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心の哲学:心の哲学的説明と科学的説明の違い

 心について科学哲学の立場で勉強していますが、壁にぶつかってしまいました。 それは、心について、哲学の立場で説明することと、科学の立場で説明することの違いが判らなくなってきたのです。  哲学では、心に関する「概念」を論理分析していくことだ。科学では、「仮定」と「実験」で理論を実証していくことだ。との説明がありました。しかしながら、哲学での「概念」は当然のこととして科学理論をも踏まえたものであります。  そうすると、哲学の概念の中にも科学理論が内包されているわけで、そのような概念とは、科学理論とどのような違いがあるのだろうか、という疑問に突き当たってしまったわけです。  これは、哲学するとはどのように思考展開していくのかという疑問にも通じることです。アドバイスと参考文献の紹介をお願いします。

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回答No.47

 けっこう固まってきました。「内部観測」に関して、自分の理解にまだまだ修正の余地があることを自覚していますが、自分が知る領域に引き付けてある程度把握できた気がします。  ここでも回答されているmotsuanさんの質問「人間にとって物語とは何なのでしょう?」(下記URL参照)への私の回答No.8で書いたのですが、「ガダマーの解釈学」。これで途中までは行けそうです。それをここに再掲(コピペ)するのはいくら何でも暴虐ですので、そちらはそちらで軽く目を通していただくとして、ここでは簡単にかいつまんで書きます。  ガダマーは、ある文章(特に古典)が内包している「意味」を客観的に読み取ることは不可能だと断じています。というのは、文中のある単語の意味はそれが置かれた文脈に規定され、その文脈もまた文章全体の中で位置付けられて意味を持ち、さらにはその文章そのものが、それが書かれた社会や時代背景という大きな「文脈」の中で意味を持つものだからです。「客観的に」読み取ろうというのであれば、それらすべてが「客観的に」把握されていなければなりません。ところが、逆に見ると、文脈は単語から形成され、文章全体は文脈から形成され、社会や時代背景はその文章を含む雑多な文物から形成されています。つまりここには「どうどう巡り」が生じてしまう。単語と文脈、文脈と文章、文章と社会は、互いに他方に依拠して支えあっている。…どちらか一方が「客観的に」固定されていれば、他方も客観的に固定できる見込みも立つのですが、それは事実上不可能です。したがって、ガダマーは「文章の客観的読解は不可能だ」とするのです。  このあたりの問題の枠組みは、内部観測論の「内部観察者」と「観察対象」との関係にきわめて近いものがあると感じました。完結した系を外部から観察する「外部観察者」とちがって、内部観察者は完結していない(開放系の)系の中で、対象を同定する「文脈」、その文脈を規定する文脈、その文脈を…という無限遡行を強いられるのです。ここでも「客観性」というものは、素朴な自然科学が前提する「カルテジアン・カット」のように簡単には得られません。  さてしかし、ここでガダマー先生には「脱臼」していただかなくてはなりません。百歳を越える御高齢なのですが…。  というのは、やはり問題が「人の心」となりますと、ガダマーがテクストを相手に構想した解釈学とはまた別の問題が生じるからです。  ガダマーが相手にしたのは、あくまでも「古典」でした。現代のわれわれと、過去との間の「文脈」の差異、これがあるがゆえに「問いと答えの弁証法」が生じ、テクストと読者の双方を巻き込んだ運動となり、その中で「地平」が融合していきます。その運動全体こそが「真理」であると彼は述べています。そこでの「真理」は、それが掴まれてしまえば運動が終結するというような「客観的な」ゴールではありません。無限の、開放系の弁証法です。  前の書き込みでも述べましたように、人間および社会を相手とした知は「開放系の知」であらざるをえません。ガダマー解釈学も開放系の知にはちがいないのですが、それでも既に完結した「テクスト」、および既に完結した「過去」を相手にしています。これに対し、私たちが考えようとしている「心」は、現在のものを当然含みます。したがってなおのこと「完結していないもの」と言えましょう。テクスト以上に。  この点に注目しますと、例えば「人間とは何か」という設問は次のように分解できます。すなわち、    「人間は何であったか」(過去への視線)    「人間は何でありうるか」(未来への視線) です。  前者については、一定の時間の区切りさえつければ、何とか答えが得られる可能性があります。ところが後者に関しては、やはり未来というものの本質的原理的予測不可能性ゆえに決して解答は得られません。また、過去は常に「現在」が積み重なっていくことで膨大に膨れ上がっていきます。そのことを考えると「過去」を片付けるのも容易ではありません。  同様のことが「心とは何か」という問いに関しても言えるでしょう。この問いもまた、    「心とは何であったか」    「心とは何でありうるか」 という二つの問いに分けられます。以前予告申し上げていた「文学っぽいアプローチ」というのは、実はこの前者の問いに関わるものでした。「心の真実の姿を覆い隠しているかもしれない《近代の神話》」を剥ぎ落とすために、過去のさまざまな時代、さまざまな地域との間に「問いと答えの弁証法」を経験することを通じて「心」というものを見ていく…そういうようなことでした。  でもやはり、それだけでは話は済まない。…と、こう来ますと、satonohukurouさんの問題意識である「幻影肢」からはガンガン話が飛びまくるわけですが、本質的に予測不可能が未来が絡む以上は、少なくとも「心の可能態」に関して説明するところまでは行っていないと「心の哲学」として充分なものにはならないのではないかと考えます。これ、ものすごいことですので、もちろんsatonohukurouさん独りでやれってことじゃないです。関連学界全体でそっちもやんなきゃいけないのではないかと。  「心の可能的なあり方」だと、まずは「脳」。心を担う物質的基盤として。心的内容を納める器として。  そして「心理学」。…以前の書き込みをお読みいただいてお分かりと思いますが、私は過去、および現行の心理学にはあまり厚い信頼は寄せていません。一定の有効性はあるでしょうが、いつでも「エセ科学」に堕しうる。少なくとも思索の素材を提供する学、そしてできれば、素朴実在論的実証主義を乗り越えた学となってくれれば…と願います。  でもって「哲学」。人間および世界を捉えようと試みる知としての。  要するに物質的基盤から観念に至るまでの多層的なレベルのどこかに還元するのではない、その全体が絡み合った複雑系として「心」を眺めてみる必要があるのではないかと思うのです。それができるのは「科」に分化した「学」たる「科学」ではなく、哲学でしょう。  幸いなことに、前の書き込みでも紹介しましたように、カオス論などへの注目あたりから、科学の側から人文諸学への歩み寄りが始まっております。「カオス」というのは、解釈の対象たる「自然」の側から人間に突きつけられた「否」であろうと思うのです。「問いと答えの弁証法」を稼動させるところの「否」。それに科学はようやく耳を傾け始めた。ですが哲学を初めとする人文諸科学は、太古の昔から一意に還元できない人間的諸現象を宿命的に、当たり前に相手にしてまいりました。この点からして、「歩み寄り」は「科学の側からの」歩み寄りです。人文諸学の側からではなく。  ここから、「哲学の見方」と「科学の見方」という両者の区別には神経質になりすぎることもないかな、とも思えたりするわけです(哲学と科学を截然と区別すると、哲学もまた仕切りの中に囲われた「科-学」の一つに成り下がることにもなりますし)。ただ、「科学」が示すことどもを盲目的・無批判に受け容れるのではなく、その知の成立基盤を問い、疑い、検証しつつ取り込む…そういうことでよいのではないかと考えます。  何やら話が拡散して、ご研究には直接役立つ範囲を逸脱しているのではないかと恐れますが…いかがでしょう。

