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執着をなくすには
仏教でいうところの「我執」をなくせたらどれだけ楽かもしれません。 ですが、やはりそれは「悟り」に至るにはなかなか難しいところですのでさわりというか、感覚だけでも学び、近づければよいと思っています。 心の病の疾患からの解放は、つきるところ哲学に通じると思っている当方です。そのまま実践はできませんが、何か方法はないでしょうか?
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- tumaritou1
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心の病とは「心の矛盾」の又の名です、矛盾と云う漢字から汲み取って下さい。心の病とは二つの意識の矛盾の事です。一つは自我意識の事です、もう一つは隠されている人格の事です。お釈迦が仏性と云ったものです。 仏性は「無意識」の中に封印された形、或いは自我意識とは(相談しながら協調しながら)交代し合いながら人間の暮らしが成り立っています。つまり自我意識と無意識の意識が交代或いは変わりばんこで自分の体と心を働かせています。 神経症になったと言う事は無意識の意識が体を支配する時に、無意識の意識に体を預けられなくなったと言う事になります。眠る時、口を開く時、字を書く時の事です。 鬱の感覚、孤独感、否定感、不安感、恐怖感などが心を支配してしまう時にも同じ事が言えます。自我意識がもう一つの意識の存在が分からなくなって、自分自身の扱いが分からなくなった事と言えます。 自律神経失調症になったと言う事にも通じています。仏性は命そのものを働かせているものです。人間の命そのものの意思と云う事も言えます。心臓の打つ数も、吸う息も吐く息の数も自由に変える事が出来ます。人間の体と心も自由に働かせています。処が「心の病」になったという事は「自分の働きに任せられなくなった」と云う事を意味しています。自分の事を自我意識のみで行おうとしている事になります。 対人恐怖にしても社会不安障害にしても言えています。自我意識がもう一つの意識を認められない事によって発症しています。この完治をもたらすものが「悟り」です。自我意識が「仏性」「自分自身を働かせている人格」に出会うと言う事です。 この事によって「心の病」は完治となります。二度と心の矛盾は起きないと言う意味です。心が騒がない、或いは不安や恐怖感がどうして起きているのかが分かるからです。或いは違和感や罪悪感が何処から来たものかが分かると言う事です。この静かになって、騒がしくなくなった心持を「涅槃」と云います。今の言葉で言うならば「絶対の安心」と云う事になります。 この事は脳の科学に行き着きます。自我意識は左脳の意識です。左脳の機能或いは出来る事と右脳の機能或いは出来る事が違っていると言う事を学ぶ事です。左脳は有限の事が専門と言えます。その証拠が分別脳と云う事になります。分別できる事は割り切れる問題を解くと言う意味になります。 逆に言うならば割り切れない問題には歯が立たないと言う意味になります。従って「心の病」と云う事は割り切れない問題を左脳に在る自我意識、言い方を替えたなら、機能が無い方の脳で割り切れない問題に対処しようとしていると言う意味になります。 出来ない事を出来ない脳で考えていると言う事になります。割り切れる問題しか解く事が出来ない脳に割り切れない問題を割り振っていると言う事になります。この出来ない事が分かっている自我意識は「否定感」で堂々巡りを始めます。エンドレスになって悪循環と云う事になります。人生には割り切れない問題が混じっているからです。 この解決方法が「禅問答」の中にあります。自我意識には解けない問題で出来ているからです、どうしても解く事が出来ないと分かる時に。右脳の仏性が出てきて問題を解いてくれます。右脳の意識は矛盾をした問題が分かるように出来ているからです。仏性は「永遠」そのもので出来ているからです。分別を捨てた時には分かります。 分別が有限の壁を人間に作っています。その壁は自分を捨てない限り超える事は出来ません。壁を作っているのは自分自身と言えます。元々子供時代にはなかった壁ですが。
はじめまして、Hidocchiと申します。 ご参考になればと思い、筆を取らせていただいた次第です。 > 仏教でいうところの「我執」をなくせたらどれだけ楽かもしれません。 ですが、やはりそれは「悟り」に至るにはなかなか難しいところですのでさわりというか、感覚だけでも学び、近づければよいと思っています。 ちなみに、愚生もほぼ同じ動機から、仏教を学ぼうとしたものでございます。 まず、「我執」でございますが、不必要な「我執」(例えば、見栄の張り合い等です)は、苦しみの原因ともなりますので、払いのけることが可能のようでございました。ですが、仏教を勉強するうちに、特に「中間派」の思想を学んでいきますと、説明しようなない“虚無感”が襲ってきたのも事実でございました。