありがとうございました。

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