参考URL:
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=39578
satonohukurou
質問者

お礼

ご回答の皆さまへ  No50 の回答にお礼をし書いている現在も、議論ははるかに先を行っております。お礼が遅く申し訳ございません。serpent-owl さんから結論をいただきましたので、少しコメントさせていただきます。 serpent-owl さまへ  長い間、本当にありがとうございました。また返礼が遅くなりましたことをお詫び申し上げます。serpent-owl さんにゼイゼイと息を切って、振り落とされまいと、付いて行くのがやっとという状況です。  多岐にわたるご回答をいただきましたが、お礼としてまして、私の最大の関心事に限定し理解できたことと、私の本質問から得た私の考えを述べたいと思います。  「心」に関する「知」が有する性質=「開放系の知」であり「完結していないもの」である。このパースペクティブからは「過去への視線」と「未来への視線」が得られる。  過去は現在の累積でありその無限性から説明が困難である。未来は本質的原理的に予測不可能である。予測不可能性から少なくとも「心の可能態」に関する説明が必要ではないか。すなわち、「脳」、「心理学」、「哲学」など、いわゆる物から観念までの各階層のいずれかに還元するのではない『その全体が絡み合った複雑系としての「心」を眺めてみる必要』がある。  科学は、自らの拠り所であった実証主義から現象(世界)を説明することに限界があることの自覚から人文諸学への歩み寄りが始まっている。このような現況からすると、「哲学の見方」と「科学の見方」の区分に神経質になることもないのではないか。要は、真理を追究する態度で重要なことは、「その知の成立基盤を問い、疑い、検証しつつ取り込む」ことではないのか。  大変貴重なそして重い回答でした。心という事象をいかに説明するのか、ということを勉強していくうちに、哲学での分野での説明と、科学での分野での説明の態度に疑問を持つようになりました。それは、哲学で使用している心に関する知識は科学的知識をも根拠としてしているのではないか、それなのに科学において心は学の対象足りうる資格を有するのかという問題を有するのではないのか、この2つの疑問のために、一体「心を説明する」と言うことはどういうことなのだろうか、という問に突き当たる羽目に陥ってしまったのでした。  serpent-owl さんの回答から私が学んだものは、 「心の性質(本質)を理解せよ、そしてそこから出発せよ。既存の論理に還元するな。」 でした。  serpen-owl さんは、心の本質を「カオス」ととられておられました。「開放系の知」としての本質です。先に引用しました「心の科学は可能か」(土屋 俊、認知科学選書)で、土屋は結言に代えて心の説明の困難性について、心の「文脈依存性」を指摘しています。すなわち「私」と「社会」を内容に含む概念は形式的処理が困難である、としています。serpent-owl さんの回答にも通じるものがあると感じました。  そこで、心の概念を説明していくうえで問題とすべきは、「複雑系」、「文脈依存」で性格づけられる心を説明するに相応しい「論理」を見出していくことだと思います。心の概念を説明する論理として「カオス」、「量子論」、「進化論」・・・(たぶん他にもあるはずですが、これから勉強していきます。)が議論されているのだと思います。    「心の可能態」に思いをいたすと、なんだか「心」がますます果てしなく遠くのものになるように感じますが、とりあえず、第一歩を踏み出すために、私に何ができるかを考えてみたいと思います。 本当に貴重なご意見ありがとうございました。多くの方に参加していたできましたので、その方々にお礼をしなければいけません。もう少しオープンにしておきます。そして、少しずつ終末態勢とさせていただきたいと思います。

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  • stomachman
  • ベストアンサー率57% (1014/1775)
回答No.22

