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水子思想と無明と覚り
究極的・根源的な生の選択を問う問題になると思います。 堕胎を経験した人が その無明を明らかに見るとは いったい どういう事態になるでしょう? 過去は消せませんが これをものり越えうる覚りは 縁起の究極として どのように思考し実践するのがよいとお考えになるでしょう? 知恵を明かしていただけるものなら おしえてください。 わたくしの考えでは 経験行為(人間のおこなう縁起関係)によっては 無理だと思います。経験行為のかかわることとしては 信じるという心の伸び(志向性)をとおして 明らかになるもののように考えています。 気分のいい問いではなくて申し訳ないですが どうぞよろしくお願い致します。仏教とは別様にも ご見解を投稿いただければ幸いです。 《Q:〈我れ〉はある? ない? どちらですか(仏教)》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html 《Q:河童は水子の落とし子ですか⇒日本人は愛し得るか》= http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3560366.html
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いつも考えさせられる問いを授けて戴き感謝しております。 私は素直に後悔するということだと思います。 お腹を痛めて産んだ子ですから、時に自分が産まれてきたことを思い出したり、 周りの幼子を観て、同じ年頃だった我が子を想像し、 如何に罪作りなことをしてしまったと思う親として人としての痛みです。 二度と戻らない我が子を、心の中に受け止めて、 辛いだろうがこの子が見守ってくれていると信じることです。 その人にとってこの子は励みにもなり、自分を戒める役割にもなります。 たった一つの後悔から本当に正しいと思える生き方へ繋ぐことができる、 ひとつの人間としての心の在り方だと思います。
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経験行為の不用意な接触は避けるべき 覆水はぼんに帰らず、事が起こってからでは遅い 悟りは意識に昇る論理思考においては得られません。 生かす知恵は悟りのあとに発現するでしょう。 空なる状態において自生します。 >信じるという心の伸び(志向性)をとおして 明らかになるもののように考えています。 何が明らかになるのでしょう。 伸びるのは信じるということによるのではなく 空性におけるところの自生によるのです。 悟りと覚りの区別はついていますか。 無明とは心の状態です。 >どういう事態になるでしょう? 先の引用文とあわせて 自他の区別がついているものとすれば 自力と他力の自らの心の在り方が逆でしょう。 我が強いのは捉われていて鈍感です。 自戒をこめて。。。 注記 これは対話ではありません。 根源的なところで 無明に絡まれるのは好みでないのです。
お礼
henokuappaさん ご回答を寄せていただきありがとうございます。 まぁ しかし どういうご投稿なのでしょうか。《対話ではない》ものは 誰に向かっても 投げかけません。投げかけたということは わたしの無明を照らし出してくれたまえとおっしゃっているのでしょうか。 《無明に絡まれる》ことなく こちらは 話しをしなければならないというところでしょうか。けっこう そういうことは 得意ですよ。 ただ いまは これを読んで 疲れました。その気が出て来ない。どうしても 答えが欲しいということでしたら いま一度 ふたことみこと書いてください。念入りにお答えいたしましょう。直ちに 明知の場へとおみちびきしましょう。
補足
henokuappaさんが noname#48268と変わっていますが agrippaさんだと知ったので 内容にかんして 考えてみます。 ★ 経験行為の不用意な接触は避けるべき / 覆水はぼんに帰らず、事が起こってからでは遅い ☆ 経験行為ゆえに 試みができるというものです。ほかの選択肢があるのに 試みをすることはないですが。 覆水となってから コミュニケーションが成り立つという場合もなきにしもあらず。そうとう あぶない橋を渡るのですが。しかも あくまで人間のやることです。ことばで進むという大前提に立って かなりのところまで行けると思います。 ★ 悟りは意識に昇る論理思考においては得られません。 / 生かす知恵は悟りのあとに発現するでしょう。 / 空なる状態において自生します。 ☆ たぶん こうでしょう。《悟りは意識に昇る論理思考においては得られ》ないというとき その意識を じっと見つめてやるのです。そのとき 問題は 自分の意識というよりは その時のからみあっている相手の意識 これを じっと見つめてやるのです。 もちろん 論理思考じたいとしても その推論を妥当な道筋としておこなっておくことが肝心です。それだけをしていれば やがて 相手の意識は 折れてくるでしょう。そこです。そこが 空なる状態です。つまり 覚りです。何もないですが その何もない空の状態が 知恵です。 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >信じるという心の伸び(志向性)をとおして 明らかになるもののように考えています。 何が明らかになるのでしょう。 伸びるのは信じるということによるのではなく 空性におけるところの自生によるのです。 悟りと覚りの区別はついていますか。 無明とは心の状態です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《悟りと覚りの区別》は知りません。 おそらく この場合は つまり 心の伸びとしての《信じる》という態度は あくまで出発点(ないし原点)を言っています。何ごとに対しても その対処するときの出発点です。つまりは もうそのままで 覚りを得ています。そのあと いまの課題としての無明にかんしては じっくり見つめなおし考えていくなら そこから 熱を持って その憂いのかたまりが溶けていくのではないかと思います。