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般若心経が何を伝えたいのか、どう救われるのか
未だ良く分かりません。救われたく、般若心経を読みました。以下、自分なりの解釈を纏めました。ほぼ分かりません。長くなると思いますので、この質問の内容である、「つまり何が言いたいのか? これで何が救われるのか?」を分かりやすく、何方か教えて下されば幸いです。 一応、こういうことを伝えたいんじゃないか、という自分なりのものを置いときます 「例えば君が一番悩んでいる辛い苦しいとか、それらも含めて、全部何も動じなくて良いんだよ。感情も思考も、大事なのは「心の中空っぽ」にして、「此処には何にも無い」って、「何も考えない」って考えて、良いも悪いも、「楽しくも悲しくも全部反応しなければ、どうでも良いって捨て去れば、何にも無い、当然悩みだって無い」って、したら迷いなんてないって、心痛むこと、心病むことなんてないようにならないかい? だって、何も無いんだからさ。「君を脅かす物はない」。「君が何も無いって全てを絶つんです」。色んな事頑張らなくて良いんだよ。何にも感じない、何にも考えないって、ロボットって思われるかも知れないけれど、でも、何にも動揺しないし、傷つかないんだよ。無の境地、苦しいもの怖いものなんて「心が感じ無い」静かな世界って、安らぐよね。楽しさも嬉しさもないっていうと怖いかもだけど、そんなんじゃないよ。そうじゃないのさ。謂わば君を苦しめる、考えさせられる「現実」というものに拘りすぎないで。「そういったものを心の中から、全部、無くそう。物凄く遠ざけよう。滅ぼしたって構わない。苦しみは苦しくなくなるし、痛みは痛みじゃなくなるよ。全部掃除して無くなって、綺麗になったなら、何でも救われる、安心できる超然に辿り着けるよ」。魔法の言葉さ、「貴方には何も無い。貴方から何も無くなった」。覚えておいて」 以下、般若心経の解釈です。 この世には本来は何も無い。でも「何かある」と思うのは自分の妄想。本当は何も無い。「何かある」と勝手に思っているのは「自分という心」だけ。それに目鼻耳口などの感覚器官も本当は何も捉えていない。心も感覚器官も本当は何にも無い。 本当に何にも無いんです、最初から永遠に何も無いんです、この世には。何にも無いから生れることも死ぬことも当然成り立たず有り得ないし、何にも無いから汚れもしないし綺麗になることもない。当然増えも減りもしない。 心の動き、何かを感じる感覚、何かへの想い、こうやっていこうかという意志、こうだろうなという認識、それらも無いんです。感覚器官である、眼、耳、鼻、舌、身体、心にさえも実態はない。また、形も、音も、香りも、味も、触覚も、心に感じることさえも、そんなもの何も実態はない。眼にみえる実物世界から意識できる精神世界まで、「でも、ほら、ずっと其処にあるじゃないか」という現実、実態は何一つ無いんです。 (此処から何を伝えているのか分かりません) だから、そもそも迷いなんて無く、無いもんだから「迷いが無くなる」なんて工程も起きはしない。悟らなくたって良いんです。例えば今の「本当の事を何も知らない」でいることから脱しようと、その自分の考えから離れても良いし、それにそんなことしなくても大丈夫、どっちでも良い。「この世には何かが在るんだよ」という執着を捨てるだけ。「じゃあこれから頑張って悟りますよ」という考えにもやらなくて良い、執着してはいけない。老いることも死ぬことも別に、どうでも良い、感心が無い、何にも無いって考える必要も無くなるもんだから、老いと死がつきることもない(此処が分かりません。老いも死もないから、そもそも老いと死の問題が解決するってこともないんだよってことでしょうか?)。「苦しみや、苦しみの原因もない。当然苦しみもないんだから、苦しみから解放される手段もなく、苦しみを制する方法も、そもそも成り立たず、存在しない」。「だから苦しまなくて良いんです。逃れようと頑張らなくても良いんです。だって原因も解決方法も、最初から無いんだもの」。「救いがないとかじゃない、問題なんて最初から無ければ、解決なんてしなくても良いでしょう?」、元々最初から「本当に何もない」のだから、知ることもなく、得ることもない。本当に、何にもなり立たないんです。何かあるとするなら、それは貴方の錯覚です。「貴方の中には、何も無い」。 真実を理解することなんてしなくて良い、涅槃に到達することもしなくていい、悟りを得るなんてしなくて良い。そもそも悟りである「何かから救われよう」と求める人は、日頃「例えば心をざわつかせるようなもの、本当は何にも無いんだよ。だから安らげるな、安らごうか」という安心できる意識の場所に至る知識や、それを実践していて、それを拠り所としているから、前述の「妄想な世界」に拘ることもないので、心にわだかまりがない。(多分、苦しさとか悲しさとかそういうネガティブなもの? 等に)捕らわれることもないし、だから恐れることもない。「全ての迷いから遠く離れているから、心は永遠に安らか」なのです。過去、現在、未来の仏様たちも、そういった安らぎに至る知恵、やり方を実践をすることで、妄想の世界の中から、謂わば本当の本当な「悟り」を得ることができたのです。 だから、その「大いなる安らぎの境地に至る知恵とやり方の実践」こそが、真実の言葉、悟りの言葉、最高の言葉で、一切の苦しみや虚しさを取り除いてくれるのです。じゃあ教えますね、この安らぎの境地に至るための、真実の言葉とは。「歩いて行こうとする人よ、生きていこうとする人よ、どうか、現実、妄想に捕らわれない、「あぁ、此処には何にも無いんだな。それこそ苦しさ悲しさというものさえも」という安らぎの境地へいきなさい。みんなそろって、いきなさい」。
