• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:哲学は人を救うか?)

哲学は人を救うか?

このQ&Aのポイント
  • 哲学の知識によって人間が幸せになることを
  • 苦しむ人が救われることを
  • 哲学はどの様な教理を提供できるでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10004/12512)
回答No.7

>あなたが現代の哲学の教理に入れたいと思う事はどの様な事でしょう ⇒またまた長文ですみませんが、以下のとおりお答えします。私は、オルテガの説いた「生‐理性主義」を現代哲学の教理の1つ(むしろ中核)に据えたいと思います。 人類の未来を考える時、注視すべきものは何か。それは疑いもなく、頭脳や理性に関わることだと言えるでしょう。デカルトらを中心として提起・確立されてきた合理主義精神は、近代以来の輝かしい人間賛歌であり、凱歌であった。それは否定できない事実であるし、我々現代人はその恩恵に与って文明を発展させてきたことも事実であろう。しかし問題は、理性主義を尊重し過ぎて合理一辺倒にのめり込み、それに支配さえされてしまっていることである。早い話が、「頭でっかち」になり過ぎたということで、これすなわち、全体(=全身・生命)が一部(=頭脳・理性)によって支配されてしまっているのではないか、生命体として全身とのバランスを欠き、中途半端に頭がよくなったことが問題ではないか、と言いたい。一説によると、我々人類はかなり高い確率で自滅するという。その信憑性のほどは定かでないが、少なくとも「人類の行く末が、己が頭脳の産み出した兵器等の破壊力によって運命づけられる可能性がある」とは言えるだろう。世界には、地球全体を破壊し尽すほどの核兵器が保蔵されていると言われて久しい。それもこれも、人間が「中途半端に」頭がよくなったことの結果がもたらしたことではないか、と言いたいのである。 頭脳は、当然ながら生体の一部である。その生体の一部に偏重し過ぎた結果、生の全体がそれに支配されているのではないかと懸念されるのだ。我々はこういう憂慮すべき点にこそ頭を使うべきだと思う。生-理性主義が言うように「理性は生の一形式、一機能に過ぎない」。だからといって、理性を捨てようというのではない。生-理性を尊重しつつ、世界と生の哲理・理法を考えようと言うのである。生-理性の根本原理は、高尚なことでも複雑なことでも何でもない。それは、だだ生きることそのもの、個としてまた地球市民として、「ともに生きることそのもの」である。生-理性主義の掲げる人間的生の理念の詳細は、長くなるのでここでは割愛するが、肝心なのは、現代人特有の頭脳や理性を、知識だけでなくむしろ「知恵に」活用することであろう。「本当に頭がよい」とはどういうことかについて考え直し、自滅回避の方向へ英知を結集したいものである。常に、あるべき人間的生の何たるかを哲学したいものである。そして、バラ色の未来とまでいかないまでも、相互互恵等の理念に裏打ちされた持続的安定社会の実現のためにこそ頭脳を活かしたいものである。 (参考) 生-理性主義(razón vitalismo):理性は生の一形式、一機能に過ぎず、それ以上でもそれ以下でもない。"Cogito ergo sum."「我思うゆえに我あり」でなく、"Cogito quio vivo."「我思う、生くるがために」なのだと主張する。生を非合理的な混沌の支配に委ねる発想を論難する一方、生に対する理性の優位性・絶対性を主張する理性主義を批判し、純粋理性は生きた理性にその席を譲らねばならない、とする。「生-理性」の立場の体系としては、存在論として環境の理論を傘下に持ち、認識論として遠近法主義(*)を理論武装の道具として持つ。神が人間を通して見せる「絶対的真理」の把握がその課題であると自覚する。 なお付言すると、生-理性主義は、視点統合の神機能を想定する(自己の視点をその一断片とみなす)。何のためか。人間が人知の及ぶ範囲の事実を認識するだけで能事終れりとしないように、その事実認識のみに立脚して自己神格化することのないように、人間帝国を造らないようにという、「神意」を汲んでそうするのである。さらに言えば、神への問いかけをすることは、理性中心主義からの脱却を求めることと同一線上にある心的態度である。なぜなら、両者ともに、より上級の審理を求め、「不可知の雲」の向こうを探求し、人知を超える領域もしくは絶対的・普遍的真理を極限まで尋ねようとする姿勢だからである。 *「遠近法主義」(perspectivismo):個人的視点が捉えたもの、つまり直接己の目で見たものを「生の流れ」の中に投入し、他人のそれと接合し織りなすことによって絶対的真理に到達することが期待できるという。一言でいうなら「いかなる認識も一定の視点からの認識だ」ということである。“この「個人的」視点の理説の中には、生を誠実に生きようとする限り、人は孤独な単独者にならざるを得ないというオルテガの人間学的帰結が横たわっている。しかし彼の人間学における「単独者の徹底的な孤独の深み」は、同時にまた「他者と共に生きることへの徹底的な憧れ」を伴うものであった。従って、それぞれの「個人的視点」によって捉えられた、「現実的」ではあるが「部分的」な真理は相互に矛盾対立するものでなく、むしろ相互補完の関係に立つものであり、かくて、個人が「他者と共に生きること」の中において、「部分的に見たものを接合し織りなすことにより普遍的・絶対的真理に到達することも期待できる」のである。こうした「個人的視点」の序列的統合、それこそまさに神の視点である。しかし、この神の視点を現実世界に確立するためには、…神の視点の簒奪に与してはならない。「神が人間を通して事物を見る」のである限り、人は「神の感覚器官」としての「個人的視点」に誠意をもって徹すべきなのである”(高橋徹『マンハイム オルテガ』中央公論社)。 なるほど、「個人的視点の序列的統合」こそ、「神の視点」(絶対的真理)へ至ることを可能にできる道であろう。唯一の道とさえ言えるのかも知れない。一個の人間が自力で普遍的真理へ到達できるなどと考えるのは不遜であり、そのためには自己の視点を他者のそれと接合し織りなす姿勢が必要だということであって、少なくともその精神は記憶に値する、というより、銘記すべきであろう。その理由は、己の不完全さを認識するからであり、可能な限り、「自己中心的特殊規定」を免れるためである。例えば、他者との合意形成を図る際の前提であり、普遍的真理を探求しようとする者の基本姿勢でもある。己の見る「真理」はすべて管見であり、臨時であり、暫定であるに過ぎない。普遍的真理は自ら存在するのでなく、このような方法によって探求するしかないものであろう。

