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心の哲学:心の哲学的説明と科学的説明の違い

 心について科学哲学の立場で勉強していますが、壁にぶつかってしまいました。 それは、心について、哲学の立場で説明することと、科学の立場で説明することの違いが判らなくなってきたのです。  哲学では、心に関する「概念」を論理分析していくことだ。科学では、「仮定」と「実験」で理論を実証していくことだ。との説明がありました。しかしながら、哲学での「概念」は当然のこととして科学理論をも踏まえたものであります。  そうすると、哲学の概念の中にも科学理論が内包されているわけで、そのような概念とは、科学理論とどのような違いがあるのだろうか、という疑問に突き当たってしまったわけです。  これは、哲学するとはどのように思考展開していくのかという疑問にも通じることです。アドバイスと参考文献の紹介をお願いします。

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回答No.47

 けっこう固まってきました。「内部観測」に関して、自分の理解にまだまだ修正の余地があることを自覚していますが、自分が知る領域に引き付けてある程度把握できた気がします。  ここでも回答されているmotsuanさんの質問「人間にとって物語とは何なのでしょう?」(下記URL参照)への私の回答No.8で書いたのですが、「ガダマーの解釈学」。これで途中までは行けそうです。それをここに再掲(コピペ)するのはいくら何でも暴虐ですので、そちらはそちらで軽く目を通していただくとして、ここでは簡単にかいつまんで書きます。  ガダマーは、ある文章(特に古典)が内包している「意味」を客観的に読み取ることは不可能だと断じています。というのは、文中のある単語の意味はそれが置かれた文脈に規定され、その文脈もまた文章全体の中で位置付けられて意味を持ち、さらにはその文章そのものが、それが書かれた社会や時代背景という大きな「文脈」の中で意味を持つものだからです。「客観的に」読み取ろうというのであれば、それらすべてが「客観的に」把握されていなければなりません。ところが、逆に見ると、文脈は単語から形成され、文章全体は文脈から形成され、社会や時代背景はその文章を含む雑多な文物から形成されています。つまりここには「どうどう巡り」が生じてしまう。単語と文脈、文脈と文章、文章と社会は、互いに他方に依拠して支えあっている。…どちらか一方が「客観的に」固定されていれば、他方も客観的に固定できる見込みも立つのですが、それは事実上不可能です。したがって、ガダマーは「文章の客観的読解は不可能だ」とするのです。  このあたりの問題の枠組みは、内部観測論の「内部観察者」と「観察対象」との関係にきわめて近いものがあると感じました。完結した系を外部から観察する「外部観察者」とちがって、内部観察者は完結していない(開放系の)系の中で、対象を同定する「文脈」、その文脈を規定する文脈、その文脈を…という無限遡行を強いられるのです。ここでも「客観性」というものは、素朴な自然科学が前提する「カルテジアン・カット」のように簡単には得られません。  さてしかし、ここでガダマー先生には「脱臼」していただかなくてはなりません。百歳を越える御高齢なのですが…。  というのは、やはり問題が「人の心」となりますと、ガダマーがテクストを相手に構想した解釈学とはまた別の問題が生じるからです。  ガダマーが相手にしたのは、あくまでも「古典」でした。現代のわれわれと、過去との間の「文脈」の差異、これがあるがゆえに「問いと答えの弁証法」が生じ、テクストと読者の双方を巻き込んだ運動となり、その中で「地平」が融合していきます。その運動全体こそが「真理」であると彼は述べています。そこでの「真理」は、それが掴まれてしまえば運動が終結するというような「客観的な」ゴールではありません。無限の、開放系の弁証法です。  前の書き込みでも述べましたように、人間および社会を相手とした知は「開放系の知」であらざるをえません。