これが 《明らかになる》という意味です。思弁的ですが そういうふうに考えます。 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >どういう事態になるでしょう? 先の引用文とあわせて 自他の区別がついているものとすれば 自力と他力の自らの心の在り方が逆でしょう。 我が強いのは捉われていて鈍感です。 自戒をこめて。。。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《自他の区別 / 自力と他力》 これらについて もう少しその中味を説明してもらわないと よく分からないのですが おそらく ひとつ前までで もう解決ずみのように思います。 《憂いのかたまりが溶けていく》と言いましたが 大局として 《どういう事態になるでしょう?》については じつは まだよく分かりません。はなはだしくおそろしい咎めの気持ちが みづからの中に起きるかも知れません。これを耐えてください。試練だと思います。逃げないでじっと耐えてください。 そのあと《どういう事態になるでしょう?》 * 《自戒》は要りません。前へすすんでください。うしろにあるものは忘れてください。あくまで前へ もっと前へ もっともっと前へです。
- littlekiss
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こんばんは、brageloneさん。 (e_e).。oO ねむいっすぅー。 歯が痛くって、ここのところ歯医者さん通い。 歯髄(神経)の治療中 http://www.smileline.jp/knowledge/2-2-06.shtml 近況報告は、このぐらいにしてっと、 以前にいただいた ■自分から 問題や主題を出した場合 つまり 自分が相手にこれこれは どう考えるかと問いかけた場合 このときには 相手がきちんと答えているのに もう だまってしまって 何も触れずに放っておくのは 対話の中絶に該当します。 そのような広い意味での自殺行為も 自由ですが 相手は この中絶事件をこうむったなら その決着を 自由に 無理なく 要求することができます。何もなかったというわけには行かないと言い続けることができます。 なぜなら ふたたび 同じことが起きるなら 今度は その責任は その相手のほうにあることになるからです。キムジョンイルという人は 拉致被害者が 死んだという答弁をおこなっています。答弁を 何らせずに 新しい対話に入ろうとは していないわけです。 【( A )から問題や主題を出した場合 】 ( A )が( B )に これこれは どう考えるかと問いかけた場合 このときには ( B )がきちんと答えているのに もうだまってしまって < 黙ってしまったのは?( AorB ) 何も触れずに放っておくのは <何も触れずに放っておくのは?( AorB ) 対話の中絶に該当します。 「このときには」と前に置かれた言葉に気がとまりました。 「もしだまって」の前にも何か言葉があったのではないですか? 同一人物がいついかなる場合においても問えば答えるのであれば 「このときには」という時を限定する言葉添えは不要。 しかし、なぜだか言葉が置かれてある「このときには」と、不可解です。 このときと違う状況下においては( B )はだまるとも考えられます。 お尋ねします。 黙ってしまったのは?( AorB )それとも…AB双方ですか? 続づく文 「何も触れずに放っておくのは…」の解釈にもかかわってきます。 仮に対話の中絶に該当するのであれば、次に、「なぜなら…」で、はじまる末文 こちらも解釈如何では、過失相殺責任分担割合も変わってきます。 行政行為の瑕疵、取消し・撤回 http://www6.ncv.ne.jp/~yamadaya/gyoseihou_ron/gyoseihou_04.htm 無効と取り消し http://www.nbn.ne.jp/bellnet/mati/mukotori.htm 3.遺留分の時効・無効・放棄に関するQ&A http://www.ohtsukadai.com/iryu-bun/qa3-000.html 「錯誤の相対的無効」否定論 http://www.ne.jp/asahi/minpou/kaisyaku/law/ronbun/sakugono.htm
お礼
あなたのしたいようにすれば よいのではないですか。
- littlekiss
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ANo.26の訂正です。 誤り:「職を挙げろ」 その人は、筆を手にしたまま「職を挙げろ」と言ったものだから、 正:「燭を挙げろ」 その人は、筆を手にしたまま「燭を挙げろ」と言ったものだから、 『 郢書き、燕悦ぶ 』 【 意味 】 郢の人が書いた手紙を燕の人が誤解して読み、 おかげで国がよく治まったという故事から、 もっともらしくこじつけることのたとえ。 春秋戦国時代、楚の都の郢の人が、燕の宰相に手紙を書こうとした。夕暮れ時だったので、手許を明るくしようと、わきで燭を持っている者に「燭を高く挙げろ」と命じた。ところが、その人は、筆を手にしたまま「燭を挙げろ」と言ったものだから、ついつい、その文句を手紙に書き込んでしまい、そのまま、うっかり、燕へ発送した。手紙を受けとった燕の宰相は、「燭を挙げよ」という文句があるのを見て、しばらく考えていたが、やがて膝を打って大喜び。「うむ、これこそ国を治める急所だ」「燭を挙げよとは、光明を尊ぶことで、光明を尊ぶとは、賢者を登用して、これを重く用いることだ。郢の人は、それを教えているのだ」と宰相は理解したのである。彼は翌日、王に会って、それを言上した。王も喜んで賢者を登用することに賛成、さっそく実行に移した。おかげで国はよく治まったという。 【 出典 】 『 韓非子 』外儲説・左上
- littlekiss