二日酔いで頭が痛いstomachmanです。酔っぱらっちゃって、どーもすいませんでした。ですが、酔っぱらいの戯言でも、誤解を解くのには多少お役に立ちましたかな?  昔の哲学者が何と言ったか気にするな、とアドバイスしちゃってますから、引き合いには出しませんが、主観的体験のなかに心の重要な問題が含まれているのは間違いない。しかし単に内省的それを捉えて分析しようとすることこそが、一番危ない自己言及です。主観的体験を語るつもりが、語る経過を述べたただの寝言の山を築く。所謂寝椅子を使った連想による「治療」ってのも、異常の根元を見つけだす、という分析のみならず、その過程に於いて患者自身が問題に対峙できる言葉なり概念なり論理なり観点なりを獲得して変容し、経験を客体化していくことで緩解に向かうという仕掛けだった筈です。第一、意識できる部分、内省的に言語化できる部分なんて、心のごく一部ですからね。言い換えればヒトにとって内省的に扱えるのは個々の具体的経験や感情ですらなくて、まして主観の仕組み全体を捕まえるのは誰にもできそうにない。用語もない世界に踏み込んで、なんとかこれを本に書いて、賛成・反対を投票してもらって、それが哲学か?stomachmanなら感想文と呼ばせて戴く。  そこで、「心」をいったん主題化して、客観性のある手段で文脈から或る程度独立に誰にでも起こること、そういうもんから手を付けて手間を掛けて少しずつ解明する。でたらめに言葉をこしらえるのではなく、概念ひとつづつを出来るだけ検証可能な仮説にまで洗練する。このようにして、混乱し論理などぶっ飛び個人差も激しい心の世界を外からにせよ内からにせよ観察・記述するための、確たる足場を地道に組んでいくことこそ、(科学を含む)哲学の使命でありましょう。その足場自体が、対象と同様論理もへったくれもないぶっ飛んだ代物では、これは哲学じゃない。また、たとえば感情的に人を誹謗するのと、哲学的考察とが全く同じ仕組みの心の働きだと言い切り、すべてが所詮自己言及に陥ると結論するのは、数学と超数学を混同するのと同列のレトリックに過ぎないでしょう。いや全てが自己言及だとお考えなら、このテーマから早く撤退した方が良い。  イメージの実在が科学的方法で実証されたことは、心理学にとって非常に重要な意味を持っています。錯視だって実在するじゃないか、というInput-Outputの関係だけの議論とは本質的に違う。単なる説明用仮説としての内部構造じゃなく、ホントにある。真に行動主義を越え、主観、それも人の心に共通にある機構という実り多い(代わりに低級、と言われりゃそれはそうですが)所に非侵襲的に分け入ってみせた。この意味で、画期的であると思います。例えばマーの視覚の理論は、強力な予言能力・実証的根拠を持ちつつも科学というにはまだ検証しきれない部分が多い。だからこれはまだ哲学です。哲学ならではの説明、なんて構えなくてもいやでも哲学になっちゃう。科学の最初の部分は皆哲学ですから。そして、それを実証する方法を探っていくのは大切なことです。科学できるならしちゃうべきです。どこまでが客観か、その線すら動かすことが出来る。これは一番初めにご助言申し上げたことの繰り返しになります。ポアンカレやアインシュタインのアイデアが、いかにして形而上学から科学になっていったか、その同じプロセスを辿ることができれば理想的です。  大前提として、人に心がある、ってことは素直に認めて良いんじゃありませんか。素朴実在論と言いたければそれでも結構ですが、これを認めなければ、行動主義か、座禅組んで寝言を述べるかの二者択一に陥ります。純粋な観念論における不毛の議論は論外としましょう。ただ、心を神秘的な物、特別なものとして分析から守る。あるいは自分自身を理解していると思っている「自分のモデル」(意識の主要な部分だと思いますが)その錯覚を守る。こういう抵抗が一般に生じがちであることは容易に予想されます。ことに、一見神秘主義とはまったく逆の立場に見える、「ストレス」だの「イドのエネルギー」だのといった疑似物理学的アナロジー、あるいは様相論理や位相幾何のアナロジーでも同じ事ですが、こういうもので構成される「テツガク」も、これまたしばしば本来あるべき虚心な哲学を拒絶する、殻に籠もった神秘主義に陥ってしまいます。  クオリアという観点は、主観の構成部分の一つをうまく言い当てた、旨くすれば客観性をもちうる概念であるとともに、神経回路の集団、システムがサブシステムに指令しあるいは突き動かされるという構造と、主観的経験とを繋いで説明できるかもしれないキーワード、あるレベルのサブシステム間で交わされるいわば「内的通信信号」の存在に迫っているのだと思います。しかしこの概念もだんだん拡大し、焦点が甘くなりつつあるような気がして、危惧を抱いています。やはり実証(機能的、あるいは解剖学的でもいいんですよ)を行うには、まだ予言能力が十分開発されていない。うっかりするとそのまま単なる神秘主義に祭り上げられちゃうんじゃないか。もったいない話です。  客観だけが真実だなんて、そんな幼稚な観点では心の全容には迫れません。これはfwappyさんの仰るとおりですよ。それどころか、理論物理でしばしば見る「toy theory」の研究のように、考察の中間段階においては観測可能性や「真実」なぞとりえあえずどうでも宜しいという位の柔軟さが必要です。感情や思考の状態を表す言葉は幾らも辞書に載っていますし、他人の言動を予測し意図を推測するぐらい誰でもやっていることです。勿論己の偏狭な固定観念から人の考えを邪推する程度のことではあるけれども。しかし人の心は所詮すべて計算不可能だ、なんて諦めてしまうのは早急です。なにがしか予言は可能かも知れない。かと言って、客観化できそうな部分すらなかなか手を付けかねている心理学が、いきなり個人の個人的経験と個人的環境と個人的遺伝の影響下において、その個人の完全なモデル化ができる筈はない。それどころか客体化はいつまで経っても不可能かもしれない。(この事情を考える上では、統計力学はひとつのアナロジーになるかもしれませんね。アナロジーとして自発的対称性の破れ、ストレンジアトラクタ、フラクタルが出てきてもそれはおかしくないですが、深入りして得るところがあるかどうかは保証致しかねる。)  再び言います。哲学は思考の節約。一つの原理で多くの現象を説明しようとする、その原理の探求です。原理にはおのずから限界はあり、適切な範囲の設定、つまり「良い問いの立て方」がある。それを見極めることが大切だと思っています。そしてまた、認知科学との関連を断ち切った純粋に内省的な心理学にどれほどの価値があるかは大変疑わしいとも思っています。  全くの余談ながら、完全性を持っていない論理を使って具合が悪い訳じゃない、というのは全くその通りですが、公理と推論の体系すら明示してない「様相論理風図式」の完全性を語ったってしょうがないです。