ガダマー解釈学も開放系の知にはちがいないのですが、それでも既に完結した「テクスト」、および既に完結した「過去」を相手にしています。これに対し、私たちが考えようとしている「心」は、現在のものを当然含みます。したがってなおのこと「完結していないもの」と言えましょう。テクスト以上に。  この点に注目しますと、例えば「人間とは何か」という設問は次のように分解できます。すなわち、    「人間は何であったか」(過去への視線)    「人間は何でありうるか」(未来への視線) です。  前者については、一定の時間の区切りさえつければ、何とか答えが得られる可能性があります。ところが後者に関しては、やはり未来というものの本質的原理的予測不可能性ゆえに決して解答は得られません。また、過去は常に「現在」が積み重なっていくことで膨大に膨れ上がっていきます。そのことを考えると「過去」を片付けるのも容易ではありません。  同様のことが「心とは何か」という問いに関しても言えるでしょう。この問いもまた、    「心とは何であったか」    「心とは何でありうるか」 という二つの問いに分けられます。以前予告申し上げていた「文学っぽいアプローチ」というのは、実はこの前者の問いに関わるものでした。「心の真実の姿を覆い隠しているかもしれない《近代の神話》」を剥ぎ落とすために、過去のさまざまな時代、さまざまな地域との間に「問いと答えの弁証法」を経験することを通じて「心」というものを見ていく…そういうようなことでした。  でもやはり、それだけでは話は済まない。…と、こう来ますと、satonohukurouさんの問題意識である「幻影肢」からはガンガン話が飛びまくるわけですが、本質的に予測不可能が未来が絡む以上は、少なくとも「心の可能態」に関して説明するところまでは行っていないと「心の哲学」として充分なものにはならないのではないかと考えます。これ、ものすごいことですので、もちろんsatonohukurouさん独りでやれってことじゃないです。関連学界全体でそっちもやんなきゃいけないのではないかと。  「心の可能的なあり方」だと、まずは「脳」。心を担う物質的基盤として。心的内容を納める器として。  そして「心理学」。…以前の書き込みをお読みいただいてお分かりと思いますが、私は過去、および現行の心理学にはあまり厚い信頼は寄せていません。一定の有効性はあるでしょうが、いつでも「エセ科学」に堕しうる。少なくとも思索の素材を提供する学、そしてできれば、素朴実在論的実証主義を乗り越えた学となってくれれば…と願います。  でもって「哲学」。人間および世界を捉えようと試みる知としての。  要するに物質的基盤から観念に至るまでの多層的なレベルのどこかに還元するのではない、その全体が絡み合った複雑系として「心」を眺めてみる必要があるのではないかと思うのです。それができるのは「科」に分化した「学」たる「科学」ではなく、哲学でしょう。  幸いなことに、前の書き込みでも紹介しましたように、カオス論などへの注目あたりから、科学の側から人文諸学への歩み寄りが始まっております。「カオス」というのは、解釈の対象たる「自然」の側から人間に突きつけられた「否」であろうと思うのです。「問いと答えの弁証法」を稼動させるところの「否」。それに科学はようやく耳を傾け始めた。ですが哲学を初めとする人文諸科学は、太古の昔から一意に還元できない人間的諸現象を宿命的に、当たり前に相手にしてまいりました。この点からして、「歩み寄り」は「科学の側からの」歩み寄りです。人文諸学の側からではなく。  ここから、「哲学の見方」と「科学の見方」という両者の区別には神経質になりすぎることもないかな、とも思えたりするわけです(哲学と科学を截然と区別すると、哲学もまた仕切りの中に囲われた「科-学」の一つに成り下がることにもなりますし)。ただ、「科学」が示すことどもを盲目的・無批判に受け容れるのではなく、その知の成立基盤を問い、疑い、検証しつつ取り込む…そういうことでよいのではないかと考えます。  何やら話が拡散して、ご研究には直接役立つ範囲を逸脱しているのではないかと恐れますが…いかがでしょう。