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こんばんは、brageloneさん。 QNo.3417579 【 三身常住は 三位一体とどう違うでしょう 】 ANo.14 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3417579.html 【 隔地者間の意思表示に関する判例集 】 http://www5d.biglobe.ne.jp/~Jusl/Hanrei/Kakuchisya/IsiHyouji.html 【 山のトイレを考える 】 http://www.yamatoilet.jp/mtclean/forum.htm 『 郢書き、燕悦ぶ 』 【 意味 】 郢の人が書いた手紙を燕の人が誤解して読み、 おかげで国がよく治まったという故事から、 もっともらしくこじつけることのたとえ。 春秋戦国時代、楚の都の郢の人が、燕の宰相に手紙を書こうとした。夕暮れ時だったので、手許を明るくしようと、わきで燭を持っている者に「燭を高く挙げろ」と命じた。ところが、その人は、筆を手にしたまま「職を挙げろ」と言ったものだから、ついつい、その文句を手紙に書き込んでしまい、そのまま、うっかり、燕へ発送した。手紙を受けとった燕の宰相は、「燭を挙げよ」という文句があるのを見て、しばらく考えていたが、やがて膝を打って大喜び。「うむ、これこそ国を治める急所だ」「燭を挙げよとは、光明を尊ぶことで、光明を尊ぶとは、賢者を登用して、これを重く用いることだ。郢の人は、それを教えているのだ」と宰相は理解したのである。彼は翌日、王に会って、それを言上した。王も喜んで賢者を登用することに賛成、さっそく実行に移した。おかげで国はよく治まったという。 【 出典 】 『 韓非子 』外儲説・左上
お礼
保留させてくださいと はっきり言わなくてはならない。 自分から問いかけたことなのですが 取り消しますと明らかにする必要がある。 けれども ことは ポアの問題です。そこに行き着く問題です。これを曖昧にしたまま 対話を続けようとは わたしは思いません。
- littlekiss
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こんばんは、brageloneさん。 QNo.2682215 どこまで理解しているか? http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2682215.html QNo.2862026 なにか会議で決定するとき、多数決と独裁制以外の道はないか http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2862026.html QNo.2841450 なぜ論点をかみ合わせないのか http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2841450.html 会話の途中で この話題は 触れないでおこうと 互いに 暗黙のうちに合意した場合は その合意にもとづいて 保留のままでも 関係は 推移していくでしょう。 understanding 自分から 問題や主題を出した場合 つまり 自分が相手にこれこれは どう考えるかと問いかけた場合 このときには 相手がきちんと答えているのに もう だまってしまって 何も触れずに放っておくのは 対話の中絶に該当します。 そのような広い意味での自殺行為も 自由ですが 相手は この中絶事件をこうむったなら その決着を 自由に 無理なく 要求することができます。何もなかったというわけには行かないと言い続けることができます。 なぜなら ふたたび 同じことが起きるなら 今度は その責任は その相手のほうにあることになるからです。キムジョンイルという人は 拉致被害者が 死んだという答弁をおこなっています。答弁を 何らせずに 新しい対話に入ろうとは していないわけです。 I can’t understand what he means. Cannot you understand what he says? 認知言語学的観点を生かした 日本語教授法 http://jsl-server.li.ocha.ac.jp/morishin1003/1st.pdf When they agreed tacitly each other not to touch it, this topic is based on the agreement in the middle of conversation, and but the relations will change as reservation. What I leave falls under the abortion of talks without resembling it already falls silent then when oneself produced a problem and the subject that is when oneself asked a partner how you think about such and such though a partner answers it properly, and anything can touch it. The suicidal act in such a wide meaning is free, but the partner can demand the end without unreasonableness freely if I suffered this abortion case. I can say that there was not it, and nothing goes. Because the responsibility is because there will be it this time towards the other party if the same thing is generated again. The person called Kim Jong Il performs the statement that an abductee died. I am not going to begin new talks not to do statement at all.