satonohukurou
質問者

お礼

物分かりの悪いフクロウのために何度も説明していただき恐縮です。 ここまで説明していただくと、ぼんくらの私にも琴線に触れるものがありました。 >科学の最初の部分は皆哲学ですから。そして、それを実証する方法を探ってい >くのは大切なことです。科学できるならしちゃうべきです。どこまでが客観か、 >その線すら動かすことが出来る。これは一番初めにご助言申し上げたことの繰り >返しになります。ポアンカレやアインシュタインのアイデアが、いかにして形而 >上学から科学になっていったか、その同じプロセスを辿ることができれば理想的 >です。 >客観だけが真実だなんて、そんな幼稚な観点では心の全容には迫れません。これ >はfwappyさんの仰るとおりですよ。それどころか、理論物理でしばしば見る >「toy theory」の研究のように、考察の中間段階においては観測可能性や「真 >実」なぞとりえあえずどうでも宜しいという位の柔軟さが必要です。 まだ確信とは言えませんが、哲学をするとということの意味が肌を通して感じられてきたように思います。 「一つの原理で多くの現象を説明しようとする」その原理を追求することであり、そのためには「良い問いを立てる」ことが大切である、の教えをかみしめます。

回答No.21

 ふくろうです。邪悪な方の。  なにやら妙な盛り上がりになってまいりまして、質問者のsatonohukurouさんも困惑されているのではないかと懸念します。それぞれの人がそれぞれの考え方から意見を述べており、現時点ではまとまった一つの方向を指し示すものにはなっていません。これはやはり、「心とは何か」という問題の難しさに対応してのこと、その意味ではやむをえないことかもしれません。気長におつきあいくださいませ。>satonohukurouさま  なお、もはや質問と回答のやり取りという「教えて…の本来のあり方」からは逸脱して回答者同士のやり取りも始まっておりますが(って、私が始めてるんですが)、これも仕方ないでしょう。全然バラバラの諸回答にすべて質問者が答えなければならないとしたら、質問者の負担が重くなり過ぎます。それに問題の論点を煮詰めていくには議論も必要。これができないとなれば、そもそも「教えて…」に学問のページがあるのが間違っているか、「教えて…」で学問的議論をやるのが間違っているかのどちらかということになりましょう。…後者ではないと信じたいものです。「質問者の疑問に答える」ために必要な作業としての議論まで禁じられては、何もできなくなりますから。  さて、fwappyさん、しばらくでした。「全知全能」ではお世話になりました。(ところで、「どんな命題でも証明可能で、しかも無矛盾な論理体系の存在について」というご質問は、どうして消されてしまったのですか? 書き込み、用意してたのに…)  で、「心に関する仮説を証明する実験はできるのか」というsatonohukurouさんの問いに対して「絶対に出来ないのでしょうか」との問い。…こういう言葉の返し方はちょっといかがなものかと思わなくもないですが、「絶対に出来ないことはない」というご意見ならば賛成です。実際、心理学者はたくさん実験しておりますからね。動物や人間を使って、報酬の与え方と意欲の関係を調べたり、色彩の心への影響を調べたり、被験者に実験意図を説明せずにロールプレイの中でどう反応するかを見たり。  ここで得られた経験的事実から何らかの法則性を導くという作業は、ある程度の成果を上げています。…が、それはあくまでも「心の断片」。「高次機能」まで含めた「心」の全体像に至りうるものなのか、少々疑問です。というのは、全体を要素に分けて検討するのが「分析」であり、その要素をふたたび全体へと組み直す説明作業が「総合」であるとすれば、「心」が問題となる場合、「分析前の全体」と「分析・総合後の全体」とが同じものであるかどうか確実ではないように思われるからです。  それから、「人は世界を客観的に観察しているつもりになっているが、しかし実は主観的経験にすぎない」とのご意見について。  前にも書きましたように、素朴実在論は場合によっては間違いのもとになると考えます。がしかし、それに対して素朴独我論を対置するのも他方の極論というもの。そこに持ってきて「世界は観察できないのではないでしょうか?」となりますと、これはもう、古代ギリシアから近代に至るまでの懐疑主義・不可知論と何ら変わるところはありません。これだと「何も知りえない」という「断定」にすら至ることはできず、「何も知りえないのではないか?」という問いだけが虚空に漂うことになります。この場の議論で言えば、質問者に「答えはない、あきらめろ」と言っているのと同じことです。  私も「心を捉えることは不可能である」との可能性は否定しません。が、その「不可能」が証明されたわけでもない。証明されれば、それはそれで立派な「知」であり、不可知論からの脱出です。が、その証明すら試みようとせず「できない」と断定してしまうのは不可知論としても不徹底であり、安易な思考停止とも映ります。ですから、よろしければfwappyさんにも一緒に考えていただければと願うものです。  もう一つ。「今までの科学は、自分自身を対象とはしませんでした」とのこと。これは私が次あたりに書こうかと思っていたことにつながります。最近の科学の動向は、そうした科学自身の限界を乗り越えようとしている部分があるようです。カオス論、複雑系論などに、私は特にそれを感じます(で、勉強中です)。  科学が科学自身を対象として、その反省を始めたら、それ自体すでに「哲学」の営みに他ならないでしょう。この場の話題で言うならば、それは「心理学をはじめとする心の科学の成立基盤を問い直す」作業に異なるものではない。これに関しては、私は先に述べたように「実証主義の実証主義による乗り越え」および「身体論の地平から心を捉え直す」という考えを持っております。そしてもう一つ、「文学を土台としたテクスト解釈」…ある意味、motsuanさんが言われている「物語」にも関わる…による「心」へのアプローチを現在検討中です。もう少し考えがまとまったら、ここに上げたいと思います。

satonohukurou
質問者

お礼

仰るとおり「困惑」しております。 >全然バラバラの諸回答にすべて質問者が答えなければならないとしたら、質問者 >の負担が重くなり過ぎます。 優しいお言葉に感謝申し上げます。「邪悪なフクロウ」なんてとんでもない。 ご明察の通り、私には、この場を取り仕切る実力は持ち合わせておりません。 しかしながら、皆様方のご発言を丹念に読ませて(勉強)させていただいております。 回答者同士のやりとりはルール違反だそうですが、現在の私にとっては、この場での議論の行方が重要な勉強となっておりますので、どうか続けていただきたいと思います。 ところで、私はもともとは「幻影肢現象」を通じて心について勉強していました。 まさしく「身体論の地平から心を捉え直す」ということに挑戦しようとしていたわけです。しかしながら「科学的テーマ」にもなっているこの問題に、哲学的に考察する意義(意味)をどこに見出すかを見失ってしまったというわけです。 このようなわけですので、現在検討中とのことですが、期待しておりますのでよろしくお願いします。