参考URL:
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=39578
satonohukurou
質問者

お礼

ご回答の皆さまへ  No50 の回答にお礼をし書いている現在も、議論ははるかに先を行っております。お礼が遅く申し訳ございません。serpent-owl さんから結論をいただきましたので、少しコメントさせていただきます。 serpent-owl さまへ  長い間、本当にありがとうございました。また返礼が遅くなりましたことをお詫び申し上げます。serpent-owl さんにゼイゼイと息を切って、振り落とされまいと、付いて行くのがやっとという状況です。  多岐にわたるご回答をいただきましたが、お礼としてまして、私の最大の関心事に限定し理解できたことと、私の本質問から得た私の考えを述べたいと思います。  「心」に関する「知」が有する性質=「開放系の知」であり「完結していないもの」である。このパースペクティブからは「過去への視線」と「未来への視線」が得られる。  過去は現在の累積でありその無限性から説明が困難である。未来は本質的原理的に予測不可能である。予測不可能性から少なくとも「心の可能態」に関する説明が必要ではないか。すなわち、「脳」、「心理学」、「哲学」など、いわゆる物から観念までの各階層のいずれかに還元するのではない『その全体が絡み合った複雑系としての「心」を眺めてみる必要』がある。  科学は、自らの拠り所であった実証主義から現象(世界)を説明することに限界があることの自覚から人文諸学への歩み寄りが始まっている。このような現況からすると、「哲学の見方」と「科学の見方」の区分に神経質になることもないのではないか。要は、真理を追究する態度で重要なことは、「その知の成立基盤を問い、疑い、検証しつつ取り込む」ことではないのか。  大変貴重なそして重い回答でした。心という事象をいかに説明するのか、ということを勉強していくうちに、哲学での分野での説明と、科学での分野での説明の態度に疑問を持つようになりました。それは、哲学で使用している心に関する知識は科学的知識をも根拠としてしているのではないか、それなのに科学において心は学の対象足りうる資格を有するのかという問題を有するのではないのか、この2つの疑問のために、一体「心を説明する」と言うことはどういうことなのだろうか、という問に突き当たる羽目に陥ってしまったのでした。  serpent-owl さんの回答から私が学んだものは、 「心の性質(本質)を理解せよ、そしてそこから出発せよ。既存の論理に還元するな。」 でした。  serpen-owl さんは、心の本質を「カオス」ととられておられました。「開放系の知」としての本質です。先に引用しました「心の科学は可能か」(土屋 俊、認知科学選書)で、土屋は結言に代えて心の説明の困難性について、心の「文脈依存性」を指摘しています。すなわち「私」と「社会」を内容に含む概念は形式的処理が困難である、としています。serpent-owl さんの回答にも通じるものがあると感じました。  そこで、心の概念を説明していくうえで問題とすべきは、「複雑系」、「文脈依存」で性格づけられる心を説明するに相応しい「論理」を見出していくことだと思います。心の概念を説明する論理として「カオス」、「量子論」、「進化論」・・・(たぶん他にもあるはずですが、これから勉強していきます。)が議論されているのだと思います。    「心の可能態」に思いをいたすと、なんだか「心」がますます果てしなく遠くのものになるように感じますが、とりあえず、第一歩を踏み出すために、私に何ができるかを考えてみたいと思います。 本当に貴重なご意見ありがとうございました。多くの方に参加していたできましたので、その方々にお礼をしなければいけません。もう少しオープンにしておきます。そして、少しずつ終末態勢とさせていただきたいと思います。

その他の回答 (82)

  • stomachman
  • ベストアンサー率57% (1014/1775)
回答No.2

「科学哲学」をどういう意味で仰ってるのか、ちと見当が付きませんが、科学が哲学の一分野であるという認識を持っていらっしゃるのなら、さほど難しい話ではないと思います。 テーマが何であれ科学のプロセスを簡単に並べてみると、 (0)観察をする。 (1)仮説を立てる。 (2)仮説から演繹される予想を立てる。 (3)予想が既知の事実と矛盾しないか先ずチェックする。 (4)予想を実験で検証する。繰り返し実験を行って再現性を確かめる。 (5a) 実験が予想に反するなら仮説を棄却する。あるいは (5b) 実験が予想に良く合うなら、ひょっとしたら仮説は正しいのかもしれない。 ということですが、(0)(1)(2)(3)までで終わればまだ「科学」の体をなしていない。 (0)(1)(2)(3)(4)まででもまだ中途半端。 (0)(1)(2)(4)(5b)というのは、しばしば勘違いの誤謬を含む。 (0)(1)(2)(3)(4)(5a)となれば、これは立派な「科学」で、失敗報告という論文が書けます。既にある理論に対立する理論を構築し、検証したが否定された。これは重要な価値を持っている。 (0)(1)(2)(3)(4)(5b)の場合、形而上学的に(1)を認めちゃうという短絡をやらかすと「科学」ではなくなるし、哲学としてもお遊びレベル。この場合(1)は「一応の仮説」として提言されるべきで、何度も(2)~(5b)のサイクルを回った上でようやく「一応最もらしい学説」に昇格する。でも反例が一つ出たら瓦解します。だから、哲学としては(0)を追加するなり、(1)を精密化するなり、(2)のバリエーションを作るなりして一層深い研究を進めるべきです。  かくて、(0)(1)(2)(3)ぐらいのレベルをいろいろ検討して(手間とコストを掛けて実験してみる価値のある)良い仮説を構築するところまでは間違いなく哲学で、ことに(5a)(5b)の次のサイクルを方向付ける、(0)(1)(2)(3)こそ哲学の仕事です。その指針として(検証不可能であるところの)形而上学があったって、それは構わない。どの仮説から手を付けようかサイコロ振って決めるというのよりも、人間の洞察力を信じたいですね。(しかし何度か旨く行った形而上学が、だからといって信仰に化けてしまうのは感心いたしません。)  「心」というテーマは、現在その手法を著しく拡大しつつある認知科学の対象分野であり、心理実験・官能検査等のほかに、生理・解剖・病理、また仮説に基づいて人工知能を構成し、実際の「心」と比較して違いを探る、というアプローチもあります。  一方、内省的な「心」の検討は、もともと主観的なものですから、大体が我流用語のこんがらがった寝言のような代物になってしまいがち。このため全てが(2)のレベルにまで洗練できるとは限りません。でも(ムカシの哲学者の寝言などほっといて)認知科学的観点との矛盾のチェック(3)を怠らず、かつ認知科学のカバーしていない領域をこそ(0)(1)していくことこそが「科学でない哲学」の部分の使命と言えるんじゃないでしょうか。