お礼
保留させてくださいと はっきり言わなくてはならない。 自分から問いかけたことなのですが 取り消しますと明らかにする必要がある。 けれども ことは ポアの問題です。そこに行き着く問題です。これを曖昧にしたまま 対話を続けようとは わたしは思いません。
- littlekiss
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こんばんは、brageloneさん。 ●こんな権利だなどと言わずとも 人間は 何でもすることができます。 人間でなくなろうとすることも出来るし おこなって来ています。 ↑ うん、確かに「権利があろうがなかろうが人間でなくなろうとすることも出来るし、おこなって来ています。」 と、言われるように“ご破算でねがいましてーは”と、自己破産を故意に起こす者も現にいる。 で、 ●対話の中絶も 人間でなくなろうとする行為です。 ↑ こりゃ、ケースバイケースとちゃうかな? 話したくても話せない話せる状態、状況、個々にあるんじゃないか? 時をおかないとわからないことって、あると思うんだ。 「どうよどう、どうなのよ!」と、詰め寄れば、 時に本意とは違う言葉を相手に言わせてしまうことも無きにしも非ず。 【年齢】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B4%E9%BD%A2 【保証人】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E8%A8%BC%E4%BA%BA 【制限行為能力者】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%B6%E9%99%90%E8%83%BD%E5%8A%9B%E8%80%85 - 民法第21条 - 【5 無能力者であることの黙秘】 http://dai18ken.at.infoseek.co.jp/minpou/02-munouryokusha.htm 【試験に出る重要条文】 http://www6.ncv.ne.jp/~yamadaya/jobmin/jobmin2.htm http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1011953935 【電子商取引等に関する準則(事務局原案)】 http://www.meti.go.jp/committee/materials/downloadfiles/g70117a03j.pdf 【国際蘇生連絡協議会(ILCOR)の2005年国際コンセンサス(CoSTR)および関連資料】 http://plaza.umin.ac.jp/~GHDNet/05/ http://kure-sensai.homeip.net/Book/KuroiBonchi/KuroiBonchi.htm#2-bu
お礼
ご回答をありがとうございます。 会話の途中で この話題は 触れないでおこうと 互いに 暗黙のうちに合意した場合は その合意にもとづいて 保留のままでも 関係は 推移していくでしょう。 自分から 問題や主題を出した場合 つまり 自分が相手にこれこれは どう考えるかと問いかけた場合 このときには 相手がきちんと答えているのに もう だまってしまって 何も触れずに放っておくのは 対話の中絶に該当します。 そのような広い意味での自殺行為も 自由ですが 相手は この中絶事件をこうむったなら その決着を 自由に 無理なく 要求することができます。何もなかったというわけには行かないと言い続けることができます。 なぜなら ふたたび 同じことが起きるなら 今度は その責任は その相手のほうにあることになるからです。キムジョンイルという人は 拉致被害者が 死んだという答弁をおこなっています。答弁を 何らせずに 新しい対話に入ろうとは していないわけです。
ANo.13です。 お礼に書かれている内容について、補足してみたいと思います。 前半部分については、各人の内面に秩序がないことが現実世界が不条理であることの原因だと思っています。また、各人の潜在意識にある、内心ひそかにそれが真実であると確信している部分が、それを真実として現象化せしめているとも思っています。言うなればそれが「その人にとっての信仰の対象」ということになると思いますが、実際自分も偉そうに言える立場ではないですし、自分の中でそうした現実化のプロセスを把握しているわけでもないです。 上記の内容を指して、それを自分は無明だと思っていますが、それが無明であるのは、主体の不在のため(=無明の対象を自己だと認識する)だと思っています。 無明の対象を自己だと認識していては、無明を克服しようという心が起こるはずはないですから。 後半部分の解釈は、それを自分の考えと捉えて頂いて結構です。 「Q:自由意志について」のbonnnou03さんの回答は全部読ませて頂きました。 