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- hiro-hiro-hiro
- ベストアンサー率35% (90/252)
こんばんは. 般若心経はそういう個人的な精神的な苦しみとか具体的な個々の対象についてでなく,世界全体について書いてある.処世術的なことや現実生活で見つけた個々の問題に限定して当てはめて適用しようとすると変なことになる.つまり元々の意図から外れる. とはいえ質問者さんがお書きになった自分なりのものは,質問者さんが真剣に考えて出したた答えで,質問者さんにとっての真実で質問者さんの方法なので,取っておくといいと思います. 「以下、般若心経の解釈です。」以降は原因を遡って書いている.「(此処から何を伝えているのか分かりません)」以降は原因から順に書いている. (此処が分かりません。老いも死もないから、そもそも老いと死の問題が解決するってこともないんだよってことでしょうか?) それについてはどうせ誰かに聞いて教えてもらっても,尋ねる前と変わらないなんとも言えない気分になると思うので,疑問として残しておくといいでしょう.到達したらわかります. 「つまり何が言いたいのか?」 般若心経に書いてあることは到達した人でなければわからない.つまりほとんどの人はなにが書いてあるかわからない. オレはこの件に関し説明するのが上手いので,質問者さんが理解するよう説明することはできると思うが,たとえやる気のある質問者さんに説明したしても,悪いことはあってもいいことはなに一つないと思うので,説明しません. ギャーテー,ギャーテー以降は精神世界の業界?でマントラと呼ばれるものらいくって,到達するための方法で,その前に書いてあるのはいかにそのマントラがすばらしいものかという説明で,いわば前置きであって,読んだ人を意で導くものであるから,質問者さんは前文を理解しようとは思わず,なんだかすごいことが書いてある,これに続くのは到達するためにとても有効な,聖なる言葉.ギャーテーギャーテーは素晴らしいんだ,とでも捉えておけばよろしい.つまりことあるごとにギャーテー,ギャーテーを唱えてみればよいでしょう.唱えてみてあわなかったら質問者さんにとって向いてないのでやめればいいでしょう. 「これで何が救われるのか?」 人間
- oska2
- ベストアンサー率44% (2301/5116)
>般若心経が何を伝えたいのか 般若心経は、真言宗・天台宗・禅宗系で唱えますよね。 浄土真宗系宗派では、唱えません。 これら宗派の違いは、何だと思いますか? 「自力と他力」の、根本的な違いなのです。 般若心経は、「自ら智慧を磨いて修行する先の、悟りや成仏を求める」方法を説いた経典です。 従って、「修行を行わなければ成仏できない」という教えですね。 時々TVで特集を組んでいる修行僧も、多くは般若心経を唱える宗派に属しています。 修業の内容は、各宗派ごとに色々解釈が異なります。 質問者さまが、何宗を基本にしているのかでも異なります。 >どう救われるのか これは、個々で異なると思いますね。 真言霊場である四国88か所を巡礼している方も、色々な悩みを持っています。 (全国指名手配された)殺人容疑者が、巡礼していた事実もあります。 天台霊場である西国33か所巡礼も、同様。 ただ、西国巡礼の場合は分かり易いですよ。 「最近、煩悩を多く持った死者が多くて地獄が満員だ」 「生前に、煩悩・穢れを無くして死後の世界に来るように」 「その為には、生前に33か所を巡礼しろ!」 以上は、閻魔大王が(西国33所を定めた)徳道上人に伝えた言葉です。 何か、答えがある様な気がしますね。^^;
- fujic-1990
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「すべては、心の持ちようだ」ということを伝えているのだと思います。 「救済をもとめ、その結果、救われたと思うのも、思わないのも、自分の心の持ちよう1つだ」と。一介のお経に… 極論すればですが、「頼ってもダメだ」ということなんだろうと思います。 仏様は、エホバ、ヤハウェ、アッラーなどと呼ばれている唯一絶対神とは違います。日本古来の神々は先祖神に過ぎず(出雲で談合する程度)、帝釈天や毘沙門天などの神々は、人ではなく仏と仏教を護るために存在します。 唯一絶対神は全知であり全能ですから、人々を救ってくれるかもしれませんが、実は質問者さんを悩みの淵に突き落としたのもあの神の御業かもしれません。 少なくても、現在質問者さんが悩んでいることは知っているはずなのです。でも、「救済しようとは思われていない」ことは明らか、なんですよね、現に悩んでいるわけですから。まあ、自分で突き落としたのなら救わないでしょ。神に朝令暮改はないでしょうから。 その点、仏も天照大御神も帝釈天も全能ではありません。病気を治すという薬師如来でさえ、薬の入った壺をもっています。「私にすがるのではなく、この薬を使え」というわけです。 全能でないので、質問者さんを悩みの淵に突き落とすことはできませんが、逆に救済もできません。「自分で心持ちを変えて、自分で救われる(解脱)」のを待つしかないのです。 般若心経はそのことを、質問者さんを含む我々に伝えたいのだ、と思っています。曰く「仏は敬して、頼るべからず」。
お礼
ご回答ありがとうございます。
- furamanko
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般若心経とは各々の気休めに過ぎない。 本当に神仏が居るのなら北朝の極悪非道お坊ちゃまを何時迄も野放しにして放置しておくのか。 本当に神仏が居るのなら極悪非道は即消滅出来るはず。
お礼
ご回答有り難うございます。