  • fwappy
  • ベストアンサー率0% (0/5)
回答No.20

stomachman氏 >え?クオリア?あのあれですか。びみょーに形而上しちゃってるやつね。 >うああ。ってやつね。わはは。ははは。 世の中に何も知らぬことはない「全知」の方にとっては 思わず笑ってしまうようなことでしょうね(笑) 世間ではstomachman氏のように客観こそが真実だと信じておられる方が 沢山いらっしゃいます。しかしながら、結局のところそう信じているのは 自身の主観でしかありません。それを意識しないだけです。 素朴実在論にとって最大の脅威は、実在を観察している自分自身が、 観察される対象として引きずり出されることです。それは自分が、 暗黙のうちに任じてきた「超越的視点」を失うことに他なりません。 今までの科学は、自分自身を対象とはしませんでした。したがって、 「超越的視点」を抱きつづけていても何も問題はありませんでした。 自分が世界について何もかも分かっているという態度をとり得るのは 世界の中に自分が存在しないからです。しかしながら、それが本当に 正しいのでしょうか?

  • fwappy
  • ベストアンサー率0% (0/5)
回答No.19

里のふくろう様 >これらは、科学者が科学論文を記述しているとしてよろしいのでしょうか。 さあ、私には分かりません。 クオリアMLで直接質問されてはいかがですか? クオリアが科学で扱い得るのか否か、MLでも議論になっております。 しかしながら、主観的現象と客観的現象の間に何らの関係もなく、 まったく独立の現象だと考えるのでもない限り、科学的立場からの 研究は否定しようがないでしょう。いかがですか? >他者の心は観察できないのではないでしょうか? もし、私が「世界は観察できないのではないでしょうか?」と いったらどうしますか? >心に関する仮設を証明するための実験は出来るのでしょうか? 絶対に出来ないのでしょうか? >科学の根拠としての客観性が担保できていないのではないか 今までの科学において、担保されてきた客観性とは何ですか? 我々は世界について観察していると思っていますが、 それはあくまで主観的経験であります。あなたのいう 客観性はどこにあるのでしょうか?あるというなら 見せていただけませんか?今、ここで。