自分の考えは唯識の思想だと言えそうです。 細かい所を言えば違いはあるのですが、要点は全く同じだと思っています。自分の言いたいことは、bonnnou03さんが既に言い尽くされていて、自分の思想はそれ以下であっても、以上ではないと思いました。 そういうこともあって、レイプを受けた女性についてのコメントも出来かねます。 最後にマーガンディヤー問題について、この質問で知っただけなんですが、それについての自分の印象を述べさせて頂こうと思います。 お釈迦さんの大小便うんぬんの言及については、自分はマーガンディヤー親子間にある相互の依存関係の鎖を断ち切ろうとしたという印象を受けました。 つまり、両親にとっての美人な娘へのあえて言えば執着、マーガンディヤーにとっては自分に自信過剰をもたせるもの、それを有害と見たのだと思います。それがマーガンディヤーにとっては苦痛以外の何者でもないでしょうが、長い年月をかけて散々苦労してそれ(無明)に気が付くくらいなら、一回で終わらせることが出来るなら、その方がよっぽどましだという考えも出来ると思います。 それで、ふと思い出したのですが、お釈迦さんは全ての人が悟るまでは、自分は涅槃には入らないとか何とか言っていたと思います。つまり、それまで待つと。そうした自己責任の上での言及だと考えると、自分から見れば「絶句」です。 ただ、自分はそういうやり方はしないと思いますが。 これについて自分は議論をするつもりがないことも、ご了承願います。 何か自分が見落としていた場合がありましたら、すみません。
お礼
123beさん ご回答をありがとうございます。 同感する内容をお寄せくださったと理解します。 ☆ マーガンディヤーの件につきましては ★ 長い年月をかけて散々苦労してそれ(無明)に気が付くくらいなら、一回で終わらせることが出来るなら、その方がよっぽどましだという考えも出来ると思います。 ☆ そうですよね。たとえブッダの対処の仕方が間違っていなかったとしても 長引きすぎのように感じられます。じっさい ほかの王妃サーマーヴァティーを焼き殺すというまでの事態を招いているのですから。 ☆ 唯識は むつかしいですね。少なくとも言葉で表現することは むつかしいと感じます。 ★ 無明の対象を自己だと認識していては、無明を克服しようという心が起こるはずはないですから。 ☆ けっきょく 欲望なら欲望 あるいは むしろ善業なら善業であっても 自己が その欲望なり善業なりに 埋没してしまうかのような状態にあっては――或る種の仕方で 目覚めているかのようなのですが―― 目覚めるのは むつかしいのだと。わが計らいというのも 無明なのでしょうね。 ★ ふと思い出したのですが、お釈迦さんは全ての人が悟るまでは、自分は涅槃には入らないとか何とか言っていたと思います。つまり、それまで待つと。 ☆参照することができます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆 誹謗正法」 まず私訳を載せます、 私がもし仏になったならば(設我得佛) 世界の生きとしいけるもの全てが(十方衆生) 裏表なく深く信じ(至心信樂) 私の作る極楽浄土に生まれたいと願って(欲生我國) わずか十回程度の念仏をして(乃至十念) 極楽浄土に生まれられない者がいたならば(若不生者) 私は決して悟りを開くことはありません。(不取正覺) ただし、五逆罪を犯したり(唯除五逆) 仏教を誹謗中傷する人は除きます。(誹謗正法) (《Q:〈我れ〉はある? ない? どちらですか(仏教)》=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3454478.html 》No.14baka-hageさんのご回答より) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- ganesha_me
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#10、#11です。 普通に仕事をしておりますので、 回答するのが遅くなりました。 さて、《ブッダあやまてり》というお礼にはどうも、 感心できないところですが、 こういう回答で納得していただけたらと思って記述しました。 わたしも手元に書籍がないので、あいまいになったりもしています。 今は聖書の解釈に移行しているようですが、 また色々とお聞かせくださいませ。 ちなみにマーガンディヤーはその時は 苦しんではいなかったのではないでしょうか。 親に連れられてここに来ているというところが、 自主的に訪れたことでないことを指していると考えています。 ウッパラヴァンナーは自ら出家を望んで来ています。 ただ父親に付き添ってお釈迦様の前に来ただけであれば、 その状況も変わると思います。。 その”自覚”が無ければ、煩悩をかき消すことはできないと、 「無明」を語られる故、この辺り説明は不要と思います。 