satonohukurou
質問者

お礼

 私の使用している「科学哲学」は、哲学的諸問題を科学との関係で論じていく、という程度のもので、明確な定義を持ち合わせておりません。  さて、明快なアドバイスありがとうございました。特に、認知科学に対する哲学の使命を示唆していただいたことに感謝申し上げます。そもそも私の疑問は「心の科学は可能か」(土屋 俊 認知科学選書)からきています。ここでは哲学的問題を科学として論じようとしています。そこで、私は、哲学と科学の論じ方(説明の仕方)に違いがあるのかに疑問をもったわけです。  勉強の視点が出来たように思います。ありがとうございました。

  • pikitto
  • ベストアンサー率25% (1/4)
回答No.1

>心について、哲学の立場で説明することと、科学の立場で説明することの違いが判らなくなってきたのです。 「心」については確かに哲学が着目した命題ではありますが、哲学は「解明」を旨としてテーゼしたのであって「説明」を目的としたのではないと思います。 最近「○○の立場で・・・」とおっしゃる方が多くて困るのですがこの「立場」のないものが「哲学」することであるため「哲学の立場で説明すること」というのは不可能かと思います。「科学」についても同様かと。 >哲学の概念の中にも科学理論が内包されているわけで、 「科学理論」とおっしゃいますが{科学では、「仮定」と「実験」で理論を実証していくことだ。}とおっしゃっているではありませんか? 「内包」とはどのようなものを指しておられるのか? >哲学するとはどのように思考展開していくのか これは「哲学」とはなにか?という意味ですか?

satonohukurou
質問者

補足

早速のご回答(補足要求)ありがとうございます。 1「説明」について  心という現象(これが存在するかどうかも問題ですが)の法則性について推論すること、として使用しております。 2「立場」について  論ずる際に、その立場を明らかにしないで論ずることは出来ないと考えております。例えば、「立場のないものが哲学することである。」は、立派な立場ではないでしょうか。この立場に立つということは、その立場に見合う論理展開の方法があると思うのですが。さらに、心に関する哲学のジャンルだけをとっても、「心身二元論」、「論理的行動主義」、「観念論」、「唯物論」、「機能主義」・・・と際限となくあります。 3「内包」について  「心について哲学する」ということを、「心の概念分析をすることである」とした場合、心についての概念を「理解」するためには「経験的知識」が必要とされます。この「経験的知識」は「科学」によって得られる知識である、ということです。 4哲学の思考展開について  哲学も科学も説明は「理論」によります。2項で述べたように、哲学と科学はその理論の展開の仕方が異なるのではないかと考えております。科学では、「仮定」、「実験」により推論を進めることにより「論理性」が担保されています。 哲学では「概念分析」だけです。しかし、その概念は科学の知識をも根拠としております。  ここまでくると、私は「自己矛盾」に陥ってしまいます。哲学と科学はその説明の方法(論理の進め方)に違いがあるはずだ。でも、その違いがよく判らない。というところにです。    ------------------------------  以上、補足させていただきます。つたない説明のために、多くの理解困難な内容を提供していることをお詫び申し上げ、再度ご教示をお願いします。