  • stomachman
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回答No.18

 寝てないよ。寝てまへんてば。ちやあーんと。起きてましたってば。ふいー。よだれ?違うよ、ち●ぼの話でしょ?ち●ぼが、えと、え?クオリア?あのあれですか。びみょーに形而上しちゃってるやつね。うああ。ってやつね。わはは。ははは。  いや、いや、いや。主観が全部計測不能てわけじゃないのよ。だってほら、あのイメージ。イメージの、ほれ、回転ですよ。回転に掛かる時間てのが、見事に角度に比例する。だから、変なかっこした立体模型をだね、こう、写真に撮る。んで、また別の向きから写真に撮る。微妙に違うかっこした模型をもおひとつ持って来てだね、こう、写真に撮る。それからえと。初めの写真と次の写真と二つ並べてさ、これが同じものを別の方から見たしゃひんなんでしょうか、って、質問する訳です。そーするてとね、変なかっこした立体模型をだね、こう、ある向きから写真に撮る。え、それはもう言った?そう。それと同じ模型の写真を並べてみせたバヤイにはだね、写真に撮った向きが何度違ってるか、その角度。角度ですよ。おんなじだ、って分かるまでに、だいたい、えーと50度位違うと1秒掛かる。どーだ。思い出したぞ。そ。そりゃあ個人差はありますよ。あるけど、どの人でも、角度と時間がみんごと。みんごと、正・比例しちゃうんですねえ。え、別のかっこの模型?それがないとさ、写真見なくても「いっしょでーす」て手抜きする奴がいるから、時々違う写真を並べて見せないと、まじめに考えてくだされられないわけですよ。ともかく、ね。そうやって、イメージちゅうもんが。確かに。誰にでも。同じような仕組みのもんが。ある。らしい。んじゃねか、ってこういう大研究があったわけでありまあす。え?そんなこた皆さんご承知。いや、いやいや失礼いたしました。弱ったね。ま要するにだね、回転の時間ですよ。こういう測れるもんを思いついたところが偉い、って言ってるんじゃないですか。ね。科学者の鏡っす。カガミ。そういう事を言っとるわけです。いや確かに、まあ、良し悪しだよ。いろんなもん見せては反応時間を測るという、まあ、だいぶいい加減な、かっこだけまねしたような、方法論もどきが出来ちゃったってところはあるよ。仰るとおり。ま、それはしょうがねいでしょ。スカタンやるやつはどんな世界にもいますからね。だから、あれ?泣くなよ。おまいの事じゃないから泣くなってば。  まだあるよ。ありますよ。あるてば。あ。アウェイク手術って知っとるかね。患者が目を覚ましたまんま、脳味噌をいじくるんだよ。これは患者も度胸がいるね。いやいや医者も気を遣うよ。いつもの調子で駄洒落言ってると「不真面目だ」って訴えられちゃうからね。これで脳味噌刺激しては患者さんの反応を尋ねるんだぞ。面白いよ。ペンフィールドって先生が。どーだ。思い出したぞ。ペンフィールド先生様が、こういうことをやり始めたんで、脳味噌の地図が出来た。偉いもんです。んで脳味噌を大体だけど機能ごとに部分に分けちゃったんです。その数46。どうだ。思い出したど。んで、その確かえーと第47野ってのが、あんた、意識の座だなんて言われてます。数が合わん?合わないけど47野なの。あるの47野は。ま、いいじゃん47でも48でも。だから、いいじゃないの。そんでもって、この47だか48あたりってのが、実は少々壊したってどってことない部分だから面白いでしょう。脳味噌の奥まで針突っ込んだりするときは、このあたりをつーと、つーと通すんですよ。右側の脳味噌だったら全然問題ないね。わかったから。焼き鳥の串は置いとくから。それでさ、突っつく場所と患者さんの反応てのは、つまり結構客観的実験と主観とがほれ、対応付けられる訳ですよ。ここんとこつつくと日本語がしゃべられれんけど英語ならしゃべられれる、とかね。ここんとこ突っつくと痺れるうとかね。はいはい。串は置いとくから。面白いんだからね、これが。  それがどした。だからさ、酔論猿人だっての。ね。人間なんてもんはですよ、たいして物考えてないんです。こっちからピ。って来て、あっちにピ。ってなってるんだなーてのがこれが、つついてみたら実感しますよ。幾らでも推論に推論重ねるなんて事はね、ゲンジツじゃあ、やってはおらんの。ただただただただ悶々とだね。怨念を転がしてるのが関の山。やってみたところで、どんどん話がいい加減になってだね、結論出る頃には何が何だか分からんのが関の山。だからさ、意識だ思考だみたいなものを論理でモデル化しようってのは、これはお門違いだってば。ね。消費カロリーと相関取った方がまだましだっての。や、確かに哲学はね。難しいことやりますよ。難しいの代名詞ですよ。でもね。哲学のセンセが難しいこと言ったってだね、95%は自分で作った用語の説明をしとるだけですよ、あんなの。後の5%はね。あとがきですよ。わはは。はは。ははは。  ややや。今度はお燗ですか。よろしおますなあ。おいおい、お酒とビール混ぜちゃいけないよ。ほらぐい飲みあるから。ね。混ぜちゃいけません。そ。そそ。脳味噌の考えてることは論理じゃないけどさ、その仕組みを説明しようってときに、理論まで酔論じゃダメでしょうが。消費カロリーと相関取ったって、叩いてから泣き出すまでの時間測ったっていいけどさ、そこんところ考えるのにデタラメ論理の哲学のセンセの寝言やってたんじゃダメでしょうが。ね。不合理なる主観ちゅうもんを合理的客観的に見るわけですよ。ここんところ、混ぜちゃダメよ。ダメ。分かる?え?様相論理なんざ、あんた、こっちの客観的の方には出番ないに決まってるじゃないの。関数解析ぐらいで十分すよ。トムのカタストロフィ、え?もう言った?  幻の?幻肢ですか。あれね。面白いね。これはね、義肢と幻肢がずれちゃうと歩きにくくって困るってよく聞きますよ。stomachmanも経験あるんだ。え、手足は生えてますよ。首も8つ全部揃ってます。頭の載ってるのと手首足首乳首に雁首。でもね、幻肢体験しちゃったんだよ。これが面白いんだな。こう、寝てる間に片腕が、肩から先、完璧に痺れちゃってたのね。なんか脇の下に挟まってた訳よ。それでさ、こう、寝ててだね。ちょっと目を覚ましてだね。あれ、腕が真下にぶら下がってるぞ、って思ったわけ。これは手がベッドからはみ出してぶら下がってるに違いねえ。でも動かないや。それでね、わざと寝返り打って、腕をベッドの上に乗せた。引きずり上げたわけ。で、乗せたところで、どうも動かせないんで、ちょっと反対の手で触ってみようとしたのね。そしたら、腕があると思ってたところに何にもない。そーりゃびっくりしましたよ。びっくりして飛び起きましたよ。そしたらね、ホントの腕と、あると思う腕がだいぶズレとるんです。でね、あると思う方の腕の方が、ほんとに有りそうなんだよ。それどころか、あんた、腕が真下にぶら下がる訳がない位でっかいベッドなのよ。最初から幻覚なんだな。分かるかなあ。分かんねだろな。寝ぼけたんじゃねってば。いいよ。分かんなくて。どうせ。  でもね、こういう難しいこと考える前にね、当たり前の事をだね、おい、こう、考察してみんとあかん訳だ。どゆことかというとだね、おい。起きた?ね、こう、人差し指出してみ。両手とも。んじゃ頭の後ろに腕回して指の先同士くっつけてみ。一発でやるんだよ。くっつく?くっつくでしょ大体。ね。どうしてこんなことが出来ちゃうの?見もしないで。なんでこんな精度良く場所が合うんですか。手がどこにあるか、脳味噌さんはちゃんと分かってる訳です。どおやってって、皮膚の感覚で測ってるんですよ。え。これだけでも凄いよ。服着てても合うってのはただごとじゃないよ。分かるかなあ。じゃね、今度はね、右手を徳利、おーい熱いの頂戴。これで暖めるの。んで、左手はこのコップ持って冷やすんです。暖まった?よし、そしたらね。指の節と節を合わせてふしあわせ、なむー。ってやってごらん。分かる?同じ場所が暖かくて同時につべたいでしょ。どっちが暖かくてどっちがつべたいのか、ちょっと考えないと分からんぐらいでしょ。ね。そこでだよ、考えてみなさいよ。右手に行ってる神経と、左手に行ってる神経は、これ、手がどこにあろうと同じだよ。脳味噌の別々の場所に信号を送っておる。右手はつべたいよー、左手はあついよーって言ってるんでしょ。ね。それがですよ、同じ場所。そ、空間ですよ。空間のぞ、属性としてだね。感じちゃうわけです。どゆことか分かりますか。え?どゆことか。すごいことですよこれ。んで、この手があついよーって言うから、その空間のその属性としてだね。熱い。で、反対の手も同じ場所にあって、こっちはつめたいよーって言うから、その空間のだね。そのつまり同じ場所がつべたい訳です。結果的にそんなアホなってえことが起こる。ね。こういう高級な計算をやって、感覚ちゅうもんが、こう、出来上がっとる訳でね、単に神経がぴぴぴ。って信号出してるだけじゃないのよ。ね。かくして、だね、ま、すごいんですよ。こういう低レベルみたいな所の仕組みってのは。なにしろ何億年の歴史を背負っておるわけなんである、諸君!分かった。分かった座るから。はい。ね。クオリアも良いけどさ、こーゆー当たり前のところにいろいろと、こう、謎が潜んどるわけです。これはね、ロボット作る人間にはよーく分かるんですよ。どうやって作るか考えたら、眠れなくなっちゃうよ。工学的ちゅうかね、構成的アプローチ、っつのは、なかなかこれ、バカに出来ない哲学的方法なんざます。概念もてあそぶばかりが哲学じゃねえっての。え、もういい?わかった分かった。どうせ今日は休肝日なんだから。もう飲まないって。え、今度は大吟醸?