苦を滅するにはどうあっても智慧の芽を開かせてやるしかない。 また親娘はここへ来てお釈迦様に教えを請うたわけです。 そこでお釈迦様はご自分のできる施しをされたのだと思います。 (もちろん娘の方は請うていないので、お釈迦様は何も言わなかった。) 父親の方はお釈迦様の教えに感化されたので、 娘を溺愛するのを止めたのでしょう。 それを不幸と勘違いした娘は勝手に己の欲を焚きつけると思います。 彼女は絶世の美女として衆の心を釘付けにできたわけですから、 誰も逆らえないという自負の下に、それまで最高に気分が良かった筈です。 男を弄び、欲しい財産は全て我が物にして、 奴隷のように卑しい者には相応の仕打ちをする。 彼女はそういう特権階級として普通の女性だったのではないでしょうか。 人は今まで幸せが当たり前であれば、馴れてしまって、 周りの人のことを同じように考えられなくなります。 自分が幸せな気持ちでいることは大事です。 けれども、どんな人にも考える自由があり、 生活する権利があるべきで、 それは最低限の生活でも幸せは築けるものと考えます。 自ら王族を捨てて、また命は平等であることを伝え、 階級社会を否定されてきたのがお釈迦様です。 私は普通に実在した人物としても素晴らしい人だと思います。 人は、美貌とはいずれ老い朽ち、 聡明な智慧さえも惚けてしまいます。 何もできない自分がそこにいてから気づく。 中にはそれにも気づこうとせず傲慢を続ける人もいます。 因果応報というわけでは無いですが、 謗りは後の子達やその末代まで語り継がれる。 一世代だけでは片付けられないものもあるし、 それを差別するのも私たち人間です。 お釈迦様は神様ではありませんし、 全ての人に万能の秘薬を授けるようなことはできなかったと、 わたしはそう考えています。 何も特別なまじないを使わなくても、 こころはひとりでに治癒できるものであれば、 そうした人の治癒の力を信じ、 それを応援するために、ひとりひとりに合った薬を調合し、 心の病に効くように授けてようとされていたと思います。 その薬は飲まなければ病気は治りませんし、 たとえばマーガンディヤーは薬さえ飲もうとしなかった。 頭からこれは悪い薬だと決め付けて、 結局、好きなように生きて好きなように死んだだけです。 そして正しいと思える道は、 命にさえも捉われてはいけないのかも知れません。 (わたしなどは人の身である以上、そこまで高潔には生きられなさそうです。) 失われて行くのも自然の理。 このことを自然と云うのはいささか心苦しいのですが、 人の世がどういうものかを考えて戴ければ、 やはり現実に日常茶飯事起こっている出来事です。 むしろ不条理の方が世の中多いでしょう。 目の前で亡くなってゆく命に対して、 正しく振舞う意味もなく、 ただひとりの人間らしく接する他なく、 それは人として培ってきたそれぞれの生き様でしかない。 わたしはきっとそれでいいと思うのですが、 未熟ゆえにそれ以上は申し上げられることはないです。
補足
ご回答をありがとうございます。 《ブッダあやまてり》は早計ですが このマーガンディヤー問題では まだ 納得が行きません。その物語のあらすじを No.11のお礼欄に掲げました。ネットで拾って みなさんのためにも 借用させてもらいました。 議論にたとえ勝ってもしょうがないのですが 重大問題だとは思うのです。 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ お釈迦様は神様ではありませんし、 全ての人に万能の秘薬を授けるようなことはできなかったと、 わたしはそう考えています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ もしこうであれば では どうすればよかったかを考えておくのが 広義のブッダの弟子であるはづです。 論点(1) ここでは 両親の求道の行方と 娘マーガンディヤーの結婚 このふたつの事柄が 同時に起きています。 (2) その父母の菩提心の問題は 焦眉の急を要する問題だったのか。けれども ブッダは あたかも この仕事を優先した。ように 凡夫には見える。 (3) 結婚の申し込みに対して 《われは 修行を積んでいる。女の美しさに負けるわけがない》 いくらなんでも この答えはないだろうと――凡夫には――思われる。 (4)もし――瀬戸内寂聴の解説によって―― この世でたとえいくら生きても 放逸でわがまま勝手で 道を需(もと) めない人間は すでに死んでいるのと同じで 生きていても価値がない。 ・・・マーガンディヤーたちは 生きながら死んだも同然で 何の生命 もなかった。 と言うブッダの発言が 事実であり その内容が正しいとすれば われわれは どう受け留め どう考えればよいのか。 たとえば 堕胎をした親二人は もはや 救われないという宣言なのでしょうか。体が朽ちるまで 勝手に存在しておれということなのでしょうか。 (5) ですから ブッダも神様ではないから やむをえなかったという問題ではなく いま どう考えるかにあると思われます。 (6)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そして正しいと思える道は、 命にさえも捉われてはいけないのかも知れません。 (わたしなどは人の身である以上、そこまで高潔には生きられなさそうです。) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ここまで わたしたち凡夫である仏弟子は 謙虚にならなければ――ここまで おのれを空しくせなば――ならないでしょうか。マーガンディヤーに ひとこと あんたは ちょっと その美貌を鼻にかけている かけ過ぎていると言ってやっては いけないのでしょうか。 《未熟》は お互いさまではないでしょうか。 ganesha_meさんを 裁判の席に立たせての討論のようになってしまいました。本意ではありませんので この問題 どう扱えばよいか 思案するところです。
気になって少し聖書をめくってみたのですが コリントの信徒への手紙 一 1章14節以降 「クリスポとガイオ以外に、あなたがたのだれにも 洗礼を授けなかったことを、わたしは神に感謝しています。 だから、わたしの名によって洗礼を受けたなどだれも言えないはずです。 もっとも、ステファナの家の人たちにも洗礼を授けましたが、 それ以外はだれにも授けた覚えはありません。 なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるため ではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの 十字架がむなしいものになってしまわぬように、言葉の知恵によらないで 告げ知らせるためだからです。」 ふとおもったのですが、今回のそもそもの質問である 水子の話と関連するのですが キリスト教界においてそれこそ中絶された子どもや 洗礼前に死んでしまった人の扱いを調べてみたらどうでしょうか。 わたしの手元にはちょっと資料が無いのでなんともいえないですが…。
お礼
ご回答をありがとうございます。 パウロのことばも ちからづよいです。洗礼を授けてやった人たちもいると同時に 自分の使命は《洗礼を授けるためではない》とはっきり言っていますね。 洗礼者ヨハネが 旧約からの引き継ぎ・受け継ぎをおこなう役割をになったので この儀式を イエスは ひとつの制度として 設定したということがありうるかなと思っています。 もう預言者は出ないでしょうし どうなるかなとも思うのですが 必要であれば 神の声のごとくして みちびきがあると思います。 教会での 水子の扱いについてですが たぶん その扱い方を知って そのあと 一人ひとりが どのように 自分の癒やしの物語を編むかではないかと考えます。そういえば 参考になるはづですね。ネットでも調べてみます。 ここまで書いて 少し検索してみますと ローマは 破門のようです。また日本の教会のブログの中に 信じるなら救われるとありました。うぅーん。ですよね。
- littlekiss
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こんばんは、brageloneさん。 ●気の沈む主題でもうしわけないです。 いえ、お気遣いなく。 せつなくて胸がキュンとなるのは、私の中の何かのサインかなと 「夜空ノムコウ」 http://music.goo.ne.jp/lyric/LYRUTND10065/index.html 「死の自己決定権」とハイデガー哲学 http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~tsina/kubes/gotoh00b.htm
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 「死の自己決定権」・・・ ☆ こんな権利だなどと言わずとも 人間は 何でもすることができます。人間でなくなろうとすることも出来るし おこなって来ています。 問答を途中で 保留することは自由であり 保留された側も その自由を受け留めてやらなければいけませんが 問答をしかけて しかけた側が 途中でほったらかしたままにすることは これも自由ですが この自由を ほったらかしにされた側は 認める必要は ありません。 対話の中絶も 人間でなくなろうとする行為です。
お礼