元来、仏教とは、「心の安らぎ」を目指すものですが、実践なくしての(理論面のみの)学習では、思わぬ副作用もあろうかと思った次第です。 確かに、自分の仕事に執着できれば理想的なのですが、悲しいかな、人間関係で苦しんでおられるかたも相当いらっしゃるかとも思うのです。そのような方たちに、周りからのプレッシャーに追われながらの仕事は、相当な苦痛かとも思われます。愚生が参考にしております詩句を以下に列挙したいと思います。 Dhammapada(真理の教え)からです。 1詩 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも、汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人に付き従う。---車をひく(牛)の足跡に車輪がついてゆくように。 (“心によってつくり出される”:自分の目に見えるものは、あくまで自分の目(心)というフィルターを通したものです) 2詩 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人に付き従う---影がそのからだから離れないように。 50詩 他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったこととだけを見よ。 (香山リカ著「悪いのは私じゃない症候群」を立ち読みしたことがあるのですが、他罰的傾向を持つひとの見極めと、また自分が加害者にはならないようにとの自戒の意味を込めてです) 62詩 「わたしたちには子がある。わたしには財がある。」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。 ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。 (執着心は、時には悩みの種になろうかと…..) 73詩 愚かな者は、実にそぐわぬ虚しい尊敬を得ようと願うであろう。修行僧らのあいだでは上位を得ようとし、僧房にあっては権勢を得ようとし、他人の家に行っては供養を得ようと願うであろう。 (不必要な、もしくは背伸びをしすぎた願い・欲求は、時には、悩みの種になるかと…..) 114詩 不死の境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている。 (“細く長くより”は、“太く短い”という生き方もいかがでしょうか?) お役に立てるところがございましたならば、幸いでございます。
- mmky
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>>執着をなくすには 執着をなくす訓練は「捨てる」ことなんですよ。一番良い訓練はお金を喜んで捨てることですね。神社仏閣へいって賽銭箱に財布の中身を全て喜んで捨てる訓練をしてみなさい。お金の額を考えていろんな考えが浮かんでなかなか全て寄進できないはずです。そこを清水の舞台から飛び降りる気持ちで実践してみることですね。その繰り返しで「執着」というとりもちがとれていきますから。 仏教の僧が托鉢するという理由は、人々の執着を取るという修行なのですね。同時に自身の執着をも取っているのです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >神社仏閣へいって賽銭箱に財布の中身を全て喜んで捨てる訓練をしてみなさい 同じ行動ではないが、これに近いことをしました。そのとき捨てたものはそもそも不要だったことに気がつきました。これは物質的なことですが、物質も心の反映なら、心の領域のものもきっと捨てられるはずだと分りました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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えぇ? 何人か病気のこととして、投稿文を書いていますね。 私は病気のことはわかりませんので、前の投稿はボツですね。 人間ってみな軽く病気だけで、だからその境目ってはっきりしていない事が在りますけれども。 ともかく、病気のことの質問なら私は何も投稿はできません。 投稿資格欠如です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 このトピは病気のことではないんですよ。 人であれば身体も病気になる可能性から避けられないように、心も同じです。 哲学の質問に心の病気というテーマをもってきたことが誤解を招いたようですが、違います。心の病の治癒の方法論に哲学も有効であるという前提で、その関連性について共感した方の回答を求めているわけです。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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我執と執着は使う場面が違うだけで同じ意味でしょうか? 両者の関係はどうなんでしょうか? 