  • motsuan
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回答No.17

 いつも回答されているみなさんに教えていただいている身なのですが、私もちょっと考えて見たので、回答欄を汚させてください。  自然科学によって心を解明しようとすれば、まず間違いなく脳の仕組みをしることだと思います。できれば、程よいレベルで脳の情報処理システムを記述し、そのシステムの状態と心の状態の関連づけができれば、心が記述できたと思うのだと私は思います。(これを心の状態 X とそのシステムの状態f(X)と便宜上表せたとして置きます。)  でも、心の状態ってなんでしょう?とりあえずできそうなところから始めると、単純な感情の分類(というより、細かな分類は不可能なのでは?その人の人生を全部記述しないと、本当に細かな感情は表現できないし、記述したとしても、その記述を受け取った(読んだ)人はその人の感情を理解したことにならないような気がします)で怒っているとか笑っているとか状態を決めて=つまり、細かい感情の部分を無視して似たような感情の共通部分として、たとえば、(共通部分 いろいろな悲しい感情 Xi (i=0,1,2,...))= よくある悲しい感情として  f(共通部分 Xi) = 共通部分 f(Xi) のようなことを考えて、f(*)がわかったというような気持ちになるでしょう(左辺が普遍的主張で、右辺の操作は多分実際にはいろいろな悲しい感情Xiに対して脳の情報処理システムではなく脳の動きによって生じる生理反応の個別の記述の共通する現象を見出すという操作になると思います。右辺の悲しい感情Xiはその感情の細かい部分を記述しなくても良く単純に 個別の現象 f(Xi) を観察し共通の状態を見出せばよいわけです。ここで、f(*)は単なる生理反応という意味に少しずれちゃってますね)。そして、これをもって脳の情報処理システムを記述できたとし、さらに、f(*)の構造から心のシステムを理解したとするのでしょう。でも、この等式って本当に成り立つのという気がします。f(Xi) (i=0,1,2,...) それぞれがそれなりに大きな違いのような気もします。  以上の極めて単純な予想でも3つも困難(脳の情報処理システムの記述、心の記述、普遍化による個別性の欠落)があり、ちょっとこのままでは難しいのでは?と思っています。  一方、哲学は全然知らないのでなんともいえないのですが、イメージというか私の希望として、心の状態を記述し、それにより心の状態のシステムを解明して欲しいものだと思います。心の状態を記述とは上記の「いろいろな悲しい感情Xi (i=0,1,2,...)」ような分類(区分)にとどまらず、その性質を記述する(言語体系を作り上げる)ということです。個人的には、人は一回しか人生を生きれず個々の人生には個別性があるとすれば「心の状態」の記述には物語のようなものが必要なのではないかと思っています。しかし、それは「学」となるのかというとどうなのでしょうか?哲学がいつの日か心の説明に成功することを待っています。 (でも、哲学って私の誤解かもしれませんが「問いを立てる」ことが成果のような印象があるので説明に成功するというのはどんな状態なのか予想できません。)

回答No.16

halkaさんのNo.165646(ANo.#16)につき。 質問1:「人間の心は命題論理や述語論理で記述できるとお考えですか?」  たしかに私は「できない」とは断定していませんが、それは「できる部分もある」ことを認めるという程度のことです。でも、それで「心を哲学の視点から見る」作業に充分でしょうか? 質問2:「事例分析(1)について。厳しい教育に対して鬱憤晴らしをする子としない子とのちがいは、お示しの論理式のどこに表現されていますか?」 質問3:「事例分析(2)について。自分を磨くか周囲のせいにするかに関する本人の選択は、お示しの論理式のどこに表現されていますか?」 質問4:「事例分析(3)について。他の子どもがいなければよいという論理的推論の結果、幼児を殺害したのなら、なぜ一人で終わったのですか? また、幼児殺害が逆に『地域社会における我が子の肯定』を阻害する可能性の考慮は、被告女性の論理的推論には入らなかったのですか?」  それ以前のhalkaさんのご発言につき。 質問5:「フラクタル現象学の見地からの一般論導出とは、どのようなことですか?」 質問6:「単純な統計的手法が哲学の方法だとお考えですか?」 以上。