yuniko99
質問者

お礼

成る程 自分一人の知見では真理を知ることはできない もっと勉強しなければならない という事ですね。其れは言えているのですが 生存と人間存在は違うと思います。そして可能性があるのは人間存在です。 生命だけではエントロピーが増大して滅びるだけです 人間精神の存在が可能性の光なのです。 勿論人間存在のためには生命としての人間の体は必要ですから 生命を軽んじるものではありません しかし未来に存在を実現し 遠い未来に永遠への存在を実現できるのは精神です。 それは仰るとおり精神には知識だけではなく知恵があるからです。そこがPCとは違います。 人間が神の手足と言えるというのは 私の拙著HPにもあります。 Nakay先生のお考えはよくわかります。 ただその生-理性主義 と言うのはいまいちピンと来ません。 しかし学ぶ点は多いです 勉強不足は猛省しなければなりません。 ちょっと頭が悪いものですから(^^ゞ どうも大変ありがとうございます。

その他の回答 (6)

回答No.6

哲学が救うのは、ひとではなく自分です。 自己存在の必要としての環境を他我化し、自由自在 (自らに由って自ずと在る)に生きる時、世界は 予め意志を充たすべく在る。 ひとを救うのではなく、自分を救うだけです。 そして、全てのひとは「自分」に他なりません。

yuniko99
質問者

お礼

すべての人は自分にほかならない。 私も自分 貴方も自分 少年Aも自分 安倍首相も自分 天皇陛下も自分? 何だかよく分かりませんが 文の意味はわかります。 その人にとっては自分 人間はみんな自分 という意味と思います。 自由自在ですか 自分を救う 自分を救うために人を救う と言うのはありでしょうか? どうも大変ありがとうございます。

回答No.5

>哲学は人を救うか? 哲学は人を救わないと思います。 仏教は人を救うことがあります。

yuniko99
質問者

お礼

仏教は人を救うが 哲学は人を救わない。 残念ですねえ。哲学が人に生かされないとは あまりに勿体無い。 私は何とか人を一人でも救いたいと思います。 どうもありがとうございます。

noname#211437
noname#211437
回答No.4

>哲学は人を救うか? 残念ながら、全ての人を救うことはできないと考えています。 では、その中の一部の人達が救われるとして、 どのような人達が救われるのか。 それは、質問者様が質問で示している「悟りよ幸あれ」という 教理を自らの信念と思想に基づいて疑問に解が得られる 人達だけが幸福という道を歩めるのではないでしょうか。 >ここで哲学はどの様な教理を提供できるでしょうか? >あなたが現代の哲学の教理に入れたいと思う事はどの様な事でしょう >貴方なら何を入れますか? 信念、疑問に対しての解、人生に対して示唆できる指標なるもの。 こういったものを教理に取り入れて提供したいという考えです。

yuniko99
質問者

お礼

>信念、疑問に対しての解、人生に対して示唆できる指標なるもの。 確かにその様なものを提供したいですねえ それは今までも哲学にも在ったと思うし、我々が解を出していかなければなりませんね。 よくわかりました どうも大変ありがとうございます。

回答No.3

質問者が自分で信じている哲学系の書き込みで自分自身は救えましたか? それがこの問いかけに対する証明になります。 哲学も学問の一つに過ぎず、所謂真理の一つです。なかには証明できていない 仮定や思い込みも大変多いが、特にこのサイトでは。真理・論理に価値はない。 それをどう運用するか、そこにしか価値は生まれない。

yuniko99
質問者

お礼

>特にこのサイトでは。真理・論理に価値はない。それをどう運用するか、そこにしか価値は生まれない。 それは何故でしょうか?私は自分ひとり救われても救われたとは思えません。 みんなに伝えてから死にたいと思っています。 どうもありがとうございます。

noname#208754
noname#208754
回答No.2

人を救うのに学問は不要です・・ 無学な人も救える様になってるのです・・・ そうで無ければ 全知全能の神では無いので・・・ 勉強しないと救わない神なら無能な だけ・・・

yuniko99
質問者

お礼

神は誰を救ったのでしょうか? この歴史を見ると 仏教でいうように四苦八苦の歴史です 神頼みで救われるならこんな世界にはなってないのではないでしょうか? どうもありがとうございます。

  • aokii
  • ベストアンサー率23% (5210/22062)
回答No.1

哲学しか人を救うことはできない。 哲学:何のために生きるかを考える学問

yuniko99
質問者

お礼

そうですね 宗教で救われる人 愛で救われる人 医学で救われる人もいるでしょうけど 哲学も人を救う能力はあるはずですし その為の知恵もあると思います。 良い答えだと思います どうも大変ありがとうございます。