執着をなくすことと「悟り」とはどういう関係なんでしょうか? 【心の病の疾患】とは何の事ですか?同語反復ではないのですか? 【心の病の疾患からの解放】とは病気の対応が出来るという事ですか? 以上の補足要求をして、以下私の到達からの投稿をします。 1. 最も普通に生きることが無執着であると存じます。 2. それは多くの人においては最も普通でない生き方になっていると存じます。 3. 一定の生活の教えと日々の生活、そしてそれを可能にする一定の行が必要だと存じます。 4. 稀にはそういう事を必要としない人もいるかもしれません。 5. ご縁のある師につかれる事をお勧めします。 6. 師とは、知識をたくさん持つ人や論理でことをはこぶ、先生とは異なります。 7. ご縁のある禅宗などはよいと存じます。 8. 私はそういう生活をして、今はSelf-Realization Fellowshipで45年ほどの精進におります。
- heartmind
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私もワーカホリック経験者ですけど、実は模索中なんですよ。 アンパンマンって「私のしてほしいことを他人にもしなさい」っていうのより、真理に近いとつい最近まで思っていました。 「何が君の幸せ?何をして喜ぶ?わからないまま終わる、そんなのは嫌だ」 価値観の確認をしようと一生懸命なんですから、 でも、まだまだこれでは通用しないんですよね。実際は 「なにつべこべぬかしてるのよ、口動かす前に自分の仕事しなさいったら」 「だから、その最善策を聞きたいんだけど」 かわいそうですね、アンパンマン、泣けますね。時間コストを忘れてるんですね。きっと発達障害なんですね。頑張れ、アンパンマンって言いたくなります。 何が言いたいかって言うと、我が道を行くしかないっていうことでしょうか。 お薬もだいじですよね。
お礼
私もアンパンマンの歌は以前から深いな~と思ってました。 現代はアンパンマンのこの素朴な疑問を吟味する余裕はないんですよね。 >「なにつべこべぬかしてるのよ、口動かす前に自分の仕事しなさいったら」 皆親にも教師にも上司にもこう言われ続けて「発達障害」になってしまうのでしょう。アンパンマンはやはり子供の味方だ(@^^)/~~~ ここから回避するには… >我が道を行くしかないっていうことでしょうか。 本当にこれがいちばん有効なのかもしれません。「普通がいい」というのも病なのです。(私はこの本で救われました)
- kigurumi
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執着自体は悪じゃない。 執着のしすぎが悪なんです。 執着のしなさすぎ 無関心も悪なんです。 中道ってのは、どれに対してもそこそこの関心を持つって意味じゃなくて、偏りすぎるなって意味です。 で、心の病といってもいろんな種類がある。 神経症の一種で、何度も手を洗わないと気がすまないって脅迫観念から日常生活が射止めなくなるってものがある。 心というより脳神経がうまく機能していないから。 脳の機能が壊れているから。 プログラミングにミスがあると、ずっとループして、熱が発生してサーバーダウンするでしょ。 あれと一緒。 心というより体が疲れているので、脳内物質が適切な場面で分泌されないってのと、脳は可塑性があり、一度強い刺激により傾いてその状態が継続してしまうと、それが正常状態って記憶してしまうんです。 ほら、ゼリーって押してもまた元に戻るでしょ? でも ずっと重しを乗せておいて、後で重しをのけても、変形のままでしょ? 脳もそう。 だから、薬で元の状態に戻して、「これが正常な姿勢ですよ」って脳に記憶してもらうわけです。 だから、薬を飲んだり飲まなかったりしないでください って言われるわけです。 せっかく 姿勢を正そうとしているのに、薬を飲まないことで、傾いたままになり、これじゃ 傾いた状態が正常って脳は思ってしまい、傾いた状態になり続けるように指令を出してしまう。 で、そういう脳の異常の人に、言葉で説明して納得してもらって、脳が傾きを元に戻してくれるか。 難しいと思います。 認知療法と薬物療法と平行して、脳の傾き具合をみながら調整していかないと。 既に心では「手を洗うのはもうやめたい、やる必要は無い」と認識できているのに、脳の機能が「洗え」と命令を出しているので、この命令を「打ち方やめーー」ってストップさせるために、薬の使用は有効。 打ち方やめー と停止させていくと、だんだん そのやらない状態が増えて、過剰ではない状態を通常の状態だと脳は記憶する。 必用なときも働かないまで停滞させない程度の調整を医者はするわけです。 というわけで、心の病ってのは精神 すなわち脳科学の問題ですから、偏った状態の時は、宗教は無効じゃないかと。 まず 治してから と思います。 ただし、治らない状態が長年続いた場合、苦しいものがあります。 その時はやすらぎを求めるとして宗教に接近してもいいかもしれない。 でもですね。こんな実例を知ってます。 ある方は、うつ病と診断されて10年。 なかなか治らないので、いくつも病院も変えて治療を試みた。 