  • halka
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回答No.15

>正直申し上げて、halkaさまの前回の「幼児虐待」の論理での「結論」は納得できませんでした。 ごめんなさい、わたし胃腸おじさまの幻惑術にかかってしまいました。 これはでたらめです。 あの結論は邪悪なふくろう叔父様の部分を切り取った写し身の術、びっこたっこ の福笑いみたいなものになってしまいました。 前回のサンプル提示の目的は、まとめて常識で言えば「八つ当たり」という感情を 論理学で示した場合どうなるかということですね。 ところで・・・、ここでは回答者同志が議論するってルール違反なんですね。 聖オーギュスタンgooの管理者様に祈り奉る。 暗黒星雲魔界の哲学をこの世に示さんがため、我が罪許したまえ・・・。 >「モデル化」が妥当なものと確証されるためには、その論理を形成する 公理系の「完全性/健全性」が前提として必要なはずです。 これ、ちょっとわかりませ~ん。 公理系の三原則、・独立性 ・完全性 ・無矛盾性のうち無矛盾性が守られてい ればとりあえずモデルとして使い物にはなるんだと思ってました。 ところで定理とは公理から推論規則に基づいて導出される論理式だとして 健全性とは・・・(1)定理は全て論理的真理である。 これに(2)論理的真理の全てが定理として証明されうる、が加わって完全性となる。 誰かさんの不完全性定理って自然数論の公理系は(2)を満たさないってことでしょう? それでも自然数論の公理系は皆さん使っていらっしゃいますもの・・・。 で、 > するとここに、「果たして人間の心は、そうした命題論理や単純な述語論理で 記述できるのか」という疑問が生じます。 ということはできないということを断定しているわけではないようですね。 >彼らに向かった「否定的なもの」の正体が何なのか、明らかにされていません えっと、(1)は彼の両親は民生委員か何かだと思いますがそうした主張の中で 今の社会への否定が子供への厳しい教育となって、それがかえって子供の 不健全な鬱憤晴らしになったと分析しました。 ここでは中流~上流の地域社会は悪いのだ,と価値の否定が発端です。 (2)は誰でも自尊心を持つでしょう,自分は優秀で認められなければならない、が 自己否定の場合は「自分を磨く」になるかもしれませんが「認めない周囲が悪い」 という判断方法もあるのです。かれは優秀で有名でなければならなかったのです。 これは本人が決める選択です。 (3)は夫に全てを任されてしまった主婦がこれも地域社会置ける我が子の肯定が できなくなって、わたしの子供が優秀で肯定されるためには他の子供がいなければ 良いという論理的推論によるものです。 まじめな方って社会の示す規則に忠実な方,もし遅刻なんかしようものなら、 「わたしってなんてダメなやつだ」と思ってしまうのです。 これ自己否定のフライトスタンバイ。会社辞めるとか人間やめるとかの・・・。 遅刻なんて大したことないよ、怒る上司も、いちいちるーせいな、でもショウナイか とか考えられれば、VG={遅刻したことはわるい}PG={遅刻が現実となる}に おいてVS=0の度合いはそれほど大きくないのです。 この否定度が極端に大きくなると、やたら落胆して窓から飛んで行っちゃったり 逆にテロリストになったりするわけ。社会をつぶして自己肯定、任侠なんか その部類ですね。 里のふくろう様におことわりしておきますが、価値の肯定否定は決して普遍的で なくクリスプでもありません。つまりじわじわと自分かってな思いこみで真理値は ファジィですね。 この辺まで分析すれば,科学とは普遍的に真であるような命題を単位としなければ なりませんが人間の心を扱うにはこのパラダイムを変換しなければならない、ぐら いはわかるのでは?これは魔界の哲学です。        あなたのめそめそ女                                   

  • fwappy
  • ベストアンサー率0% (0/5)
回答No.14

みなさま、お久しぶりです。 某君からの伝言です。 「クオリア・マニフェストに来れ」

参考URL:
http://www.qualia-manifesto.com/index.j.html
satonohukurou
質問者

お礼

はじめまして。 「クオ・マニ」へのご紹介ありがとうございました。 早速、「クオリア」についての論文などを読ませていただきました。 これらは、科学者が科学論文を記述しているとしてよろしいのでしょうか。 「クオ・マニ」の資料の中で、 日本経済新聞1999 年10 月3 日掲載記事として、次の記述がありました。 意識のナゾ 第5 回 「色ない場所に色つくり出す」 >私 たちの心の中のクオリアと、脳の中のニューロンの活動などの物理的プロセス >の間には、どのような関係があるのだろうか? これは、哲学上の大問題であると >ともに、意識を問題にし始めた脳科学にとっても重大な問題である。 心の問題は、哲学上の問題でもあり、科学上の問題でもある、という表現はよく見かけます。あまり気にもかけなかったのですが、いざ哲学の論文を書こうとすると。さて、心に関する哲学論文と科学論文と何が違うのか?と言うことに疑問を持ってしまいました。  実際、「脳とクオリア」(茂木健一郎)を読んで、その違いがよく判りません。よく判らないのは、そもそも心について科学論文が成立するのだろうか?というところです。他者の心は観察できないのではないでしょうか?心に関する仮設を証明するための実験は出来るのでしょうか?ということで、科学の根拠としての客観性が担保できていないのではないかという疑問を持つからです。  そうすると、ただ推論だけで(概念分析)論理が展開されているのではないかと思います。それでは、哲学ではないか、ということになるわけです。  それとも、こんなことに疑問を持つのは愚問でしょうか。 もし愚問としたら、哲学と科学を区分することもナンセンスとなるのでしょうか。 どうもよく判りません。

回答No.13

 お礼、拝読しました。  「幼児虐待」というのは、あくまでも具体例であって主要な論点ではなかったのですが、一言だけ。  親に理不尽な虐待を受ける子どもたちを守らなければならないことは、言うまでもないことです。あたりまえ。論じるまでもない。(もちろん、具体的対処法は検討されるべきですが。)  が、それに勝るとも劣らず重要なのは「虐待する親を救うこと」であろうと考えます。それでなくては根本的な解決にはならない。ですから、私としては「虐待する親の側に立つ」とまでは言えなくとも、少なくともその心情の理解を試みたいと願っています。  それで、本論の「いかに心を捉えるか」ですが、ここしばらく忙しくしておりますので、少々時間をいただきたいと思います。  satonohukurouさんにとりあえず申し上げられることとしては、私の僭越な批判に対するhalkaさんのご発言がない今の時点では、「halkaさんの論理式はあまり考慮する必要はない」ということくらいです。むろん、このことは現時点では未決定事項なのですが。

satonohukurou
質問者

お礼

お忙しいところお引き留めして申し訳ございません。 楽しみにしておりますのでよろしくお願いします。

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