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執着をなくすには
仏教でいうところの「我執」をなくせたらどれだけ楽かもしれません。 ですが、やはりそれは「悟り」に至るにはなかなか難しいところですのでさわりというか、感覚だけでも学び、近づければよいと思っています。 心の病の疾患からの解放は、つきるところ哲学に通じると思っている当方です。そのまま実践はできませんが、何か方法はないでしょうか?
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 ★ 執着 / 我執 ☆ なくなるわけがないぢゃないですか。われわれは生きているんですよ。失くせるわけないぢゃないですか。 問題は 白紙になってものごとを見ることができるか。 そしてもうひとつに 相手のことを自分のことより一秒先に思うことができるか。 このふたつをこころがけるのですが 空観として世界を見るというのも 自分と同じように――自分と同じだけですよ――相手のことを思うのも けっきょく あなたがどう生きるかにかかっています。 もっと具体的に 何をしたいか。何を問い求めているのか。どういう仕事をして行きたいのか。これを決めることが大事です。 しごとが決まれば それに沿ってすすめばだいじょうぶです。そのときその道においてこそ 白紙になれるときもあるでしょうし 相手のことをおのれと同じように思うこともできるようになるでしょう。 ★ 心の病 ☆ は――おおきく差し支えなければ―― そのままでだいじょうぶです。しごとを決めて すすむことのほうが大事です。 ★ 心の病の疾患からの解放 ☆ はその道程において 手にすることができると思います。でも ★ 執着をなくす ☆ ことは出来ませんよ。しごとに執着すればいいのです。よいものへ 社会にとっても有益なものごとへやがて執着していくようになるでしょう。これで しめたものです。どうでしょう? 修行なんて――してもよいでしょうが―― そのとき 現実の生活から離れるという考え これを持つといけません。つまり ★ さとり ☆ と言うと 何か社会や現実から離れたところに 理念をこねくりからかした観念の偶像を思い描きがちですから それはいけません。 いいしごとを見つけること。その道をすすむこと。これに限ります。
お礼
仕事というのはもちろん収入を得るためだけのことも含めてなのでしょうがそうではない「自分の道」という仕事でもあるわけですよね。ワーカホリックという依存的なことで「忘れたい我を忘れる」というような、直視すべき問題から目をそらす、抑圧することではなく、本当の欲している仕事、というのが重要なのでしょうね(この本当の自分というのもわからないのですがまたいずれトピを立てたいと思います)。 確かにそういうことでは激しい葛藤の末、私の天職というものを見つけました。そして確かに自分の問題を通してというより、それがあったからこそ活かせることができました。それは有益なものになっていると思います。 ずっと自分のすべてが満足するように生きるにはどうしたらよいか?と考えてきたのですが、惜しみなく与えられるものに与えている時、私は損をしているという気にまったくならないのです。手に負えないものが解決しないことが苦しみ=自分への執着だったのですが、執着を引き剥がすというより、自分の外側の世界の問題にかかわらなければならないと気付いた時、自分から隔離されているものではなく、リンクしている、そのために自分の人生があったというように解りました。 修行する人はそれが仕事なのでしょうね。でもそれは私の道ではなく私の修業はこの悩みとともに生きることだと思いました。形は違うがめざすところは同じということでしょうか。 「仕事」というキーワードはとても重要でした。ありがとうございます。
補足
ご回答ありがとうございます。お答えに対し、今考え中です。 なかなか難しい(^^ゞ あらためてお礼をしますね。