カウンセリングや催眠療法やら、とうとう祈祷までしてもらった。 でも治らなかった。 外に出れず社会的生活ができなくなって10年。 宗教にすがったけど、改善されなかった。 でも、あきらめきれず、 というか苦しいので助かりたくてまた別の病院を受診。 診断結果。パニック障害。 うつ病はその2次的なもの。 パニック障害用の薬が出され、2週間で劇的改善がみられ、さらに1月後治って、その後社会復帰を果たした。 誤診で人生の貴重な10年が奪われた。 優秀な医者に10年たってやっとめぐり合った。 それまで、カウンセリングやら催眠療法やら宗教やらに人生を奪われ続けた。 10年・・ 不幸ですよねぇ・・・・ まあ でも 貴重な10年だったと思います。
お礼
>執着のしすぎが悪なんです。 と私も思います。 >心の病ってのは精神 すなわち脳科学の問題ですから これは違うと思います。実際うつ病で長期間薬を飲み続けても治らないと訴える人の多いことを見ればより強く思います。 心も身体も相互作用、一方は一方の反映であるわけで、確かに頭の化学作用の誤作動のためも精神疾患の原因であるのも一因ですが、心の作用からもアプローチしないと完治に至らない。うつ病も強迫観念も本当の自分を抑圧してなる病ですから、心の作用も必要なんです。物語性といえばよいのですが、突き抜ける、悟る、開き直る、考え方を変えるなどという自分のダイナミズムあってのことです。脳の作用が科学、心は自然と考えれば科学には限界があるんですよ。心が文系と考えれば、宗教や芸術は人を癒すための文化です。(ちなみに古代からシャーマンのように宗教はカウンセリングの役割もしていました)心の変容には無機質的な作用ではなく、有機的なものが必ず必要なんです。よって哲学や宗教と不可分なものではないと思います。それは「やすらぎ」(癒し?)という表層的なものではなく根幹的になすものではないかと。 脳が正常に作動しても心が納得いかなければ身体も動きません。薬は補助的なものなんですが、他の方法論も知らず、こればかりに頼ってさらに悪化させ副作用まで持ち込んでしまっている…西洋医学の弊害かと思います。つまり治療の場でも「中道」が必要なのかと考えます。
- kanakyu-
- ベストアンサー率30% (1916/6194)
一期一会の出会いでしたが、生き方を参考にしている人がいます。 その人は、物事は、思うようにいかなくてモトモト~という感じで、 肩の力がすごく抜けた人でした。 わが道を行ってて、他人とか結果にあまり期待しない人というか。 今じゅうぶん幸せなので、恋愛とかキャリアとか、何かに救いを求める、飢餓感のようなところもありませんでした。 その人が好きになった人が既婚者で、それ以上はどうしようもないのですが、それについても全く暗いところがなく、好きな人の話をするときは、目がキラキラ~~としてました。 話をしているときも、相手の顔色などあまり伺わず、自分の好きな方向へ行く人で、それがまたこちらも楽で、感じ良いんです。 その人は、当時の自分にはまぶしすぎて、おそれおおくて連絡先を聞くことも出来ませんでしたが・・・こんなとき、あの人だったら何と思うのだろう、と想像したりして、心の中でずっと助けてくれています。 わたしの言葉で説明するより、その人に直接会ってもらえたら一番よいのでしょうね。 そういう人に一人でも会えれば、きっと一生物の参考になると思います!! 数は少ないと思いますが、その人もそうですが、一般社会に紛れ込んでいると思います。
お礼
>一期一会の出会いでしたが、生き方を参考にしている人がいます。 すごい!そのような貴重な出会いこと一期一会というのでしょう。 その方はきっとピュアな人なのでしょう。 その人の感性に従い瞬間を生きる人は、その人生の永遠を同時に生きていると思います。その方からそんなイメージを抱きました。 ご回答ありがとうございました。
- mintarou1
- ベストアンサー率30% (22/73)
. 他人の回答を悪く言うようで心苦しいのですが、No1の説明には矛盾があると思います。 ★ 執着 / 我執 ☆ なくなるわけがないぢゃないですか。われわれは生きているんですよ。失くせるわけないぢゃないですか。 問題は 白紙になってものごとを見ることができるか。 この、白紙になって物事を見ることが「我執」をなくすることを意味しているように感じます。 自分も、長い間精神的な「こだわり」の様な事で長い間苦しんだことがあり、言いたいことがあるのですが、 それには、質問者さんの「我執」の内容が分からないと、的外れなことを言う心配があります。 それで、質問者さんの話せる範囲で「我執」の内容を教えていただけませんか? 生きているから「我執」がなくせないという理屈を自分は信じていません。 お坊さんは生きて「我執」をなくしているのですから。 自分は、普通の生活をしながら、僕の言う「こだわり」から、解放された人を知っています。 聖書には、叩けよ、さらば開かれん。求めよ、さらば与えられん。と書いています。 希望は、必ずあると信じています。「我執」の内容を教えてください。 .