(つづき) 因果応報も その法則としての(あるいは 信念としての)説としては その信念や法則から 人は 自由であるべきだ / さらにつまり そのときには そこでは 因果に応じて報われるという事態もありうると見ているが この見方を固定観念とはしない。・・・ 問題から逸れたかも知れないのですが おっしゃった《一つの後悔から本当に正しいと思える生き方へ繋ぐことができる》を さらに 見つめていくと このいまのような 不条理を超えた自由(――信仰としていえば 不死の境地・縁起共生の実現 / 永遠の生命・永遠の現在過程――) この問題に行き着くように思いました。 まだ熟しませんが。 (つまり わたしはもともと能天気のミーハーですので おろかになって言うとすれば ブッダあやまてり ではないかという思いがあります。ゴータマ・ブッダは マーガンディヤーを相手にした応対では 別の振る舞い方がありえたのではないか これです。 自由なご批判をたまわりたく よろしくお願い致します。
補足
ganesha_meさん ご回答をありがとうございます。 有り難いという思いが あたまの中で 自然と こうべを垂れさせます。 問題から逃げず まづ事実に直面することから始める などとえらそうなことを言っていましたが 《たった一つの〔ではありながら その唯一つの〕後悔から本当に正しいと思える生き方へ繋ぐことができる》――このことを つけ加え得ずに いたわけでした。 《無明から明知への回転によって 縁起が 悪循環から好循環へ回転する》であるとか 回答者さんからおそわったクリシュナムルティを引いて 《問題を生み出している枠組そのものを変える、本質的な生の変容の方法》を取り上げてみるとか やっていましたが――もっとも それは りんかくであって 輪郭にすぎないことは 自覚してつづっていたわけですが(つまりは 仏作って魂入れずというより そもそも その《魂》が分からないゆえにこそ なお問い求めの旅路にあるわけですが)―― 真理は 単純であって すなおから無明の戸がひらける ということなのかなと存じました。 一点 疑問に思ったことがあります。 《辛いだろうがこの子が見守ってくれていると信じることです》 これについて どこか反撥を感じたことも 実際だということを正直に申し上げなければならないと思いました。 もしわたしが その去っていった子であったとしたなら おれをアイドルにするな! / わたしを偶像の神にしないで! と言い返すと思います。というような感覚です。・・・ きのう図書館に行ったら 『釈迦と女とこの世の苦』(瀬戸内寂聴)が目に止まり 読んでみました。 思ったことは 一つに 実存するゴータマ・ブッダのその存在は 想像をはるかに超えた重みがあったということです。女性も――という言い方からして 差別感を持っていると言われかねませんが―― 出家してブッダのもとに修行の道を歩みたいという事態が ふつうであるように 現われます。 いま一つに――やはり疑問としてになりますが―― 例の鼻を高くした美女マーガンディヤー(=《Q:〈我れ〉はある? ない?》No.43以降)に対して ブッダは なぜ かのじょを突き放すような態度をもって 接したのかです。 寂聴さんの本の《第7章 悪女 聖女を焼き殺す》では こうあります。このマーガンディヤーが ヴァンサ国王の第三夫人となったあと すでにブッダに帰依していた第二夫人のサーマーヴァティーに敵愾心を燃やします。しかも その原因=遠因には かつてブッダに冷たくあしらわれたという過去があずかっていたようです。とうとう最後には サーマーヴァティーの館を全部 火を放って焼き尽くし 中のサーマーヴァティーとその侍女たち全員を焼き殺したと言います。 《このサーマーヴァティーのむごたらしい最期は とてもショック無しでは聞けないし うなづけない。世の中は 必ずしもいい人がいい死に恵まれるとは限らないし 悪業を犯した人間が案外この世で栄えていたりするものだ。そういう人の世の不条理を 私たちはどう受けとめたらいいのか》というのは 寂聴の記す誰もの感慨です。 僧たちも ブッダに問うたところ ブッダの答えはこうだったとやはり寂聴さんが伝えます。 僧たちよ 今度の事件で動揺した心を静めよ。この世でたとえいくら 生きても 放逸でわがまま勝手で 道を需(もと)めない人間は すで に死んでいるのと同じで 生きていても価値がない。それにくらべ い つでも熱心に道を需め 正しいことをしようと願い 慈悲の心の燃えて いる者には 永遠の命がさづけられている。現実に肉体の死はあっても 魂の死はない。マーガンディヤーたちは 生きながら死んだも同然で 何の生命もなかった。サーマーヴァティーは どんな死に方をしても 永遠に生きつづける。彼女たちは死の瞬間に精神を統一し 祈ったから すでに聖者の位を得て死を迎えている。 (瀬戸内寂聴:『釈迦と女とこの世の苦』2002 p.158) さらに寂聴の結語のような思いは こうです。 人間とはそういう残酷なことの出来るものだということを 今の私は 考える。善業の報い 悪業の報いというのも この世という短い時間で はかってはならないのだろう。 (同上 p.159) わたしの思いですが 一つに 因果応報は 目に見えた法則ではないと認識すべきではないか です。ことを 前世・来世の問題に持って行くべきではない です。(つづく)