補足
>この、白紙になって物事を見ることが「我執」をなくすることを意味しているように感じます。 そうなんです。生まれたての赤ん坊のようなまっさら状態「タブラ・ラサ」に到りたい戻りたいのではなく、色を薄くしていきたいんです。赤ん坊は生まれたとき真理を知っているといいます。悟りというのは階段のてっぺんにあがったようなもののイメージ、プラスのものを積み重ねていくと同義に逆に、余計なものを削ぎ落としていく作業、よい意味での退行というイメージでもあります。 そのような感じで、自分の意志で心にはりついて、心の活動の障害になっている余計なものを剥がせたらと思うんです。 >僕の言う「こだわり」から、解放された人 私もそういうふうになりたいのです。 私の場合は「虐待した親へのこだわり」をなくす」ということが生涯の、といっては過言ではないほどのテーマなのです。 今までその必要性を頭では分かっていたが、心が満を持して自然にその方向へ向かっているようです。その時流に乗るチャンスがきたのだと感じました。 >叩けよ、さらば開かれん。求めよ、さらば与えられん。 今のこの心理状態を叩いてくれるよいお言葉ですね。
こんばんは、 No1 さまの仰られるとおり、 執着自体をなくすのは難しいかもしれません。 心の病は、(摂食障害でなければ、)長期戦でいくほかないでしょう。 摂食障害は治療しなければなりません。心身症の中でもっとも危険です。死にいたる病です。 おねがいいたします。 おじじさま もどってきてくれてありがとう 感謝しています。 ゆるしてください。
お礼
>執着自体をなくすのは難しいかもしれません。 そうですねー。私は私と付き合っていくしかありまえせんね…。 あぁしんど(-_-; 摂食障害はそれもひとつの形のひとつであると思いますが、ダメージの表現方法は人さまざまかなと思います。リストカットも悲観も同じ自分を傷つけることで生を感じることですから。 危機にいつも直面しているということは、生を強く感じられていることだと感じてきました。ということは執着を完全になくすには、生きる望みをなくせばよいことなのかなと屁理屈で考えもします。
補足
ご回答ありがとうございます。 あのう >おじじさま >もどってきてくれてありがとう >感謝しています。 >ゆるしてください。 というくだりが分らないのですが…(^_^;) 可能であればお答えをお願いしますネ。
お礼
たとえばさまざまな心理療法はそのめざすものにおいて特化されておりますが、哲学や芸術の領域からの教えというのは普遍をはらんでいるわけです。作者は意図しているわけでありませんが、形は違えど共通の真理に至るのがおもしろいところです。 >しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。 これはすべての親に聞かせたいところですね。 人がまず最初にしごく簡単に手に入れる権力は誰かの親になることですが同時に危険もはらんでいます。人類の根幹である存在、親というのはすべての権力において一義的なものですから…。財は逆にサイクルするものですよね。与えればいつか自分にも豊かさが戻ってくるように、モノでも心でも、リサイクルすること。「執着=手放す」限りではなく、循環させること執着をなくすことかもしれません。 >不死の境地を見ないで百年生きるよりも、不死の境地を見て一日生きることのほうがすぐれている。 私はこのように太く短く生きたいですね(^-^)だらだらと肉体のみ生きながらえさせているのだけはごめんですね。つまり時間的な生への執着はないのです。太く短く生きるために不必要なのが、今私を悩ませている執着なのです。実践はなかなかむずかしいけれど、自然にこれらの教えが身についていればさいわいです。 ご回答ありがとうございます。